誕生
誰かが呼ぶ声がする。それは遠くて近い場所。
『おいで。出ておいで、坊や』
彼はうっすら瞼を開け、その声に耳を澄ませる。ぼんやりと、ゆっくりと思考する。
でる? どこから?
――ここから。
彼は身震いする。それは恐ろしいことだ。ここはとても温かくて居心地がいいし、安全だ。外は危ない。本能が彼にそうささやいていた。どのくらい? 長い間ずっと、ゆったりと寝たり覚めたりを繰り返しながら、彼はこの場所で待っていた。
まっていた、ずっと。
――なにを?
そのときを。
そのとき……?
ゆらりゆらりと、ゆっくり彼の居場所がゆすられる。
『坊や、その時が来た。さあ、出ておいで』
――そのときが、きた。
こつんこつん、と音がする。誰かが外から叩いているのだ。こたえなければならない。彼は身動ぎする。今度は意志を持って、手足を動かす。かすかに、けれどだんだんと強く、自らの体を操り、もがく。彼が「外」と「ここ」を遮る固い殻との闘争を開始すると、外の誰かが彼に答えるように殻を叩きはじめた。
でたい、ここから、でたい。
彼はこみあげてきた思いのまま、頭にある角をがりがりと壁面にこすり付ける。時折休むと、励ますように誰かが彼に呼びかける。
『さあ、出ておいで』
衝動に駆られるまま、彼は必死に壁をつつく。つついては疲れて休んで、またつついては休んで、を何度か繰り返すうちに、壁がひび割れ穴が開く。そこから内部に光が差し込んだ。
まぶしい!
彼が思わず悲鳴を上げると、「外」からなだめるように声がした。
『あと少し。はやく顔を見せて』
彼はぎゅっと目をつむると、ひびにむかって角をつく。
そして、長い長い挑戦の後、彼は殻を突き破った。光の中で甲高い声を上げると、ぬっと大きな影が彼に覆いかぶさり、何かが彼の体をなぜる。ざらざらとしたそれが、彼女の舌だと理解するのにあまり時間はかからなかった。
――おかあ、さん。
おかあさん。
おかあさん、おかあさん!
彼が叫ぶように声を上げると、母親は喉の奥で低くぶうん、と音を鳴らした。
『よくやったぞ、坊や』
彼は狂ったように泣き叫ぶ。母親は彼の頭にかぶっていた殻を取り除いてやると、その顔を覗き込む。そのとき、一瞬にして彼女の瞳がさっと曇る。いったんわが子から身を引くと、彼女は厳しい顔で生まれたばかりの子供を眺めた。
その体躯は、生まれたばかりで濁ってはいたが、雪のように白く、醜く痩せている。鳴き狂うわが子を前に、母親の顔が険しくなっていく。きらり、と彼女の自慢の爪が光に反射して輝いた。
身体の白い竜の子どもは、その多くが普通には育たない。だから、そういう子が生まれたときは――。
母親の全身が緊張でこわばった。
その瞬間。ほんの一瞬の出来事。
息子が周囲の様子を何とか探ろうと小さく目を開け、すぐまぶしさに閉じる。その瞳は赤錆のような色合いだった。母親はぴたり、と動きを止める。赤錆色。鈍いその瞳の色。息が詰まるよううな感覚と共に、思い出が瞬時に蘇っていく。
気に入らない奴だった。
片目が赤かった。そちらの方だけ視力が悪く、だから錆色と呼んでいた。名前なんて意地でも呼んでやるもんかと。
呼ぶたびに、あの雄は馬鹿みたいに喜んだ。もう一回、もう一回と。
毎回、会うときは花冠を編んできたのだ。竜の編む花冠は無様で、気に入らなくていつも文句を言った。そのたびに、それじゃ今度はもっとうまくやる、と。
勝手に出て行って、勝手に戻ってくる奴だった。なのにいつの間にか、戻ってこなくなった。
どうせ自分に飽きたのだ、別の雌のところにでも通いだしたのだろうと思っていたのに。
風のうわさで聞いた。あの雄は人の槍に貫かれて、谷底へ落ちて行った。勇敢に戦って、けれど何も残らなかった。
――残っていないと、思っていた。今の今まで。
彼女は涙を流していた。今まで一度もしたことのない自分の行為に戸惑う。
足元では子竜が鳴いている。父と同じ赤い瞳の我が子が、鳴いている。
気が付くと、彼女は幼子の体を夢中でなめ回していた。彼はその感触を感じると、甘えるような調子に鳴き声を変える。彼女はもう、子の命を奪おうとは考えなかった。ただただ、甘え声をあげてすり寄る我が子に顔を寄せ、じっと目を閉じていた。
父親譲りの赤い瞳。それは生まれてきたばかりの彼の、最初の命運を分けた。