1-7、ヘンテコな少女様っ!?
そのディークはさておき、そこから少し離れた場所で眠りこけていたアリスは、その時ようやく目を醒ました。
いつのまに眠っていたんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、なにやら騒がしい方向へとアリスは目を遣った。辺りはねっとりと闇が濃く、消え入りそうなたき火の火だけが唯一の灯火だったのだが、その向こうにディークが見える。何をしているのだろう、と寝ぼけ眼で立ち上がり、一応用心の為に剣を片手に持って暗闇に目を凝らす。ディークは何かを容赦なく蹴っているようだった。一体何事か、とアリスが近寄ろうとすると、ふいにその『何か』の声が耳に届いた。その声で一気に思考がクリアになる。―――子どもの声!
「ディー、何してるの!」
駆け寄ってアリスが息を呑んだ。小さな子どもが血の混じった唾液を吐きながら地面に蹲り、その側にディークが立っている。アリスは何よりも、常と変わらぬ表情で子どもに蹴りを入れ続けるディークに驚愕した。
ディークはアリスの声に気づき、足をぴたりと止めた。そして、何でもないような顔で、
「あ、起きちまったのか。悪ぃ悪ぃ」
とのたもうた。そのディークの反応に、アリスは唖然とする。目の前に倒れている子どもは、間違いなくディークに暴力を振るわれていたというのに。ディークは、平然とした顔をしている。呆然としたままアリスは子どもに歩み寄り、その手を子どもに向けて伸ばす。すると、
「近づくな」
すかさず、鋭い一喝がディークから飛んだ。その声に、アリスがぴたりと手を止めてディークを見る。形容しがたい、表情で。
「……どうして、こんなことを……」
呆然と呟いたアリスに対して、ディークは顎をしゃくって少年を示し、吐き捨てるように言った。
「コイツ、俺を殺そうとしやがった。つまりは盗賊だ。下手に近寄ったら、殺されるぞ」
「だからって…こんなこと……」
アリスの呟きに、ディークが眉をぴくりと上げる。
「こんなこと?」
「いくら盗賊でも……相手は子どもなのよ」
アリスは足元の子ども、自分と年嵩の変わらぬように見える少年を見下ろす。これでもかというほどに目を見開き、恐怖に慄いている。ディークと共にいた自分すらもその対象なのか、ずりずりと地面を這いずって必死に逃れようとしている。
ここまで恐怖を刻み付けておいて、その上手にかけようというのか。アリスは口を引き結んで、少年の体に手を伸ばす。
「……ヒッ!」
触れた途端に跳ねる少年の体を抱きしめ、アリスは「……大丈夫、何もしない」と耳元に囁く。すると、少年は震える手でアリスの服を掴んできた。
その背を静かに撫でて、跪いた体勢のまま、ディークを見上げる。
「このまま、隣国の警備隊に引き渡すわ。ちゃんと、正式な場で裁きを受けさせるべきよ」
だから、殺す必要はない――そう続けようとして、アリスは息を止めた。
赤銀の髪の間から覗く瞳。それが、凍てつくような冷たさを宿して光っているように見えたのだ。
「全く……なんて甘いんだ? お前は……」
ひどく穏やかで、囁くような静かな声。
こんなに静かなディークの声を、アリスは聞いたことが無かった。
雲が覆い隠していた青い月が、ディークの背後、遠く藍色の空からその顔を覗かせる。
その逆光のためにディークの顔に影が落ち、表情が見えなくなる。
息を止めたまま身動きできないアリスの耳に、少年のかすれた声が届く。
「ごめっ……なさ……、も、も……しないから、ゆるし……てッ!」
ぱあん。
軽い音がアリスの耳を突き抜ける。けれど、とてもとても嫌な音が、一瞬後にすぐ側で聞こえた。それと同時に飛び散った何かが、びちゃっと頬に付いた。ずしり、と腕の中の何かが重くなる。
頭の何処かで、それを見てはいけないと何かが警鐘を鳴らしているのが判った。何故、どうして、いろいろな言葉が頭の中を乱反射する。
呆然と――アリスは腕の中の何かを見た。
「――――――あ」
とても気持ちの悪いものが、目に飛び込んできた。どす黒いもの。どろどろとしたものが、何かから流れ出ていく。酸っぱいものが喉の奥に込み上げてきて、思わず何かを支えていた腕を放してしまった。
どさり、と草っぱらに何かが倒れ込む。
アリスはそれから目を離せない。ひどく重たい腕を上げて、頬についた何かを指先で拭い――粘っこいものがついているのに気づいた。それは――人の血。
月光の下、地面に倒れたものの姿が照らし出される。ぴくりとも動かない、そのモノは――人の死体だった。
けれど、それが判ってもアリスは悲鳴をあげなかった。瞳をはち切れんばかりに見開きながら、その場に座り込んでいる。
が、ディークはそんなアリスを気にすることもなく、大きく一度伸びをして言った。
「……はぁー、やっと終わった。さぁて、二度寝といくかぁ」
人一人殺した男のセリフだとはとても思えない。
欠伸をしながら、踵を返そうとするディークの姿を視界の端に捕らえながら、アリスはポーチに手を伸ばす。
「……!」
すばやく飛ばしたソレ――トランプの気配を勘で察知したのか、ディークが後ろに飛ぶ。
獣のような男だ、とそんなことを頭の隅で考える。
地面に着地すると同時に、ディークの頬に一本の赤い筋が入り、つうっと血が滴った。それを拭うこともせぬまま、ディークはアリスを見た。
「つか、さぁ。なんのつもりなワケ? それは」
アリスは片手に持っていた鞘から、長剣を抜き放っていた。剣の切っ先を、違うことなくディークに向ける。
顔を俯けたまま、アリスは一つ息を吸う。鼻孔に届く、血の臭い。それを嗅ぐと同時に、皮膚の下を流れる血がかっと熱くなるのを感じた。
「――あの時」
ぽつり、小さくアリスは、消え入りそうな声で呟いた。
「……あの時。私が――あなたの腕を落としておくべきだった」
きっ、とアリスが顔を上げる。腹の底からこみ上げてくるのは、間違いなく、ディークに対する怒りだ。
それをひしひしと感じ取っているだろうに、ディークは低く笑った。
「何がどうなって、そういう結果になるんだか。俺は、お前のことを助けてやったんだぜ?」
「あの子に、殺気は全く感じ取れなかったわ」
即座に、アリスが反論する。
「なのに――あなたは、あの子を殺した。どうしてそんな簡単に……人を殺せるの」
ざわざわと、周囲の木々が騒ぎ出す。二人の間に、少しの沈黙が流れる。空気は不穏さを孕み、張り詰めていた。
「――おまえ、ふざけんなよ。俺は、そいつに殺されかけた。そいつのナイフを見たか?血が染みついてる。しかも、俺を襲ったときだって全然躊躇してなかった。そいつはもう何人も、人を殺してるんだろうよ。そんな奴を、お前は庇うのか」
「あの子はそうするしかなかったのよ。あの子の体は、がりがりに痩せこけていた。きっと飢えに耐えきれずに――人を殺してしまった。けれど、あの子は反省していたわ。更正させることも不可能じゃなかったわ。それを……」
ディークは、からからと嗤った。額に手を当てながら、嘲る態度も隠さずに。
「そうするしかなかった? 反省してる? 笑えるなぁ。けど、どんな事情があろうとそいつに殺された奴らは納得しねぇだろうよ。そいつは、生きててもしょうがない。人を殺すだけの人生だ。殺してやった方がいいんだよ」
「あの子の価値はあなたが決めるものではないわ。そして、あなたにあの子を殺す権利なんてない筈よ」
「はっ。お前、どこまでおめでたいわけ? なんでそこまでそいつに味方すんだよ。自分と同じガキで――一人っきりで生きてたからか」
アリスはぎっと眉を歪め、カードを投げる。ディークはそれを軽くかわして、続けた。
「ふん。図星か?」
「……もういいわ。あなたとこれ以上話すことはない。私、あなたを倒すわ。あなたみたいに簡単に人を殺せる人間を、野放しにしておくわけにはいかない」
それは、ディークに対する宣戦布告だった。それを、ディークは獰猛な笑みを浮かべて受け入れた。
「……奇遇だな。俺もお前を倒して――いや、殺してやりたいと思ってたとこだ」
その言葉を合図に、アリスは地面を強く蹴った。