魔王の帰還 皇太子の旅立ち
半月ほどの日程を経て、当代魔王が王城に戻ってきた。
久々の視察では、魔界各地を飛び回り、随分と忙しくしていたらしい。
老体を案じる声もあったが、むしろ彼は普段王城にいるときよりも、よっぽど明るい顔色で過ごしていた。
王城は内部に存在するヒトビトの魔力を吸い上げる、巨大な魔道具だ。
最も大きなリソース源を担うのは魔王自身である。玉座に座り続けていれば、自然と体の中から魔力が抜き取られていく仕組みとなっている。
これを作ったのは初代魔王だ。無限の魔力を内包する彼が、側近く侍るヒト種を悩ませる自らの有り余った力を有効活用させるべく城を作り上げた。
しかし、末期まで全盛期の力を保ち続けた初代と異なり、二代魔王は念願の子に恵まれた後、急速に体を衰えさせている。
初代魔王は、城主が衰えた際の城の運用方法は全く考慮していなかったらしい。
二代とて、ここまで露骨に弱り始めたのは万に近い長い年月の中のつい最近百年ほどのことだ。今から城の魔術に手を加えるにしても、計画を練っている間に絞り尽くされてしまう可能性の方が遙かに高かった。
今回、視察に出るに当たって、城の魔力管理は全て皇太子リリアナに任せてきた。
おかげで、損なわれすぎていた自分の体の調整ができたのだろう。
長らく城に引きこもる生活を続けていたが、今後はこうしてたまに外に出るのも悪くはないのかもしれない――いや、むしろ外出して、減りすぎた分を取り戻す必要すらある。
そんなことも、魔王は今回ひしひしと感じていた。
ままならぬ状態になっていく体に、恐れや焦りを全く感じないかと言われれば、嘘になるだろう。
だが、心は凪いでいた。
少し前に、娘の伴侶候補である男を見てからは、特に。
盛大なパレードを経て、わらわらと群がっている見物人達に笑顔で手を振り、再び地上を後にする。
どこへ行っても、彼に向けられる言葉も態度も温かった。
そのことに改めて感謝すると共に、笑顔の奥隠された敵意を探さずにいられない己のさがも身に染みた。年を経て、娘に次を任せようという頃合いになってすら、未だに周囲の目を恐れているのだ、と自嘲もする。
船の中から空を見上げれば、出て行ったときと変わらぬ姿が空にあった。
巨大な城から、帯のような物が伸びてくる。もう少し近づけば点の集合体に、更に船が接近すれば、それは迎えの騎士達の隊列だとわかった。
出迎える中になんとなく視線を流した老王は、レモン色のマントをはためかせた竜の若者がいないことを確認する。
性急に過ぎる、自覚はあった。
今までの、よく言えば慎重、悪く言えば鈍重に過ぎる二代魔王にしては、考えられないような突発的な計画だった。
だが、なぜか確認があった。
ここで止まってはいけない。この勢いを殺してはならない。
――変化を恐れるな。二度と過去に戻ることができぬのなら。
同じ日常を繰り返す事を至上としてきた男の心に、ふとそんな言葉が浮かんだのだ。
若者がもし、今回事を果たせていなかったのなら、彼はこのパレードで魔王に付き従い、それが最後の仕事となるはずだった。
故郷に戻り、普通の竜として――あるいは思い出のみ縁に無為な長い時間を過ごす、虚無の生き物となっていたのかもしれない。
だが、ここに若者はいなかった。
魔王の胸に、喜びとも寂しさとも、なんとも言いがたい感情が浮かぶ。
――そうか。お前はちゃんと、大人になることができたのだな。
だが、言祝ぐ言葉が素直に胸に浮かび、それで少し老人は安堵を覚えたのだった。
城門に足をつけた際、わずかな違和感に首を傾げた。
だがそれは、おそらくほとんど離れたことのなかった城を珍しく空けていたことによるもので、取るに足らないと最初は考えた。
どうやら気のせいだけではないらしい、と気がついたのは周りのヒトの反応だ。
彼らは当代魔王の帰還を心から喜ぶ一方で、陰りのようなものを顔に心に浮かべている。
(特段、問題は起きていないように思うが……)
少なくとも目視した範囲では、悪化している部分はないように思える。
リリアナはきちんと城主の勤めを果たし抜いたらしい。
もし魔力が足りていないだとか、配分を間違えただとかが起きていれば、そもそも城は高度を保つことができない。
しかし鎖に繋がれた浮島は、むしろ少し下がり気味だった位置を上げて、安定して飛んでいる。
……まあ、とは言え、城の問題はただ建造物の形を維持できればいいというものではない。
むしろリリアナが問題を起こすとしたら、間違いなく人間関係絡みだ。
父親より人付き合いが幾分か過激な娘のこと、この短期間の間に色々引っかき回す事なら充分できただろう。
魔王とてある程度覚悟の上で城を離れている。
しかしその推察を進めるにも、違和感が残るのだ。
大体において、リリアナが新しいことを始めようとすると、貴族達は反発する。
城下に勝手に遊びに行くだとか、そこから自分の部下を引き抜いてきたとか、竜族の男を優遇しているとか――今まで何か彼女が起こす度、ヒトビトは憤慨し、憤怒の表情を隠しもせず浮かべた。
父は彼らの赤く染まった顔と怒らせられた肩を見ただけで、次の言葉が「恐れながら陛下」で始まることを予感し、こっそりため息を噛み殺していていたのだ。
それに比べて今回は――漂う空気が、怒気にしては大人しい。
どちらかと言えば、これは困惑に近いのではなかろうか、と感じる。
(……おそらく成人の儀を済ませてはいるのだろうが)
貴族達の感情を逆なでる出来事があるとしたら、第一の心当たりはそれだ。しかし、てっきり「あのけだものに特権を与えたのですか!」と老人達筆頭に取り囲まれることを予想していたのだが、むしろ年配者など恐怖すら醸し出しているではないか。
これはどういう意味なのか。周囲を振り回すことに定評のある娘が、一体今度は何をしたのだろう。
と、概ねの不安、少しの期待を胸に玉座の間に戻った魔王は、赤い絨毯の終点に、城中を狼狽させた理由を知った。
自らも思わず、あんぐり口を開けてしまう。
玉座に座っていた娘は、父とその取り巻きが何度も自分を確認する態度を充分見守ってから、くっと唇の端をつり上げて笑った。
確かにあの表情は、皇太子リリアナが良からぬ事をなすとき、決まってするものだ。とてもよく見覚えがある。
だが、違う。今までの皇太子ではない。
いかにも座り心地の悪く固い椅子――そこから立ち上がり、娘は顎をくっと上げた。それに伴って金髪がさらさらと流れ、頭の四本角がどこか威嚇するかのように掲げられる。その顔にはほんのりと朱が乗せられていた。――化粧だ。かなり自然だから注意しても見過ごしかねないが、唇の赤さは昨日までの彼女には明らかにないものだった。
胸元は首まで襟があるが、背中は大胆に腰の辺りまで開いている。その背からは立派な金色の翼が生え、誇らしげに羽ばたく。
尊大に差し出された手には、二の腕までを覆う手袋がつけられていた。それを当然のように、一人の男が受け取る。
黒い髪に短い角を生やした男の肌は浅黒い。たなびくマントの色は黄色――彼女の色だ。黒と金が、まるで一対、いや一つの塊のように動き出す。
リリアナの歩み出す足が床を叩く度に、コツ、とヒールが鳴り響いた。引き寄せられるように下に目を下ろせば、普段は平たい踵のブーツ奥にしまわれているはずの足の形がよく見えるではないか。
そして彼女の細く、それでいて女らしい丸みを帯びたラインを、夜闇色のドレスがまとっていた。スカート部分は足に沿ってくるぶしの辺りまで流れ、歩くとひらりひらり、蝶が飛ぶように裾が揺れる。片方の深いスリットからのぞく引き締まった太腿とふくらはぎに、ごくりと誰かが生唾を飲み込んだ。
男が途中で手を離すと、彼女は一人で魔王の前までやってきて、すとんと膝を落とす。
「よくぞお戻りになられました、父上」
にっこり笑った笑みは、女のものだった。
じわりと、魔王の目の奥に熱い物がこみ上げる。
――娘が母親と同じような微笑みを浮かべられるのだと、この時初めて父は知った。




