老女と若者
一行がリリアナに縁ある老女に挨拶を終えると、ベッドから身を起こした彼女はこんなことを言い出す。
「最近寝たきりが多かったのですが、今日は少し歩ける気がしまするぞ」
はあそうですかと思っているティアの横、シーラとヘイスティングズが妙な動き、具体的には目配せしあったような気がした。嫌な予感がする、と思っていると、ぽん、と師父が肩を叩いた。大体ティアにとってあまりいいことを考えていないときの爽やかな笑顔を向けて言ってくる。
「ジーク。お前、おばば様の散歩につきあえ」
「……俺がですか?」
間を置いた後怪訝そうに眉をひそめ聞き返してしまう。なぜよりによって。他に適任がいくらでもいるだろう、と周囲を見回しかけたティアだが、真っ先にシーラがさっと横を向いた。
「わたくし、ヘレン様のお着替えが終わりましたら、少しやることがございますので。ヘイスティングズ様とソーケル様にも手伝っていただきたいのですけど」
「へっ? おれっちもっすか?」
「お前もだ。お前にしかできないことだぞう」
「そっ、そうっすか? 頑張るっす!」
皆の意図がわかっていないのはどうやらニコとティアらしい。自分を指さしてきょとんとしている短命種だが、ヘイスティングズに念押しされシーラにほほえみかけられると、でれっとだらしなく頬をゆるめる。わかりやすい奴め、とティアにすら思われている短命種である。
ともあれ、男達が部屋から追い出されて少しすると、手早く身支度を調えたらしい老女が杖とシーラの介助を支えに部屋から出てきた。地味な色の、それでいて落ち着いたデザインの服は、どことなくリリアナの趣味に似ているなとふとティアは思った。彼女をリリアナがまねたのは、元から一致しているのかまではわからないが。
老女は簡素な鈍色のドレスに鶯色のショールを羽織り、こつこつと杖の音を響かせてゆっくり足を進める。
「じゃ、ジーク。しっかりやれよ」
「ヘレン様をお願いしますね。何かあればこちらのベルを鳴らしていただければ、わたくしすぐに参りますから」
「頑張るっす、シーグフリードさんー!」
一部からは若干無責任に、一部からは真剣な顔で言われ、ティアは困惑しつつシーラから小さなベルを受け取る。少し揺らすとちりんと小さな音が鳴った。思いっきり揺らせばそれなりに大きな音が出るのだろう。同時にどうやら老婆の持ち物らしい小さな手提げ鞄を渡される。荷物持ち程度なら慣れているので特に文句もなく心得た。
「何をしておるか。庭はあちらじゃ。案内してくだされ」
老婆にびしりと杖で膝裏あたりを打たれるので、さっさと歩き出そうとする。
「こりゃ! 婦人を置いてとっとと先に行く男がありますか!」
すると今度はぴしゃんと呼び止められたので、立ち止まってどうしろとという顔を向ける。
老婆はティアの服の裾をつかみ、もう片方の手でぴしぴし杖を打ち付けてくる。
「老いぼれの婆なれど、おなごはおなごですぞ。仮にも近衛騎士のはしくれなら、きちんとエスコートしてくだされ。まったく、あの似非紳士の弟子の割に気が利かぬお方ですな」
エスコートってつまり先導すればいいんじゃなかったのか。
と思っていた単細胞は、さらに細かい気配りが求められていることを認識し直し、とりあえず手を差し出しておく。老婆の小さな手が置かれたのを確認して歩き出そうとすると、また叱咤の声が飛ぶ。
「こおりゃ! 婆はあなた様ほど足が速くありませぬ! そんなにさっさか先に行かれては、転んでしまいまする!」
内心閉口しつつも大人しくがみがみ言われるままに従うティアである。
ぎこちなくも薔薇園まで出てくると、思わぬ寒さにだろうか、老女が身体を震わせた。ティアがじっと彼女を見ると、婆は鋭い眼光を向けてきて、しわがれた声を発する。
「なんじゃ」
「……寒いなら出歩かない方が」
「ふん、その程度はわかってくださいまするか。まあ気配りの仕方には改善点の余地しかありませぬが、相手のことを考える力はあるということ。ふむふむ……」
老婆はひょこひょこ歩いて行こうとするが、どうにも足取りが危なっかしい。ティアは途中何度か彼女が転ぶのではないかとひやひやしたが、彼がしっかり片手を握っているのと、彼女自身が杖を操っているおかげで事故は発生せずに済んだ。
老女が薔薇園の中にある白いベンチを杖で示すのでそこまで連れて行くと、彼女はゆっくりゆっくり、時間をかけて腰を下ろす。大きく息を吐いている身体には汗が浮かび、歩くだけでも彼女にはかなりの重労働なのだとどう見てもわかってしまう。ティアがどうしよう、と途方に暮れた顔をすると、彼女はべしべしと自分の横のスペースを叩いている。隣に座れと言う事らしい。
「それで、その後ひいさまと仲直りはできましたか」
しばらく黙っているからと油断していたら唐突に切り出された。は、とティアは首をかしげて沈黙し、頭の中で該当項目の検索にいそしむ。
「ひい様を泣かせたのでしょう。ひどい男ですじゃ。婆はそう聞いておりまする」
――あれか!
即座に言われている事に思いっきり心あたりがあることを思い出したティアは頭を抱えそうになる。後にも先にも、あそこまで大げんかしたのはクローディアのあれこれがあった一度きり。そういえばあの時、外部から人が来たとかなんとか、ヘイスティングズだったかヒューズだったか、それとも両方だったか、言っていたような記憶もうっすらある。
とりあえずそれなりの精神ダメージを受けている子竜のすねに、ぺしぺしと婆の杖が当たる。
「まったく、聞けば性悪女をうかうかと近づかせて、エバ様の事すらけなされて――情けない、実に情けない! 婆が現役でしたなら、そのような事はけして起こさせませんでしたぞ! このようなぼんくらがひい様の旦那様とは、このっ、このっ――」
勢いよくまくしたてていた老婆だったが、突如言葉を切らせたかと思うとむせ始める。大丈夫かとぎょっとしたティアの前で、彼女は小さな身体を折り曲げ、何度も咳き込んでいる。しかしティアがはっとしてベルを鳴らそうとするが、皺だらけの手がそれを止める。婆の薄くなった色彩の目が、彼に何か訴えかけていた。
彼は迷ってから、ベルをベンチの脇にそっと置き、婆の背中をおずおずとさすった。
時間をおくと、老婆の咳は落ち着き、彼女はぜいぜいと息を吐く。口元を覆っていた手に赤黒いものがべっとりとこびりついていたが、老女は心得たようにティアから手提げ鞄を受け取ると、その中からハンカチを取り出してぬぐっている。彼女はさらに鞄の中から小瓶を取り出し、中身を飲んでから一息吐き出した。
「情けないことじゃ。年ですな。身体がまったく言う事を聞きませぬ。だましだまし伸ばしてきましたが、いよいよ先がないようですじゃ」
ティアがなんと答えたものか迷い、結局黙ったまま相手を見つめていると、両手で杖をつき、老婆は語り続けている。
「わたくしは元々エバ=ダリア様のお世話係でございました。エバ様はとても素直でお可愛らしいお方で……わたくしはこのようなお方に一生お仕えできて幸せだと、あの方が幼い頃から思っておりました。魔王陛下の王妃に選ばれたと聞いて、心配を覚えたと共に誇らしく思ったものです。あの方が奥方になって、不満のある殿方なぞいないはずですもの。ほんに、人のことを優しく愛せることのできる方で……」
思えばリリアナの母、エバ=ダリアについて詳しく聞くのはこれが初めてかもしれない。ティアが黙っていると、老女はエバとの様々な思い出を語っている。彼女が立ち上がり、言葉を覚え、淑女として必要な稽古を始めた時のこと、失敗を繰り返して落ち込みつつも、婆が励ましてやると明るい顔を向けてきたこと、少しどんくさいところがあったが誰よりも愛らしい笑顔で周囲を魅了するヒトだったこと……。
断片的ないくつものエピソードから総合するに、エバ=ダリアという女性は屈託なく笑い、少女のように軽やかに駆け回り、誰よりも他人のことを気にかける少しお節介な部分もある人物だったようだ。
前評判通り、やはりリリアナとは余り似ていないヒトのようだった。
リリアナはどちらかというと人付き合いを嫌うインドア派だ。いや、でも勝手に城を抜け出して城下をさまよう放浪癖とか、たまに妙にアクティブな動きをすることはあるか……。
ごくごく自然に思考をリリアナにつなげていたティアだが、ふと老女がいつの間にか黙り込んでいたことに気がついて目を向ける。
「エバ様は、弱いお方でした。ですがあの方は、ご自分が弱いことを自覚なされていたし、それゆえに周りを頼ること、助けを求める方法を知っておられた」
婆の見つめている先をなんとなく追ってみるが、彼女がどこを見ているのかははっきりしない。
「ひい様は、きちんと子どもでいられなかったお方ですじゃ。せめて婆が母代わりになれたら、良かったろうが……婆は長く生きすぎましたし、この身体は貧弱すぎまする。ひい様は賢いお方ですから、大丈夫に見せるのがとても得意でらっしゃる。婆は、婆はですな。あなた様の事でひい様が感情を乱されたと聞き、怒りもしましたが、同時にどこか安堵もしたのです。ひい様が素直になれる方がきちんといらしたのかと。ひい様を正直にさせてくださるお方が、婆の死ぬ前に現れてくれたのかと。それが年のそう変わらぬ殿方であらせられることは、経験不足の不安はありますが――寿命の心配をしなくていい。あなた様はこれから長い時をひい様を共にあることができる」
いつの間にか老婆の小さな手にティアは自分の手を取られている。ほとんど力を感じなかったが、彼女なりに握りしめているのだろうという気がした。
「シーグフリード=ティア=テュフォン様。どうかわたくし共の姫君を、くれぐれも、くれぐれもよろしくお頼み申し上げまする。無理難題であることは百も承知。それでも婆は言わずにおられませぬ。殿下を愛してください。心の底から慈しみ、敬い、大事にして差し上げてください。一生をあの方と共に、裏切ることなくあることを――」
ティアは握られた手をそのままに、濁っている老女の目を見つめて数度瞬きしてから、静かに答えた。
「言われるまでもない。俺はリリアナの生涯の伴侶だ。俺の隣がリリアナの隣。俺が死ぬときがリリアナの死ぬときなんだ」
老女の身体から力が抜ける。くたりと彼女が倒れそうになるので慌ててささやくと、ぽたりと彼女の顔から何かが落ちていく。
「ひい様に最後お目にかかれなかったこと、悔いではないとは言えませぬ。けれど代わりにあなた様にお目にかかることができました。あなた様と直接お話しし、確かめることができました。婆はもう、ほとんど思い残すことは……」
老女が言いかけて咳き込む。先ほどよりさらにひどく、ベンチから転がり落ちそうなほどだ。杖が倒れた。今度はティアも迷いなくベルを鳴らす。まもなくシーラ達が走ってきて、慌ただしく動き回っている。
けれどその中で老女が動き出すことは、二度となかった。




