心ない、ということ
この男の態度を鷹揚、と表現するのはややためらわれた。
もちろんけしてせかせかしているとか、不機嫌な時のリリアナのようにどこかイライラしている、というわけではないが……高貴なヒト種特有の上品さと余裕がある、というのとはまた、少し違うような気がするのだ。
それがこの男の謎の覇気のなさから来るのか、ではどういう表現が適切かなのかまでは言葉にできないが……なんだろう、この、漠然とした、それでいて確かに存在する不快感は。
今一度、ティアはちらりと周囲を見渡す。礼拝堂の中は静かだ。ともすれば自分の呼吸や心臓の男がうるさく感じられてしまいそうな程に。
少し離れた場所の近衛達は皆眠りこけていた。
一応王位継承の資格を失っているとは言え、仮にも王族直系の警護を任せているにしてはあまりに無責任な姿だが、これは今現在ティアの隣に座っている男、すなわちその警護対象本人が意図的に作り出している状況らしい。
その隣の男とは、(本人曰く無意味な)祈りを祭壇に捧げている大神官であり、魔王の腹違いの弟かつ次期魔王の叔父にあたる人物であり――そして子竜にとって最も重要な意味を持つのはこれだが――リリアナの成人の儀の相手役の最有力候補である、ルシファー猊下そのヒトである。
今回、一時的に王室護衛隊に加入し、猊下の警護をすることで、ルシファーという男がどんな人物なのか、見極める――そういう意図が、ティアに全くなかったとは言わない。
むしろあった。ものすごくあった。それはもう、確かにルシファー本人に指摘される通り、下心満載でやってきた。
――が。いざそれでは本人と気兼ねなく話せる状況になって、何に躊躇しているのかと言うと、相手の底の読めなさ、というのだろうか……とにかく全くもって度しがたく、理解不可能なのだ。あり得ないことや、おかしな情報の組み合わせに混乱している間に、場がどんどんと進んで言ってしまう、というか。
(……どうしろと)
何事も主導権を握るのが大事だ。子竜の場合特にそれは戦いに置き換えて考えると理解しやすい。攻めるにしろ受けるにしろ、自分の思う形に持っていった方が最終的な勝利を収める。勝負事とはそうしたものだ。
故に、ルシファーのペースに完全に流されている現状は、まこと、よろしくない。
でもこれ一応殴っちゃいけないし警護対象だしついでに敬語の対象でもあるんだよな、じゃあこの場合どうすればいいんだろう何が正解なんだろう、頭脳労働は担当じゃないんだがな、でもリリアナの話題を出されて引っ込むわけにもいかないし。
等とぼーっとしそうになる頭をなんとか働かせて、とりあえずこちらからもレスポンスを返してみる。
「……話をしようと、言われましても」
むしろ話しかけてきたのはそっちなんだから、自分と話をしたいのもそちらなのではないか。
要するにネタがないのでとっかかりを用意しろ、先に絡んできたのだからそれぐらいはしてもいいだろう、という意味を込めての言葉なのだが、ルシファーは動かなかった。
あまりにも動かないなら、こちらもこうして大人しく座っている必要なんてどこにもないのではないか? という所までようやく思考が巡らされて、よしそうと決まればこんな不毛で眠たいことなどやめよう、と子竜が今にも立ち上がろうとしたその瞬間。
ゆっくりと、聖職者の首が動いた。
思わずびくぅっと身体が跳ねる。油の差されていない扉を無理矢理こじ開ける動きにも似た動作は、何とも見ていて気持ち悪い。身体のぞわぞわが強まる。――嫌悪感だ。生理的に気持ち悪い、という感覚を今初めて子竜は知った思いである。
見守っていると、眠たげな色違いの二つの目はゆっくりと時間をかけて瞬きをした。
虚ろな緑と金に自分が映っているのを見て、ティアはなんとなく腕をさする。
しかし相変わらずあちらが何か言うつもりはないらしい。
たぶん、子竜が動こうとしたから反応した……それだけのことなのだろう。
もう一度催促するよりは、自分から直球で切り込んだ方が早い。そう判断した子竜は、ズバリ相手に一番聞きたかったことを口にしてみた。
「貴方はリリアナ様のことを、どう思っていますか」
「可愛い姪だ。次期魔王としてふさわしいんじゃないか」
案外、を越えて驚くほど、返事はあっさりとしていてなおかつ素早かった。
一瞬言われた方が、返されたという事実に困惑して立ちすくむほど。
それ以上あちらが何か付け足す様子はない。
ならばと子竜は立ち直るなり、次に言いたかったことを口に出す。
「俺は、リリアナ様と結婚したい」
「そうか。別にいいんじゃないか?」
ざわり、とまた身体の奥が反応する。
嫌悪感とも違う……違和感だ。今子竜の中で強まったのは、違和感の方。
なぜだろう。今ルシファーが答えている内容は、子竜にとって悪くない話、というか考え得る答えの中でも最適解に近い形なのだろう。これを聞いて安心することが、本日のベストな結果と言ってもいいかもしれない。
それなのに、なんだろう。この、何かが違う――まるで、間違い探しをさせられているような、感覚は。
子竜は虚ろなガラス玉のような色違いの双眸を見据えつつ、ゆっくりと言葉を続ける。
「でも、あなたはリリアナ様の儀式の相手候補筆頭と聞いています」
「そうなのか」
「……興味がないのですか?」
「何に?」
「リリアナ様に」
「ないわけがなかろう。数少ない血縁者なのだぞ」
被せるわけでも早口でもないが、やはり応答は早い。迷ったり、何かを考えている間がない。子竜が問うと、その直後からさらさらとルシファーは答えを返してくる。
「リリアナ様の幸せを願っていますか?」
「当然だ」
「俺が王配の座を望んでいると言ったら。どう思いますか」
「いいんじゃないのか」
「でも多くの魔人は竜が自分たちの上に立つことが気に入らない。だから俺よりよっぽど、あなたの方が適任だと言われている」
「そうなのか」
だん、と鈍い音が響き渡った。
ティアが目の前にある、祈りの本を置くための机を殴りつけた音だ。
めり込んだ拳をルシファーは何の感情も見られない目で追って、それからまたゆっくりと元に戻す。
誰かが駆けつけてくる様子はない。だがもはやそんなことに構っている段階ではなく、子竜の頭には順調に血が集まりつつあった。
彼は短気な方だろうし、怒る時は大体あっという間に沸点に到達して手が出る。魔王城での生活が長くなっている分、手が出る率は抑制されているが、基本的には思考より行動が先に動く男だ。
それが今初めて、徐々に怒りが深まっていく、という経験をさせられていた。ふつふつと身体の中の熱が静かに高まっていく感覚。自分は怒っているのだ、という思考が、机を殴る直前に回ってきちんと理解できていた。子竜は瞳の奥に怒りの炎を燃やし、器物損壊というわかりやすい行動を示してからルシファーを睨みつける。
「さっきから、ずっと。俺を馬鹿にしているのか?」
「……そんなことはないぞ? 余はお前とお喋りがしたくてこの場を作ったぐらいなのだぞ? お前をわざわざ不快にさせてどうする」
「嘘だ。あんたは何一つ、本当の事を喋っていない。思ってもいないことばかり口にする。大嘘つきだ」
子竜が叩きつけた拳を上げると、パラパラと残骸が落ちる。
男はまたゆっくりと瞬きをした。子竜はすっと息を吸う。
「どうでもいいと思ってる。俺のことも、あっちの近衛のことも、あんたに関わるいろいろなことを――そして、リリアナのことも! あんたは全部、どうでもいいと思ってる。なのになんで、そんなすぐわかる嘘を吐くんだ?」
子竜の怒りを止める物があるとすれば、それは最初から芽生え、怒りと共に育ち、今もなお心の奥でくすぶり続けている違和感だ。
そう、この男は、きっと他人に興味がない。そして――これは推測でたどり着けても信じがたい結論ではあるが、刺激がないということに対して、おそらく苦を感じない生物なのだ。
興味がないからこそ、平気で近衛達を眠らせたりするし、子竜に話しかけておいて自分は何も話さないし、一日中礼拝堂に座っていても平気な顔をしている。
およそヒトが当然備えているべき物事への感受性というものが、欠落している。
それがティアがルシファーに感じた嫌悪感と違和感の正体であろう。
そしてなお、気持ち悪いのは。
それが、その、ルシファーの世界に対する無関心さというものが、子竜ほど単純な男にすらこうやって接すればすぐにわかるものなのに。
本人が何の悪気を感じる様子も、まして子竜を貶めてやろうとか、意地悪をしてやろうとか、そんなこともなく。
――ただただ、その場を取り繕うためだけに、見え透いた嘘を吐く。こんな相手は初めてだった。
ヒトは竜とは違う。嘘を吐く生き物だ。
けれど今まで子竜が接してきたヒトとこの男の嘘は、性質が違う。
彼らは自分をよく見せるためにか、あるいは自分に利益をもたらすために――時には、誰かのことを思いやって、嘘を吐く。それでいて、自分で間違っている、事実と違う、という意識がありながら嘘を吐くことを、本能的にヒトは嫌がる。バレればばつの悪そうな顔をするし、何かしらこう、後ろめたさのようなものが態度に出るのだ。
もちろん、意地悪であえて嘘を吐き、それに騙される様を見て喜ぶ、そういうヒトだって特に魔王城にはたくさんいる。
それでも。違うのだ。彼らの嘘と、この男の嘘は、根本的に違う。
ルシファーの吐く嘘には、理由がない。子竜を傷つけようとか、リリアナのご機嫌をうかがうために取り入ろうとか、そういうことですらない。理由がないから、嘘がばれても失敗したとか思わないし、恥じ入る事もない。
ただ、何も考えていないのだ。何も考えないから、こうもたやすくヒトの心を踏みにじるような真似ができるのだ。
――男は。
この、奇妙な男は。
子竜が怒りを募らせつつ、全身に巡る嫌悪感とも戦っている様を、じっと眺めていた。
まるで暇つぶしの鑑賞でもするかのように。
そしてそのまま、口を開いた。
「残念だ、どうやらとても嫌われたらしい。お前とは少しは気が合うかと思っていたんだがなあ」
一緒にするな、という言葉を子竜は飲み込んだ。言えば何か、自分が本当に堪えている感情が吐き出されてしまいそうだし、この男に真面目に反応するのがどれほど無駄なことか、わかってきたのかもしれない。
ルシファーは片手を上げた。すると、子竜によって破壊された箇所が音もなく直っていく。
ぞっ、と子竜は自分の血の気が引く音を聞いた。
これほど無気力で理屈と信念を持たない男に、誰にも悟られることなく周囲のヒトの意識を刈り取り、破壊の痕跡を消してしまえる――そのための魔術や魔法を使うことに一切躊躇がない、それだけの魔力がある、という事実。
それはとても恐ろしいことに思えた。
つまらなそうに修復を行った後、ああそう、とルシファーは欠伸を噛み殺して言った。
「それと、さっきの言葉は訂正させてもらおう。他の事はなるほど、興味がないかもしれない。けれど、余は兄上のことについてだけは、これまで一度も嘘を吐いたことはないし、これからも吐くつもりもない。本心から敬愛している。魔界で最も偉大な魔王だ」
「だから、リリアナのことは憎んでいるのか」
「憎む? なぜ? 余はただいつも、ほんの少し――そう、ほんの少しだけ、あの女が遠くに行ってくれないかなと思っているだけだ。だって余が兄上の近くにいるのに、邪魔だろう?」
きょとんとした顔で。本当に、心の底から、相手の言っている事がわからない、不思議で仕方ない、という顔で。
そううそぶく男に、ティアは今度こそしばし絶句した。
「兄上はどうして子どもなんて作ったんだろうなあ。それでも産まれたばかりの様子では興味がないかと思っていたのに、いつの間にかすっかりこのザマだ。……ああ、もう元に戻っていいぞ。他の近衛達も、折を見て起こす。安心せよ、お前が余と今日こうしたことがあったと言っても誰も信じない」
近衛騎士が言葉をなくしているのをいいことに、男は勝手に呟いたかと思うと、背を向けた。もう用はない、だからあっちに行け、とでも言うように。
「どうして俺と話をしようと思ったのですか」
思わず、だろうか。身体を震わせる子竜の口から、疑問の声が漏れた。ここまで徹底的にどうでもいい、という態度を隠しもしないくせに、なぜ、他者に偽装工作をするような手間までかけて、この場を整えたのか。
無視されるかと思いきや、意外とまたすぐに答えはあった。
「退屈だったから。兄上のことを考えていれば暇なんていくらでも潰せるが、たまには余にだって刺激が必要だ」
そしてそれきり男は黙り込み、二度と子竜に興味を向けることはなくなった。
間もなく、他の近衛達が意識を取り戻す。
彼らは皆自分が一瞬だけ朦朧としていたと思ったようで、己を恥じるように俯いて咳払いなどした後、直立不動の勤務状態に戻る。
子竜もまた、何も起きていない、という顔で彼らの隣に立っていた。
たった一日、いや数時間――この、ほんの数分で。
なぜルシファーという男がリリアナから最も嫌われ敵視されているのか、身を以て思い知らされた苦い経験と感情を噛みしめながら。




