決意の日
「それは本当のことか?」
ティアが一生懸命説明するのを一通り聞き終えると、父親は慎重に確認した。
「姫様は御年200歳を超えられたが、まだまだ子どもだ。お戯れを言ってらっしゃるだけなのではないか。
仮に本気だとしても、おそらく周囲は魔人の貴族との円満な結婚を望むだろう。
お前はよくて愛人だ――つまり、伴侶にはなれない。
慰み者として後ろ指を指され、姫の気分一つで立場が揺らぐようなことになってもいいのか。それが本当に、お前の進みたい道なのか?」
ティアが不機嫌そうな顔をすると、父親は目を細め、重ねて言った。
「何もお前が憎くて言っておるわけではない、ティア。よく聞くのだ。
いくら翼が生えていようと、彼女はヒト、我々は竜。
もともと住む世界が違うお方なのだよ。
ヒトは我々をけして同じ存在とは思わない。我々がそう思えないのと同じように。
――息子よ、お前はまだ若い。
お前のその情熱は、なるほど今は最高潮に燃え上がっているのやもしれぬ。
だが、いずれその炎は弱まり、やがて消えてなくなっていくのではないか。
我々の時は長い。心などいくらでも移ろう。
――そうやって別れていった者たちを、儂はたくさん見てきたよ。
恥じることはない。それは自然の摂理でもあるのだ。
長い時をただ一人の相手とだけ添い遂げるなど、確かに夢物語としては美しいが、所詮生きていればヒトも獣も、竜とて変わる。
もう一度思い直すのだ、ティア」
ティアはぎゅっと唇をかみしめてから、父親に言い返した。
「そんなこと、もう何度もリリアナに言われたよ。
すっごく大変なことだって。考え直せって。
でも僕、約束したんだ。
リリアナのこと、裏切らないって。
リリアナが言ったんだ。
僕の伴侶になりたいって。嘘じゃないもん。
だから当主様――お父上様。僕、立派な竜になりたい。
リリアナの伴侶になっても、誰も文句が言えないような、立派な竜に」
父親はしばらく黙りこんでいたが、やがてふっとその目がティアを通して遠くのものを眺めるものになる。
「……あれもそうだった。たぐいまれな竜の身を持ちながら、一途な思いなぞ抱きおって。
辺境の気難しい、誰の血を引いているのかもわからん女に操を立てたとき、周囲がどれほど落胆したことか。
子種を欲しがるものは少なくなかったが、儂の娘も含めて全部断りおった。
結局、これしか残さなんで、自分に息子があったことすら知っていたかどうか。
――いや、知らんで死んでいったのだろうな。
あれが生きていたら、お前になんと言うのか……親子でこの老体に鞭打つか、やれやれ」
彼が呟きに首をかしげていると、突如父親は翼を大きく広げて立ち上がった。
「ついて来い、ティア。そこまで言うのなら、やってみるといい。
これから成人まで僅かの間だが、儂がお前を立派な竜にしてやろうとも。
ただ、手加減はせん。これまでは散々に甘やかしてきたが、これからはお前がどんなに苦しもうが、儂の言うことに従ってもらう。
死にかけるかもしれんが、耐えられぬようなら元よりあの姫君と添い遂げるなど無理なこと。
むしろそれなら早く逝ってしまった方が互いのためだろう。
さて、覚悟はあるか?」
「リリアナ」
彼が緊張した顔でやってくると、リリアナは黙って彼を見上げる。
奇しくも出会った時と同じ庭園で、リリアナはまた噴水のふちに腰掛けていた。
「僕、これからしばらく会えなくなるんだ。
立派な竜になるために、少し特訓するから。
次に会うのは籠り明け――僕が成人してからになっちゃうね」
リリアナはそのまま彼の事を見つめていたが、ふと目を伏せる。
「――私もあの時は随分興奮して余計なことを言った。
ティア、今からでも遅くない。もう一度よく――」
「もうさんざん、父上にも言われたよ。
それともリリアナが、僕が男になるのが嫌なの?」
彼が少しだけ不安げに尋ねると、リリアナは彼の事を睨んでから困ったように目をそらす。
「――だって、私は、そんなつもりじゃなくて。
そりゃあ、お前の事は大事に思ってたし、だけど、まさかお前がそんな風に思ってるなんて――」
「……リリアナは僕の事ずっと、女顔だとか、かわいいとか、雌向きだって言ってたものね」
静かに言うとリリアナはびくりと肩を震わせた。
彼は彼女に笑って見せる。
「そうなのかも。
僕は喧嘩に勝てたことがないし、身体だって小さい。
頭だってリリアナみたいによくないし、顔だってそう、女の子みたいな顔なのかも。
こんなんじゃ、リリアナが雄としてみてくれなくて当然だと思うんだ。
だけどね、リリアナ。竜にはチャンスがある。
脱皮して、立派な雄になって帰ってくるよ。
身体の頑丈さだけは結構自信あるから、一生懸命頑張るよ。
そうしたら、前に言った――大人になった本当の僕を見てほしいんだ。
絶対に、リリアナも満足できるような、かっこいい竜になるよ」
リリアナは彼がしゃべり終わっても黙っている。しばらく沈黙が続いたが、やがて彼女は口を開く。
「私は、ティア。お前が生きてそばにいてくれれば、それでいい。
男になんて、無理してならなくていいんだ。
――何も命の危険をかけるような真似をしなくても」
「ううん、リリアナ。
僕はね、生まれて初めて、したいことができたんだ。
本当はね、ずっと前から、僕はずっと、雄になりたいと思ってた。
――聞いてくれる? ちょっと長くなっちゃうけど……」
伏し目だったリリアナが彼を見ると、彼はじっとリリアナを見つめて話し出す。
「僕のお母さんがね――本当の、お母さんがね。
怖くて厳しいヒトだったってことくらいしか、あんまり覚えていることはないんだけど、心に残っていることがあって。
お母さんは僕の名前を呼ばなかったけど、時々錆色って呼びかけることがあったんだ。僕の目が、赤錆色だから。
――僕の生まれたところはね。いつも曇っていて、鬱陶しく雨や雪が降り注ぐ、そんなところだった。
だから、すっごく珍しい月夜の夜で。明るかったんだ。
僕はお母さんが夜中に錆色って何度も言うから、起きようとしたんだけど、すぐにやめた。お母さん、僕の事呼んでたわけじゃないってわかったから。
巣の入り口のところで泣いてたんだ。本当にびっくりしたよ? だってそんなヒトじゃなかったんだ。
しかも、よく見たらどう見ても不格好な花冠を持ってね、それにずっと話しかけてるんだ。錆色、錆色って。
……その時の僕は、なんだかいけないものを見ちゃった気がして、すぐに眠ったふりをして、そのままそのことは忘れようとしてた」
彼は思いつくままに言葉を紡ぐ。
きっとわかりにくい表現だったろうが、リリアナはじっと聞いてくれている。
「だけど、父上が一度僕の土産に花冠を持ってきてくれてね。
それで、大人の雄は雌にいろいろなものを持ってきてくれるんだって話をちょうどしてくれて――その時のことを思い出した。
あのね、リリアナ。僕の赤錆色の目は、お父さんと同じなんだって。
だから、お母さんが手に持ってたあれが、僕のお父さんだったんだと思う。
……うまく言えないや。とにかく僕はね。すっごく羨ましいって思ったんだ。
僕のお父さん、僕が生まれる前に死んだのに、そうやってずっと、お母さんに覚えてもらってたことが。
――それで僕は、いつの日か、お父さんになりたいって思ってた。
お父さんみたいに、誰かにすっごく好きになってもらえるような雄の竜になりたいって」
彼が懸命に話し終えると、瞬きもせずに聞いていたリリアナはゆっくり目を閉じ、ため息をつく。
「私はお前の母親じゃないぞ。同じにはなれない」
「ううん、だからその――」
「わかったよ。お前は夢を見たんだ。それで今、その夢をかなえようとしている。
……人生で初めての、大挑戦だ。私が挫いていいことじゃない。そうだろう?」
リリアナはそう言うと、立ちあがった。
「私がいいと言うまで目を閉じていろ、ティア。
いいか、絶対あけるなよ」
彼はちょっとだけ首をかしげたが、すぐにそっと目を閉じる。
しばらく何か身動ぎをしているような音と気配がしてから、もういいよと声がかかる。
――彼女の背から一対の翼が生えていた。
それはやはり彼女の髪や眼と同じ金色で、確かに飛ぶにはいささか小さすぎるようだったが、ちょこんとかわいらしく控え、左右にしなやかに伸びている。
リリアナは彼が目を大きくしているのを見ると、一瞬だけ恥ずかしそうにもじもじと手をすり合わせてから、きっといつもの表情になる。
「――これが私。籠りって結構長いんだろ?
今のうちに焼き付けておいたらどうだ」
リリアナはすぐに、言い訳のように早口で付け加える。
「いいか。別に、その、さしたる意味はないんだからな。
お前が修行中に音を上げて戻ってこなくても、私の姿を忘れたりしても、全然気にしないんだからな。
そうだとも、こ、これが最後の別れなんだとしたらって一瞬だけ思っただけなんだからな――」
数秒間沈黙が流れてから、リリアナはいたたまれなくなったのかどこかに行ってしまおうとする。
「ちょっと、リリアナ!?」
「もういい、お前なんかどこへなりとも行ってしまえ!
あとさっきの私のくだらない言葉は全部忘れろ!」
「えええええ、ちょっとリリアナ!
これでしばらくお別れだっていうのに、もうちょっと見せてよ、隠すことないじゃないか」
「うるさい、もう終わりだ! ほら、あっちに行け!」
――そんな風にして、子どもの彼は彼女と別れた。
 




