新生活
新しい父親のテュフォンは、彼の故郷よりずっと豊かで広い土地の持ち主だった。驚くべきことに、彼の新たな巣穴の近くでは天気は穏やかなことが多く、空は澄んでいて、何匹もの大人たちが気持ちよさそうに毎日飛び交っていた。
テュフォンは時々彼の様子を見にやってきたが、大方は忙しいらしく、よくどこかに飛び去っていく姿を見かけた。
黒い体躯が空を悠々と飛んでいく様は、見ているだけで惚れ惚れするものだった。
それでも帰ってくるときはほとんど必ず土産を持ってきてくれて、彼の巣穴には父親からもらったものがいろいろと積み重なっていくことになった。
テュフォンには何匹もの妻がいたが、エッカの母親である雌竜は、夫に言われたせいもあるのかよく面倒を見てくれた。彼女はよく食べ物を与えてくれ、口癖のように痩せすぎだ、もっと肥えろと彼に言った。
おかげで彼は、竜並み程度の大きさになり、鱗の色つやもみすぼらしくないものとなった。
彼女は産みの母親と違って、じゃれついても怒らなかったし、時間があるときは一緒によく遊んでくれた。
しかし、ざらざらした舌に嘗め回されると、少しだけ母親の事を思い出して、どうしようもない思いに駆られることがある。
そんな夜は、一人寝床の中で尻尾を噛んで気を紛らわしていた。
そして一番よく彼に構ったのは、彼の弟となったエッカである。
エッカは毎日彼を起こしにやってきては、昼間散々いろんな場所に連れまわし、一緒に飯にありつき、そして夜寝床にくたくたになって帰ってきた彼にまたねー、と声をかけて帰っていく。
エッカも疲れ切っているときは、彼の寝床に勝手に一緒に寝ていくこともあった。
大体彼を枕にすぐ眠りこけてしまうので、彼は弟が程よく寝こけたところを見計らって、のそのそと動き、逆にその上に下の弟が苦しくなるような格好でのしかかって眠った。
翌日起きると当然エッカは文句を言ったが、彼にとっては立派な安眠妨害に対する対策なので、ちっとも気にしなかった。
弟は散々に彼を歩かせたし、飛ばせたりもしたので、彼は自然と普通に歩行し飛行する運動能力を身に着けていった。
特に飛ぶことに関しては、栄養豊富なエサを食べるようになったためか、以前よりも動かしやすく丈夫になった羽のおかげで、人並みかそれよりうまいと言える程度にまで上達することができた。
歩く方に関しては、相変わらず定期的に転んではいたのだが。
エッカはまた、自分が話すことはもちろん、ヒトの話すことを聞くのも結構好きな性格をしていたので、彼は前よりはしゃべるようになっていた。
言い方がおかしいと意外とシビアに弟につっこまれたので、しゃべり方もだいぶ同い年の子どもと同じレベルにまで改善されてきていた。
新しい場所で、彼は自由だった。
テュフォンやエッカの母親などは、時々彼を呼んで話をしたり、ちょっとした課題のようなものを課してくることはあったが、できなかったからと言って別段責めることもせず、彼がしたいことを優先してくれる。
他の竜たちも、彼に会うと物珍しそうな目はするが、明確な敵意を向けるものは少なかった。
積極的にかかわろうとした大人は少なかったし、他の子どもたちよりも扱いが雑な気はしたが、もといた集落よりはずっと温かい環境だったことに間違いない。
そんな風に、彼は新たな家族を得てから、極々平均的な普通の竜に近づいていった。
相変わらず身体は普通の子どもに比べれば白かったし、深くものを考えない性格やときどき転んだりぶつかったりするどんくささはそのままだったが、平凡な月並みの幸せを彼は手に入れた。
ある日の夜、彼は巣穴からちょっと出かけて星空を見上げていた。
故郷の空はいつも雲がかかっていて不安定だったが、ここの天気は穏やかでそう激しく乱れることはない。何も不安なことはなかった。
彼は珍しく、ゆるゆると自分の将来を考える。
自分はこのまま、弟の言うとおり、何をするともなく育ち、大人になったら雌を選択して、雄になった弟と、今と変わらない生活を続けるのだろうか。
父や弟はそのつもりのようだし、彼とて別にそのことに不満があるわけではない。
強いて言うなら、彼には雄になりたいという願望があった。
しかし、それとなく打ち明けた弟には、無理だろうとあっさり切り捨てられた。
「雄になったら、強さに秀でているか、気配りがうまいかのどちらかがなければ、雌に選んでもらえないんだよ。
兄上、どっちもそこまですごいってわけじゃないじゃないか。兄上がもし、いいなって思う雌を見つけたとしても、その相手が兄上の子どもを産んでくれるとは思わないなあ。それに、もし男を選ぶんだとして、ボクが女を選んで相手になってもいいよ? でも僕はテュフォンの名前を継ぐ者だもの。女を選んだら強い男の子どもを産まなくちゃいけないし、兄上ばっかりに構ってられないよ。今までみたいにはいかないと思うな。
ねえ、どうしても雄になりたい理由があるって言うなら、そりゃあ止めないけど。でも、正直兄上は雌向きだと思うよ? 何か雄になりたいって強い気持でもあるの?」
どこか諭されるように言い聞かされて、彼はその時は、じゃあ雌を選ぶ、と素直に答えた。
その後エッカから話を聞いたらしいテュフォンに、雄になりたいのかと問われても、やっぱり雌でいいと答えた。
けれど、大空を悠々と飛ぶ大きな黒い影――彼の育ての父親の姿への憧れは、ずっと彼の心の奥底でくすぶり続けていた。
それに、彼にはもう一つ、心に焼き付いて離れないものがあった。
彼は土産のうちの一つを手の中でゆっくり回す。それを渡された瞬間、唐突に再生された記憶は、彼に強く訴えかけていた。
その曖昧だが強い感覚に、彼は戸惑い、しかし確信する。
こみあげてきたわけのわからない気持ちをありったけこめ、満ちていく月に初めて遠吠えを上げた。
(やっぱり僕は、雄になりたい……。)
それは彼が最初に自分から選びたいと思ったことで、どんなに周囲から無理だと言われても、自分でも願望にしか過ぎないのだと感じても、その夜から心の中に残った願いだった。