竜の試練
テュフォンは彼を誘って、北へ北へと飛んでいる。
次第に空気は冷たくなり、上からうっすら見える地上の眺めも徐々にさびしいものへと変わっていく。
――北部。彼の生まれ故郷にして、魔界で最も厳しく貧しい土地。
リリアナが教えてくれたことがある。
「北部は罪人や反逆者たちの土地だ。夏季の昼間は身が焦げるほど暑く、冬季の夜は息が凍るほど寒い。生きていくだけでも大層な労力がいる。
だからこそ、どうしようもないやつらを囲っておくのにはいい土地なんだけどね。それでも定期的に反乱がおきるけど。
まああそこの連中は大体頭のねじがどっかしら飛んでいるからな。魔界の中でも飛び切りいかれた奴等の掃き溜めさ。
――そういえばお前も、北部の出身だったな。テュフォンは北で拾ってきたって言う話だし。
北部生まれの竜はみな気性が荒いが、弱い個体はすぐに死んでしまうから、辛抱強くタフで魔力に優れることで有名だ。お前の並はずれた頑丈さは、だからそのせいなのかもしれないね。
だけどお前、北部生まれなんだとしたら恐ろしく丸い性格だな。そこだけは継がなかったのか?」
からかうように言うリリアナに、僕だって怒るときは怒るもん、と頬を膨らませて笑われた。そんな記憶が蘇って、彼の心を温かくした。
やがてテュフォンは目的地にたどり着いたらしく、彼を伴ってぐんぐんと降りていくと、ある崖の前で停止する。
「いいか、ティア。儂もお前も竜だ。だから儂がお前に教えられるのは竜の事だけだ。お前が目指す相手が必要とするものとは異なるかもしれぬ。
だが、根本とするところは変わらん。
生きるのだ、ティア。生き延びよ。それが今日からの一番の課題だ」
テュフォンはそう宣言し、まずはこの岩場に巣を作れと言う。
相応しい場所を見つけ、相応しいものを集め、自分でやるのだ、と。
「何かしたいことがあるとするな。そのために、いったい何が必要なのか考えよ。
何が足りていなくて、何があるのか。何ができて、何ができないのか。――生きるための基本だ。
では、儂はこの辺でしばらく留守にするぞ。次に会うときまで達者でな」
テュフォンはそう言い残すと、そのままさっさと飛び去って行ってしまった。
彼はあまりにもあっさりと父がいなくなったので若干ぽかんとしていたが、すぐに言われたとおりに巣を作ろうかと動き出す。
とりあえず、空の状態からして直に天候が荒れそうだ。
雨風をしのげる場所を、と彼はしばらくうろうろ辺りを飛んでみるが、崖にはかろうじて降り立てるような場所がいくつかあるだけである。
彼は空中で迷うが、しばらく飛んでいるとそれなりに疲れてくる上、怪しかった雲から案の定ぽつぽつと雨が降り注ぐ。
一度上に降りてから考えようかと飛んで行ってみると、崖の上にはまるで降り立つことを拒むかのように、針の群れのような形の岩が並んでいる。
ならば降りるか、と下に行ってみると、下は轟々と流れる川だった。足場が見えないこともないが、この天気で降り立ちたい場所ではない。
考えろ、と父は言った。彼は思考する……。
(空中は竜の最も得意とするところ、けれど無限に飛んでいられるわけではない。
僕はまだ未成年なんだ。いくら身体が頑丈でそこそこ体力もあるといっても、このまま飲み食いも眠りもせずにこうしていたら、大人の竜よりずっと早く体力も魔力も限界が来る。
それに嵐は怖い――母さんの命も奪った北部の嵐。僕が耐えられるはずがない。
どこかに、足場だけでもないのかな――そうだ!)
彼は口の中で、リリアナに習った呪文の一つを唱え始めた。
岩場の一角がまもなくみしみしと音を立て、崩れて穴ができる。
だが、せっかくできた穴はすぐに上から土砂が崩れ落ちてきてしまい、彼は慌てて距離を置いた。
何度か別の場所で試しても、どうにもうまく穴はできない。
彼はすっかり困ってしまい、きゅううと悲しく声を上げる。
しかし、今日は彼が泣いても誰も飛んできてはくれない。さああ、と急に体が冷えていく気がした。
(知らなかった。一人がこんなに心細いなんて。
父上がいないときも、そういえば周りの大人たちは僕たち子どもが何か危ない目に合えばすぐに飛んできてくれたんだ。
僕はずっと、父上たちに守られてた……。
こんなとき、父上はいつも何をしている? エッカなら? エッカのお母さんなら、ほかの竜なら……)
彼の頭の中に浮かぶ竜たちを思い浮かべ、マネをしてみようとするが、彼らの動きはあまりにてきぱきとしている。
大人の身体なら大きくて頑丈だし、魔法だって使える。エッカは器用だから、彼より上手に覚えている魔術だけでなんとかしそうだし、その気になれば崖にしがみつくこともできるだろう。
彼の使える魔法は今のところ飛ぶためのものだけだ。
風や火、水を操ることはできない。リリアナから習った魔術という力はあるが、あれはリリアナ曰く使い方が下手で燃費の悪い彼がずっと使っているとすぐにガタが来る。
(――だめだ、飛んでるだけでも体力を使うし、魔術を乱発したら魔力が尽きる。
かといって、僕はまだ子どもだし、エッカみたいに器用なこともできない。
どうすれば……)
その時、唐突に脳内にリリアナの言葉がよみがえる。
「それじゃ強すぎる。ダメ! 今度は弱すぎる。お前なあ、ムラッ気がありすぎだ」
初めて魔術を使おうとした頃、彼がなかなか成功しなくてしょんぼりとうなだれると、リリアナは腰に手を当ててとつとつと言い聞かせはじめた。
「まったく、力みすぎなんだよ、お前。いいか、今のままで、条件はそろってるんだ。発音だって大丈夫だし、魔力も足りている。なのになぜ不発に終わると思う?
それはね、お前が自分で自分を縛っているからだ。落ちこぼれのイメージを焼き付けて、できないんだって思い込んでる。――違うぞ!
言ったはずだ。魔法は完全に、先天的才能で、ある程度出来が決まってしまう。でも魔術は違う。
条件がそろい、正しく行えば、誰でも等しく使える。それが魔術の魔術足り得る美徳だ。
なのに使えないんだとしたら、お前が自分で自分の力を抑え込んでいるんだ」
リリアナは彼の正面に回り込むと、その両肩をつかむ。
「いいか、ティア。私はサタン家のリリアナ。
自分で言いたかないけど、この世で最も偉い男の娘で、じきにこの世で最も偉くなるのが私だ。
そのリリアナが、ほかの誰をも選ばなかったのに、お前を選んだんだ。
なぜ誇りを持てない。なぜそんなに自信のない顔をする。
お前は私の子竜、私ができると言ったらできる。
この程度の術、お前に使いこなせないわけがないんだ!」
彼は彼女に激励されて、再び挑戦した。
――自分で自分を笑っているから、魔は僕に応えない。リリアナができるって言ったんだ。だったら絶対に、できる。
そうして彼は最初の魔術を成功させた。それはどうってことのない、少し物を浮かせるだけのものだったけど、あの時の達成感はすさまじかった。
もう一度、思い出すんだ、ティア。
僕はリリアナに名前をもらった竜なんだぞ。リリアナの夫になる竜なんだぞ。
――この程度で泣くな、わめくな、惑うな!
彼は岩肌をにらみつけ、今までの知識を総動員して術の準備を始める。
(崩れるのは、僕ががむしゃらに破壊しているからだ。
この崖は、固くて粘り気のない土でできているんだ。乱暴にやったら壊れるだけ。
――だったら、穴を開けて、すぐにその内側から補強してやればいいんじゃないか?)
雨が強くなってきた。風も吹き始めている。彼は目を閉じる。
(イメージするんだ。そこまで大きくなくていい。安全に、寝起きできる場所。僕が入れるくらいの大きさの穴、雨風がしのげる深さ、そして崩れないように――)
彼は今度は慎重に、時には自分の手足も使って、表面から少しずつ土を取り除いていった。
そして、雨が本降りになるころには、どうにかこうにか自分が入れるくらいの穴を作り、その強度を補強して安全な住処を手に入れていた。
最終確認が終わって、どうにか崩れてこないことがわかると、素早く中に入って翼をたたみ、ほっと息をつく。外では本降りになった雨がざあざあと音を立てて降っている。
(……ああ、忘れていたあの頃のことが、よみがえってきそう……)
疲れていた彼は、その日はそのまますぐに寝入ってしまった。昔よく子守唄代わりに聞いていた雨の音が、さらさらとずっと聞こえていた。
翌日起きてからも彼の初めての戦いは続いた。
寝心地の悪い巣を整えるために、草を運んでくること。
獲物を探して、自分でとること。安全な河原を探して水を飲むこと。
そのどれもが、危険と隣り合わせのものだった。
彼は時には自分の中の本能の声に従って、時には自分の今までの経験から思い出して、時にはリリアナに習った知識を駆使して、それらのことに挑んだ。
草は飛び回ってようやく発見した場所から何往復もしなければならなかったし、狩りは自分より体の大きい魔獣たちの出現におびえながら、ネズミなどを探して何とか捕まえ、時には木の実もかじった。
川に水浴びをするために入るのだけでも、一瞬でも気は抜けなかった。
そんな風に四苦八苦していたある日、巣に客人が訪れた。
「兄上、大丈夫? 生きてる?」
明るい声が降り注ぐ。エッカの声だった。弟は大はしゃぎしながら、彼の巣に入ってきた。
「父上から聞いてびっくりしたよ! まさか本当に訓練はじめるなんて――うわあ、やつれたねえ兄上。
でも、結構ちゃんとやってるじゃん。僕てっきり、もうダメかもなんて思って飛んできたんだけどねー」
物珍しそうに巣穴の入り口と奥を行ったり来たりしている弟に、彼はふと思いついたことを聞く。
「エッカ。お前もこういうこと、父上としたりしたのか? 割と早いころから、お前は自分の身の回りの世話ができていた気がする」
「そりゃあぼくは跡取り息子だもん。飛べるようになったらすぐ、ここみたいな場所にほっぽってかれたよ。
まあ僕の場合、頑張って飛びまわったらわかりにくいところにちゃんと用意されてたけどね、寝床。兄上の方がハードモードだったんでしょ?」
「――でも、全然知らなかった。僕はずっと、本当に、甘やかされてきたんだ」
エッカは立ち止まると得意げな顔になる。
「ふふん、ようやく僕の本当のすごさがわかったんだね。
でも僕だって、最初は失敗ばっかだったよ。兄上よりも頑丈じゃないから怪我もしたしね。――まあ、僕の時はちゃんと父上迎えに来てくれたけどさ。
それはそうと兄上、せっかく来たんだし、一ついいこと教えたげようか? 狩りのコツってやつ! 食べ物がしっかりしないと、元気は出ないからねえ。
まあ、なんていうの? 兄上の分を僕が代わりに仕留めるとさすがに修行の意味がないから、お手本見せてあげるよ。兄上、父上の狩りとか見たことないでしょ? 大物のしとめ方、教えてあげる!」
エッカの狩りを見ることで、彼はこの弟が如何に竜として優れているか知ることになった。
弟は開けた場所の高い部分でしばらくはくるくると回って辺りを探っている。
が、ひとたび獲物を見定めると、空中からいきなり滑空し、一瞬にして到達する。
地上の犠牲者は哀れだ。空から捕食者が、音もなく降ってくるのだから。
エッカはまるで落とされたかのようにふわっと力を抜いて落ちていき、地面に近づくと翼をたわめる。
そのまま落下の力を利用して狙った獲物の頭部に打撃を加え、すぐまた空中に戻り、今度は悠々と戻ってきてぐったりした犠牲者にとどめをさす。
彼も昔に比べればだいぶうまくは飛べるようになったが、エッカのそれは成人前にして曲芸飛行のたぐいだ。
ましてエッカは、獲物にしても敵にしても、彼より段違いに早くみつけた。
さすがにエッカのそのやり方をさあ真似てみろと言われても無理なので、ひとまず彼は空から獲物に襲い掛かり、抵抗を受けそうになったら空に逃げると言う、竜の戦いの基礎を学んだのだった。
エッカは彼がそうやって何度目かの失敗ののちに勝利をもぎとり、食料を巣穴に運び込むのを確認すると飛び去って行った。
それからも暇なときは時々姿を見せ、彼に重要なヒントをたくさん与えては帰っていくのだった。
そんな風に過ごしているうちに、彼の身体が一回り大きくなり、エッカの助けがなくても、もはや一人で生きていく分には申し分ない竜へと育ったころ。父親はようやく帰ってきた。
「うむ、いい顔立ちになったぞ、ティア。では、今度は場所を変えようか」
そして彼は、さらに過酷な訓練に身を投じることになるのだった。




