父と娘
しばらく一緒に過ごした後、リリアナはふっと目を細める。
「――そろそろ時間かな。ほら、一緒に行こう」
「どこに?」
「お父様のところさ」
リリアナはそう言って彼に手を差し出した。つなごう、という意味らしい。
おっかなびっくりその手に自分の手を重ねると、相変わらずへたくそな歩き方をする彼の手を引いて、彼女はゆっくりと歩を進め始めた。
薔薇のトンネルを抜け、廊下を少し歩くと、角を曲がったところで男と鉢合わせる。
男はどこか困ったような顔でそのあたりを行ったり来たりしていたが、二人に気が付いた瞬間、ぎょっとした顔になった。
「で、殿下!?」
「出迎えご苦労」
リリアナは彼につんと取り澄ました表情で言う。
対する男はすっかり動揺しているようで、リリアナに向かって慌てて跪く。
「あ、あの、自分は、殿下のご様子をうかがって参れと、陛下から――」
「わかっている。大事ないぞ。楽しい時を過ごした。それで、私はこれからお父様のところに行って、新しい友達を紹介するつもりだ。お前はどうする? どうせ目的地は一緒なんだし、私たちのお供でもするか?」
リリアナがからかうように言うと、ますます男はぎくしゃくする。
「で、殿下。では、その……自分のようなものでもよろしければ、喜んで務めさせていただきます」
「うん。ああ、それと前は歩くな、後ろからついてこい。連れはゆっくり歩くから、急かされると転ぶ。
――さ、行こう、ティア」
リリアナは彼を促して歩き出す。
畏まっている男の横を通り過ぎると、男は相変わらず戸惑っているような雰囲気ではあるが、しっかりと一定の距離を保って後ろからついてくる。
心なしか二人がつないでいる手を凝視している気がしたが、黙ったまま黙々と二人につき従う。
「リリアナ――」
「気になるか? あれは近衛だよ。偉いヒトの護衛をする兵士だ」
「このえ? ごえい?」
「私たちを守るのが仕事なんだ。偉いヒトっていうのは、いろいろと危ない目に会いやすいから、そういった危険から守るための役職ってのは必ずあるのさ」
「じゃあ、なんで今まではいなかったの? リリアナは魔王の第一王女なんでしょ? 偉いんじゃないの?」
「そりゃあ、私が偏屈で人嫌いだからね。つまり、私のわがままで普段はいないんだ。さっきそこでうろうろ迷ってたのも、お父様に様子をうかがってこいって言われたものの、ヘタなことしたら私のご機嫌を損ねるんじゃないかって、それで迷ってたのさ」
「ふーん……」
後ろをちらっと振り返ると、話題に挙げられている近衛の男は目を白黒させている。
リリアナに手を引かれるまま歩いていくと、次第に姿を現し始めた大人たち誰もが、唖然として、恐怖とすら言っていい表情を浮かべて彼らを見送る。
「なんであの人たち、あんな怖い顔しているの?」
聞かれるとリリアナはいたずらっぽく微笑む。
「気にしなくていい。お前はどうどうと胸を張って歩いていれば、それでいいんだよ」
そう言ってリリアナは歩いていき、一つの扉の前で足を止める。
やはり装飾が無駄についている大きな扉の左右には、後ろからくっついてきている男と同じような格好をした魔人が控えていて、リリアナが来ると驚きの表情を浮かべる。
「取次ぎを。お父様はそこにいらっしゃるんだろう」
「へ、陛下。殿下がお出でです!」
慌てて彼らが室内に声をかけると、ややあってから扉が内側から開いた。
気のせいだろうか、周囲の近衛たちがやたらと警戒している気がしたが、リリアナは全く気に留めた様子はなく、彼らに目を見張っている大人たちの間を悠々と歩いていく。
奥の方に二人分すわり心地のよさそうな椅子があって、そこに誰かが腰かけている。
片方が驚愕した顔の父親であることを見て、彼は嬉しい顔になったが、リリアナはもう片方の男に声をかけた。
「お父様、喜んでください。ついに私にも友達ができましたよ。ほらティア、挨拶。あれが魔王だ」
ええっ、と言われて彼は戸惑う。
確かに、ヒトの姿をしているが立派な角に竜と同じような翼、そしていかにも真面目そうな顔立ちの男は、身にまとっている服もなんだか複雑そうな形をしていて、父親以上に近づきがたく威厳のある風体だった。
そしてその顔は今、とても険しいものとなっている。父親をちらっとうかがうが、ちらりと魔王に目をやってから、彼の方にうなずく。
――はやく挨拶しろ。
父親がそう言っているのが聞こえた気がした。
「……こ、こんにちは……」
とりあえず挨拶を、とリリアナに言われるままに彼はおっかなびっくり言う。
そういえば忘れていたが、初めて会ったときの父親もこんなかんじじゃなかったか。睨まれているだけで嫌な汗が出てくる。
魔王はしばしの間険しい顔を浮かべていたが、突如その顔が崩れる。
「姫……おお姫よ、とうとう!」
少し前まで威厳に満ち溢れていた当代魔王は、いきなり滝のような涙を流し始める。
そのままの勢いで立ち上がった王に親愛を込めて思い切り抱きしめられたものだから、ティアは頭が真っ白になった。
リリアナの方は、魔王が近寄ってきた瞬間に、実にさりげなくティアを押し出して、自分は射程範囲外に逃れていた。
父はティアの次は娘を抱擁して、たぶん同じように頬ずりしようとしたのだろうが、両手を広げた瞬間冷ややかな眼差しで射抜かれた。
「王ともあろう方が、このような公衆の面前でみっとものうございますよ。お控えなさいませ」
「姫、しかし父は嬉しい。嬉しいのだ! 一人ではさびしかろうと連れてきた誰も彼もをすげなく断って、お前はもう、この先ずっと孤独なのかと毎日気が気でなかったが――おお!」
ティアを抱きしめたまま号泣する父親に、娘の目はどこまでも冷たい。
「これでもう、安心なさってご政務に励むことができますね。では、とっとと玉座に戻られたらいかがでしょう。臣下たちが嘆いておられましたよ、また陛下が娘のところにこもって出てこない、どうやって岩戸を開けようかと。心外です、そのようなことを言われるのは。臣下たちの言い方だとまるで、私が陛下をお引き止めして独り占めしているようではありませんか。御寵愛を受けている妾でもあるまいに。大体私はいつもさっさと仕事にいけと言っているのです。
さあ、心残りのなくなった今、陛下はご自分のなさるべきことを」
「姫や、お前の言っていることはもっともだし、確かにそろそろ仕事に戻らないと宰相が激怒しそうだし、それ以上に我は姫を愛しているのだが、一つだけ聞き捨てならぬ――。
妾などと言う言葉、どこで習ってきたんだ! パパはそんな下品な言葉、教えておらぬであろう!?」
「やかましい! ああ、これがまぎれもない自分の父親なのかと思うと本当に腹立たしい――ご政務を凛とこなされている、いつもの陛下はどちらにいらっしゃってしまったのか!」
「なぜだ、なぜ、臣下とまったく同じことを言うのだ、姫!? この父の夢だったのだ、娘にパパ大好き、と愛でてもらうこと――ささやかな夢ではないか。なのになぜ、姫はずっと反抗期なのだ!?」
「侍従、鏡を。この馬鹿に現実を叩きつけて差し上げよ」
リリアナの口からは、とても物心ついたばかりの子どもが父親に向けて言ったとは思えない、難解で辛辣な言葉がすらすらと浴びせられる。
だがそれ以上に、魔王の言動は今までの彼の魔王像、そして父親像を大きく破壊するものだった。
助けを求めてテュフォンを見ると、生ぬるい目で王と姫を見守っている。彼に関しては、目が合うとため息をついたが、特に助け出してくれようとする様子はない。
周囲に控えている侍従だとか近衛だとかも、おろおろするかあさっての方向に目をそらしているかのどちらかだった。
――結局彼は、リリアナによってようやく魔王から解放された。
娘がどうしても自分の抱擁を受けたくないのだと悟ると、魔王は彼のほうに構うことにしたらしい。
テュフォンがハラハラしているのを横で感じながら、彼は魔王に聞かれたことに答える。
魔王はニコニコと彼の話を聞きながら、ことあるごとに彼のことを褒めた――。
しばらくした後、魔王はリリアナにさんざん言われ、しょんぼりと仕事に戻っていった。
王城から帰るときには、リリアナが見送りにきてくれた。
彼女はティアの頬を撫でて、また来いとだけ言った。
彼は思わず両手で彼女の手をしっかり握ってうなずき、離せ、もう行けと言われるまでずっと握りしめていた。
父親に促されて歩き始めても、彼はリリアナの方をずっと見ていた。
リリアナは少しの間手を振っていたが、やがてつんととりすました顔になると、身をひるがえして戻って行ってしまう。
その後ろ姿が見えなくなっても、ティアは彼女を追っていた。よそ見のせいで転んだし、こけたし、ぶつかったが全く気にしなかった。
 




