瞳を閉ざすことはできずとも
「あまり驚いているように見えませんが、意外性は感じませんでしたか?」
晩餐を共にする娘の言葉には、夕食の手を止めて苦笑――否、微笑を浮かべた。
「……驚いたよ。もちろん」
その後特にリリアナの変化には触れず、淡々と玉座に戻り政務をこなしていた魔王だったが、内心驚愕していたことは確かだ。
普段ずっと男装で過ごしてきた娘が、完全に女の格好をして出てきた。
踵の高い女性の靴は、脚を美しく見せるが、平たい靴のヒトがいきなり使おうとすればバランスに苦労するらしい。
おそらくこの負けず嫌いのことだ、隠れて練習でもしていたのだろう。
「ただ――我が騒ぎすぎない方が、お前にとっても良かったのではないかな」
一方で、女性として現れた娘を見た瞬間、どこかすとんと腑に落ちたような、しっくりと体に馴染んだような、そんな感覚を覚えたこともまた確かだ。
物心ついてからずっと、男のように振る舞い続けてきた彼女。
それはおそらく、周囲の誰も彼もへの対抗心と不満――自分も含めて――そういうものの現れなのだろうと、なんとなく理解していた。
動きやすさとか、機能や実用の問題もあるだろう。
だが、何か自分のふがいなさが彼女を窮屈の中で生きさせてしまっていること、意地を張るばかりで、家の中でさえも気を抜かせてやれないこと――親として足りてない、その自覚と罪悪感は常に在り続けた。
ドレスに身を包んだ娘は美しかった。
心の底から彼女を賛美し続ける男がその姿に貢献したのだと、目に入った瞬間心で理解した。
だから、驚きは続いているけれど、それよりも安心感のような物が大きくて、それで結果として落ち着いているような印象を与えるのだろう。
父をじっと見つめた娘は、相手が嘘を言っていないことが確かめられたのだろうか、にっこり微笑んでサラダをつつきだした。
「まあ、お父様が拒絶せず認めてくださったのは、私としても嬉しかったですけれど」
「……けれど?」
「娘心の理解が足りていないと思います。もっと派手にうろたえるべきでは」
父はきょとんと目を見張ってから、思わず吹き出した。
親子二人、水入らずの晩餐の席にしばらく老王の笑い声だけが響く。
リリアナは優雅にフォークを突き立てた葉野菜を口に運び、もっしゃもっしゃと不服そうに咀嚼している。
「そうだな……お前の母にも、よく叱られた。我はもう少し、女性の変化について言及して、褒めてやるべきだと」
「――そうでしょうとも」
母親の話題を出すと、一瞬彼女が詰まった。
無理もない。
……リリアナはおそらく知っているのだ。
かつて自分が、母と娘の生死を入れ替えられたらと、本気で願った事があることを。
愛しているという言葉は、贖罪も含んでいるのだということを。
「お前が案外……母親に似ているのだと、今日初めて知った」
ぽつ、と王が漏らした言葉にしばらく反応がない。
食器で音を立てることがない魔王親子の食卓は、会話が途切れてしまえば実に静かだ。
皿の上を一通り綺麗にしたリリアナが、ナプキンで口元を拭い、つと父親を見つめた。
彼はしばらく手と口を動かしていたが、娘がじっと見つめているのに気がつくときりのいいところで食事を中断し、穏やかな眼差しを向けた。
「お父様。ずっと言いたいことがありました」
「……何かな」
「私は、名もなき金色の化け物ではありません」
魔王は薄紫色の目を見開き、息を呑んだ。
魔王の娘は大きく息を吸い、目を細めた。
「……今日、なんとなくおわかりいただけたかなと、思う。たとえどんなに姿が似ていようとも。私とあの人は、根本的に別のヒトだ。性別が違う――それが一番わかりやすいけれど、でもそれだけじゃない」
「…………」
「私は初代魔王の生まれ変わりなんかじゃない。ただ少し、顔が似ているだけだ」
王は口を開いたが、しばらく言葉が出てこない。
ややあって娘が金色の目をそらし、コップに手を伸ばしてこくこくと喉を潤していると、ようやく彼も手元に視線を落とすことができた。
「――でもね」
渇いた喉を湿らせたリリアナは、再び父に強い眼差しを向ける。
「見方によっては、貴方の直感は正しく、また懸念も当然のことなのかもしれない」
今度は視線が合わなかったが、構わず彼女は続けた。
今日は二人きりで、と使用人や部下達には命じてある。邪魔は入らない。
ぐ、と握りしめた服の色は至高の黒――夜闇色。
黒は奴の色だ。
昔は違った。
だけど自力で何者にも染まらぬ事が許される場所に上り詰めた。
全ては、約束のヒトの隣にいるために。
この姿で現れた時の奴の姿を思い出した。
喜色満面を硬直に変え、さらなる歓喜で飛びかかってこようとした。
キツい反撃を食らって床をのたうち回ることになったが、まったくめげた様子を見せなかった。
なおも可愛い綺麗だ素敵だと、並べ立てられた方がいたたまれなくなって強制的に口を閉じる魔術を投げつけてやるまで、女姿のリリアナを褒め続けた。
――大丈夫だよ、リリアナ。俺はずっと側にいる。
こつんと額を合わせあって、互いの温もりを感じた。
……ちょっとだけもう少し激しく温もりを交換しあっていた時の事を思い出しそうになって、デコピンで追い払った。
恨めしそうな涙目で見てくる顔の前に、ずいと手を出して。
――何をしている? お前が私を導いてくれるんだろう。
そう差し向けたら、少しだけきょとんとしてから、真っ白な歯を見せて笑った。
玉座で父を迎えた瞬間、父以外の誰もリリアナと、リリアナの隣に侍る男と目を合わせられずにいるのをぐるりと見回し、彼女は内心鼻を鳴らしていた。
(ほら、やっぱり。私の隣は、一人だけじゃないか)
保守派の貴族達を出し抜く形での強行突破だった。必ずこの後、何かしら嫌味や当てこすりはあるだろう。
けれどもう、彼女が育てた小さな竜以外、誰も王配に押し上げられる事はなく、また自ら名乗り出ることもできないだろう。リリアナは確信した。
(だから。今も大丈夫。少しだけ私自身になっても、大丈夫――)
ともすれば震えそうになる手を握りしめる。
そのままなんでもない、と口走りかける唇に意思を宿す。
もう一度深呼吸して、金色の目を父に向けた。
「なぜなら、私は」
「いずれ貴方を殺すからだ」
「貴方が自分の父親に、そうしたように」
「貴方はそれが怖かった。だから私が怖かった。父を殺したとき、いずれ自分が戻ってお前に同じ事を返す。その言葉がずっと忘れられなかった」
「――だから。娘の私を愛せなかった」
「私も娘として愛されるはずがないと思っていた」
「でも――やっぱり、私は女なんだ。女であるしかない」
「お父様」
「私はきっと、いずれ貴方を殺すだろう」
「私が魔王になるために」
「許せとは言わない。憎むのも当然だと思う」
「ただ――」
「もう、その理由を、初代魔王にしないでほしい」
「私はこんなにも、あの人とは違うんだから」
長い、長い沈黙があった。
瞬きすらはばかられる、何も誰も動けない緊迫感。
リリアナは奥歯を噛みしめて、じっと父を待った。
激怒するか。
失望するか。
――それとも、なかったことにするか。今までの彼のように。
どのぐらい時間が経っただろう。魔王がゆっくりと顔を上げた。
薄紫色の目、それを覆う表情筋が、くしゃりと歪んだ。
「心を、読んだのか」
彼は泣きながら笑うような顔を作っていた。
おそらく、本人も自覚しないうちに。
リリアナは瞬きしてから、ふるふると首を振った。その頭の重さを感じさせない仕草は、妙にあどけない印象を残す。
「……調べたんだよ。色々と。後はなんとなく――直感。心を読める? 違う。そもそも私には、相手が本当に何を考えてるのかわかる力なんてない。ただ、魔力の流れの扱いは多少慣れているから……それでなんとなく、相手が見えることもある、それだけだ。魔力の流れは、内側の流れに作用されるから。きっと初代魔王もそうだったはずだよ。私たちの誰も、夢魔みたいな正確な相手の読心ができるわけじゃない――」
「そうなのか?」
思わず口から漏れてしまった本音に唖然としてから、魔王はゆるやかに頭を振る。
「そうなのか――お前にも、わからなかったのか。もしかすると、あの人にも……」
深く重たい息を吐き出して、どっかりと椅子の背もたれに彼は体を預けた。
「……ずっと。ぼく一人が劣っていて、置いていかれるような気がしていた。実際、僕がどれほど苦心しても、あの人の全盛期には届かない。それは事実だ。現に魔王城を、一人で維持できなくなっている」
老いた王がことさら疲れた表情を浮かべ、酷く痩せて軽く見える。風が吹けば飛んで行ってしまいそうだ。
実際、ずっと彼の本質とはそうだったのかもしれない。
ただそれを、見栄と意地で隠し通し、偽りの優秀さを演じ続けていただけで。
「死ねと命じられた異母弟達のため――彼らの命を救うには、もう父親を先に死なせるしかない。そんな美しい建前を掲げてはみたけれど、結局はぼくが耐えられなくなっていたんだ。あの人はずっと、僕ではなく、僕の母を見ていたから」
さまよう薄紫色の瞳が、遠くの金色を見た。
「――だから殺した。そうしたら、次の魔王なんかになってしまった。いや? なるつもりだった。立派な王に、誰からも褒めそやされる男になって――それでぼくは、あの人に、よくやったと、頭を撫でてほしかった。……ただそれだけのこと。それだけのことだった……」
かつて青春時代の、そして青年期の彼が追い求め続け――つかみきる前にかき消してしまった幻影。
いつも心は笑ってもいないくせに、顔に笑みを貼り付けていた。
母親と同じ瞳だ、と目のことばかり賞賛した。
息子のことなんか何一つ興味はない。
そのくせ余計な口出しばかりはしてくる。
そうだと思っていた。
あの日、心臓を貫いた瞬間、愛おしむように抱きしめられるまでは。
(これでお前が、少しは満足すればいいのだが。残念ながらそうはならない。お前は本当にいい子だ。だから苦しみ続けるだろう……)
血塗れの手のひらで、なだめるように髪をくしゃくしゃと撫でられた。何度も、何度も。
(哀れな子よ。お前は一生この父の幻影からは逃れられぬ。けれど、ゆえに俺はお前を誰よりも深く想おう)
(さあ、とっておきの呪いをくれてやる。受け取れ)
(――愛しているよ、ゼブル)
父の手は幼い頃と変わらず大きく、不器用に髪を梳き続け――そしてその体から力が抜けて、全てが粉々に砕け散った。
あの日からずっと、時が止まったままだった。
空をつかんだ手を力なく下ろせば、そこにいるのは娘だ。
自分と同じように親の視線に苦しみ、逃避し――それでも自力で踏みとどまって立ち上がり、そして次を継ぐと宣言した。
――そうだ。こんなにも、違っていた。
なのに過去の思い出に囚われ続けたのは――瞼の裏からどうしても金色を追い払うことができなかったのは、自分の方だ。
まぶしい物を見る目で改めて娘を見つめれば、彼女は静かに席から立ち上がった。
「――お父様。私はいずれ――そう遠くない未来、きっと貴方を殺すだろう。貴方はもう、魔王としては立てない。今まで張り切りすぎたせいだ。だけど不死の体がある限り、弱ったところで解放もされない。私は貴方を終わらせる。そして次の魔王になる。貴方を憎んでいるからじゃない。私が生きていくために――そして私の伴侶を、魔界一の男にするために」
言い切って、言い終えて、吐き出して。
いつの間にかびっしり汗だくになって肩で息をしていた彼女は、ごくっと喉を鳴らした。
すると向かいの魔王も目を伏せ、ゆっくりと瞼を下ろした後、立ち上がる。
まだ皿は残されていたが、それ以上腹に入れるつもりにはなれなかったのだろう。
彼は彼女を無視して部屋を出て行く。
そのように、一瞬思えた。
しかし、出入り口に向かう途中、娘の隣の位置で足を止めた。
「――許す。普通のヒト種よりは長いと言っても、ただ一度きりのお前の人生なんだ。好きに生きなさい」
そう言い残し、彼は部屋を後にする。
残されたリリアナは、しばしの間食卓に手を突っ張ったままだった。
ぐっと噛みしめられた唇の横を伝った雫が、ぽたりと一滴落ちて――すぐに消されて、誰にも見えなくなった。




