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旧区での戦い 前編

 旧区画と呼ばれる場所に入るのは、近衛生活を多少積んできたとは言えこれが初めての事だった。

 入って真っ先に、全身の鱗がざわっと泡立つ。魔力場が狂っている不安定な場所だと聞いていたが、なるほど確かにその通りらしい。侵入しただけで、全身がここは嫌な場所だと訴えかけてくる。吸った空気すら気に入らないのか、胸が呼吸のたびにおかしな震えを起こす。それらを一度止まってバシバシひっぱたいてからティアは慎重に進んでいく。

 ――生理的嫌悪感や本能のざわめきは、場所の問題だけではない。入った瞬間からふわっと香ってきたのは、間違えようもない血の臭い。


 何度か角を曲がると、いよいよ先の方で何か取っ組み合っているような音が近づいてくる。一度深呼吸してから飛び込んで、真っ先に目に入った馬乗りになって誰かに剣をかざしている男に突っ込む。それが振り返るのと同時に、走りながら振りかぶった右こぶしを頬にたたきつけると、魔人の男は吹っ飛んで行って壁の中に埋もれた。一応味方の服だったから、錯乱させられているだけだと判断し、死なない程度に手加減した。……たぶん、死んではないはずだ。


「顔を上げるな、こっちに来い!」


 直前まで顔面に振ってきそうだった剣先をなんとか食い止めていた男は、ティアが手を貸すまでもなくさっと飛び上がって体勢を立て直すと、こちらの襟首をひっつかんで角に引っ張っていく。二人でそうして隠れるように壁に張り付いてから、怒気交じりの声を上げた。


「いいか、別にお前のおかげで助かったわけじゃないからな。俺一人でもなんとかなった!」

「そうか」


 想定内すぎる、と言うか自分が逆の立場でもかけていたかもしれない言葉に生返事をする。

 何の因果だろうか、ティアが助けた赤薔薇の騎士はちょうどリリエンタールだったようだ。ティアが黄薔薇の正式な近衛となってからも二人のいがみ合いは続いていた。むしろ血の気の多い互いの先輩達に煽られ、本人たちが今日は無視しようと思っていてもなぜか顔を付き合わせ、口論に発展し、ひどい場合は取っ組み合いが始まっているのである。赤薔薇団長は渋い顔をするが、黄薔薇の方は肝心の団長が面白がっている始末なのでティアが見習いの頃と全く彼らの関係は変わっていなかった。

 その犬猿の仲である色男の服はずいぶんと乱れ、唇の端は一度殴られた痕なのか切れている。頬には一本横線が入っていた。しかし、負傷し憮然としていてさえ美男子である。残念ながら対峙しているのがティアなので、顔になんか増えたな、ぐらいの感想しか抱かれていないが。

 沈黙を挟んでから消え入りそうな声で補足が入った。


「いや、ちょっとだけ――ほんのちょっとだけ、助かったよ」

「……結局どっちなんだ」

「最大限譲歩してやってるんだ、察しろ」

「ふざけるな、なんでそんな事に頭を使わないといけない」

「お前は普段もそこまで使ってないんだから少しぐらい使っても問題ないだろ。むしろ使わんと腐るぞ」

「嘘だ、腐ったりしない――」


 イラッとして口論に入りかけるが、二人とも角の向こうから聞こえる何かが動く音にはっと身を強張らせて黙りこむ。しばらくそうして耳を澄ませていたが、カサリと一度鳴ったきり動きがみられないと、リリエンタールがさっと右手で地面に円と何かの陣を書き、発光すると素早く手を置く。ティアは何度か睨まれたのとジェスチャーで、円の中に彼と同じように手を付けと言われていることを悟り、しぶしぶ嫌そうな顔で従った。


「あっち側に突っ立ってる男を見たか?」


 円陣に手を付くと、途端に耳の中にリリエンタールの声が広がる。露骨にさらに顔を顰めると、向こうもぴくりと眉を引きつらせながら続ける。


「即席の結界もどきだ。この円の内部に手をついている限り、向こうにはこっちの話し声が聞こえない。だからそう嫌な顔をするな、俺だって同じ気持ちなんだ――で、さっきの一瞬で向こう側を見たか?」


 ティアが入ってきて錯乱した仲間を殴り飛ばしたのとは逆の方の角を示して、赤薔薇騎士は尋ねている。


「……一瞬だけ」

「相手の目は?」

「見てないはずだ」


 ちらりと人影は見たが、以前の虹色の光をさっき見た記憶がないので彼はそう答える。ティアの言葉にリリエンタールは頷き、ぎゅっと眉をひそめた。


「おそらく、あれが今回の首謀者。お前も聞いたことがあるだろう? 邪眼だ。頭イカレてる奴だとは思ったが、ついに本格的に狂ったらしい。まさかこんなところで出会う事になるとはな……」


 交戦したことで断定できたのだろうか、まあこれだけ赤薔薇の騎士たちがやられていればな、とちらりと目の端で転がっている無惨な赤マント群を見ながらティアが聞いていると、眼差しに問うような色が出たのだろうか、解説が入った。


「本人が名乗りやがったんだよ。騎士の流儀に従ってやる、とかでな。その割には名乗った直後に不意打ちだ。クソッ、あの野郎、舐めやがって……!」


 ぎりりと赤薔薇エースの噛みしめる歯の音が鳴る。

 なるほど、そう言えば邪眼は目立ちたがりで相手を煽るのが大得意だった、と言う話だったかもしれない。そして実際にやられてしまっているのである。


「である以上、俺もお前も奴の影響を受けていないと言いきれないのがつらいところだな。……頼むから、お前が奴の幻覚とか洗脳済みとか、そういう落ちは勘弁してくれよ。まあ、お前にとっての俺も全く同じことが言えるわけか」

「こちらの洗脳に関しては手は打ってある」


 ティアが首の枷をポンポンと叩くと、リリエンタールは何か言いたそうに口を開いたが、それよりも角の向こう側を探ることに決めたらしい。先輩は目を逸らしたが、ティアにはまだ喋っておくことがある。


「それと、幻覚については少なくともそっちは大丈夫だ。俺はお前が本物のお前だと認識している」


 ん? と首を捻った騎士に、しれっと後輩は言ってのけた。


「お前の嫌な臭いを俺が見分けられないはずがない」

「――この野郎、これが終わったら、覚えてろよっ!」


 わなわなと震えるリリエンタールだが、ティアが得意顔から真顔に戻るとすぐに向こうもそうなる。他の騎士たちが倒れている中残っていることなど含め、赤薔薇のエースは伊達ではないと言う事だろうか。


「で、これからどうする。目を隠して飛びかかるか?」

「それで勝たせてくれる相手じゃないから、今こうやって睨み合い状態なんだよ」

「ここから魔術を編むことは。俺は無理だが、あんたなら可能だ。その間に向こうが襲ってきたら、足止めは引き受ける」

「ここが旧区画でなかったらな――お前だって、嫌な感じは多少しているだろ。どうにもさっきから術の編み込みが時間がかかるししっくりこない上に、まっすぐ飛ばん。遠距離射撃はまず当たらないと思え。当たってたらこんな無様な事態にはなってない」


 苦戦を強いられたのはこれのせいか、とティアは納得する。旧区画内で戦うことが完全にこちらの仇になってしまったようだ。確かに赤薔薇は生粋の魔人部隊、どちらかと言うと魔術頼りの戦術になる。その魔術が狂わされる場に誘い込まれたと考えると、ひょっとすると警報が鳴ったのも向こうの策略だったのかもしれない……。


「……逆によくあんたは残れたな」

「忌々しいが、残されたと言った方が正しいぞ。あいつ、俺で遊ぶつもりだったようだからな。近衛同士で争わせやがって……ふざけてやがる」


 チッと舌打ちをする先輩からいったん目を逸らし、角の向こう側にふと意識を向ける。


「赤薔薇の」

「なんだ」

「十分すぎるほど時間が経った。なんであっちは動かない」

「……俺だって考えてるよ」

「あれも幻の可能性は?」

「それも考えた。だが焦って飛び出したところで奴の思う壺だろう」


 騎士二人は黙り込む。相変わらずあちらからはいる気配はするが動く気配は見受けられない。リリエンタールが思い切り息を吐いた。


「どのみち、このままでは膠着状態か後手に回る事になる。俺たちの知らない部分であちらが何か進めているのかもしれんが、下手に突っ込んでも倒れてる奴らの二の舞になってしまう。こうなったら、やむを得んがお前と組んで仕掛ける他はない」

「そうだな。やはりこうしているのは性に合わん。それに俺の師父――じゃない、団長だってこっちに向かってるはず」

「よし、なら本隊が来るまで時間稼ぎをすればいいんだな。多少は実戦経験のある俺が行く。お前はサポートを――」


 リリエンタールが言う声に、ティアは自分の言葉を重ねた。


「赤薔薇、師父が言ってた。適材適所だ」

「しろ――は、なんだって?」

「どうせできない後方支援なら、投げ捨てて特攻しろと」

「なんだその無茶苦茶なアドバイスは。あの人そんな事言ったのか、何してんだ不良近衛め――おい、待て――特攻だと!?」


 己の言いたいことを言い終えると、ふわっとティアは立ち上がり、身を潜めていた角から檸檬色のマントを翻して通路に躍り出る――もちろん、相手から丸見えである。虚をつかれたリリエンタールの銀の瞳が完全に点になった。


「後は任せた」


 戦術を練ったところで裏目に出るかもしれないのなら、戦術なんて投げ捨てて物理で殴ってしまえばいいじゃない。

 脳筋ティアらしいと言えばらしい結論である。

 今度こそしっかりと見えた目標に向かって走ると、後ろから渾身の罵倒の声が聞こえる。


「ふっざけんなっ、この猪突猛進野郎が――!」


 仕方ないではないか。彼は肉体的忍耐には自信があるが、精神の方は短気なのだから。


 ティアが拳に力を込めて飛びかかると、のんびりとリラックスするように壁にもたれかかり、欠伸さえ浮かべていた男は、慌てた様子もなく速やかに体勢を整え攻撃を受け止める。打ち込んだ初撃になんとも気持ちの悪い、効いてないことは確実である手ごたえが返ってきて、ティアは反射的に飛びのいて距離を取った。……通路のあちらこちらに人が転がっている。なるべく踏まないようにしたいがうまくいくだろうか。

 パンチを受け止めたらしい男の手は束の間緑の炎のようなものを纏っていたが、すぐに消える。


「……新米が二人して可愛らしく作戦会議しているから、さてどんな手を使ってくるのかと楽しみに、優しく待っていてあげたのにさ――まさか、一人で正面から突っ込んでくるとは。さすがに馬鹿なんじゃないの、お前」


 この場合馬鹿と言う部分だけは完全に正論、角の向こうのリリエンタールも同意することだろう。

 完全にこちらを舐めてかかっている声は、確かにいつぞやのパレードで聞いた耳障りなそれと一致する。男はフードをしていたが、近づいたことでその理由がわかった。顔の半分が焼け爛れている。もとはそれなりに整っていただろうに、随分と恐ろしい形相になっているものだ。……いや、ナイトメアは顔なんて簡単に作り替えられるはず。だったらコイツの趣味か。

 見ているだけで気持ち悪くなりそうな虹色を歯を食いしばって睨んでいると、男は目を細めうっすら口角を上げる。


「へえ、僕の目をそうやって覗き込んで立ってられたのは何人目だろうね。いちいち数えてないから覚えてないけど、そう多くはない。誇っていいと思うよ」

「確認しておきたい。お前が邪眼か」


 ティアが低く言葉を発すると相手はやはり馬鹿にしきった態度で鼻を鳴らした。


「だったら?」

「見つけたら速やかに処分するようにと命令が出ている」

「ふうん」


 特に感慨なく呟いてから、邪眼は不意にニヤリと顔を歪めた。


「よく見てみたらお前、竜じゃないか。妙に効きが悪かったのはそのせいか――待てよ。近衛の黒龍? ――ははあ、そうか」


 男は喉の奥で耳障りな笑いを上げる。不快に顔を歪めつつティアは唸った。


「何がおかしい」

「全部さ。――ああでも、ちょうどよかった。会いたかったんだ、お前に。ああそうだ、シアルの代わりに持って来いだよ」


 瞬間、邪眼の雰囲気が変わる。

 ティアの耳の裏から首筋にかけてビリビリと嫌な感じが走った。


「来いよ、黒龍。肉体言語は得意なんだろ? 暇つぶしをしようじゃないか」


 こちらをひたと見据える虹の双眸がより一層煌めくと、ガンガンと頭の奥に振動が響く。

 前傾になり、フッと息を短く吸う。牙が剥かれるのは些か騎士らしくはないかもしれないが、この際ご愛嬌だ。


 ――邪眼の瞳がチラチラと妖しく揺れたのをきっかけに、戦闘が始まった。

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