曲者
幼い頃と同様に、城内は無駄に凝った装飾が施され、いくつもの似たような廊下が入り組んでおり、一人では到底目的地にたどり着ける気がしない。
その中を、自信を持って足早に行く男ヒューズと、その後方にかなり距離を取っているティアとが歩いていく。
背中をにらみつけていると、幾分かペースを落とし、しかし相変わらず前を見続けている男から不意に声がかけられた。
「僕の事が気に入りませんか。先ほどから随分熱烈な目で見てらっしゃるようですが」
「ああ。お前は気に食わない」
間髪入れずに答えると、ヒューズは盛大に噴き出した。
立ち止まり、盛大にむせている男をこちらも立ち止まって睨むと、ようやく振り返る。
目じりにはうっすらと涙が浮かんでおり、ティアがあからさまに眉間にしわを作ると、いったん澄ました顔に戻そうとしたらしいが、再び口角が吊り上る。
「いいですね。僕結構好きですよ、そういう正直さは。人生経験上、誰に対してもそうならいささか浅慮だと付け加えずにはいられませんが? 一般に、嘘は悪徳であるように言われていますが、馬鹿正直な方がよほど残酷なことだって多々ありますよ。たとえば、円滑な人間関係のために」
「何をぐちゃぐちゃ言ってるんだか知らないが、余計なお世話だ。リリアナが言うなら手は出さない。だけどお前となれ合うつもりもない。リリアナに仕えてる奴なんだとしても、お前は俺の敵だ」
唸るように言うと、ヒューズはふっと目を細める。
変わらずに微笑んでいる口元が、純粋に楽しんでいるものから、うっすら皮肉っぽい形に変わった。
「なるほど? 参考までに、なぜ初対面にも関わらず、そこまで嫌われているのかお聞きしておきましょうか」
ティアはそれには答えずに男を睨む。
理由と言うほどのものでもない。
ただ、この男の顔が、声が、仕草が、なぜか彼には気に障る。生理的嫌悪と言って差し支えない。
寒気のようなものがぞわりと走り、全身が彼に訴えかけているのだ。絶対に油断してはいけない。信用してはいけない。
――特にその碧の目とこちらの目があったとき、なんとも言えない不愉快な気分になるのだった。
「……ふうん。言っておきますけど、今のところ殿下は僕にまったく興味ないですよ?」
ヒューズは彼の黙っている様子に肩をすくめると、思いもかけないことを言う。思わず完全に目が点になった。
「は?」
「おや。それが理由ではありませんでしたか」
相手も彼のリアクションに少しは驚いたようだが、直後すぐに人の悪い笑みを浮かべると、再び歩き出した。
「待て。今のはどういう意味だ」
彼が追いかけ、先ほどよりも接近して男の顔が少し見えるような位置から話しかけると、少しだけこちらに顔を向けて、歩きながらの答えが返ってくる。
「いえ。そういう噂でも聞いていたのかと」
「そういう噂? はっきり言え。でないとわからない」
ヒューズは喉の奥でくっくと笑い声を発しながら、ホントに正直者だなあ、なんてどこか感心した声を上げている。
これは独り言らしく、すぐさままた彼の方に少し顔を向けて男は喋る。
「殿下が僕の事を気に入ってるって話ですよ。一応、これでも殿下の拾い物第一号ですし」
数秒間置いてから、ああ、つまり、これが前にエッカの言っていた、リリアナが拾ってきた男なのか。ティアはそんな風に閃いた。
そういえば、言われてみると名前もそんなのだった気もする。
関心のないことにはとことん労力を割かなかった結果がこの鈍さである。
エッカが聞いていたら目を剥いてのけぞり、あれだけ言ったのにどんだけ興味なかったのさ! と叫ぶに違いない。
いまさらながらに情報が一致した彼は、しかし訝しげに首をかしげる。
「で、お前がリリアナの最初の部下だとして、それがどうしたんだ」
「えー、それひょっとして素で言ってるんですか? てっきり僕、ライバルとみなされて、それですっごく睨まれているのかと思っていたんですが?」
「ライバル? 何の?」
「そりゃあ、殿下――リリアナ様の御寵愛のですよ」
ティアはぽかんとして目を瞬き、それから何気なく言った。
「それは、伴侶としてのと言うことか?」
「――まあ、そうなりますかね」
「だったら、リリアナは100年前に俺の伴侶になるって言ったし、さっき会って分かったけど、心変わりもしていない。だから俺以外の誰かがそんな風になるなんて、あり得ない。お前なんか絶対に選ばない」
突如男が声を上げて笑い始めたので、彼はさらに一歩分、距離を開けた。男は笑いながら、くるりと振り返る。
「黙って聞いていればなんて呆れたことか、ここがどういう場所かわかって言ってるのか。わかってないならばか者、わかっているなら大ばか者さ――大したご高説だ!」
その眼が一瞬にして虹色の輝きを放ったのを見て、彼はずっと感じていた嫌悪感の正体を知る。
――ナイトメアだ! それも、闘技場に現れたあれとは格が違う。
違和感は感じていたとはいえ、この男からは泥のような濁った臭いはいっさいしない。
胡散臭いとは感じていたが、今の今までその正体まではわからなかった。
身構えた彼に、男は笑ったまま、しかしどこか冷たい虹色の目でティアを射抜く。
ここまで迫力のある笑顔は、あれだ。エッカが本気で怒った時に似ている。
冷え切った空気が舐めるようにティアを包み込んだ。
「あまり調子に乗るなよ。お前なんて、いくら黒龍だろうと、いくら強いんだろうと、所詮狭い竜の世界で、高々400年ぽっちしか生きてない若造だ。
成程、さっきの様子からして、リリアナ様とお前は知り合いで、尋常ならざるほど気にかけていただいてることも確かだろう。
だが覚えておけ。我々はまだ、納得していない。努力家だと? 忠実で一途だと? 強いだと?
いいか、殿下の部下は、その程度の基準軽く超えた奴等ばかりだ。そうでなくても、動機が何であれ、あの人に一言お声を頂きたいがためだけに、毎日汗水たらして必死に己を研鑽している者なんていくらでもいる。
あまり舐めた口叩いていると、そのうち痛い目を見るぞ」
だが、ティアの方も一歩も引かない。
単純に自分に対してのみの悪口ならいくらでも聞き流すが、リリアナがかかわってくるなら話は別だ。
「つまり、リリアナの周りには、俺を気に食わない奴、それに俺よりもずっとふさわしい相手だと考える奴、それに考えられる奴がたくさんいるってことか。そんなこと、100年前からわかってるし知ってる。
だけど、お前らなんてどうでもいい。リリアナが近衛になれと言った。そこで実績を積めと言った。だったら俺はそれに従い、全力でそれをこなすまで。
リリアナの言うことは絶対だ。リリアナがやれと言うなら、俺はなんだってする。お前なんかの軽い言葉より、ずっとリリアナの言葉の方が重い」
「ほう? では、君は殿下が諦めろと言ったら、諦めるのですか? 死ねと言われれば死ぬのですか?」
ティアは息を吸ってから、一字一句力を込めて答える。
「もしもそれが、リリアナの意志なら。俺のすべてはリリアナに捧げると決めたから。でも、信じてる。リリアナはそんなこと言わない。――そんなヒトじゃ、ない」
睨み合いはしばらく続き、こちらが意地でもそらすものかと頑張っていると、そのうち先にふっと向こうが目を伏せた。
ヒューズの目の色が元の緑色に戻り、辺りの肌寒さも和らいだ。
男は元の、胡散臭い、けれど敵意も悪意も感じない微笑みを浮かべる顔に戻っている。
「成程、確かに殿下の言葉は僕の言葉より重い。それに関しては、否定できませんね。
ま、いんじゃないですか。馬鹿だとは思いますけど、悪人ではないようですし、君なりに頑張れば。殿下も今のところ君の事だいぶ気にしてるみたいだから、ことあるごとに助けてくれるでしょう。
今日はこの辺でやめておきます。あまり喧嘩すると殿下が怒りそうですし、我々この先ずっと顔を合わせることになるんだから、もう少し仲良くしましょう。
――おや、嫌ですか? けれどそれが現状ですよ。僕はリリアナ様の従者、君は一介の近衛。僕が邪魔をしたら、君はどんなに頑張っても殿下と顔を合わせることだって難しくなるんですからね。
ただでさえ陛下に目を付けられてるって言うのに、そこまで君が馬鹿じゃないことを祈りますよ。あまりにも殿下が浮かばれませんから」
ヒューズはいったん言葉を区切ると、つかつかと歩み寄ってきた。ティアは身構えたが、右手が差し出されただけだった。
「では、お別れの挨拶を致しましょう。
それとこれは老婆心ですが、リリアナ様のことを呼び捨てにすると、いらない敵を増やしますよ。後はね、売られた言葉に安易に乗って、彼女と自分のことをすらすら喋ってしまうのも、君じゃなくてリリアナ様が苦労することになるからやめるように。王城の角に目あり、扉に耳ありですよ。迂闊にしゃべりすぎないことです。覚えておくように。
では近衛新人殿、お元気で」
彼が応じずににらんでいると、ふっと息を吐いてから、ヒューズは振りかぶり、突然何かを放ってきた。
彼が咄嗟に手を上げて防御すると、それが掌にあたった瞬間、何かがするりとはがれる気配がした。
――術をかけられていたのか。彼が気が付き、驚くと同時に唸り声を上げるも、ヒューズは素早く距離を取ると優雅に一礼した。あまりにも自然なその侍従のしぐさに、一瞬虚をつかれる。
「シーグフリード様、こちらが出口でございますよ。ああ、ちょうど案内も戻ってきたようで。これからは気を付けてくださいね」
言い終えると共に、まるでタイミングを見計らったかのように、ティアをリリアナのところまで案内した侍女が角を曲がって急ぎ足でやってきた。
「さ、こちらへ。お世話になりました、ヒューズ殿」
「いえいえ。城内の構造は複雑かつ時々気まぐれに変わったりしますから、迷子はしょっちゅう出ますし。今度はちゃんと、見失わないでくださいね」
――要するに、自分は帰り道の途中で案内とはぐれてさまよっていた、そういう設定にされたのか。
侍女に促されるままに、気が付けばヒューズの姿は消えていて、廊下をほとんど早足で歩かされ、城下に降りる城の入り口までやって来る間は、なんだか妙に急かされたせいか考えている暇がなかった。
迎えに来たエッカに声をかけられたその時、そう結論付けることができた。
「もー、兄上ったら。色々大変だったらしいのは聞いたけど、テンパりすぎだよー。帰り道で迷子になるなんて、だっさーい」
それにしても耳の早いことである。エッカはそう言いながらも、早く帰ろう、早く、とやっぱり急かしてぐいぐい兄を引っ張る。ティアは不意に尋ねる。
「エッカ、お前、何も聞かないのか? もうすでにいろいろわかってはいるみたいだけど」
くるりと振り返った妹は、少し呆れた顔になる。そして、低めの声で彼に語りかけた。
「もちろん、うちに帰ってからたっぷり聞くよ。だってここじゃ、誰が聞いてるかわからないじゃない? 兄上、それともみんなに言いふらしたいわけ? だったら今すぐにでも聞くけど」
顔をしかめつつ、ティアは後で、と答えた。少し間をおいてから、ふとさっきのヒューズの言葉を思い出す。
エッカと同じようなことを、あの男は言った。それは忠告なのか? けして友好的ではない態度を示しておきながら、なぜ?
――君じゃなくてリリアナ様が。
城下に降りる船の中で、彼はじっと巨大な空飛ぶ城を見つめる。
「エッカ、前に言ってた、リリアナ――様に最初に選ばれた男って、どんな奴なんだ?」
妹は風を感じて目を細めていたが、彼の言葉に顔を上げる。
「ようやく興味わいたんだ? 名前覚えてる? セオドア=ヒューズって言うんだよ。
んー、だけど、いろいろ噂が飛び交ってるからなあ。切れ者だとか、アホだとか、変わり者だとか。
ただ、なんだかんだ言って、素性のしれない奴なのに城を追い出されずにいて、なおかつお姫様の側にいられるってことは、まあ一筋縄じゃいかない相手なんだと思うよ。何重にもヤバい曲者なんだろうねえ。案外拾ってきたって噂も、本当は自分から拾われに行ったのかも、なーんて。
それにしても兄上、様をつけるなんてどうしたの? ま、その方が賢いとは思うけどさ。呼び捨てはどう考えてもまずいもん。僕は気にしないけど、お城の中じゃねー」
うきうきと語る妹の言葉を、彼は瞬きもせずに聞いていた。
セオドア=ヒューズ。きっと因縁の相手になるその名前を、今度こそ心に焼き付けて。




