呪縛の幸福 前編
大人一人がやっと通れるくらいの小ぶりな薔薇の門が、アーチの道を作って続いている。それらをすべて通り過ぎていけば、偽物の星空に照らされた庭が姿を現す。
石の道の先、庭の中心にある円形の豪奢な噴水には小柄な人物が腰掛け、絶えず揺れる水面を見下ろしている。
彼女はかつてよりは大人びた、けれどまだまだ若さの残る自分の顔を水鏡に映して見つめているようだった。流れる水の音と回る空の光だけが辺りをほのかに揺らしている。
「こんなところでお水遊びですか」
そこに誰かの声が唐突に響きわたり、静寂を乱した。
彼女が弾かれるように顔を上げると、どこかヒトをからかうような調子の言葉を操る、見知った人影が庭園の入り口で笑っている。
立ち尽くしたままの男を、しばらくの間瞬きするままで放置した彼女は、はっと気がついて手招きする。
「いや、そこはいくらなんでも遠いだろう。もっとこう、この辺まで来ていいから」
彼女からの許しを受け、ようやく男は、セオドア=ヒューズはまともにヒトが話をするような距離まで近づいてきた。噴水手前の階段の下で立ち止まると、膝をつき、両手を胸の前で合わせたポーズで頭を深々と下げた。
「ただいま戻りました。我が主におかれましてはご機嫌麗しゅう――とでも最初に言っておけば、多少はお行儀がよろしいですか?」
「うむ、大義であった――じゃあ、私はこう答えておいたら、少しはえらそうに見えるか?」
「もったいないお言葉にございまする」
「うん……でも本当によかったと思ってる」
「身に余る光栄――ですが殿下がこんなに素直であらせられるということは、明日は果たして火が降るか槍が降るか」
「ああもうわかったよ、いつまでやるんだ。相変わらずうるさい奴め」
おどけて片目をつむって見せた赤髪碧目の男に、リリアナは苦笑しながらもどこか温かみの持ったねぎらいの言葉をかける。彼女は少し迷うように目を揺らしてから、続けた。
「私から何か言うべきなのかな、こういうときは」
「いえ、こちらからご報告させていただきます」
男は改めるように一度姿勢を正して衣装を整え、どこかゆるんだ雰囲気を引き締め、真面目な顔になる。リリアナも同じく真面目に聞く顔になったのを待ってから、彼は切り出した。
「このたびのご助力、感謝してもしきれません。まずは長兄エデルについて、無事復讐を果たして参りました。我ら八人の真子と、真祖とで生命活動の停止を確認。あの個体の身体が復活することはもうあり得ません」
彼の口調は淡々としており、そこからなにがしかの感情を読み取ることは難しい。うなずくリリアナも似たような調子だった。事務的な、素早く簡素なやりとりが続く。
「そうか。処分方法は?」
「私刑ですよ、八つ裂き。最期は真祖自ら手を下すことに」
「けじめの付け方としてはそんなところか。一応妥当と思っておいてやる。……で、肝心の本命、もう一人の方はどうした」
手を合わせたままのヒューズの碧の目がきらりと光り、口元がわずかにゆがんだ。
「このまま生かし、放置して利用します。あれは殺しても損が出るだけかと」
「生かした場合のメリットは?」
「現状維持と、やり方次第での改善」
「デメリットは?」
「まあ今回のことがあっても相変わらず反省も自粛もしてないんで、犠牲者が今後も増えるでしょうねってぐらいなんじゃないでしょうか」
「なるほど。殺した場合のメリットは?」
「大きな脅威が一つなくなりますね。ちなみにデメリットとしては、その代わりに別の脅威がわんさか出てくる可能性があるということです。巨悪とは案外それ以外の面倒な存在への牽制となりうるもの。ここを下手に詰むと小さな火種がぽつぽつともり、やがて業火となってあなたをさいなむことになるでしょう」
「そのやっかいだが使える巨悪を、私たちは制御できそうか?」
彼はじっと、金色の美しい瞳を、同色の髪を、黒色の衣装がよく似合う輝かしい容姿を見つめる。合わせた手の下で浮かべた笑みの種類は苦笑いに近かった。
「あの色狂いは、やっぱり今でも初代魔王にぞっこんだ。贔屓だった長兄をあっさり殺し、一方で凶器をつきつけたままあらん限りの大口と暴言を投げつけまくった俺はご覧の通りのおとがめなし――」
「おい。私はそんなことをするなんて聞いてなかったぞ。何やってるんだ」
「結果オーライですよ、些事は気にしない、気にしない。ってことで、あいつは少なくとも積極的にあなたに嫌われることはしたがりません。これは確約できます」
「皮肉なものだな。金髪金目は無条件に好感度を稼ぐという噂は、本当だったってわけだ」
「おかげで我々には有利に事が進みましたので、そうふてくされなさいますな。可愛いお顔が台無しですよ」
「……うるさいっ!」
「うわ、つめてっ」
ぱしゃんと投げつけられたのは、噴水が落ちる人工池からすくった水だ。
ヒューズは身にふりかかった水しぶきに一言だけ感想と反応を示したが、直後何事もなかったかのようにきりっとした顔、きりりと澄ませたポーズに戻る。髪から水をしたたらせたままで。
「しかしご安心を。あの変態には、万が一にも殿下に近づかないように、僕の方からふかーく、それはもう、厳命しておりますゆえ!」
「なあその……でもやっぱり私が直接会ってこう、ビシッと言い聞かせる必要とか」
「そんな悲劇が実現したらあの変態は歓喜のあまり出会って3秒で昇天しますそれを見守る係の胃は怒りと屈辱とストレスで爆発しますやめてください馬鹿ですかあんたはそんなに自分から汚れに行きたいんですかそうですか」
「わかったよ!」
この側近がやたらに爽やかな笑顔で息継ぎなくなめらかに言葉を紡ぐときは、大抵ものすごく不機嫌になった時だ。一気に黒くなった自分の部下を前に、それ以上彼の父親について深く突っ込むことや接触をはかる意思を示すことはやめた方がいいと悟る。
リリアナが咳払いして微妙になった空気をなんとかしようとつとめていると、彼女が自分の意図をくみ取ったことを察したのか、機嫌が直ったらしいヒューズがニコニコと再び話し始めようとする。
「何にせよ、真祖があなたに害をなすことはありません。どうぞ煮るなり焼くなり僕を通してご自由に。ナイトメアはあなたのもの同然だ」
「別に今すぐどうこうするつもりはない。今まで通り勝手に生きればいい。ただ、こっちが少し話をしたいときに応じてくれれば」
「ではやはり現状維持ということで」
リリアナがうなずくと、話がまとまったようで、ヒューズも一度言葉を切る。
すると噴水に腰掛けたままの彼女は、男の端正な悪人面をまじまじと見ていたかと思うと、ふっとこちらも悪そうな顔に表情を崩す。行儀悪く池のふちに片足だけ膝を曲げて足をつき、その上に頬杖をつくような、少々器用なポーズを取った。
「死などたった一度の苦しみ、永遠の安息への旅立ち、か。生殺しとは、さすがに相手の嫌がる事をよく理解しているな。お前も大分曲がった性根だ」
彼女は目の前の男とかつて契約をかわした。
その際に男がほしがったものは復讐――苦しんだ末の、ターゲットの惨めな死。実行犯の兄の方は最愛の父に裏切られる死という形を迎えたことでいくらか溜飲を下げたようだが、その父親の方はまだ殺すのに足りないと判断した。
リリアナは彼からの報告を受け、今回の事件のまとめをそうとらえている。だからなじろうとまでは行かないまでも、揶揄してやろうぐらいの悪戯心は芽生えてくる。
するとヒューズはあろうことか吹き出し、礼節を守る姿勢をといて大分フランクな調子で応じた。
「いえいえ、これでも誰かさんよりかはまだかなりマシな方の部類かと」
「なんだと」
「またまたご謙遜を。だってほら、結局引退することになったのでしょう――例の可哀想な赤薔薇の人」
話題を振られたリリアナは眉根を寄せてから一度表情を消し、言われている事に思い当たると「あれか」とでもいうような雰囲気、やや重たげでけだるい吐息をもらす。
ニヤニヤ訳知り顔で嫌らしく見守る部下を前に、彼女はこめかみに指を当て、憮然とした素っ気ない声で喋りだす。
「哀れなことに後遺症が出てね。あれで現役続行は不可能だ。本人は抵抗もしたようだが、赤薔薇のウェスリーはその辺きっちりしてる。ちゃんと言いくるめてくれたよ。まあでも、事故で暴走した施設から私をかばっての名誉の負傷だ。引退先だって自分の領地に戻るのが少し早かっただけ。体面は十分保てるだろうよ」
「そんなに許せませんでしたか、あの若造が。昔あなたをいじめたから?」
「そうだな。何をしても誠心誠意謝れば許してもらえるとでも言いたげなあの傲慢さが、所詮子どもの事の戯れだったんだからたいしたことがなかったと考えていたあのお気楽な頭が、自覚すらしていない性根からの箱入り精神が、許せなかったのかもしれないな。実際見ているだけで虫ずが走るだろう? だからちょうどついでだし、これを機に遠ざけることにした――なんだその、さっきから深まるばかりの意味深な笑いは。まだ何か私から聞き出したいのか?」
面倒そうに無視しきれなかった男のうるさい顔に向かってリリアナが億劫な言葉を投げかけると、彼は目を細め、少し声の大きさを落とす。
「だって、あなたが今言ったような輩なんて、彼以外にもいくらでもいたでしょう。なぜ標的と決行をわざわざ定められたのです?」
にらみ合いが発生し、無言の駆け引きが始まる。庭園は噴水の水が流れる音と奇妙な緊張に支配される。
どこかのらりくらりとした態度の男に、そしてまるで今ここで毒を吐き出してしまいなさいとでも言いたげな瞳に屈したのか、先に目をそらしたのはリリアナだ。
彼女は水面に手を突っ込んで水遊びを始める。すくいあげられて散った水滴はふわふわとはかなげなシャボン玉のように浮き、偽の星空を反射して明るくきらめいて、二人の横顔を映す。
「ヒューズ。私は女だ」
再開させたリリアナの言葉は、今までのものよりぐっとトーンが上がって大人びている。少年のような勇ましくりりしく中性的な普段の声と違い、明らかに少女の、女の声で彼女は語る。
「女だから、男のことはわからない。知識は得られても、そうなのか、ぐらいにしか思えない。男同士の関係や距離感もいまいち理解できない。あの独特の空気感なんて絶対に溶け込めない。それは私が根っから女の身である以上、どう取り繕ったって入れない部分なんだ。もうずいぶん長いことこの格好をし続けているけど、だからようやくわかってきているよ。私はね、どんなに偽ったところで、私でしかないのだと」
「ははあ、なるほど。これで合点がいった。つまるところ嫉妬でございましたか!」
彼女の部下は、彼女の共犯者は、軽やかに晴れやかに声を上げてから、一転してささやくような、なだめるような調子に声をかえる。彼女のつまらなそうな横顔を、注意深く眺めつつ。
「あなたが許せなかったのは、自分の伴侶を自分から引き離すかもしれない可能性そのものだったのですね」
空に浮かぶ水の泡達がはじけ、美しい光景が消え失せる。水が散ったせいであたりは星空の下なのにまるで局所的な雨が降ってきたようだ。二人ともずぶ濡れだ。
そのしっとりと水に濡れた姿のまま、リリアナは池の上げていた片足を下ろす。かと思うともう片方の足をその上にひっかけ、行儀悪く足を組んだまま、ふちに両手をついて微笑む。つややかに光る目と、くちびるの動きがほんのり暗い星空の庭園に浮かんで光って、あでやかな跡を残す錯覚を与える。
「ティアはね。私だけ見ていれば良い。私が一番でなくてはならない。家族や友人は許す。悪友も必要。けど、私を忘れるぐらいの――そんな青臭い親友は、いらないんだ。そんなものできる前から消えてしまえ。……お前は私の理解者。だったら、わかってくれるだろう?」
彼女は笑う。
その顔のどこにも邪気は見られなく、ただひたすらに一途で無垢だ。
ゆえにより一層邪悪である。
セオドア=ヒューズは本人のいないところでしか大事な事を言わない主に、思わず心をこめて嘆息した。




