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呪縛の幸福 後編

 柔らかい風がどこからともなく巻き起こり、二人の水気を飛ばす。

 乾きにくい髪をどうにかするためか、リリアナはぶんぶんと頭を振っていた。ルーティークじゃないんだから、とあきれた目になったヒューズは、立ち上がり様、ぱっぱとゆったりした自分の服のすそをはらう。それが終わると、頃合いを見計らい、主が日頃明言したがらない話題について深掘りしていく。


「ええ、あなたがあきれるほど情の深い方だということはもう、よーく知ってますよ。わざわざあんだけ大がかりに仕掛けたことを、事故で片付けたところも含めてね」


 リリアナはまだ少し水で重たい髪をくるくる指に巻き付けたまま、しれっとした顔で返答する。乾くのと同時に、いつもの少年らしい調子に戻ったようだった。


「だって邪眼は()()()()()()()()()()んだ。公式記録でそういうことになっている、何も誰も、間違ってはいない。だからノースタワーで起きたのは事故以外にありえない」

「でも今回の分は、その辺明らかにしても十分おつりがくるレベルだったのでは?」

「ヒューズ、お前わざと言ってるだろう、それ」


 彼女は不満そうな流し目で部下を見やる。読み切れないニコニコ顔をキープする男に、仏頂面のまま、髪をいじりながら説明を始めた。


「そんなことしたら、目立ちすぎて角が立つじゃないか。功績? とんでもない、手柄の独り占めなんてどう考えたって悪目立ち、針のむしろだ。いいか、邪眼は大物だった。皆で仲良く協力しなきゃ倒せない相手だった。よそものの野獣が一人で功を勝ち取っていったわけじゃない。他のフォローがあったからこそ、あれだけ手強かった相手を討ち取ることができたのだ――そういう美しいストーリーの方がはるかに受け入れやすいし、周りにそう思わせておかないといくらなんでも完全に孤立してしまう。それはまずいよ、贔屓ひいきが目立ちすぎて不自然さもばれる」

「あっさり邪眼が城に侵入し、討伐されたことも、十分不自然で奇妙ではあります」

「それでも最終的に、彼らは『邪眼は死んだ』とその口で言った。ならこれ以上何も言わないよ。よっぽどの馬鹿か、正義感の強くて頭の固い世渡りベタの不器用な奴でもなければ、深入りなんてしてこないさ」


 ヒューズはすっかり乾いたそでを、なんとなく絞るように手でもてあそびながら、口元に淡い微笑を浮かべていた。




 一連の邪眼による事件。

 発端ほったんはもちろん、エデル本人が夢から覚めて活動を始めたことではある。兄弟から目覚めの報告を受けたナイトメアの異端児は、その日のうちにすぐに城内にとって返し、主にそっと耳打ちした。


 ――絶好の機会ですので、以前申し上げた計画を実行させていただけませんか。


 対するリリアナの答えはこうだ。


 ――なら、ついでだ。最期なんだから派手に暴れてもらって、私の問題もいくつか一緒に片付けてもらおう。


 それから、リリアナは表向きの目立つおとりとなって動き、何度か明らかな隙を作って邪眼につけいらせた。ヒューズは影に潜みながらも、彼女の動きを見て臨機応変に遠くからサポートを行って、事件を見えない部分でコントロールしてきた。

 決戦の場をノースタワーに選んだのも、あらかじめ城内での戦闘の時から仕込みを入れて邪眼の憑依先にリリエンタールを指定したのも、全部リリアナだ。

 二人は直接連絡を取ることはできなかったが、ヒューズはあらゆる人脈やつながりを駆使して彼女の状況を把握し、エデルの追っ手を撒きながら、必要に応じてできうるかぎりのサポートを続けていた。


 エデルは言うなれば、最初から二人の掌の上でいいように踊らされていただけ。

 だからこそ、彼女はノースタワーで彼に向かって言葉をかけた。

 その純心無垢むくさをあざ笑い、とっくに断たれている命綱の存在に気づきもしない愚鈍ぐどんさを哀れんだ――エデルがリリアナをもくろみ通りターゲットに選んだ時点で、彼の命運は決していたのだから。


 不憫ふびんなマリオネットだった長兄。きっと何故自分が死ななければならなかったのかも、理解出来ないままだっただろう。


 けれど彼女に踊らされているのは、一人だけではない――。


「生かさず殺さず生殺しにしているのは、どなたなのでしょうね」


 当事者なのに、舞台裏を知らされずにいる男のことを思い浮かべながらぽつりとヒューズがつぶやくと、彼女はいかにも嫌そうな顔になった。


「ずいぶん嫌味なことだな」

「では、ご寵愛ちょうあいが深くて何よりです、とでも?」

「……それもなんか、腹立つ」

「やっぱり嫌味なぐらいでちょうどいいんじゃないですか」


 軽口を叩いてみるが、彼女の二つの金色の瞳が真剣に見つめているのを知ると、こちらも少しだけ改まる。

 段の下で立ち上がったヒューズは、リリアナが座っているせいもあって先ほどよりも大分視線の高さが近くなったが、それでも段差分わずかにヒューズの方が見上げるような形になる。見上げる彼と、見下ろす彼女。

 先に動くのはリリアナだ。


「ヒューズ。ここまで長かったな」

「あっという間でしたよ」

「私にとってはここからが本番だ」

「はい」

「お前は私がこれからすることを理解してくれるな?」

「はい、殿下」

「では、お前はなぜ私に従う」

「あなたの側にいると面白いですから」

「私が面白くなくなったら裏切るのか」

「かもしれません。どうしました、やけに絡みますね。何か気になることでもありますか」


 闇の中でも明るく光り輝く彼女の目が、段下のヒューズに注がれている。それに動じることもなく、彼は改まりながらも、へらりとした、どこかつかみきれない態度を崩さない。碧の瞳は変わることがない。

 リリアナが目を細めた。


「確認しておきたいんだ。お前、どうして私の所に戻ってきた」

「……と、申しますと?」

「お前が私に声をかけてきたのは、私がお前の父親を抑えられる唯一の可能性だったからだ。真祖は私の祖父に懸想けそうしていた――その死後、他人に面影を探してしまうほどに、深く愛していた」


 リリアナは瞬きもほとんど控えて、じっとヒューズを見下ろしている。初めて会ったときのように。

 見つめられている方は、父親の話題が出たからだろうか。思わずと言った風に顔をゆがめ、目を伏せる。

 彼女は続ける。


「私ほど初代魔王に似ている者は他にいない。お前の父親は、思い人の面影を宿す私に逆らえない。だから私の庇護ひごに入ってしまえば、お前は復讐ふくしゅうを容易に為すことができる――」

「ご自分で今おっしゃっている通りじゃないですか。僕の目的と理由の理解はそれで十分でしょう」

「不十分だよ。だってお前の復讐は既に終わっている」

「なんですって?」

「お前の父親は初代が死んでから幽鬼ゆうきも同然だ。あれは生ける屍――いつか誰かに、自分を憎む誰かに殺されて終わることをこそ、真に望んでいたはず。お前は奴を殺さずにこらえた。奴の渾身こんしんの挑発に乗らなかった。なら、それで十分、真祖に対する復讐だって済んでいるはずなんだ。……私の所にわざわざ戻ってくる理由にはならない」


 かけられる言葉を吟味するように、ヒューズは目をきらめかせる。それでも彼の瞳が虹色に変わることはない。

 リリアナの眉が、一層くっと寄せられた。


「これはずいぶんと情のない。だって僕だって死にたくないんですよ? 親父に殺されたくないから、あんたに尻尾を振ってる。それではご満足いただけませんか」

「いただけないね。強者におもねる不自由な自由――どっちにしろ大差ないなら、わざわざ私が選ばれる理由がない。大体真祖がお前を殺す理由がない」

「先のことはわかりません」

「ほら、やっぱり。あいつはお前に残留をすすめたんじゃないのか? どうしてそれを振り切ってわざわざ、お前のもっとも生きにくいこの場所に戻ってきた」

「なるほど。あなたの考えはわかりまし――」

「シアル!」

「……はい、殿下」


 彼女が呼び方を変えた。

 すると男はぴくりと反応し、彼女からの追求が始まって初めて、うすら笑みを貼り付けた顔に表情のような物をうかがわせるようになる。

 今やリリアナの顔ははっきりと険しい。あわせるように真面目になったヒューズには――しかしまだ、どこかやわらかな雰囲気が残っている。それが困っているような顔にすら見えて、なおさらリリアナの気分をささくれ立たせる。


「正直に答えろ。お前は何を思って、私の所にいる」

「それはヒューズとしてではなく――フレイヤや、ディックや、ジルや、アルバとしてではなく。他でもないシアルとしての回答を、望んでいるということなのですか」


 シアルの言葉はおだやかで、相手をなだめているようで、それで一番内側には鋭いトゲを潜ませているようだった。

 噴水が、星が、音が、色が、回って、巡って、動かぬ彼らを彩り、装う。


 リリアナは何度か唇を開いた。開いただけで、結局何も言わなかった。彼女の強い意志を持った視線がゆるみ、弱まり、何かを探して空をさまよう。


 それを、虹色に変化した目で見守ってから、赤髪の男はため息を吐き、おどけるように肩をすくめて言う。


「あなたは傲慢ごうまん強欲ごうよく嫉妬しっと深くて怠惰たいだで女っぽくないのに女らしくて――だから好きですよ」

「だから」


 それは本当に、思わず喉から、口から、抑えるのを忘れてもれだしてしまった、そんな言葉だったのだろう。発した方も、聞き届けた方も、はっと身をこわばらせる。


 大きく目を見開いて、口も開いたまま、リリアナは彼を見下ろしている。ふちに腰掛けている身体を支える手に、いつのまにか力が入り、震えている。


 虹色の瞳がその様子を一通りなぞってから、一度瞬いた。


 すると彼女も意を決したように、大きく息を吸った。


「だから、なのか。だけどではなく」


 彼の方は諦めるように、目を伏せて、ゆるく首を振った。肯定にも、否定にも見えない、曖昧な向きと小さな動き。

 水面が揺れる。いくつもの波紋が人工池に浮かんではまざり、消えていく。


「仮にもし、ここで『だけど』と口にした場合――あなたはその心に芽生えた疑念を確信に変え、僕を生かしてはおけなくなる。あなたの深い愛情は、潔癖さは、ほんのわずかの疑念、たった一点の曇りすら許せない。あなたがあなたの伴侶に求めるように、あなたはあなたの伴侶以外をことごとく排除せずにいられない。赤薔薇の騎士にしたように」


 そらして、どこかあらぬ場所を見つめていた目が返ってくると、リリアナは肩をはねさせる。


「それが幼稚な器量であるか? それとも尊い御心であるか? そんな解釈には意味がない。重要なのはただ、あなたがそういう人であるという事実。これだけだ」


 彼はゆっくりと石段を上がり、彼女に近づく。彼女の身体のこわばりは目に見えて強くなっていき、庭園の水面が、芝生が、周囲が揺れ出す。窓もない場所に、風の気配を、前触れをささやき出す。

 赤い髪を、少し着崩した青い服を揺らしながら、巻き上げられながら、彼は彼女に近づいていく。口元に穏やかな笑みを、瞳に真実を浮かべたまま。

 薄闇の暗がりの中に、小さな星と虹が浮かび、瞬く。


「殿下。僕はここにいるあなたの部下が、たとえば取るに足らないような、下らない感情に流されて、あなたの側にいられなくなることになったら……それはあなたにとって、大いなる損失だと考えています。そして仮にもし、ここにいる男がその程度の情すら抑えられない人物なら、あなたは最初から彼に声をかけたりしなかったでしょう。違いますか」


 彼女と同じ段までたどり着いた彼は、膝をつき、彼女の手を取ってその甲に額をつける。そして彼女から自分の顔が見えないその位置のまま、最後の言葉を締めくくった。


「部下として、そしてあなたが嫌いなあなたの理解者として、きわめて理性的に、あなたをお慕いしているのです。……僕がここにいる理由は、そういうことで、納得していただけないでしょうか」


 ああ、とも、そうだったのか、とも。リリアナの口から何かの想いを乗せた息がもれる。彼女はぐっと顔をゆがめた。薄々感じていた自分の推理に出てしまった答えに、それによって選ばなければいけない選択の残酷さに、端が切れそうになるほど強く唇をかみしめた。


 庭園が揺れている。噴水がたけり、星々は溶けるほどに周り、芝生の上の軽いものが小さな竜巻に巻き込まれて散っていく。

 男の髪が揺れる。彼はなおも顔を上げない。じっと目を閉じたまま、辺りが収まるのを――結論が出るのを待っている。


 風が止み、星が止まり、流水の音が消える。

 静けさの中で、ようやくヒューズは顔を上げた。庭園の様子はすっかり嵐のあとのよう、ぐしゃぐしゃになってしまって見るも無惨だ。彼と彼女と、彼らの立っている場所だけが、変わらない姿をしている。

 彼女は部下と目が合うと、眉間のしわをさらに増やし、荒く何度か呼吸をしてから切り出す。


「セオドア=ヒューズ」

「はい」

「フレイヤ=バタフライ」

「はい」

「私はずるい女だ」

「はい」

「本当に、ずるくて、卑怯で、嫌な奴だ」

「存じておりますよ」

「こんな、どうしようもない――だって私は」

「殿下」


 何かを言い出そうとする彼女を、そっとたしなめるように男は呼びかけた。彼にしては驚くほど優しいだけの顔で、態度で、口調で、驚いた顔で黙る幼い主に言って聞かせる。


「それ以上のことは、あなたが伴侶に選んだ方とわかちあうべきなのではありませんか。少なくとも、それは俺にするべき顔じゃない。主君はどんなときでも、臣下の前で不敵に笑っていなければ。何も気にせず、何にも動じず、強く……ね」


 ぐっと彼女はこらえ、えずくような音をさせながらも、喉まで上がった言葉を飲み下し、収め――そして臣下の言うとおりに笑ってみせる。眉をゆがませたまま、口角だけ無理矢理上げてみせる。

 それはとうてい気にしていること、動じていることを隠しきれているものではない。色のない石像のような無表情すら作れる彼女にしてみれば、及第点とほど遠い笑顔だったのだろう。

 ヒューズはそれでいいとでも言うようにうなずき、ゆっくりと手を離し、再び段の下に戻っていく。そこで膝をつき、手を合わせ、臣従の意を示す。


 リリアナは池のふちから立ち上がると、一度上方の止まった星空を仰ぎ、そのまま目を閉じて大きく息を吸った。

 再び開けられた目は、発せられた言葉は、もうしっかりと定まり、揺れていない。高慢で、生意気で、自信にあふれた――そんな風に、彼女は立っている。


「それでも、こんな私でも……お前は、ここにいたいか。こんな私を支える有能な部下――セオドア=ヒューズとして、変わらずにいてくれるか」


 赤髪碧目の男は笑う。

 かつてヒューズと名前を与えられたときと同じ、穏やかにほころばせた笑顔できっぱり答えた。


「はい、殿下。あなたの望むことなら、なんなりと。それが、僕の望みでもありますから」


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