騒動の気配は妹と共に
何も起こらない退屈な日々を平和と呼ぶのなら、シーグフリード=ティア=テュフォン――通称ジークのここ最近は、平和そのものと言って良かった。
近衛の日々は細々とした雑事で忙しい。一時の有事の陰惨な気配など、すっかり洗い流してしまうほどに。
そもそも、当代魔王ゼブルの治世とはかくあるもの。普通に戻っただけとも言えるかもしれない。
今日も今日とて人の話し声があちこちに響き渡り、昼は活動するヒトの群れで賑わっている。黒龍の本性も全く活躍の機会がない。だが、それでいいのだ。元通りになったのだ、何が悪いと言うのか――。
……本当に、元通りと言えるのだろうか?
近衛達。子羊と呼ばれるリリアナの配下達。以前と何も変わらないように見える城内、そこに住まう人々。
皆、有事が去って、日常に戻ろうとしている。けれど、すべてがそのままというわけには行かない。何かがずれていっている。
城内に吹き荒れた恐ろしい嵐は、幾多の命を刈り取った病は、着実に、確実に、何かを決定的に変えてしまっていた。
たとえば、喧噪の一つ。邪眼との戦いで深手を負った赤薔薇の騎士は、そのまま引退せざるを得なかった。
「――黄薔薇の!」
あの鬱陶しくも、どこか日常の一部になっていた声は、もう聞こえない。二人とも邪眼に挑んだのに、彼は故郷に戻され、ティアだけはますます順調に階級を上げている。
なんとも言いがたい居心地の悪さのままに、変わらないまま、少しずつ、変わっていく。何もかもが、そのうち、全部――。
「ジーク、いつまでブラシをかけているつもりだ? 禿げちまうぞ?」
ぼーっと午後の気だるげな空気の中で意識を飛ばしかけていると、黄薔薇の先輩が呼びかけてきたのが聞こえる。はっと意識を取り戻すと、厩舎の藁の臭いが鼻孔に飛び込んできた。
「というか、お前、それ、大丈夫なのか……?」
おそるおそる、と言った風に言われ、つられて引きつった顔が向けられている方に自分も目を移す。
愛馬――でもないが、担当の馬――である天馬ルーティークが、ブラッシングしようとして伸ばしていたティアの手を、一心不乱にガジガジ囓っているのが見えた。
城内には一応、馬の世話を専門とする職業人もいるが、担当の馬を持つ騎士は定期的に自分でも手入れをするのが慣例だと師父たるヘイスティングズは言った。
世話をすることでパートナーと認識してもらい、乗って仕事をする時にも円滑な関係を築くことができるのだ、と。それで今、非番の暇をもてあましているティアはこんな状況にいるのである。
しかし、いたずらされないようにきちんと頭を馬房の柵につないでおいたはずなのだが……ヒモがゆるかったのだろうか、案外自由に頭を動かせるようだ。
魔人の乗用馬である天馬という生き物は、基本的に温厚な種族なのだが、ティアの担当するこの白毛の馬はひと味違う。
恐れ多くも皇太子リリアナから下賜されたこの天馬は、能力は素晴らしいが、気性が激しすぎて乗り手を大いに選ぶのが圧倒的な難点だった。雌のくせにとんでもなくどう猛で、隙あらば担当者の体積を減らそうと挑んでくる。ただの世話係には無視を通す辺り、地味に頭が回って姑息だ。
が、そこは耐久力だけは幼少のみぎりより各所方面からお墨付きをいただいていたティア=テュフォンという男である。あっさりルーティークを追い払った手には、穴一つ開いていない。
天馬はさっと耳を伏せてブンブン頭を振った。本当に機嫌が最低なときはこんなものでは済まないから、噛む程度ならこの馬にしたら挨拶である。ただし、他の近衛騎士が同じ状況になったら間違いなく怪我をするので、ティアが担当で正解なわけだが。
意識を取り戻した彼は、手早くブラシがけを終わらせると蹄の点検をし、異常がないことを一通り確認してルーティークのつなぎをほどき、馬房から出てくる。
「問題ないなら、俺は先に行くからな」
一緒に来ていた黄薔薇の先輩は、後輩があまりにもたついているので何が問題があったのかと自分の帰りがけに見に来ただけらしい。
彼がいつも通りぼーっとしているだけだとわかると、さっさといなくなってしまった。
なんでもかんでも先輩が見てくれていた見習い時代と違って、今ではティアもすっかり騎士の一人にみなされている。自由性が尊重されるのはいいことだが、逆に何をしたらいいのかわからなくてついぼんやりしてしまう部分もある。
さて、この後は特に予定がない。
鍛錬に行くか、図書館で自習するか、子羊の談話室に行くか、もういっそ部屋に戻って寝るか――と、非番の余暇の過ごし方を考えていた子竜は、厩舎を出ようとしてふと立ち止まった。
「あっにうえー!」
……おかしい。聞こえないはずの知人の声が聞こえる。
「ちょっと、無視するなんて酷くない!?」
足早に厩舎を後に、城内に戻ろうとした彼の前に何者かが回り込む。
魔人社会にしてはあり得ない肌色の多さを見て、ティアは大きなため息をついた。
「……エッカ。何でお前がここにいるんだ。さては」
「安心して! 許可証ならもらってるよ、ほらっ!」
登城することを決めてから別れたはずの義理の弟――じゃない、妹である、ブルンヒルド=エカトリア=テュフォン、通称エッカは、耳をぴょこぴょこと動かしながら子竜の前で跳ねていた。
性別のなかった幼体の時代は、兄は白竜、弟は黒龍よりの灰色の鱗をしていたが、竜は成体時に脱皮するとそれぞれが個性的な自分の色に変化する。
ティアは黒い鱗に、エカトリアは青い鱗の竜に、今では成長していた。彼女の空の色のような澄んだ青色は、いつ見ても惚れ惚れしてしまいそうになるし、豊満な体つきはどの雄竜も見逃さない――竜族の中でも既に駄目な変態の殿堂入りをしている、ティア=テュフォンという雄以外は。
尻軽の考えなしに見えて案外しっかりしているエッカは、抜け目なく身分証明書である術式証明書もしっかり首から提げている。密入場などではなくちゃんと表からやってきたということだ。
非常に元気そうであるが、胸元が見えそうなラインの上着に際どい短パンのみという、相変わらず貴族が見たら卒倒しそうな格好をしているのはいかがなものか。
非番においても、下着から上下一式、ぴったりした服をきちんと着込んで、顔や手の辺りしか出ていない兄のティアとは大違いだ。
控えめに言って露出狂と言って差し支えないが、元来竜族とは裸族、ギッチギチの服を着ることが当たり前になった子竜の方が彼らの規範から外れているのである。
とは言え、ここは王城、魔人の社会。本来郷に入っては郷に従え、を実践しなければいけないのは、エカトリアの方なのだが……まあ、色々問題を起こしつつも勝ち取った権利であるため、彼女の服装についてはこれ以上言うまい。
それより、普段は魔人社会には用がないからといっかな王城に寄りつこうとしなかった妹が、一体どういう風の吹き回しでこの場にいるのだろう。
兄の思いっきりいぶかしげな顔色を読み取って、エッカはさらりとさわやかに答える。
「安心して! 別に竜族やボクたちの知り合いに不幸があったってわけでもないから。端的にまとめると、父上がボクの首根っこをつかまえていても所詮無駄なのだとついに学習し、晴れてボクは自由の身になったんだ。ばんざーい!」
「お父上様――!」
エッカが嬉々として跳ねている一方、ティアはがっくり地面に崩れ落ちる。
養父であり、偉大なる父であるシグルド=テュフォンの疲れ切った顔を思い浮かべると、朴念仁気が利かない人の気持ちがわからないと散々罵倒されがりの彼もさすがに涙が止まらない。
「なぜ、お前がテュフォンの跡継ぎなんだ……」
「そりゃボクが一番優秀な竜だからさ」
「優秀な竜ってなんだ?」
「頭が良くて力が強くて多情で多産。兄上は能力的にはたぶんボクより高いけど後半がまるで駄目だから総合的に駄竜だよね」
シュッ、と風を切る音と、ゴッ、と鈍そうな音が響いた。頭を押さえ、ギャンギャンとエカトリアは吠える。
「痛いじゃないか、何するのさ、悔しかったら童貞卒業してみろよ、その辺の適当な女でさあ!」
「なんてこと言うんだお前は、恥知らず!」
「竜として失格な兄上のことを考えてのアドバイスでしょー!?」
竜族の価値観では、童貞処女はさっさと捨てるのが基本、優秀な個体は雌雄を問わず大勢と交わってこそ、一人前である。
ゆえに、能力はあるはずなのに未だ一途な想い(笑)のために童貞を貫いているティア=テュフォンのことを、竜族は皆大いなる自然の誤算――端的に言って変態であると、認識していたのだった。
幼少期を一緒に育ってきた仲であり、比較的兄に理解を示しているエカトリアとて、竜の中の竜である雌。久しぶりに再会してもやっぱり何の進展もなかった兄に対してドン引きの表情を隠そうともしない。
――そうは言っても、リリアナからも取り巻きからもまだお許しが出ないんだから、仕方ないじゃないか。
イライラしながら歩き出すティアの後ろを、当然のようにエカトリアはくっついてくる。遠巻きにこちらを見たヒトビトが、皆一様にぎょっとした顔をしては関わるまいと目をそらしたり逃げたりしているのが見える。リスク回避という点で非常に正しいだろう。
ティアがイライラを鎮めるつもりで水道で水を飲み、顔を洗うと、エッカものんきに同じ事を横でしていた。
基本的思考回路と行動パターンにおいて昔からあまり進歩のない兄は、余裕綽々な横顔をじっとにらみつけて、反論を一生懸命考える。
「大体偉そうなこと言ってても、お前だってまだ産卵経験ないだろうが」
「これからぽんぽこ産むんだよーだ、べーっ」
「ぽんぽこ……」
「まずは三匹目指すわ。今すぐ産んでもボクまだ若いからしばらく孵らないと思うけど、ベテランのじいさん捕まえればうまいこと行くかもしれないし、何事も経験だよね」
兄のとがめるような視線を受けて、エッカは気楽にひらひら手を振った。
「まー、そんな心配しないでよ。宮中の人間関係は荒らすけど下手は打たないって。避妊もちゃんとするから」
「知っているかエカトリア。唯一最大に確実な避妊法は、交わりをもたないことだ。……というか、お前やっぱりそういうことするつもりで城に乗り込んできたな、やめろよ!」
「そうだね、兄上は童貞だから可能性は永遠のゼロだもんね――」
シュッ、と再び鋭い音がしたが、今度はひらりと飛んだエカトリアの方が早かった。空中に素早く回避した彼女は、兄に殴られないところまで素早く駆け上ってから、やっぱりギャンギャンわめている。
「だからァ、我慢できないなら早く押し倒せばいいじゃん、案ずるより挿すが安しって言うじゃん、別にちょっとぐらい早く手ェ出してもなんとかなるって、最悪ちょっと勢い余って死んでも不死の一族なんだから生き返るって、ネタにされたら発狂するほど辛いのに未だに我慢してるとかマジ意味わかんないんだけど!?」
「魔人には! 魔人の! ルールがあるから、仕方ないんだ!」
「ボク、兄上のそういうところは、生理的に気持ち悪いと思っているよ!」
追いかけっこは兄が諦めるまで続いた。そして案外諦めるのは早かった。城内でごたごたを起こした場合、圧倒的に兄の方が失う物が大きいのである。
俺は一体、何をこんな不毛な争いを。あと童貞なのは俺のせいじゃないもん。
と、うなだれていじけたり落ち込んだりしているティアに、暴力の危険がなくなったと判断して帰ってきたエカトリアが、バンバン肩を叩きながら無責任に声をかける。
「まーあれだよ、元気出せって。別に遊びに来ただけじゃないって。この先兄上の味方は多い方がいいと思うんだ、いざって時のためにね」
「……いざ?」
「あれ? もしかしてまだ何も聞いていないの? ニブチンだねえ。じゃ、ボクもまだ教えなーい」
なにやら意味深な事を言われた気がするが、心当たりがなくて子竜は首をかしげる。すると雌竜は口を閉じると見せかけて――この竜が無事に黙っていられるはずもなく。
「ヒントあげる」
「なんだよ」
言わないんじゃなかったのか、とねめつける兄の視線を受け流し、妹は微笑んでからおもむろにトーンと変えて話し出す。
「もしね。ボクと君が本気で争ったら、それは竜にとって結構な大損害になると思うんだ」
「……俺たちが争う理由なんてあるか?」
「兄上は基本的に野心皆無だからね! 竜族のトップに立ちたいとか思ってもみないんだろうね!」
「そんなことして何になるんだ?」
「君のそういう雄としてトップ・オブ・ザ・ボンクラなところ、最高にクールだと思うよ。……いってえ、さすがにこのぐらいの皮肉は馬鹿にも通じるのか!」
「何年のつきあいだと思ってるんだ、お前が俺の身体は賛美する割に頭の事は何一つ褒めないのは十分わかってる!」
「お前の中身が性根から変態だからいけないんだろ、そっちこそ悔い改めろよ!」
どつきあいを間に挟み、互いにぜーはー息を荒げる。首を左右に振って、再びティアはエッカをじろりとにらんだ。
「で、結局お前は何が言いたいんだ? よくわからない」
「世の中が皆兄上みたいに欲のない奴と、ボクみたいにものわかりがよくて引き際を心得ている奴の組み合わせだったら、無駄な争いは起こらないってことさ。ま、これ以上詳しくはそっちの参謀に聞きなよ! ボク、これからデートで忙しいから!」
自分から絡んで来た割に、待てという言葉も聞こえぬふりをしてさっさとどこかに行ってしまう。エカトリアとはそういう竜である。
いきなり話題を切られてぽかーんと置いてけぼりにされていたティアだが、しばらくすると我に返った。
周りを見回すと、こっちを見ていたヒトビトが一斉にさっと目をそらして見てませんよアピールを開始する。……もはやまあまあ見慣れた光景だ。
見世物じゃないぞ! と咳払いすると、蜘蛛の子を散らすようにわっと皆散っていく。
重たいため息を吐いてその光景を見送ってから、ティアも歩き出した。
――奇しくも妹の登城によって、本日の余暇の行き先が決まったので。




