エカトリア
さやさやと揺れる草の群れをぼんやりと聞きながら、徐々に明るくなっていく空を見上げる。
生まれ故郷の北部の荒涼とした景色ははるか遠く、今ではこの緑豊かな谷が彼の故郷であった。
今日、彼は故郷を発ち、城へ上がる。
近衛になっても年に一度は必ず帰郷の機会が与えられるらしいが、彼はあまり戻ってくるつもりはなかった。
エッカと父親は定期的に城にやってきているからそこで顔を合わせられるだろうし、それ以外の竜とはそこまで交流がない。脱皮してからは、特に雌からのアプローチは多かったけれど、鬱陶しいだけで誰も相手にしなかった。
はるか遠くの地平線から少しだけ陽が顔をのぞかせた時、彼は傍らにエッカが立っていることに気が付いた。
彼女は笑っているが、どこかいつもと違う。見慣れない幼馴染みの顔に、少し前の思い出がよみがえった。
「かーわいそー。竜としては彼女の方が正しいくらいのに。割と一途な子だったじゃん、いくらちょっと強引目に近寄ってきたからって、血が出るほど噛むことないじゃないか。まあ、すぐ治るだろうけどさ、彼女なら」
エッカは兄にかなり積極的にアプローチしたにも関わらず、全く脈がなかったどころか手痛くふられ、しょんぼりとうなだれて飛んでいく雌を見ながらそう呟いた。
彼が興味のない顔で彼女に舐められた部分を消毒とばかりに自分で一生懸命上書きしているのを見ながら、エッカはぽつりと声を上げる。
「兄上さ、ひょっとして、恨んでるの?」
彼が彼女の意図を掴みきれずに、訝しげに見つめると、エッカは捕捉する。
「脱皮前ってさ、正直兄上の扱いって、僕や父上以外、結構スルーが多かったじゃん? 兄上のことみんな白子だと思ってたからさ。邪見にもしないけど、格別優しくもしないって感じ。父上だって割と、事情知ってるヒトからもさ、気が触れたのかって陰口叩かれたし。
兄上と小さいころに喋ったのって、本当に、僕と父上、僕の母上もちょっと、だけどそれくらいだったよね。あとはむしろ、兄上の事避けてたし。
生まれ故郷の方じゃもっとひどかったらしいじゃん。兄上のお母さんが死んでも、誰も餌をくれなかったし、頑丈だったから大丈夫だったけど、噛みつかれたり小突かれたりもしたんでしょ?
そのことで竜を恨んでるから、お城に行っちゃうの? 竜らしく振舞うのが嫌なの? 脱皮した瞬間手のひら返したみたいに寄ってくるから、納得できないの?」
ティアは目を瞬く。エッカは彼の答を待って沈黙している。どこかその雰囲気は、いつもの軽くて明るいものとは違う。彼は考えて、ゆっくりと答えた。
「恨んでる、わけじゃない……と、思う。別に、むしろ当然のことだと思う。だって、白子を育てたところで、脱皮してからも貧弱なままだ」
「でも、兄上はそう見えていただけで違ったじゃないか」
「エッカ、確かに、お前と同じように――いや、それはちょっと高望みだな。お前は俺と違って、子どものころからいろいろできてたから」
「器用貧乏って言うんだ」
「……どうした? 今日はやけに突っかかってくるな」
エッカはどこか不貞腐れているように見える。彼が困惑した顔を向けると、んべっと舌を出してそっぽを向いた。
ティアは首をひねりながら、言いかけていたことを続ける。
「ん――そうだな。普通の竜として育てられていたら、俺はここまでリリアナに入れ込まなかったかもしれない。それは、そうなのかもわからない」
彼は一度区切ると、空を見上げる。
エッカもつられて見ると、いつに増して美しい満点の星空だった。
「覚えてるか。お前は俺に、雄になるなんて無理だって言った」
「言ったね。無謀だと思ったよ。だって兄上、どう見ても雄向きじゃなかったもん」
むすっとした声の妹に、彼は一度深呼吸した。
「だけど俺は、ずっとずっと、雄になりたかったんだ。
――顔も名前も知らない、俺の本当の父さんみたいな雄に、なりたかった」
エッカは彼の横顔を眺めたが、黙ったまま、彼を促しているような気がする。
「俺が竜としておかしいんだとしたら、きっと最初からそうだったと思う。たとえ黒い身体に生れていたとしても、俺はやっぱり、ずっと父さんだけを好きだった母さんを好きになって、知らない父さんに憧れたんだと思うよ。
別に、お前や他の竜の生き方を否定するわけじゃない。そういうやり方もあるし、俺たちの本来は、それで正しいのかもしれない。だけど、俺がほしいのは、それじゃない。
リリアナは――もしかしたら最初は女の子だって見てたのかもしれないけど、それでも――俺に最初に、たった一つの好きをくれた相手だった。ただ一人、俺だけを、特別にしてくれた相手だった。
エッカ、それまでは、俺は何もしたいことがなかった。お前の言うとおり、雌になってお前の子どもを産んで、それで一生ここでのんびり生きていく、それでいいと思ってた。お前の事は嫌いじゃないし、お前だって俺をそうだと思う。
リリアナに会って、全部変わった。このヒトの、たった一人になりたいって思った。リリアナが、俺に伴侶になれって言った瞬間、俺はそのために生まれてきたんだと思った。
――わかったんだ。これが俺の運命。そのために、たとえどれだけ苦しい目に遭ったって構わない。たとえお前や父上を敵に回したとしても、俺はリリアナの側にいる。
――俺の、初めてで最後のヒトだから」
エッカはその時、何も答えなかった。ただ、彼が話し終わると、星を見上げ、黙って一緒に見つめていた。
「エッカ、どうした?」
朝日に照らされ、エッカの目が、鱗が、青くきらきらとサファイアのように輝いている。知らず知らずのうちに姿勢を正して彼は聞いていた。
「兄上、一つだけね、訂正しておこうかなって」
「……何が?」
「兄上、僕の事嫌いじゃないって言ったね。僕もそう思ってるでしょって。違うからね。だって僕は、嫌いじゃなかったわけじゃない」
「嫌いだったって、ことか?」
「違うよ――馬鹿だなあ、好きだったんだってば。今だって好きだよ、兄上」
呆然と目を見張る彼に、エッカは苦笑する。
「なんでずっと世話焼いてあげたと思ってるの。いくら父上に言われたからって、お節介越えてると思わなかったわけ? 魔人の勉強まで一緒にやっちゃってさ?
それに、何のために、最後に雌になったと思ってるのさ。万が一があるかと思ったから――この、朴念仁。ホント、ひどいや。兄上にとって、僕は最初から、弟で、妹でしかなかった。
だけど、確かに僕の好きはね、一人にあげるものじゃない。僕は、僕の相手になってくれるヒトが皆好きだ。だから、兄上のたった一人にはなれない。誰かだけをずっと、そういう愛し方は、僕はできない。
……わかっていたよ。兄上はいつも、星を見ていた。いずれそっちに飛んでいってしまって、帰って来ない。うん、わかっては、いたんだ」
戸惑いの表情を浮かべている兄に、妹はため息をつき、昇ってくる朝日に顔を向けて目を細めた。
「兄上の事、一人だけ愛してくれるなんて、できるのかな。彼女だって長い寿命を持ってるし、周りにたくさんヒトがいるのにね。
でも、なんでだろう。お姫様だったらできる気もする……会ったことないし勘だけどね。まあ、でも僕の勘、よく当たるし?」
「……エッカ」
「困らせるつもりはないよ。僕、ちゃんとこれからだって、今まで通りに振る舞うよ。兄上も気にしなくて大丈夫。
だけどね、お城に行っても、覚えていてほしいんだ。僕は兄上の味方だよ。いつだって、飛んでいってあげるし、ここで待ってるからね。辛くなったら、支えるから。
……それだけは、忘れないで。きっと、とっても大変だと思う……でも、僕は知ってるから。できるよ、兄上なら」
それだけ告げると、エッカは飛び立っていってしまった。彼はその後ろ姿がみるみる遠くなっていくのをぼんやりと見つめ、呟いた。
「……ありがとう、エッカ」




