薔薇の伝言
クローディアが目を開けると、周囲は真っ白だった。一面、靄がかかった世界。
――ああ、夢か。
彼女は少しだけぼんやり思考してから、そんな風に結論付ける。
本を読みながらうとうとと眠りについた記憶が微かにあるから、すんなりとそう受け入れられた。
それにしても、夢の中だからだろうか? 視界が覚束ない。自分の足元さえも満足に見えないのだ。
そのわりには、意識はまるで覚醒しているときと同じようにはっきりしていた。
いったい何事だろか、と彼女は先ほどから油断なく周囲を窺っている。
直感があった。これはただの夢ではない。何かが起こる。
「クローディア」
不意に、霧の向こうから甘ったるい声がかかる。
クローディアはとっさに身体を強張らせ、そして首をかしげる。
今のは、いったい?
彼女は混乱した。
なのになぜ、自分がそんな風に感じたのか確証が得られなかった。
「クローディア」
再び同じ声を聞いて、王城でならした笑顔の仮面が剥がれ落ちる音が聞こえる。
彼女は声の持ち主をよく知っていた。
だが今までの彼女の経験が正しかったのなら、断じてこんな発声をする性格ではない。
甘く、切なく、媚を売る。高めの愛らしい、少女の声。
先ほどの驚愕の理由がわかった。そして身体に走る悪寒の正体も。
薄靄が少し晴れ、誰かが歩いてくるのが見えた。
夢に靄という状況に、夢渡り、という言葉がうっすら頭の隅をよぎる。
他人の夢に入り込んで会話する。幻惑魔術の一種だったか。書籍で読んだことがある。
おそらく自分は今、それを使われているのだろう。
渡ってくる彼女の事は、王城で生活していて、それなりに位ある地位にあれば誰だって知っている。
金の髪、金の目、まだ少し柔らかそうな四本の角、背中の一対の竜翼――そのあまりにも有名な特徴のおかげで、クローディアは相手が誰なのかかろうじて判断できた。
その身は、王族しか許されない至高の黒――すべてを吸い込むかのような夜闇色のシンプルなドレスに包まれている。シンプルだが、わかる者には目玉が飛び出るほどの贅沢が所々に施されていた。たとえば刺繍に使われている糸だとか、縫い込められている宝石だとか――。
露出している肩は華奢で、体つきや衣装のデザインにクローディアのような色気はない。それでも初々(ういうい)しくあどけない様のほかに、隠しようのない女らしさが香りでていた。
その顔には、鉄仮面の代わりに少女の蠱惑的な笑みが浮かんでいる。どこか顔が違う、と思えば、なんと化粧までしているらしい。
クローディアは絶句していた。
間違いなく、少女の――女の殿下がそこにいた。
男装の皇太子ではなく、王女殿下として。
少女は令嬢と十分に話せる距離までやってくると、立ち止まってにこりと微笑む。
「いやだわ、私がだれかわからないの?」
小首を傾げるその仕草にも鳥肌が立った。
クローディアお得意の、恥ずかしそうな愛くるしい動作が忠実に再現している。
喋り方まで、完全に変えている。
「――これは、どういうことでしょうか。いつもとご様子が随分違うようですわ」
それでもさすがは社交界を渡り歩く女と言ったところか。
クローディアは最初の衝撃から立ち直ると、ひとまずいつもの対外交渉用の微笑みを浮かべて答える。
「そうね。ねえ、この格好どう思う? 似合っている?」
少女は少し体を左右に振って、自分の外見を見せた。
令嬢はしばし間をおいてから、慎重に答える。
「よく、お似合いですわ」
どこからどう見ても相手が少女にしか見えない。男装しているときはほとんど女らしさなんてなかったものを、どうしてこうなったものか。
恐ろしいのは、仕草も声音も、いつもの勇ましく少年然としたそれから、すっかり頼りない少女のそれに変じていることだろう。
彼女の従姉弟がこんな彼女を見たら間違いなく骨抜きになる――いや、今まで男女と馬鹿にしてきた何人が、この姿の彼女に平常心で接することができるのだろうか。ギャップのせいもあってとんでもない破壊力だ。
相手の反応にそこそこ満足したらしい少女は、薄桃色の唇を開く。
「今日はね。あなたにお礼を言いに来たのよ」
「――お礼?」
「今回、おかげでいろいろとわかったわ」
クローディアは黙って聞いている。言い訳をするつもりもない。
もともと、退屈しのぎに始めたゲームだった。
図書室でたびたび見かける黒龍の男。興味深い、彼についての噂。
遠くから見守っていると、男は毎回、一生懸命に課題を解いているらしい。
しばらく眉根を寄せて考え込み、傍らの短命種や知り合いらしい文官に声をかけ、時折あまりにわからないのか絶望的な顔になって慰められている。
――かと思えば、解けた時に、本当に無邪気な笑顔を見せるのだ。
思わず、クローディアがはっとしてしまうほどにまぶしい笑顔を。
面白そうだから、話してみようと思った。
だけど、最初に話しかけた時、あまりにもあの男が自分に無関心だったから。
クローディアをあそこまで興味のない目で、しかも嫌そうに見た男は、初めてだったから。
その後も、男はずっと、クローディアが現れるとあからさまにあっちに行けと言う顔をした。
構ってくれるな、鬱陶しいと、口に出しこそしないが態度でありありと出すのだ。
これは、面白くない。
仮にも近衛騎士見習いが、社交界の薔薇をこんなにもぞんざいに扱っていいわけがない。
面白くなかった。
いつの間にか、自分がまるで彼の気を引こうとしているかのように、特定の話題を選んで話していること。
自分がそれを、大して嫌だと思っていないこと。
そして、こちらの思惑通り、彼が反応すること。
――自分に対してではなく、自分の話にのみ、であるが。
男はクローディアに傅く生き物だった。特に騎士は、そうだ。
たとえ恋人や妻を持つ身であれ、クローディアの美しさに心奪われないものなどいなかった。
クローディアが話せば、たとえ彼らにとって興味のなかろう話題でも、必死にこくこくとうなずくものだった。
――許せなかった。
自分をここまで振り回しておいて、あのお子ちゃまに、あんなにまっすぐな想いを向けているなんて。
噂にはなっていても、本人たちは頑なに語ろうとしない。
公言されないのなら、ちょっかいをかけられても何の文句も言えないはずだ。
それなのに、男と話すようになってからクローディアは視線を感じていた。
あの変わり者が拾ってきた、下賤などこ育ちかもわからない彼らの視線を。
鬱陶しかったのだ。
彼らにも。満足のいかない自分の行動にも。あらゆることにうんざりしていた。
だから少し悪戯が過ぎるかな、と思いつつもクローディアは言葉を滑らせた。
エバ=ダリアの陰口をたたかれるたびに、皇太子がひそかに身を固くしてギュッと唇をかみしめるのを、クローディアは良く覚えていた。
――成功したと知った時、ほの暗い満足感に束の間は満たされた。
けれど、なぜか空しかった。――そんなことをしても、自分が何かを得られたわけではなかったから。
でも自分が悪いとも思っていない。
いずれは誰かがやったことだろう。
あの男に手を出したい女は、クローディアだけではないのだし。
それにしても、こんな風に本人がめかしこんでまで直接言いに来るとは完全に予想外だったが。
リリアナは彼女が毅然と、ある種傲慢に突っ立っている様子を満足そうに眺めてから続ける。
「一つ。私って案外脆い女なんだってこと。あれしきのことであんなに動揺するなんて、自分でも思ってみなかったわ。宮中育ちの鉄仮面もまだまだねえ」
聞かされている方は、肌に感じる寒気がだんだんと体の芯にまで迫ってくるのを感じていた。
――それはまさしく、事がうまくいったと思ったクローディア本人の第一印象だったのだ。
少女は小鳥のように囀っている。その声に、隠しようもない毒を少量含んで。
「一つ。私って思った以上に嫉妬深い女なんだってこと」
少女は相手が何か言うのを束の間待っていたらしいが、無言でいるのを見ると更に話す。
「一つ。私は本当に甘ちゃんだったってこと。克服したつもりでいたけど、性根は引きこもりのままだったのね。ティアは無関心は良くないってお説教をされたらしいけれど、それは私にも言えることだわ。今まであまりにも、相手にしなさすぎたと思うの」
彼女がクルリと回ると、つられてドレスの裾が広がる。――闇の色が、靄の中にぶわりと広がる。
金色の翼の邪魔にならないためか、妙に空いている背中のラインの妖しさが目に残った。
「ねえクローディア。あなたはやりすぎたの。そう思わない?」
振り返った少女の目に、今度こそ全身が冷え切るのをクローディアは感じた。
「貴族は確かに、王城といいこの魔界といい、存在だけで世界を支えている貴き特別な方々よ? あなたたちの魔力を吸って、この城も、城からの各地への調整も行われる……でも、王が供給している量に比べたら、あんたたちのものなんて微々たるもの。――ちょうどこんな風に、ね?」
彼女が言い終わった瞬間、クローディアは思わず喉元を押さえ、うずくまった。口がはくはくと動き、額から脂のような汗が吹きだす。
息ができない。まるで水中に落とされたかのよう。
いや。水中だってこんなに苦しくはない。
肌はひりひりと痛みを訴え、かつ全身を絞められているかのような圧迫感を覚える。
霧――先ほどからずっと漂っていた、空気。
それが明確な悪意を以て、クローディアを責め苛む。
外では肌を焼かれ、内では針を飲み込んだかのような痛みを感じる。
――本当に悪意だろうか? クローディアががくりとひざをつき、ひゅうひゅうと喉の奥でおかしな音が鳴るのを聞きながら見上げた少女は、どこまでも純真無垢な笑顔だ。
「歯向かってもいいのよ? そんな格好、あなたらしくないじゃない」
少女は今や無様に地面――薄靄の中のそれを地面と呼んでいいのかはわからないが、とにかく手をついているクローディアに合わせるかのように、しゃがみこむ。
クローディアはかっと自分の頬に朱がさすのを感じた。
――言われずとも!
仮にも貴族の娘。古風な昔ならともかく、当代の時代なら女でも不届き物を排除する術くらい知っている。
クローディアはまず、得意な風を指文字で呼び出すと、このおぞましい霧を払う。
続けて、少女を見据えて迷わず唱えた。
王といいリリアナといい、王族は絶えず自分の周囲に薄い膜のような障壁を張り巡らしている。
彼らに敵意を向けるものがあれば、それは半自動的に構成されて自分の空間からすべてのものを弾き出し、なおかつ侵入を拒絶する。
だから、庶民だとか理性のない魔物には十分脅威となるクローディアのかまいたちの魔術も、届くはずがない。
かまいたちに隠した追加効果も含め、おそらく多少服に損壊が出てちょっぴり脅かすくらいだろう、とクローディアは予想していた。
そのくらいはしておかないと、こちらもいくら王族にちょっかいをかけた身とは言え、一方的にやられるつもりはない。
それは本能的な、殺意に対する防衛反応だったのかもしれない。
クローディアは、手加減しなかった。
だが、令嬢は目の端で少女がにこりと――いや、にやりと口の端をゆがめるのを見た。
彼女は向かってくるかまいたちを認めると――自ら障壁を、解除した。
第一陣で、彼女の身体はざっくりと抉られる。
止める間もなく、そこから展開された第二陣で、胴体が真っ二つになった。
飛び散る赤。つんざく悲鳴はクローディアのものだった。
呆然としている間に第三陣で、上半分が粉微塵になる。
終わってから下半分だけが、その他の部分を失ったことを知らないかのように突っ立っていた。
首を切るか、心臓を抉り出すか、胴体を切断するか。
それほどまでの傷を負った場合、いくら貴族と言えども再生は難しい。
挽肉にされたら、なおさら。
クローディアは、貴族の令嬢だ。王城の中で育ち、もちろんこんな血なまぐさい経験はない。
王城は、きれいだ。城内で死ぬのが許されているのは、王族のみ。
その他は死の兆候が表れると、実家に戻される。
貴族は魔術に長けるが、当代の場合、それで人を殺したことはない。彼らの魔術は、一般に各地の魔物の平定や、天候の安定などに使用されている。城と言う、一つの巨大な魔術回路によって。
近衛とて、地方の騎士に比べればはるかに人死にに接する機会は少ない。その場で直ちに返り討ちにしなければならないくらいの凶悪犯が王城にまで乗り込んでくることは、まずありえない。
時々王の行幸につき従って地方に行く場合に、魔物を討伐したりすることはあるが、当代の平和な治世において、人殺しを経験することは極端に少なかった。
まして、女の身では。
ひどい嘔吐感に苛まれた。
自分のやったことだと言う事実が、さらに気持ち悪さに拍車をかけた。
むせ返るような鉄の匂いと、地面に広がる生ぬるい液体の感触。
周囲の肉片の残骸。
何も考えられない。何も考えたくない――。
だが、途方にくれている間に、彼女は異音を耳でとらえ、ノロノロと顔を上げる。
信じられない光景を目にした。
今度こそ、吐くかと思った。
吹き飛ばした身体が、目の前で治っていく。
残された下半身から、まるで植物が急成長するかのように、吹き飛ばされた半身が再構築されていく。
背骨が、その周りの神経だとか内臓だとか筋肉だとか、そういったものが。
呆然としている間に、あっという間にリリアナの腹が、胸が、首が、そして頭が復活した。
彼女の翼や角までが再現されると、首を左右にぶんぶんと振ってから、彼女は目を開く。
一拍遅れて服も修復される。完璧に、もと通りだった。
リリアナは感触を確かめるかのように、手を握ったり開いたり、足を動かしたりして、それから辺りに飛び散った血糊を呪文を唱えて消し去る。
今や完全に化け物を見る目のクローディアに、そうして彼女はにこりと微笑んだ。
「わかった? これが本当の私。私が心の底から憎んでいる、忌まわしい私。――何よその顔。聞いてはいたけど、実際に見るまではってこと? そうよね。そういうものだわ、ヒトって」
つまらなそうに言い放ってから、彼女はぱんぱんと自分の膝のあたりを払い、再びへたりこんでいるこちらに視線を合わせるようにしゃがみこむ。
「私ね、自分が傷つけられることには、実はそこまで抵抗がないの。見ての通り、すぐに治るもの。たぶん、身体もこんなんだから心だってそうだわ。――死ぬのも生き返るのも、とんでもなく痛いけれどね。だからいつもは、ちゃんと防御するけれど。だから、あなたのしたことも、私を傷つけただけなら別にほっといたって構わなかったくらいなの――」
今までずっと微笑んでいたリリアナが、そこで真顔になった。
クローディアは、今度こそしっかり感じた。
自分の首に押し当てられる冷たい感触を。いつの間にかまた濃くなった霧が、しっかりと自分の首を狙っていることを。
「でもね。私の子竜に手を出す者は、何人たりとも許すつもりはない。気になってちょっかいかけるくらいだったら、まだ見逃してあげる。いちいち目くじら立ててたらきりがないでしょ。脱皮後の彼がモテるのは事実だし。だけど、あなたは彼を泣かせた。何よ、美貌なんて皮を剥げばなくなるわ。脂なんて燃やせばなくなるわ。あんたみたいに中途半端に造詣が整ってると、女ってのっはすぐ勘違いするのね。――絶対に、許さないから」
リリアナはそう吐き捨てると、再び微笑む。
「でも少しは驚いてくれたみたいだし、気合入れて痛い思いした甲斐があったわ。これに懲りたら、もうあんなことはしないでおくことね。二度目はないわよ」
じゃあね、と言いながら立ち上がり、向こうに歩いて行こうとする少女の後ろ姿に、クローディアは声を上げる。
「だったら、囲っておけばいいではないですか」
少女は振り返り、クローディアの燃え上がる銀の瞳をひたと見据える。
「そんなに大事なら、首輪でもして、閉じ込めておけばいいのに。中途半端に見せつけられるのって一番腹が立ちますわ。彼を苦しめているのは――本当は、あなた自身ではなくって?」
少女は束の間黙り込んでから、また微笑む。――今度は、苦笑いするかのような、柔らかな笑みだった。
「……傷つけたくない、大事にしたい想いは真実よ。でも一方で、私のためにとことんぐしゃぐしゃになってほしい。そういう醜い気持ちも、たぶん私の中には確かにある。その辺は、自分でも本当のところはわからないの。ただ、離れていると切なくてたまらない。一緒にいると、もっと苦しい。また離れれば、悲しくてたまらない。――それの繰り返しなのよ、ずっと」
その言葉を最後に、クローディアの視界は暗転した。
クローディアが目を覚ますと、私室で本の上に突っ伏していた。あらいけない、と目をこすりながら身を起こす。
珍しいこともあるものだ。自分が本を読んでいる最中にそのまま寝入ってしまうなど。
そんなにつまらない本だったか、と確認してみれば、はらりと何かが落ちていった。
「……?」
拾い上げてみると、それは花が描かれた小さな栞だった。
四本の赤薔薇。咲いているのは一つだけ、残りの三つは未だ蕾のままである。
こんなものを、持っていただろうか?
薔薇は特別な花だ。色だけでなく、数の組み合わせにも意味が出る。
三つの蕾に一つの花。この組み合わせなら――。
「あのことは永遠に秘密……」
ズキン、と頭の片隅が痛むのを感じて、クローディアは軽くこめかみのあたりを手で押さえた。
秘密、という言葉に何か心当たりがあるような。
けれどそれは、遠く思い出せない記憶だった。
なんだか頭が重い。おかしな寝方をしたせいなのか。
どうも疲れが溜まっているようだ。早く休もう……。
クローディアはため息をつくと、謎の栞を本の上に置いて部屋を出ていった。
その瞬間、栞の真紅の薔薇は、まるで血液が空気にさらされて酸化していくかのように、みしみしと音を立てながら黒ずんでいく――。
やがてすべての薔薇が漆黒に染まると、今度は栞自体が端から勝手に腐食し、最後には完全になくなってしまった。
靄の中に消えゆく少女は、最後に一つの呪いを残していった。
「今日の事は、全部忘れなさい。そうしたら、私も何もしないであげる。でも、思い出したのなら――」
その時、貴方の身体は私の仕込んだ呪毒で分解される。
指の先からゆっくりと。急所が溶けるのは一番最後よ。
逃れる方法はないわ。助けを求めることも許さない。
言ったでしょ、絶対に許さないって。
でも思い出さなければ何も起こらないのだし、優しい方だと思わない?




