懺悔は誰がために 中編
ぽつり、と一声漏らした後、老王は再び黙り込んだ。
ティアは焦らず急かさず待っていた。
最初の言葉が呼び水になったのか、今度の静寂が破られる時間は短い。
「リリアナが生まれたばかりの時……我はあの子を愛せなかった」
子竜は少し返事に迷った。
既に聞かされていた話であるが、内容からしてタブーである話題であることは鈍感な男にもなんとなく推し量れる。
しかし、相手が話題に出したと言うことは自分もおそらく言及していいのだろう。
そして彼のモットーは素直に生きる、である。
小難しい世渡りの嘘なんて考えられないからそれしかやれることがない、とも言えるが。
「知っています。聞いたことがありました」
赤薔薇騎士団長ウェスリーから。
その後、リリアナ本人の口から。
彼はもう、彼の知らない時代のリリアナの出来事を聞かされている。
一度言葉を句切ったが、魔王の応じる様子はない。聞いているのかどうかもはっきりせず、考え込んでいるようだ。
そのまま黙っておくべきか、もう少し付け加えるべきか。
非常に迷った後、子竜はそっと、呟くように言った。
「母親殺しだから、と」
「あの子がそう言ったのか?」
今度は素早く反応があった。
子竜が無言で頷くと、王は深いため息を落とす。
「……エバは。良き女性であった。我にはもったいないくらいの……月の光のような髪と目をしていて、柔らかく、いついかなる時も、穏やかで、優しかった」
一瞬何の話が始まったのかとぽかんとしかけた子竜だったが、比較的すぐ、リリアナの母親であり、かつての王妃であった人の名前がエバ=ダリアであったことに思い至る。
娘があまり母と似ていないというのは、本人も周囲も度々触れていたところだろうか。
おそらくは一番近しかったのであろう魔王が懐かしそうに目を細めて語るその人物像を聞いていると、なるほど確かに印象が全く違う。むしろ対局にあるように思える。
リリアナ信者第一号である子竜ではあるが、一方で彼女が世間的にどう評価されているのかという部分についてもこれまでの人生で多少理解している。つもりである。
というか実際の経験でもリリアナはいわゆる「穏やか」で「優しい」女性ではないだろう。
穏やかな人間なら子竜やその他が何かやらかしても罵り言葉を上げないだろうし、優しい人間ならこめかみに青筋を浮かべて魔術を放ってきたりもしない。
いや子竜としてはそんな所もただのご褒美でしかないので、彼女の攻撃的な態度も大いに結構なのだが、それはそれとして機嫌の悪い時のリリアナがなかなかの暴君であるという意見に否やを唱えるつもりもなかった。
さて何か察するような顔で黙り込んでいると、老王は静かに懐古する様子から口を歪め、自嘲の笑みを作り出した。
「確かにそれもある。母親の命と引き換えに生まれてきた。我は――ああ、そうだ。確かにそれが、嫌だった」
子竜は立ち尽くしていた。今度こそ、一体どんな顔をするのが正解なのか全く見当がつかない。
親なのに、産ませる決断をした相手に、いざ産まれてくれば拒絶されるなんて理不尽だ。
リリアナの心境を慮り、怒るなり彼女に同情するなりすればいいのだろうか。
それも違うような気がした。
何しろ子竜は彼女ではない。彼女の心はわからない。だから勝手に彼女になったつもりで何か感じるのは筋違いであるように思える。
加えて、子竜には親子という関係が未だ解せない。
彼の母は、父親の身代わりとして息子を育てたが、結局最後は育児を放棄し嵐の中に散った恋人の幻影を求めて自ら去って行った。
そして彼の父も、息子の存在なんてつゆ知らず、勝手にあっさり儚くなっておきながら未練たらしく母の尻を追いかけていた。
親代わりであったテュフォンは優しかったが、一方で何をせずともよい、というのはどうでもいい、と言われているのと同じように感じる部分もあった。
師父ウェスリーはここぞという時には寄り添ってくれるが、普段は放置し傍観している。
どれが親らしい? どれが良い? そんなものはわからない。
竜としても、人としても、かなり特殊な事情で育ったティア=テュフォンだ。当人にその自覚はなかったが、後々振り返ってみたり知人に言われたりすると、確かに自分の出自はなかなかひねくれている、と納得する。
他の親子の在り方や、親の子に対する、子の親に対する言葉などを見聞きしていると、なるほど世間の親子とはどうやら特別な絆――竜の血縁を見分ける力とはまた別の何かがあって、それがあるのが当然、というのが一般的な認識らしい。
子竜にはそれがわからない。彼にとっては親だって全員他人だ。
確かに実の父親に出会って、竜としての本能を知った。嬉しくなかったと言えば嘘になる。
だが……だが、きっと。違う。彼は親に子供としての期待をしない。親らしく理想的に振る舞えとは、たぶん思わない。そういう概念がない。
起こることをそういうものとして受け止めてきた。そこに何か求めることなんてなかった。
リリアナと出会うまでは、こうありたいを口にする必要なんてなかった。
――だから。
「そう、勝手だ。本当に勝手なことだが……あの子はあまりにも、父に似ていた。……我がけして許すことはできなかった相手に」
魔王の言葉が、理屈が理解できない。
言葉として頭に入っても、どうしてそんな風に考えなければならないのかがわからない。
「初代魔王に似ていたから、なぜ嫌う理由になるのですか」
素朴な疑問はするりと口を突いて出た。
はっとしたが、もう遅い。おそらく言ってはいけない類いのものだったのだと思う。少し緩んでいた空気が再び緊張を帯び、圧を放った。紫色の、水晶玉のように透明な目がこちらを鋭く射貫く。
それでも子竜は引かなかった。ぎゅっと拳を握りしめ、真摯に愚直に相手を見返す。
これまでずっと、そうしてきたように。
「ずっと、不思議でした。貴方は父と仲が悪かったと聞きました。リリアナは祖父に似ていると聞きました。でも、なぜそこがつながるのですか。関係ないではありませんか」
父を嫌うのはわかる。
リリアナが祖父と似ているのも事実として受け止められる。
だからリリアナを嫌う。それがどうしても子竜にはしっくりこない。
加えて、今はそれを乗り越え溺愛しているのだと言う。
(――ああ、そうか)
対峙して、少しだけリリアナの心情がくみ取れるようになった気がした。
彼女がなぜ、父親に対してあんな皮肉を隠そうともしない態度なのか。
この男もまた、つかみ取れないのだ。
ルシファーとはまた違う……いや、真逆だ。
「それに、許せなかったのなら。なぜあっさり、掌が返せるのですか。俺にはわかりません。貴方は立派な人に見えるのに、時々酷くそうではないことをしているようにも思えます」
そう、そういうことだ。
誰に対しても外面をよく見せようとしているから、本人が見えてこない。
今度も、二度目だからだろうか。相手が落ち着くのは一度目よりもいささか早かった。
そして更に徒労感の滲んだ様子で、彼は椅子に深くもたれかかり、息を吐き出す。
「そう見えるのか。お前からは」
それから笑う。今度も引き続き苦笑いなのだが、先ほどよりは優しい目をしているように感じられた。
「全く、呆れた……本当に嘘を吐けない男なのだな」




