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 明確に覚えていると言える一番古い記憶は、雨だ。最初は鬱陶しくしとしとと降り注いでいただけのそれは、やがて暴風雨になる。

 ひどい嵐が何日か続いた。



 少しだけ雨脚が弱まったある深夜に、母親は巣穴に彼一人を置いて出て行った。彼は彼女の身動きで目を覚ましはしたが、そのままうとうとと、足音が遠ざかり、翼が力強くはばたかれる音を聞いて、やがてまた眠りの中に戻っていった。

 もしかしたら、どこに行くのかと聞いて、狩りへという答えをもらったかもしれない。半分寝かけていたから曖昧なことだけれども、嵐で巣穴の食料は尽きていたから、やはり彼女はあの時狩りへ出かけたのだろう。


 その後のことを知っていたら、きちんと起きて見送りぐらいしたのに。



 再び目を覚ました時、母親はまだ戻ってきていなかった。

 彼は何度か寝て起きてを繰り返し、骨をしゃぶったりして一人で遊んでいた。相変わらず雨は降り続けていたが、出かけられない天気ではない。


 けれど彼は一人で外に行く気にはならなかった。飛ぶのが下手だから戻ってこれる保証がないし、集落の彼らは白い鱗を持つ彼を嫌っている。危害を加えられることはないが、一緒に遊んだりすることもしてくれない。


 かりかりとかじりながら、彼は巣穴の入り口を時折見てきゅうう、と悲しい声を上げる。柔らかな草がしきつめられた母の巣にくるまると、彼女が隣にいるようで安心したが、それもすぐに本人がそこにいない寂しさへと変わった。


 やがて彼は巣の入り口のそばににじりよって、そこから母を呼んだ。


 何度そうしても、彼女が戻ってくることはついになかった。



 とりあえず、彼は空腹に耐えかねて、弱まった雨の中、巣穴を出て近くの集落にさまよい出た。

 知り合いたちは彼を見つけると途端に渋い顔をしたが、異変に気が付いたらしい。


 その日はいつものように他の子どもたちにいじめられることもなかったし、大人たちに邪険にされることもなかった。ただ、あわただしく数人が出かけたり戻ったりする中で、彼は誰かからふるまわれた幾日かぶりの肉に夢中でかぶりついた。

 思えば妙だった。周りが優しすぎたという点で。



 そして夜、神妙な顔をした大人が彼のところにやって来た。

 くすんだ緑色の鱗。ちょうろう、と呼ばれている竜だ、と彼は思い出す。

 長老は彼がきょとんと見上げると、一呼吸してから告げる。


「お前の母は、死んだ」


 死んだ? と彼はしわがれ声が紡いだ言葉を繰り返す。

 ぼんやりとした表情を浮かべた彼に、憐れみを瞳一杯に浮かべた長老はゆっくりと喋った。


「事故だった。今回の嵐は何人かけが人が出たひどさだ。だが、まさかあれが落ちるとは――。なあ、坊よ。母さんは、お前の父さんのところに行ってしまったんだ。もう、戻ってこないんだよ。彼女は大いなる空に還ってしまったんだ」


 彼はゆるゆるとした思考で、しかし長老の言わんとしていることを理解した。


 彼の父親は、彼が生まれる前に「空」へ還ってしまった。母がいつも、彼に言い聞かせていたことだった。「空」は彼らが飛ぶ空よりもさらに高いところにあるらしい。だから、一度行ってしまったらこの世には戻ってこられないのだそうだ。


 つまり、母も「空」に行ってしまったから、もう彼の所に来てはくれないのだ。焦点の合わない瞳を揺らし、彼は長老に問うた。


「それじゃ、ぼくは。ぼくもそらにかえるの?」

「お前さんは幼い。まだだ」

「まだ。なら、いつ?」

「明日かもしれんし、ずっと先かもしれん。それはわからん」


 からん、と音を立てたのは、たぶん彼がさっきまでしゃぶっていた骨だ。彼は途方にくれた。


白竜アルビノでなければ、家で面倒を見ても良かったんだが。さて、どうしたものだろうね……」


 長老がつぶやく声が遠い。いまだに降りつづける雨音だけが、いつまでも耳の奥に響く。

 さささ、さささ、さらさらさら……。

 彼は、呆然と、ただ降りしきる水の音を聞く。



 長老は彼をひとまず自分の巣の近くの洞穴にほっぽっておくことにしたらしい。

 それからは、とぎれとぎれに情景が流れる。


 ある時は一人で、じっと雨空を見上げている。


 ある時は子ども――子どもといってもだいぶ年上だから大きな体をしている竜に、鼻先で勢いよくぐいっと押され、洞穴の壁まで吹き飛んでごちんと頭をぶつける。


 ある時は大人が外から覗き込んで、まだ生きてるのか、と忌々しげにつぶやく。


 ある時は彼に噛みついた相手が、無駄に頑丈さだけはある、と悪態をつきながら出ていく。



 そんなことをぼんやり見たり聞いたりしているうちに、ふと彼は気が付いた。


 見知らぬ大人が彼の前に立っている。それは集落の、今まで見たどの竜よりも大きい身体をしていて、夜の色の鱗がうっすらと濡れてきらめいた。


 本当に、なんて大きな雄! 一生懸命、上に首を曲げてようやくその顔が見える。顔も大きい、彼を一飲みにしてしまえそうだ。


 小さな洞穴には体が入りきらなかったのか、どうにかして彼を外に連れ出そうとしたらしい。彼らが対峙していたのは洞穴の入り口、しとしとと降り注ぐ雨の中だった。


 見知らぬ大人はじっと、自分の身体が濡れるのも気にせず、彼を興味深そうに見下ろしている。彼は大人の事を、洞穴の入り口の岩の影からちょこんと首をのぞかせて見上げていたのだった。


「坊、ここで何をしておる」


 彼は落ち着いた深みのある声に呼びかけられてびくりとする。集落の大人たちはなるべく彼とかかわりを持とうとしなかったから、こんな風に優しく話しかけられたのは初めてだ。


 しかし、何をしていると聞かれても、何をしているわけでもない。彼がぼんやりした顔をしながら懸命になんと答えようか考えていると、竜は再び彼に問う。


「それでは、父親はどうしたのだ」

「おとう、さん?」

「そうだ。お前の父親はどうした。子竜の世話もせずどこをほっつき歩いているのだ。父親は息子の面倒を見るのが道理だ。なぜここにいない」

「……だって、いないんだもん」

「いない?」

「おとうさんは、ぼくがうまれるまえに、おそらにかえったから、いない。おかあさんが、いっていたよ」


 威圧感に、ついつい言い訳をするような口調になってしまう彼の答えに、雄竜は少しだけだが、訝しげに目を細める。彼はおびえて首を縮めた。


「なら、母親はどうした。今は出かけているのか?」

「おかあさんも、おそらにかえった。もどってこない」

「母親も? では、お前はこんなところに捨て置かれて、誰にも世話をされていないのか」

「……たぶん、そう」

「いつからだ?」

「……わから、ない」


 彼は答えつつ、徐々に、ゆっくりと洞穴の奥へ後ずさる。


 すると雄竜はそれに気が付いたのか、苦笑するように顔をゆがめた。彼はすうっと身をかがめると、なるべく体が小さく見えるように豪華な羽を折りたたんで顔を彼の視線近く、地面すれすれに近づけた。


「ああ、怖がらなくていい。行かないでおくれ、儂にはお前を害する動機も理由もないぞ。名乗っていなかったのが悪かったか。儂はテュフォンと言うのだ」


 彼は下がるのをやめると、首をかしげる。その仕草に思わず相手が顔をほころばせたが、彼自身はまったく気が付かない。


「てゅふぉん?」

「はは、聞いたことがないか。儂はな、坊。ここからずっと南にある谷からやってきたんだ。遠い遠いところからな。それでお前の名前は何というのだ」

「なまえ?」

「誰かに呼ばれたことはないのか?」

「……ない」

「……そうか」


 大人の竜はそこでいったん体を起こすと黙り込み、何かを思案し始めた。


 彼は最初はおっかなびっくりそれを見ていたが、やがて好奇心に負けてそろりそろりと岩陰から身を乗り出した。ゆっくり岩を乗り越えて、彼がもっとよく見ようと雄に近づくと――不意にこちらに気が付いた相手が驚いたように大きく目を見開いた。


 ぎょっとして回れ右しようとする前に、雄竜が声を上げる。


「シグムント……」


 彼が耳慣れない言葉に困惑していると、竜ははっと何かに気が付いた風に止まる。そしてどこか荒れているような声を上げた。


「お前は自分の父親について何も知らないのか。母親から何か聞いていないか?」


 どこか険しい顔立ちを浮かべた雄に、彼はきゅうう、と声をもらしながら小さくなる。不安からか尻尾を自分にまきつけ震える彼に、雄は優しく、けれど強く言う。


「知っておるなら、教えておくれ。大事なことなのだ」


 彼は戸惑いながらゆっくり考え、そして答える。


「ぼくのめは、おとうさんのかためと、おんなじいろをしてるんだって。あかさびいろの、おめめなんだって。……おかあさんがいってたよ。ほかのことは、しらない」


 そうして、母が時々彼に言い聞かせていたことをそのまま再生する。

 ああ、と雄竜はため息をついた。


「そうか……。そうだったのか」


 雄竜は雨の中、少しの間立ち尽くしてから再び彼に向き直る。その眼はとても優しかった。


「坊、何日も食べ物をもらっておらぬのだろう。儂がたんと食べさせてやろう。出てきておくれ。一緒に行こう」


 彼は突然に事態に驚き、混乱した。


 だが、渋る様子の彼に繰り返し、雄竜が優しくおいで、おいで、と声をかけると、結局は洞穴から這い出て後につき従った。


 ここにいてもいずれは飢える。というか、すでにもう十分腹は減っていたから、結局のところ、食欲に負けたということになるのだろうか。


 ――雨の降りしきる中、そうやって彼は大きな黒い竜に導かれて故郷を後にした。




 竜は子どものころは普通、皆一様にほこりをかぶったような鈍い灰色をしており、個性が出るのは目の色だけだった。


 同じ色の大して違わない容姿をした子どもたちは、脱皮したときその真価を表す。成人した若い竜は、自分の体や羽の本当の色を知り、形を知る。


 それまでは、性別すら決まっていないその竜がどういった性質を持つのか、本人にも周囲にも、ある程度の推測しかできないのである。


 彼は悪い意味で、幼少期に他人と違った特徴をしていた。

 ほとんど白いと言っていいくらいだったみすぼらしい体の色。それは白子の特徴とよく似ていた。


 生まれてきたときに真っ白な鱗を持つ竜は白竜アルビノと呼ばれ、大体どこかしらに異常を持っている。たとえば視力が弱いだとか、たとえば運動能力が低いだとか。


 竜の世界では弱肉強食が顕著で、雄雌ともに健やかで強い肉体を持つ者が好まれる。だから白い体の子どもが生まれると、親竜はそれがきちんと動けるようになる前に、さっさと殺してしまうのが常だった。


 なんとか生き残ったとしても、周囲の態度は冷たい。


 それにもかかわらず彼がどうにか物心つくまで生き残れたのは、ひとえに母親のおかげだろう。


 母親の彼に対する扱いは邪険と言っていいレベルで、機嫌がいい時なら甘えても何も言わないが、悪いと何もしていなくても巣穴の壁までぽいっと投げ飛ばされた。


 彼は幸か不幸か、体のつくりだけは頑丈で、どうにも鈍い性質だったから、あまりそういった仕打ちを受けてもめげずに何度も母にじゃれついた。


 彼が腹を空かせたと泣いても自分が満腹なときは狩りに行こうとしなかったし、何か言ってもきちんとした返事が返ってくるのは珍しかった。


 よくよく思い出してみると、甘やかされていただとか優しくされていたとは程遠い境遇だった、それは確かだ。


 そんな親だったが、集落の竜たちが最初に彼を見て襲いかかろうとしたとき、彼女は唸り声ひとつでそれを制した。


 だいぶ後で知ったことだが、母親は相当喧嘩っ早く獰猛な性質で、おまけに滅法強かったらしい。一度怒ると大体相手が再起不能になるまで叩きのめすので、彼女を知る竜はみんなご機嫌を損ねるようなことはしたがらなかった。


 だから彼は、時々彼女と一緒に集落まで飛ぶ練習をしたり、村でちょろちょろ歩き回っても、冷ややかな目を浴びせかけられるだけだった。


 ――まあ子どもたちとの喧嘩だとか、偶然を装って転ばせられたり、小突かれたりしたことはもちろん時々あったけれども。


 なんだかんだ言って、彼女は息子を生かしてくれたし、寝床も食事も用意してくれた。それだけで、彼は十分母親に感謝している。



 母親が自分を育ててくれた――というよりは、かろうじて生きることを許してくれたと言った方が正しいかもしれない――理由、そして彼が引き取られることになった理由は、赤錆色の目のおかげだった。


 実の父親と瓜二つな瞳、それが二人の庇護者に彼を守らせる動機となった。大切な忘れ形見として。


 だが、幼い彼はまだそんな事情を知らない。

 単に食欲や優しい態度に釣られ、深くは考えずに大きな黒い竜によちよちとくっついていった。




 ――そして、いつの間にか住み慣れた土地からまったく見知らぬ土地に移り、そこで思う存分肉にかぶりついていたのだった。

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