悪夢:狂信者
「あー、もー、つっまらないんだよ!」
エデルが力任せに投げ飛ばしたものは、放物線を描いて飛んでいくと壁に一度あたって鈍く跳ね返り、床に勢いよく落ちてぐちゃりと音を立てる。
少し前まで生きていた獣人の女の腕がびくびくと痙攣していた。
本体の方は先ほど絶命した。両足と、両腕を順番にひねって千切った。首に手をかけた瞬間ショックで絶命するなんて、情けないにもほどがあるとエデルは嘆いている。
昔より根性のあるやつが、短命種にしろ長命種にしろ減っていた。すぐに絶望するし、すぐに死ぬ。
エデルはそういうのが大嫌いだった。
彼は生きたい、生きたいと最期まであがく生命を蹂躙したいのであって、途中で諦められるのは本意ではない。
女は確か、知り合いと一緒に連れてきた。
知り合いの方は、先に手を滑らしてうっかり殺してしまったんだ。
その瞬間、私も殺せと叫びだして面倒で。
なのに腕を千切り出したら命乞いを始めた。
つまらない、つまらない。
エデルは自殺志願者が大っ嫌いだ。特に、自分で殺せと言っておいて、いざ痛みを与えるとヘタる奴。
だから、腕をもいだら次は、首はフェイクで耳を落とそうと思っていた。
そう簡単には殺さない。自分の前で死にたいなんて言った奴を楽に死なせてやるつもりはない。
次は舌を抜く。たぶんこの辺でやっておかないと、後がうるさい。
次は鼻。ヒトは鼻が欠けると無様だ。どんな不器量も、鼻かけだけは不思議と嫌がる。だから、とどめを刺す前に、必ずやる。
次は目。節穴なんだから、お似合いの形にしてやるまで。
次は歯を一本一本。だって、もう使えないのだし。
それが終わったら――緩やかに、頭をゆっくり踏みつぶそうと思っていた。
だから、まだまだやることはこんなにあったのに、獲物は勝手に死んだ。
彼は大いに不機嫌だった。歯ぎしりの激しさが、それを表していた。
ドサリ、とそのすぐ近くでもう少し大きなものが投げ出された音がした。
少女は先ほどまで上に跨り首筋に牙を立てていた男の干物を突き飛ばし、ちろりと赤い舌で唇周りを舐めると満足そうに腹のあたりをさすり、ぽんぽんと叩く。
彼女は父親とは違って拷問も解体趣味も持ち合わせてなかったし、幾分綺麗に獲物を食べる方だった。
やせ細って骨と筋だけだったその身体は、父の気まぐれで与えられた新鮮な男を死ぬまで吸い尽くしたことで今はすっかり色づき、健康に――むしろ豊満に膨らんでいる。
父を刺激しないようにそっと身づくろいしながら、少女は荒れている彼を見守る。
「どいつもこいつもあっさり死にすぎ。なんなんだよ、みんな平和ボケだ。二日ともたないじゃないか!」
エデルはそう吐き捨てると近くに転がる大腿骨を拾い、同じく近くに転がる頭蓋骨をたたく。
これはエデルの所業の産物ではない。もとからこの部屋に散らばっていたうちの一つ。
部屋のあちらこちらには、おそらく初代魔王の混沌の時代にどさくさに紛れて行われていた狂気の名残らしい、誰のものかもわからないされこうべや砕けた骨の破片が散らばっている。
カン、カン、としばらくそのまま音をさせていたが、不意にぴくりを表情を歪ませて傍らに突っ立っている少女に勢いよく振り返った。
「うるさいうるさいうるさい! だからこうやって、地味ーな殺し方してるんじゃないかっ! この僕が――この僕が! 大体、何のためにお前を生かしていると――そう言う時のためだろうがっ!」
男の周囲には彼の称した地味というより、客観的に言うなら悲惨な、と形容するに値する光景が広がっている。
そこは旧区画の一つにある、拷問部屋と呼ぶにふさわしいところだった。
見るからに痛そうな機具に、張り付けられ吊るされた死体の数々。
床は赤どころかすっかく黒ずんで、室内にはこびり付いて離れない臭気が漂う。
エデルは慣れていた――むしろ慣れ親しんでいたものでそこまで何も感じなかったが、確か運び込んだ数人が部屋に入った瞬間吐いて面倒だった。
ばきん、と音がして手の感覚がおかしくなる。
握りすぎて骨を砕き、その拍子に怪我をしたらしい。たらたらと拳を青い液体が伝っていった。
無造作にぶんぶんと振ると、あっという間に手は戻る。そう、本当なら、すぐに姿なんて直すことができる。
――顔の左半分を残しているのは、わざとだ。あの時の屈辱を晴らしたときに、ようやく元通りになることができる。
男は静かな怒りに燃えながら、少女を睨みつける。
「――で。場所はわかったのか?」
少女が瞳を瞬かせると、不機嫌そうにエデルは舌打ちした。
「だったら、いい。――行けよ。どこでもいい。どこか行っちまえ。次に声をかけるまで、失せろ」
エデルは少女が了承の意に虹の目を輝かせて去っていくのをよそに、大の字に腐臭と異臭漂う黒ずんだ床に寝っ転がる。
実のところ、エデルにしては結構苦戦を強いられていた。
これまでに殺せたのは、最初の短命種たちも併せてたったの30人強だ。少ない。少なすぎる。
生身は貧弱な奴ばかりだが、何せ最高峰の魔術と魔法が集まるところである。
それを覆う服や鎧、装備が段違いに硬い。
シアルの関係者も、予想外に手ごわかった。
挨拶代わりに二、三人吊るしておこうと思ったのに、迂闊に近づくこともできない。弱い奴から狙おうとすると、うまい具合に強い奴とセットで行動していて阻まれる。
試しに手駒をぶつけてみる選択肢もあったが、最初に小手調べしたときにそれ以上の深入りをやめようと決意した。
シアルの息子たちも同様。何度か気配を感じたが、接触を試みようとすると逃げる。追おうとすると、必ずピンとくる。
腸が煮えくり返る思いはしたが、エデルは踏みとどまった。
前回、勘を上回る怒りに任せて徹底的に深追いした結果、半殺しの目に遭っている。
顔の半分が崩れたままなのは、それを忘れないためでもある。
エデルの勘は、よく当たる。
それが自分の危機に関することなら、特によく。
もちろん、観察は続けているし、隙があったら切り込むつもりではある。
ただ、別にそっちはそこまでしなくてもいいのだ。
殺すの自体が楽しい。
殺しは目立つから、目を引く。
――そう、これはただの余興。焦ってはいけない。着実に、進めなければ――。
永久に続くかに思えた静寂の中、かたん、とどこかから物音がした。
瞬時にエデルは飛び上がり、右手をちょうど暗くなっていて見えにくい場所にある柱に向ける。
「……そこにいるのは、誰だ?」
エデルが声をかけると、柱の陰からひらりと商人の格好をしている女が飛び出した。
「やあ、一のお兄ちゃん。相変わらずトチ狂ってるよね。そこが素敵、たまらないわー」
「……六の、か」
エデルは一度上げた手を下す。
相手のことを割とよく知っているナイトメア――六番目の弟だと判別した。
六番目は変わり者だ。兄弟全員変わり者と言ってしまえばそうだが、特に頭がおかしいとエデルでさえこの弟のことは思っている。
その性癖は、生産性のない同族愛。六番目は同族相手にしかその気にならない。つまり、すごくナルシストなんだ、と別の兄弟には言われていたか――。
ともあれ、この兄弟はほかの弟たちよりは幾分長兄と穏やかな関係にあった。
いったんは殺意を鎮めて、静かにエデルは問いかける。
「この厳重警戒の中、どうやって入ってきた?」
弟は無造作に、擬態している胸の谷間に手を突っ込むと、そこに埋もれさせていたらしい金属板を引っ張り出し、どこか誇らしげにひらひらと提示して見せる。
「……術式証明書?」
「そ。よくできてるでしょ」
「まさかそれで正面玄関から堂々入ってきたなんて言わないよな?」
「それがその通りなんだなあ」
「馬鹿言え。俺にもできないのに――」
言いかけて、エデルは止まる。察したらしい兄の様子に、弟は嬉しそうに目を輝かせた。
「あたしや兄さんでも無理かもね。でも、パパなら可能だ。パパが本気だしたら、騙せない奴はいないんだから。ヒトだろうが、モノだろうが。パパは世界一の大ウソつきだもの」
弟は大事そうに両手で術式証明書を挟み込み、愛おしげに頬ずりする。
エデルは腕組みして、壁にもたれかかった。
「……それで。伝言係のつもりか? 父さんが俺に何か言ってきてるのか?」
「パパは何も。お城に入りたいって言ったら、この術式証明書作ってくれたけど、それだけ。でも、あたしは知ってのとおり同族趣味だから――見過ごせなくて、おせっかい焼きに来たんだ」
女の目が虹色に煌めき、少しお説教を子どもにする時の母親のようなそれに顔がなった。
エデルはあらぬ方向をぼんやり眺めて、聞いているのか聞いていないのかわからない、半分眠るような表情である。
「はっきり言うね、お兄ちゃん。やりすぎだよ。今ならまだ、パパも見逃してくれるって。ここでやめようよ。誰よりも長生きなお兄ちゃんだもの、知ってるでしょ?」
弟は兄の視線に紛れ込もうとひょいひょい体を折り曲げるが、鬱陶しそうにそのたびにエデルは顔をそらした。
何度かやっているうちに面倒になったのか、ようやくきちんと目があったところで六男はにこりと笑う。
「王家は不可侵。絶対に触ってはいけない相手。パパは、それだけは何があろうと同族に許さない。まさか、寝てる間にボケちゃった? 忘れてた?」
おとなしく弟の言い分を聞いてやっていた兄だったが、予想外にくだらないその内容にふんと鼻を鳴らした。
「何もわかってないのはそっちだ、六の。僕は誰より父さんに尽くしてきた。誰よりずっと一緒にいた。だからよーく知ってる。父さんは王家なんて、本当はどうでもいいんだよ」
「でも――」
「不可侵なのは、唯一、『あのヒト』だけだ。だけどもう、『あのヒト』は死んでる。お前たち兄弟はありもしない空気を読んで王家には不可侵ってことを取り決めてるらしいが、無意味なことだ。大体、本当にダメならそれこそお前に伝言の一つ持たせるし――そもそもシアルの方が、先に折檻されてるはずだ。そうだろう?」
エデルは不機嫌そうにしゃべっていたが、急に晴れやかな顔になった。
「それに今回は、特に調子がいいんだ。一向にあの鬱陶しい眠気がやってこない」
弟はくっと眉根を寄せる。――拗ねているときの表情になった。
「それはだから――わかんないかなあ、パパが今のお兄ちゃんに気を払ってないってことなのに。パパの支配が薄れてるんだ。つまりそれは、庇護を失っているということでもある。パパは今度こそ、君を庇う気がないんだよ。君は――」
「六の、嫉妬か? 父さんは絶対僕を見捨てたりしない。今までずっと、そうだったんだから。僕が父さんの一番の子どもなんだから」
長兄の顔が徐々に恍惚を帯びてくると、ダメだこりゃと弟は首をすくめ、そろりそろりと出ていこうとして――いつの間にか逃げ道に先んじで回り込んでいたナイトメアたちに阻まれる。
「――おっと?」
「それに、どのみちシアルを破壊するまでは、僕は絶対に眠らない。――思い出すたびに吐き気がするねえ。あいつ、今でもあんな顔してんのか? 取り澄ました、なんも問題ありませんよって、あのいけ好かない笑顔のさあ――」
じりじりと、エデルが近づいてくる。周囲を取り囲む気配に気を払いながらも六男はにっこりと兄に陽気な愛想笑いを浮かべた。
「お兄ちゃん。あたし、もう帰りたいんだけど?」
「無事に返すとでも?」
「困るなあ、弟じゃない」
「その弟の一人に殺されかけたんでね。お前もよーく知ってるやつじゃないか。――さあ、吐け。シアルはどこだ」
怪しげに輝く虹色に、女の瞳もまた呼応するように輝く。
「……あたしがそれを知ってると思ってるの?」
「これでもそこそこ嗅覚には自信があるんだよ。特に、誰が誰に好意持ってるかってのはさあ。隠してても、すーぐわかるもんなんだよなあ。――大方その偽装術式証明書も、本当はシアルの手配なんだろ?」
六の弟は静かに、兄、周囲、それから兄の後ろの惨状を窺う。
特に兄がちょっと見た方に釣られて視線をよこした瞬間、ひゅーうと口笛を鳴らした。
それはヒト一人がちょうど入りそうな、真ん中で開く棺桶のような何かだった。
うっすら開いている棺桶の中には無数の棘が見える。
要するに、閉じ込められると四方八方からいい感じに串刺しにされる、そういう仕組みらしい。
おまけに棘の形状や位置からして、即死できずにかなり長いこと苦しめる素敵仕様。
さらにどうやら一度閉じ込められると内部では魔法や魔術が使えなくなるような素材と術式でできている。
しかもぞっとしないことには、どう見ても一度以上既に使用済みな件である。
そして兄の目から正確にその意図を読み取るなら、長男はあの中に今すぐにでも弟をおしこめたいらしい。
「え、マジで。いやいやいや、さすがにやらないよね?」
狭められる周囲の輪と、長兄の無言の笑みに、弟は顔を引きつらせる。
「もっとこう、ソフトなやつにしない? せめて洗浄してからにしてほしーなー。異種族の体液なんてぞっとするじゃないか」
「嫌ならとっとと全部吐け。そうしたら、軽めに済ませてやる」
「お兄ちゃんも大概だけど、あいつも結構根に持つ陰湿野郎だからあんまり恨みを買うようなことはしたくないんだけどなあ――あっとお。これじゃ自白同然だねえ」
にっこりと、六男はすがすがしいほどの愛想笑いを浮かべた。
長兄の崩れていない方の顔も、同じようなどう見ても作り物の笑顔を張り付けている。
やがて徐々に兄弟の顔が崩れていき、そっくりな歪な笑顔になった。
「残念だ、兄弟。お前も所詮は出来損ないだったか」
「あっはあ、種族一の問題児だけには言われたくないかもねー。ああそう、こっちも一つ言い忘れてたんだけどさ。――素敵な顔になったよねえ、お兄ちゃん?」
兄が動き、周囲が一斉に飛びかかろうとした一瞬前、弟はそれまで手で弄んでいた術式証明書を素早く両手で包み込み――次の瞬間、パキリ、と勢いよく音を立てて割る。
冷徹な余裕を見せていたエデルの顔が一気に凶悪になった。
「――お前!」
「悪いけど、わかってくれるよね? パパにさあ、ちゃんと生きて戻っておいでって出がけに言われちゃって。ね、わかるでしょ、お兄ちゃん。子は親のもの。孫も親のもの。子どもは親に、絶対服従――」
一度だけ、へらへらしていた弟は真顔になる。
「ナイトメアは全員、真祖の命を何があろうと死守しなきゃいけない――だからあたし、お兄ちゃんのこと、売るね」
術式証明書の意図的な破壊――それすなわち、生命の危機と助けを求める最後の悲鳴である。
緊急警報が辺りに鳴り響き、一斉に術式回路が――壁が、異常はここにあると示すように、強く赤く点滅を繰り返す。
ほんの一瞬そちらにエデルが気を取られた瞬間、六男は素早く両手を変化させ、鞭のようにぶんと振り回した。
取り巻き達をなぎ倒すと、一瞬にして長兄の魔の手の届かないところまで逃げ出す。
エデルが怒りの声を上げると、そのまま行ってしまう前に一度だけ振り返り、陽気な笑顔で兄に吐き捨てた。
「頑張ってね、お兄ちゃん」
走っていく陰に舌打ちしたエデルだが、すぐに切り替えた。
今から警報を止めても間に合わない。既にこっちに複数名が走ってくる音が聞こえていた。
旧区画内部にそのまま踏み込んでくるつもりらしい。
「まあいい。少し早くなった、それだけだ」
目を閉じて、遠くに意識を飛ばす。
忠実な下僕はすぐに応答した。
「――ああ、そうだ。ちょっと規格外があった。予定変更だ。今すぐに始めろ。こっちは僕が引き受ける。――しくじるなよ」
短い返答を聞き届け、同時に向かってくる気配を感じる。
エデルは笑った。笑って、呟いた。
「そういえば、まだナイトは獲ってなかった。いい機会だ、やってみようじゃないか――」
新鮮な餌と殺戮のにおいに、心が、体が、血が湧き踊る。虹の双眸が一際強い輝きを放った。




