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序:まぶたの裏で閉じない瞳

「お前の瞳は母の瞳」


 はじまりの記憶は音。

 いつも、いつも。そう言われていた。


「しかし、見ろ、この愛くるしさを。母親に似てくれて本当によかった。こんなに子どもが可愛いと感じられるものだなんて、思いもせなんだ」


 二つの金色の瞳が赤ん坊をのぞき込んで言っている。


 不快ではなかった。

 最初は、悪い気持ちなんてなかったのだ。

 赤子の頃は、心地のよいゆりかごと頼もしい保護者の腕の中、すべてがすべて、純粋に白かった。



 ――お前の瞳は母の瞳。


「おははうえさま、おははうえさま」


 もう少し大きくなって物心がつくかつかないかといった頃になると、別のものに興味が映った。


 同じ色の目を持つ女性。城奥の部屋に閉じ込められていて、滅多に出てこられない。


 夢中だった。顔が見れればその日は一日幸せで。少しでも、注意を引きたくて。


「お母上様」は体が弱いのだと幼い彼は周囲から教え込まされていたけど、本当は違う。

 産後の肥立ちが悪かったのだ。彼を産んだとき、そのほとんどの生命力を持って行かれてしまっている状態だった。


 幼い頃は、何もわからないまま、毎日自由時間になればすぐ彼女が今日は具合がよくなって出てきていないか、庭まで走って行って、連れ戻されるまでそこにいた。


「若様……今日はもう」

「じい、じい。きょうはね、すこしだけ、いつもよりながく、いてくだすったんだよ。ぼくのおこえは、とどいたかしら? おははうえさまは、いつもぼーっとしているから」

「きっと、きっと、そうですとも」

「ぐあい、はやくよくなればいいのにね」


 手を引かれ、後ろ髪を引かれる思いで口走ると、老爺はつないでいない方の手で自分の目元をぬぐった。


「おいたわしや。ああ、おいたわしや」


 世話係はどちらに向けて泣いていたのだろうか。


 ほとんど死にかけていた、いやしくも弱き母親の方か。

 それとも彼女がいつかよくなるのだと信じて疑っていなかった、愚かな幼子の方か。



「うそだ、うそだあっ!」


 記憶がもう少しさかのぼる。まだまだ子どもは幼いままだった。母と過ごせた時間はほんのわずかだった。


「おちちうえさま、どうして……なおるって、いったのに。よくなるって、いったのに!」


 棺桶の前で泣きじゃくる幼子に、強く、優しかった父親は信じられないことを言った。


「お前の母親は余が殺した」


 頼りになり、嘘をつかず、醜い他の大人と違って静かな父親は、いつものように薄い微笑みを浮かべたまま、美しい紫色の、吊り型の目を見張った息子を見下ろす。


「だからお前は余を憎むといい。この世の誰よりも」

「ちちうえ……」


 背を向けた父親はすがりつかれても振り返ってはくれなかった。



 思慕は反転して憎悪に変わる。


 父親が母親を殺したも同然であることは、長じて調べてから裏が取れた。


 知っていたのだ、あの男は。孕ませれば死ぬとわかっていて、母を犯したのだ。己の欲望のままに。父の暗殺者として城にやってきた母。他に行き場はなく、拒めるはずもなかった。


 ――お前の瞳は母の瞳。


 憎しみは、より一層、深く、黒く、まがまがしくも鮮やかに。



 思春期・青春時代、成年を迎える直前の危うい季節。

 彼は一人だった。母は既になく、父は我が子を裏切った。

 父も母も天涯孤独だ。兄弟もいない。親類という面倒ごとがない変わりに、頼れる相手もいない。


 ぽっかりと心に穴を開けたまま、けれど強情にあごを突き出して前を進む。


 たとえ憎しみの対象になろうが、父は相変わらず彼のあらゆる目標だった。

 とんでもなく愚かでありながら、誰よりも強かった。

 彼の憎らしいほど優れている部分を越えようと寝る間を惜しんで研鑽し、彼の愚行を絶対に真似はしまいと脳裏に、心に刻む。


 暗い、暗い、城の中。頼りになるよりどころはなく、独り。


「本当に陛下のお子だろうか」

「お顔立ちはあまり似ていない」

「能力だって……これでは長じても追いつくかどうか」


 ひそひそと、ひそひそと、時折物陰から声が聞こえてきた。


 聞こえないふりをして、平気な顔をしていても、彼は父のように強くは到底なれそうにない。


 何故、心が痛むのだろう。


 大嫌いな父親と似ていないと言われて、嬉しいはずなのに、なぜ、では親子ではないと言われれば、この身が張り裂けそうになるのだろう。涙がこみ上げるのだろう。


 ――あの男を、誰よりも憎んでいるはずなのに。


「けれどほら、あの角に翼を持つ姿」

「それならばきっと間違いない――忌まわしい不死者めが」


 言葉がぷつりと消えた。記憶も少し飛ぶ。



 次に見たとき、暗闇でひそひそ声を紡いでいた彼らはバラバラにされていた。彼らの一族郎党皆、並べて手ずから解体ばらされた。この世で最も恐ろしい男の決定。誰も覆すことは出来ない。


「お許しください、お許しください――ぎゃああああああっ!」

「父上!」


 飛んできた一人息子のみ、王への反抗を許されている。


 王は息子を溺愛していた。だから彼が何を言おうと怒らない。

 彼は自分にさほど頓着がない。だから自分が何を言われようと、それが看過できないほどに悪質であったり大事になってしまった時でなければ聞こえないふりをする。


 けれど、息子への中傷には、死か、それに等しい刑罰を以て報いさせた。

 当人が望まないときであっても、当人が過剰だと感じるような量刑であっても。


「何故、このような……」

「何故? お前のことを貶した」

「僕は、こんなこと望んでなんかいない。あなたは殺しすぎる。いくら天上の身とは言え――いや、人の上に立つ者だからこそ、こんなこと許されない」

「では、お前が正しておくれ。可愛い息子よ」


 はっとして顔を上げた。魔王はいつものように、感情のにじまない微笑みを浮かべつつ、ゆっくりと立ち上がる。


「余を越えられるとしたらお前ぐらいだろう。期待している」


 青年は深く自分を呪い、恥じた。


 成人して父と同じ目線になり、姿はもう親を追い越そうかというほどまで成長しても、未だ彼の行い一つ変えられない自分の力なさを。


 ゆえに、より一層、努力しようと思った。


 知識を積み、人の声を必死に聞き、何度も父に立ち向かい――。


 そして何度も、負けた。


 彼の父親は、魔王だったのだから。



 ――お前の瞳は母の瞳。


 最愛を失ったとか言われる男は、その寂しさを埋めるためか、手当たり次第に女をあさった。


 時には、既に誰かのものだったヒトを。


 憎悪は強まる一方、一向に収まる気配を見せない。むしろ父は子に憎まれんとして行動しているのではないかと思うほどだった。


 母と同じ顔をした、自分とほとんど同い年の異種の女性とは、結局ほとんど話せないままだった。


 とっくに成人をして、政務もかなりの部分をこなすようになっていた青年だったが、両親のことは心に刺さった深いとげのまま、どうしていいかわからないままだった。


 彼女の前に、父の戯れに付き合わされた女のことを、哀れとは思えど、愚かとも思っていた。


 父が誰かを愛することなんてない。そんなこと、わかって当然だろうと。



 けれど、捨てられた女の最後の悪あがきはすさまじかった。


 女は孕んだ。間違いなく、魔王の子を。


 魔王は生まれてくる前に殺せと言った。指を差そうとする父の前に、息子は両手を広げて立ちふさがった。


「何故はばむ。母親だけ死んで何になる。余は子どもを殺せと言ったのだ」

「あなたの、血のつながった実の息子だろう……なぜそんな、むごいことを」

「生かしておいたらお前の将来に障る」

「……妊娠させたのは、お前だろうが!」

「本当にできると思っていなかったんだ」


 いつもの通り、話せば話すほど、体中が燃え上がって蒸発しそうなほど。


 魔王は唯一の跡継ぎと、唯一の我が子と決めた男に向かって苦笑した。

 常時無表情の笑顔だった男だが、このときだけはそれが苦笑いなのだとなぜかとてもよくわかった。

 それほどよく、いつも息子が父のことを見つめ続けていたからかもしれない。


「やめておけ。あの双子はお前とは違う。ここで殺しておかねば、ずっと先の将来にはなるが、確実にお前は苦しむぞ?」

「おっしゃる意味を理解しかねます。気にくわなければ正せとおっしゃったのは、あなた自身だ」


 ぎらりと燃える紫水晶に、懐かしげに目を細めた。


「強情に俺に刃向かってくるところは本当に母譲りだ」


 そこがまた馬鹿だが可愛い、と男は笑う。


 魔王は息子のすることならとがめない。

 けれどいくら息子に言われようと、自分を改めることもけしてない。


 この場は引こう。だが必ず生まれた異母弟達は殺す。


 雄弁に、その瞳は物語っていた。



 この瞬間だったろうか?



 もうこれ以上墜ちる所なんてないと思っていた心が、砕け、ばらばらになり、あふれてしまうのを感じた。


 見たくなかったのだ。これ以上、あんな父を、見ていたくはなかったのだ。



 願いは決意となり、信念は刃に変わる。

 正義だけが彼の味方だった。ふつりと切れてしまいそうな細い細いそれのみを友に、彼は最後の決断を下した。



「哀れな子よ。お前は一生この父の幻影からは逃れられぬ。けれど、ゆえに俺はお前を誰よりも深く想おう」


 そのときも、やはり感情を高ぶらせているのはとっくに大人になった子どもの方だけで、父の方は涼しい顔、むしろようやくこのときが来たとでも言いたげな様子だった。


 自分を見下ろして状態を確かめると、満足そうに息を吐き、突っ立っている息子を手招く。


「さあ、とっておきの呪いをくれてやる。受け取れ」


 呼ばれるまま、ふらりと歩み寄った彼の耳元に、囁きが落ちた。


「――愛しているよ、ゼブル」


 そしてその言葉は、予告通り一生の呪いになった。





 ぐるぐる。ぐるぐる。回る。回る。視界が、体が、あらゆるものが。記憶が加速し、振り回される。


「あんたは悪くねえ。何にも悪くねえんだ――」


 誰かが彼のために泣いてくれている。


「あの人のご意向だからねえ。あたしゃあんたに悪さはできない。……安心おし、誰にも言わないさ。けれどね、いついつまでもこの胸の奥でくすぶらせ続けてやる。忘れるな、罪人。お前の夜に二度と安息はない」


 誰かが彼を憎んでいる。


「これでお前が、少しは満足すればいいのだが。残念ながらそうはならない。お前は本当にいい子だ。だから苦しみ続けるだろう……」


 消したはずの男の姿が、記憶の濁流の合間に幻となって蘇り、耳元の囁きを続けてくる。


「あなた、あなた。一体何がそんなに恐ろしいのです? それはわたくしに分かち合えぬことですか?」


 つかの間の安らぎの声も、あっという間にかき消える。



 赤ん坊が泣いている。

 あれは一体誰だ? 彼自身だろうか? それとも。



「哀れな子だ。お前はずっと後悔し続けるだろう」


 ぐるぐると回る記憶。様々に浮かんで消える人の顔の中で、金色の瞳が瞬きする。金の目がこちらを見つめて、やめてくれない。そうして頭の中の声は話し続けるのだ。


「当ててやろう。忘れた頃、人生も終わりにさしかかる頃、それ(・・)はお前の安息を乱しにやってくる」


 慈愛と憐憫と、そして本質的な無関心をにじませた金の目が、頭の中で閉じてくれない。


 あのとき、確かにこの手でまぶたを下ろした。

 ああ、そのはずなのに、ようやくこれで眠れる夜が来るはずだったのに。


 ――お前の夜に二度と安息はない。


 かの者の言うとおり、夜ごと悪夢を見る。まぶたの裏に金が張り付いて離れない。



「お前の最愛の女の命と引き替えにそいつはやってくる。見ればすぐわかるさ」


 泣いている赤ん坊が、誰か、わかった。


 そう。魔王の言った通りだった。見た瞬間、他の誰にもわからなくとも、魔王を継いだ男だけははっきりと理解した。


 金の髪。金の瞳。頭に四本の金の角。背中に一対の金の翼。とくに目の形、鼻筋なんてそっくり写し取ったよう。


 赤子はやがて成長する。それ(・・)は女だった。性別が違うせいか、長じて体つきが丸みを帯びてくるとさほど似ていないのではないかと思えるようになった。


 それでも、ふとした瞬間。そう、本当に、一瞬の心の隙をついて。


「おとうさま」


 感情のこもっていない冷めた微笑みで、嗤うのだ。



 ――愛しているよ、ゼブル。

 ――お前の瞳は母の瞳。



 この瞳が我が母と同じと言うのなら、あの瞳は我が父そのものだ。祖父と孫の関係なのに、どうしてああも似通っているのだろう。


 金色の瞳がこちらを見据えてくる。永遠に、自分がかつて犯した罪を忘れさせてくれない。


 だから彼は、今でも父を越えられずにいる。

 呪って、呪われて、憎しみの果てに――それでも自分の決めた自分を、演じ続けようとしている。

 抱えすぎて、自分でも自分の本質を、理解出来ていないままに。

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