幕開け
しん、とその場は静まり返る。
周囲の給仕や近衛たちはこぞっておいばかやめろ、か、もう知らないぞ、のどちらかの顔を向けているが、もちろんティアは気が付かない。
というかそんな些事は気にしない。
たった一人の想い人。彼女だけをじっと期待を込めて見つめる。
リリアナも真っ直ぐその視線を受け止めている。
それはほんの一瞬だったのだろうか、それとも随分長い間だったのか。やがて彼女はふっと目を伏せ、父の方に向き直った。
「お父様。この男を近衛にしていただけませんか」
周囲が一斉に動揺した気配がする。
それはそうであろう。
この父親以上に仏頂面が板に入っている皇太子は、最初の晩餐会に出た折は、勝利者や父親と適度に話し、彼女にしてはそこそこ愛想よく、至って普通にふるまっていた。
が、あれは角が生え始めたころだったろうか。
ある時の勝利者の男に、なぜ頑なに男の格好をしているのか、きっと女の姿もお美しいだろうに、と言葉をかけられたその時から、彼女はこの場では深く心を閉ざし、なるべくいないものとして振舞うようになった。
王や勝利者に何か言われれば受け答えはするが、彼女から勝利者に声をかけることは、義務的なことを除くとほとんどない。
一体何がそんなにも気に入らなかったのか。ただ、彼女の側にそこそこの年月侍っていれば、彼女が自分の女の姿を嫌っており、そして周囲にそう見られることも強く拒絶していることは容易にわかる。
だから、この場で彼女から積極的に声がかかることがあるとしたら、それはもうお気に入りの証拠だ。
溺愛する姫が望むことなら王は協力を惜しまない。だから何もなければこの願いは二つ返事で受理されすはずだ。
――そう、何もなければ。だが今は、この多大なるアホによって投下された爆弾がある。
おいどうした皇太子。お前そこまで馬鹿じゃないはずだろ、なんで王を余計煽るような方向に持って行った。
何人かはそう思って彼女を驚愕の眼差しで見つめる。
その最中、王をじっと見ている彼女が一瞬だけ目をそらした。視線を受けた給仕がきらりと目を光らせる。
だが、ほんの一瞬の事、すぐにまた父親をじっと見つめる彼女と、王を緊張して見比べている周囲は、給仕の一人の目が瞬く間に虹色に染まり、その表情が消えうせたことには気が付かない――。
王は動かない。
ティアはこんな王の顔を見るのは初めてだった。
彼が見たことのある王は、素直に娘への愛情と自分の気持ちを表現する父親の顔か、臣下や民の前でどっしりと、落ち着きのある物腰で構えている王の顔のどちらかだ。
今も厳格な表情ではあるのだが、前に見たものにはそれでもどこか親しみがあったのが、この顔には取りつく島がない。
その眼からも口元からも、何の表情も読み取れない。完全に感情を押し殺しきっている顔だ。
王に長年仕えている何人かは、既にこの後の展開に備えてさりげなく配置を整えている。
彼らはこの顔が、先代の話題を出された時か、先日皇太子について例の進言がなされた時――つまり彼の地雷が踏み抜かれた時、動揺を押し殺すためのそれであることをよく知っているのだから。
やがて――その口がゆっくりと開かれる。
「そばにいたい、というのはつまり、近衛として仕えたい。そういうことでいいのだな」
ああ、なるほど。娘はさっき、父親の逃げ道を作ったのか。周囲は考える。
王にとってレッドゾーンぎりぎりの言葉を言い直して、より王に受け入れやすいものに変えたのだろう。
近衛を所望すると言うことであれば、前例がないわけではないし――少しだけ王の顔が戻ってきた。
「確かに武の腕は申し分ない。我の推薦があれば、十分に資格はある。
一応それだけでは近衛には上げられないし、最低限の試験や検査は受けてもらうことになるだろうが。
ただ、念のために確認しておくと、軍所属ならまだ融通が利くが、近衛はその生活のほとんどを城か城下で過ごさなければならなくなるぞ。
竜の里は、ここから遠い。
ただでさえ魔人たちの中で暮らすと言えばあまりいい顔はされないだろうに、なおかつ帰ることも容易にできなくなるとあれば、里の竜たちは黒龍であるお前を引き留めるのではないか。父君や妹君は何と言っている」
「問題ありません。近衛になれるのなら、なんだってやりましょう。足りないものがあると言うなら、足りるようになるまで訓練を積みます。
それに、父や妹には未成年のころからずっと、城に上がることを望んできましたし、理解もしてくれています。もし他の竜たちがうるさく言ってきたとしても、俺の心はもう決まっています」
彼の答えに王は眉をひそめる。それはそうであろう。
彼はかけがえのない友人であるテュフォンがどれだけこの息子を可愛がっていて、そして竜たちにとって黒龍がどんな存在であるか十分理解している。
竜にとってみれば、近衛になって国に、城に仕えるなんてほとんど価値のないことだろう。
それもとっくに経験を積んだ後の道楽ならまだしも、まだ脱皮したばかりのこの竜はとても若いのだ。
きっと里で何人もの雌が、彼に目をかけてもらうことを望んでいるだろうし、そうするのが彼の本来のあり方なのだろう。彼の妹が、現にそうしているように。
しかし、ティアの感覚は脱皮を経ても幼いころのままだった。
確かに周囲の自分を見る目は変わったし、父や妹、そして今ではそのほかの竜たちからも、魔人たちのところなんかより自分たちと一緒に暮らそう、黒龍の子孫をたくさん残してくれ、とよく言ってくる。
けれど、そんなことはどうでもいいのだ。
何者でもなかった幼いころ、そのみすぼらしい体躯を嫌がらず、どんくさい中身を嫌がらず、彼に一緒にいろと命じた――いや、一緒にいてほしいと望んだのがリリアナだった。
ともにいるためには強くならなければならない、周囲に認められなければならない。そう言われたから必死に己を磨いた。
後で一緒になれるんだと思ったから、涙を呑んで一度別れることもした。
もう、これ以上離れるなんて絶対に嫌だ。
王が戸惑うような顔をしているが、彼は言う。
「近衛として邪魔だと言うなら、竜として当然のことなどいくらでも捨てましょう。覚悟はできています」
王はしばし彼を見つめ、その眼が本気であることを見て取ると、ふうとため息をつく。
「――ならば、その望みがかなうように、こちらも手配しよう。テュフォンの息子のそなたが近衛になってくれるというなら、こちらとしても大歓迎だ。何かあったらいつでも言ってくれ。不自由の少ないように手配しよう」
王は昔の、彼に対して気さくで親切だった彼に戻ってきている。周囲がなんとかまとまりそうだと、ほっと息をついたその時だった。
「一つ確認を」
「なんだ?」
「近衛になれば、リリアナ様のお側にいられるんですよね」
だからなんで混ぜ返した馬鹿野郎! 今いい感じに落ち着いてたじゃないかそれをどうして! と四方八方から声なき声が飛んでくるが、再び硬直した王に彼はしかし一歩も引かない。
「俺の望みは、リリアナ様のそばにいることです。近衛になることがそれと同じ意味を持つと言うなら、喜んでなります。けれど、近衛の仕事が城や要人の警護だと言うことも知っています。
――ほかの誰かや城の方にばかり回されるのなら、それは嫌だ」
お願いだから黙ってくれ、そんな誰かの念は彼に届かない。
かろうじて、彼はリリアナがこっちを見ろと目で合図を飛ばしていることには気がつき、向き直る。
彼女は何か訴えたがっていたが、彼は読み取りきれずに困惑した顔になった。
「リリアナ様、あなたが言うなら、俺は近衛になる。けれど、それで約束がはたされるのですか?」
「――約束」
王の唇が震え、そこからかすれた声が漏れ出る。そしてリリアナが、これは不味いと制止する前に、彼は王に答えてしまった。
「俺が立派な雄になって戻ってきたら、伴侶になるという約束です」
その瞬間、がしゃんと食器が盛大に割れる音が響き渡った――。
臣下たちは真っ青組と、陛下と一緒に激おこ組と、冷静に事にあたる組と、あとは腹の中で大爆笑組に分かれている。




