1-4、ヘンテコな少女様っ!?
「……なんで、俺達、まだ一緒にいるんでしょう」
ピヨーロロと鳴く鳥の声。目映いばかりに射し込む、太陽の光。
これ以上の穏やかな朝は無いのではないか、と思うほどの暖かな朝に、暗い声でそんなことを言う。
一人の老けた男――ディークはげんなりとしていた。
その隣には、青いウサギのぬいぐるみを抱えた、天使と見まごう程の愛らしい少女――アリスが地図を手に、うんうんと唸っている。
「そんなの理由はわかりきっているでしょ。あなたが地図を無くして迷ってるって言う から、地図を持ってるあたしと行動しているんじゃない」
端が所々ぼろぼろになって欠けている地図から目を上げて、アリスは不機嫌そうにディークを睨み付ける。
それに少しおののいて、ディークはその通りです、とこくこく頷いた。
そう。今も優位に立っているのはアリスなのである。
何故、この二人が今も一緒にいるのか。答えは、アリスが言った通りだ。
――はぁ、これからどうするかなぁ。
アリスのぬいぐるみを見つけた後。太陽も沈み、夜の森を歩くわけにはいかず、二人は火を起こして暖をとっていた。
――どうするって?
びしょびしょに濡れたぬいぐるみ――アンを火に翳して乾かしながら、アリスが訊ねる。
――俺さぁ、もう五日間もこの森で迷ってるんだよ。地図無くしちまって……。
アリスは笑うこともなく、呆れることもなく、
――バカね。
と一言言った。
一瞬、ムカッときたが、まことその通りなので何も言えない。ディークは口を尖らせた。
――あぁ~、マジでどうしよう……。
そう項垂れると。アリスはあっけらかんとした顔で言った。
――どうしようって?
――だからぁ、地図無くしちまって、途方に暮れてんだよ。こっちは。
――どうして途方に暮れる必要があるの?
何を言っているのか。同じ事を繰り返すアリスに、いい加減頭にきて、ディークは声を荒げた。
――だぁかぁらぁっ!
――あたしと一緒に来ればいいじゃない。
何でもないといった様子で、アリスが答えた。
――はい?
――だから、あたしと一緒に来ればいい。あたし、地図持ってるもん。
ほら、とアリスが肩に斜めに下げたバックから、所々欠けた地図を取りだして、ディークに見せた。
――……。
これは、何て言ったら良いものか。
――どしたの?
――……俺がついてってもいいのか。
――うん。だって、あたし一人がこの地図を独り占めにしても、何の意味もないもん。どうせ、この森を抜けるまでだし。それに、ディーは間違ってあたしに発砲したとはいえ、アンを探すの手伝ってくれた。だから。
――……ありがとよ。
昨日の晩にやりとりされた会話はこんなもの。
そして二人と一匹はここにいるわけだ。
「で。後どれぐらいで着きそーですか、アリス様」
取って付けた言葉使いで、アリスに尋ねた。
地図を持っているのはアリスであり、ここで自分が下手なことを言おうものなら、アリスに置き去りにされる可能性だってあるのだ。そうなると、やはりここは下手に出るしかないのである。たとえ相手が、自分よりもはるかに年下のクソガキであったとしても。まぁ、同行してしてもいいと相手が言ってくれているのだから、それに甘えるに越したことはない。
アリスは地図をたたんでバッグに直し、きっぱりと言った。
「ざっと、後一日ぐらいね」
答えを聞いて、ディークは黙り込んだ。……後一日もコイツと一緒かよ……。
「何か?」
「えっ。あぁ、何でもない」
一瞬、心の中を読まれたかと思って、ディークはどぎまぎとした口調で首を振った。
「この道を、真っ直ぐ北に歩いて行けば、ヴォルカノ王国に着くわ。行こう」
言って、アリスが歩き出す。
アリスに気づかれないように小さくため息をついて、ディークも後に続いた。
雪は、昨日よりも小降りだ。だから、歩くにも大して差し支えはない。
二人と一匹は雪に足跡を残しながら、もくもくと歩き続ける。そんな時間が何十分か続いたとき、ふと、アリスが口を開いた。
「ねぇ、なんか話して。ディー」
煙草を一人ぷかぷか吹かしていたディークは、眉間に皺を寄せた。
「なんで?」
すると、アリスも眉間に皺を寄せて言い返した。
「ずっとこのまま黙りって言うのは、退屈だから」
「そっちが何か喋れよ~。俺、別に話すことなんかねぇもん」
ディークがそういうと、アリスはこれでもかと思うほどその大きな瞳を見開き、ディークを睨み付けてきた。わずか七、八歳の子供に出来る表情ではない。もちろん、ディークはその場で降参した。
「じゃあ、一つ聞いてもいい?」
アリスは渋々だが頷いた。
「あたしがここにいる理由以外のことなら、いいわ」
「それじゃないよ。それはさっき聞いたもんな。俺が聞きたいのは、そっちが俺に聞いてきたことだよ」
スパーッと白い煙を吐き出し、アリスを見下ろす。
「ほら、俺と初めて会ったとき、聞いたろ?〝あなたは神様を信じる?〟って。あれ、どういうつもりで聞いたんだ?」
「あぁ。あれはね、試すつもりで聞いたの。あなたが、極悪非道の卑怯者かどうか。それを知るのに、あの質問はちょうど良かったんだよ」
アリスは、首に架けた青い十字のペンダントを外して、ディークに見せた。きらきらと光る青い十字は、水晶のように透明で、とても美しかった。宝石の類だろうか。
「今まで何度か私、盗賊に襲われたの。そしてこてんぱんにのしてやったら、面白いことに、みんな同じ事を私に言ったのよ。『どうかお願いです。あなたがこの大陸にいながら神を信じる勇気ある御方なら、どうかその慈悲深いお心で我らをお許し下さい』って。だから、もしもあなたが極悪非道の卑怯者で、信仰者と思われる人間を襲い、反対に剣を向けられたなら、自分の命惜しさにその人間の信仰の厚さを利用して、こう言うだろうと思ったの――自分は神様を信じています。あなたも信仰者なら、私に慈悲の心をかけてご殺生だけはご勘弁を。どうかその剣をお納め下さい。ってね」
そんなことまで考えていたのか。ディークはただただ呆れ返るだけであった。
アリスはいつもの無表情で、十字のペンダントを首に架けなおす。
「で、もしもあたしの質問に、はい。信じます。って言いながら、全然信じてなさそうだったら、ほんの少し痛めつけてやるつもりだったんだ」
ディークは口にくわえていた煙草を、ぽとりと落としそうになった。
自分が、殺されるのではないだろうか、と頭を悩ませていた間に、アリスはそんなことを考えていたのか。間違って発砲してしまったのは自分とはいえ、ディークはアリスを恨まずにはいられなかった。
「ってことは。俺のこと最初っから、極悪非道の卑怯モンだって決めつけてたのかぁ?」
「うん」
ずずーっと、ディークはすっ転びそうになった。自分はなんてツイてないのだろう。
すっかり落ち込んでしまったディークの側で、アリスはアンの耳をいじっていた。
「ねぇ、ディーの事、話して。あなたはあたしのことを知ってるのに、あたしはあなたのことを何も知らないなんてフェアじゃないもん」
アリスの言葉に、それもそうかな、とディークは納得する。
ふかしていた煙草をぽいっと雪の中に投げ捨てて、ディークは口を開こうとした、が。
今まで隣を歩いていたはずのアリスが、いない。後ろを振り向くと、アリスが地面の一点を見つめて、立ち止まっている。
何なんだ、一体。とか思いながら、面倒くさ気にディークはアリスの元まで戻った。
「どうかした?」
アリスはディークに目を向けることなく、地面にしゃがみ込んだ。手を伸ばして、真っ白な雪の中から、何かを取りだしてディークに突きつけた。
アリスの手の中にあったのは、小さな煙草のくず。さっきディークが、何気なく捨てたものだった。
「……なに簡単に捨ててるの。これは、その辺に捨てていいモノじゃないでしょ」
アリスはさもそれが当然だというように、煙草のくずをディークのポケットの中に入れた。これには、ディークの顔も引きつった。
「おい! 何もゴミをポケットの中に入れるこたぁねぇだろ!」
言って、ポケットに入れられた煙草のくずを再び捨てようとすると、アリスがその手を掴んで止めた。小さな手だが、やはりその握力は並のモノではない。
「あのね、もう立派な大人なんだから、マナーぐらい守ったらどうなの。次にこれをその辺に捨てたりしたら、その口にこれを突っ込むわよ」
どうやらアリス、こういうマナーの面でも律儀らしい。
ディークはすこぶる気に入らなかったが、仕方なく煙草のくずをポーチの中に入れてあったビニール袋の中に渋々捨てた。アリスの前でしっかりとビニールの口を縛り、ポーチの中に戻す。ディークは、これでいいんだろ、とばかりに胸を張ってみせた。
アリスは頷き、
「当然ね。これからは携帯用の煙草ケースを持って歩きなさい」
とディークの胸――でなく腹を(身長的に届かないのだ)一度小突く。
ディークは、うるさい母親みたいだな、マジうぜぇとか思いながら、はいはいと二回生返事をした。
するとアリスは小さく眉じりを上げた。
「はい、は一回。常識でしょ」
アリスの手がトランプの入ったポーチにかかる。
やばい、こいつやる気だ。と、本能で察知したディークは、歯をぎりぎり言わせながら言うとおりにした。普段の傲慢な彼らしからぬ従順な態度。
全てはこの森を出るまでだ。この森を抜け出たら、コイツの頭をせめて一発ぐらいは叩いて猛ダッシュしてやる。これが、今のところディークの目標になった。
ぶちぶち小言をぼやくディークを放って置いて、アリスは再び歩き始める。その背に思いっきりあっかんべーをかまして、ディークも後に続いた。
「とりあえず、さっきの話の続き」
目も遣らず、視線も向けず、背中を向けたままアリスが先の続きを促す。
ディークはへいへいと、頭の後ろで腕を組んだ。
――と。
ぐうううぅぅぅ。
情けない音が、二人と一匹の耳に響く。まず、アリスが立ち止まった。その次に、ディークが止まった。
「…………」
二人とも、何も口にしない。
ディークは、何の反応も―――というより、顔が見えないからそうとは言えないが―――示さないアリスをそぉっと見つめた。今のは世に言う腹の音。そして、それは自分ではない。アリスの持つぬいぐるみ、アンは人ではないから除外するとして、残りの可能性は一つしかなかった。―――つまり、アリスは腹が減っていたのだ。
ここで笑えば、間違いなく自分はトランプの餌食。ディークは笑いを噛み殺しながら、話の切り出し方をふと思いつき、左のポーチに手を伸ばした。中にどっさりと入っているモノを、一つ二つ取り出し、アリスの横を通り越して、ぱっと振り向いた。
アリスはディークの予想通り、顔を朱に染めていた。そして、あのアーモンドアイズで上目遣いに睨みつけてくる。ディークは、怯まず歩み寄って、
「おい。手ぇ出せ」
と言った。
アリスが、おずおずと左手を出す。ディークは、にっと笑って、アリスの小さな手に握っていたモノを落とした。
アリスの手に落とされたのは―――赤い包み紙に包まれた、二粒のキャンディ。
ディークは腰に片手を当て、自分もキャンディを口に放り込んだ。包み紙はその場に捨てずに、ポーチの中にしまう。
「腹減ってんだろ? 食えよ、上手いぞ。俺の太鼓判付きだ」
頬をぽこんと丸く膨らませながら、ディークが言う。
一方のアリスは掌のキャンディを、目を丸くして見つめている。まるで、目の前に信じられないようなモノが転がっているかのように。
ディークは、キャンディを口の中で転がしながら、アリスの様子を眺めていた。アリスは呆然としている。それを見て、ディークは不快な気持ちになった。
「……あのなぁ。毒なんか入ってねぇぞ」
ディークがムッとした顔でそう言うと、アリスはぴっと顔を上げて、ぶんぶんと首を振った。すぐさまキャンディの包み紙を開いて、ピンク色のそれをぱくんと口に含む。
『そうだ、それでいいんだよ』とディークは満足げに頷き、アリスの反応を待った。
アリスは口の中でしばらくキャンディを転がし、一言呟いた。
「……美味しい」
その言葉に、ディークがふわっと笑う。
「だろっ? そいつはな、俺の持ってるあめ玉ン中でも、気に入ってるヤツなんだ。こう……ピーチの甘みがだな、また絶妙なんだよ!」
目をキラキラ輝かせながら、拳を握って熱く語るディークに対し、アリスもふんふんと頷き、
「そうね。甘過ぎもせず、酸っぱすぎもせず……しつこくなくていいわね。口の中に広がる風味は最高だわ」
と賛同した。それに勢いづいたのか、ディークは更に笑みを深くしてアリスの頭に手を乗せる。
「なんだよ、お前キャンディの良さがわかるじゃねぇか! 俺とお前って結構気が合うのかもな。そう思わねぇ?」
いつのまにかまた『おまえ』呼ばわりされているのにも気が付かず、アリスは何故かぎくしゃくと視線を地面に落とす。
「俺とお前は……アレだ。今日からアメ友だっ」
アリスの両手を取って、「なっ?」と同意を求めるディークに、アリスは顔を少し赤らめながら、こっくと前に首を振った。
ディークは強くアリスと握手を交わすと、ポーチから更にキャンディを取り出し、アリスに分けてやった。
自分は気前が良いほうではないが、キャンディの味が分かる奴にやるのはやぶさかではない。
そうして二人はまた、歩き始めた。
さくさくと雪を踏み分けながら前を進む中、ディークはさっき思いついた話を始めた。
「―――俺はな。世界でいっちばんあめ玉が美味いと思ってんだ。手軽に食べられるし、携帯すんのにもちょうどいい大きさだ。それに、いろんな味があって楽しいだろ?」
「……それで?」
アリスは斜め横に顔を反らし、話の続きを促す。
「そう。そんで、俺は俺の国に居たとき、ふっと思ったんだ。『この国にいたら、この国のあめ玉しか味わえない。世界には、もっと俺の知らねぇ極ウマのあめ玉があるんじゃねぇか?』ってな」
「もしかして……その為に旅に出た、とか?」
半信半疑そうに尋ねるアリスに、ディークはあっさり「そうだけど?」と肯定した。
閉口するアリスを置き去りに、ディークは喋り続ける。
「いやぁ、本当に世界は広かった! ここに来るまでにいろんな国を渡り歩いたけど、宝の宝庫だったよ。ほっぺたが落ちるンじゃねぇかってぐらい美味いあめ玉が、たらふくあった」
ディークはポーチをぱちんと開いて中を探り、手に持てるだけ持ってアリスに見せる。
ディークの手には、溢れんばかりのキャンディがあった。皆、赤やら青やら黄色やら……鮮やかな包み紙に包まれている。その種類はハンパではない。目から鱗が落ちるとは、こういう表情を言うのだろうか。アリスはそんな顔をしていた。
「んで。俺は今も現在進行形で、美味いあめ玉探しの旅をしてるワケ。これが俺の言える俺の情報だ。オッケー?」
首を傾けてディークが確認を取ると、アリスは「……ええ」と答えた。真っ直ぐ前を見たまま、悠然と言ってのける。
「……下手に自分の事をぺらぺら喋るのは、危険だもの」
ディークが、ズボンのポケットに手を掛けて口端を上げる。
「よく分かってんじゃん。そう、俺ら旅人が気をつけなきゃなんねーことは、自分の情報を相手に教えすぎないことだ。それは己の身を滅ぼすことに繋がる。嘘をつくのもいい。……だけど、それが分かってて、なんでお前は俺に自分の事を話した?」
ディークが目を少し細めて、アリスを射る。
すぱん。
何かを切り裂くような音。しかしディークには、とても聞き慣れた音だ。いつかの如く、赤銀の何かが空を舞う。――ディークの髪だ。
アリスの右手はやや斜め上に上がっており。ディークがそれに気づいたとき、ようやくトランプがはらりと雪に覆われた地面に落ちた。
ふるふると、アリスを睨めつける。何故トランプを投げつけられねばならないのか。怒りもそのままに怒鳴りつけようとすると、アリスが錐のような目でディークを見、何度目かの注意を繰り返した。
「何度言ったら分かるの。……おまえ、じゃなくて、『アリスさま』でしょ」
指摘されて、また同じ過ちを繰り返してしまったのに気づく。このままでは、じじいになる前に丸坊主になるかもしれない。
アリスは落ちたトランプを拾って服の袖で水を拭い、ポーチに直した。
「それから、さっきの答えだけど。私がディーに自分の事を話したのは、ディーに悪いことをするだけの頭がないって、そう思ったからよ」
あまりのアリスの物言いにカチンときたディークは、勇気を振り絞って反論に出る。
「はぁ? そりゃああんまりにも言い過ぎだろ! 俺の何処が頭悪いっつうんだ。お前にそこまで言われる覚えはねぇ!」
「ほら。また『おまえ』呼ばわりじゃない。昨日から注意してるのにまだ直せていないのは、学習する頭がないからでしょ」
アリスが言うことはいちいち尤もである。が、ここまでコケにされる覚えはなかった。
大体、ディークは誰かを『様』付けで呼んだことが無い。というか、何故出逢ったばかりのガキ相手に『様』なんか付けなければならないのか。そう思うと、ディークは胃が捻くれる思いだった。が、相手は恐ろしく強いアリスだ。喧嘩を売って、負けることは無いにしても、自分もタダでは済まないだろう。しかし、そうなればやはりアリスを、『様』付けで呼ばなければならない。鬱々と考えた後、ディークは苦し紛れの提案をすることにした。
「あのぅ、アリス様。俺、誰かを『様』付けで呼ぶのに慣れてなくて。良かったら、『アリス』と呼び捨てにさせて頂けませんか?」
揉み手をしながら、ちらりと様子を窺う。ディークが恐れていた程の怒りはその顔には無く、いつもの無表情である。しばし何かを考えこんだ後、アリスがふと思いついたように言った。
「……ディーは、子供と会った事がないの?」
腕を組んでさらりと言ってのけたアリスの言葉に、「へ?」とディークが眉をひそめた。話の内容が、全く違う方向にずれてしまっているような気がする。
「そりゃ……会った事はあるよ」
とりあえず答えることにする。子供と会った事のない人間の方が、よっぽど珍しいと思うが……。
アリスはそれを聞くと顔をしかめた。
「それなのに、『さま』づけで呼ぶことに慣れてないの?」
「はい?」
子供と会った事があるか否かということと、『様』付けで呼ぶのに慣れていないことと、一体どういう関係があるのか。いよいよアリスの言いたいことが分からなくなり、ディークは頭を抱えた。
「小さな子供に対しては、『さま』って名前に付けるものなんじゃないの?」
アリスの口から漏れたセリフに、ディークが耳を疑う。……まさか。
「もしかして……おま……じゃなくてアリス様は、『様』の意味、知らねぇのか?」
バカにされたと感じたのか、アリスがへの字に口を曲げる。
「……だから、小さな子供の名前に付けるモノなんじゃないの?」
ディークはぱたぱたと手を振り、必死で否定した。
「違う違う。いいか、『様』ってのはな、自分よりも高い地位にいる人間とか偉い人間に対して付けるもんなんだ。ちっせぇ子供に対して付けるもんじゃねぇぞ」
これくらい一般常識である。アリスがまだ二、三歳なら笑って済まされようが、アリスはそうではない。まさか、こんなことを知らなかったとは。ディークは笑うよりも呆れ果ててしまった。そうして、はたとあることが頭に思い浮かんだ。もしかしたら……。
「おまえ……ひょっとして、記憶無くなる前は偉いトコのお嬢だったんじゃねぇか?」
ディークの推測に、アリスがぎょっと目を剥く。アリスは即座に首を振った。長い黄銀の髪がそれに合わせてびちびちと跳ねる。
「そんな訳ない。だって……もしそんな身分だったら、どうして私あんな森なんかにいたの? 絶対違うわよ」
すると突然ディークは、否定するアリスの髪を一房掴んだ。アリスが驚いて、少し身を引く。そんなアリスに構うことなく、ディークはその黄銀の髪をじっと値踏みするように見つめた。顎に手を当てふむふむと頷くと、ディークは何の未練も無くぱっと髪を放した。
「いや、無いこともなくはねぇぞ。この――おま……アリス様の髪が証明してる」
「私の髪――……?」
何を言っているのか解らないと、アリスが首を捻る。髪を一房掴んで見てみるが、何の変哲もない黄銀の髪だ。
ディークは腰に手を当て、やれやれと肩を竦ませた。
「ホントに何にも知らねぇのな。いっか? このカルネリア大陸にゃあ大きく分けて六つの部族がある。それぞれ赤銀、黒銀、白銀、黄銀、青銀、黒の髪を持ってて、その色が強いほど純血で、国じゃ位が高いんだ。お前の髪は、すっげぇ色が濃い。間違いなく世間一般で言う高貴の出だよ。貴族は純血がどーのこーのとか言って、他部族の血がてめぇの一族に入るのを死ぬほど嫌がるからな」
「それは……他の部族同士で結婚すると、生まれてきた子供は髪の色が薄くなってしまうってこと?」
「そうさ。どっちかの親の髪の色は受け継ぐが、髪の色はどうしても薄くなっちまう。貴族の奴らは穢れだなんだっつって、おキレイな純血同士で子供を作りやがるから、貴族の人間はどいつもこいつも髪の色の濃い奴らばっかなのさ。ふん、髪の色が濃かろうが薄かろうが、性根の腐りようは変わらねぇがな」
「……なら、ディーは? ディーだって髪の色、すごく濃いじゃない。その……貴族の出なの?」
顎に手を当て、ディークを見上げてくる。瞬間、アリスの表情が固まったように見えた。
ああ、またあの顔をしてしまったのか。と心の中で舌打ちをして、ディークはコロリと笑んだ。張り詰めた気を抜いてしまうような笑みを心がけて作る。
「まさか。俺のは、違うよ。染めてんのさ。天然物はもっとキレイだ」
短く返した言葉に、アリスは眉をひそめる。その目は、先ほどまでとは違い、疑心の色が浮かんでいる。
かといって、それに正直に答えてやる義理もないとディークはアリスを追い抜かした。
風に揺れる、己の髪。まるで燃え盛る炎のよう、と形容される赤銀髪。しかしこんな髪を持っていて、これまでろくなことが無かった。
「……嫌いなの? その髪の色」
背後から投げかけられた声に、雪を踏みしめるディークの歩みが、ほんの少し遅くなった。答えるのも億劫で、ディークは沈黙を守った。
「……私は綺麗だと思うわ。ディーの髪の色」
沈黙の空気を弾く、凛とした言葉。
言ってすっきりしたとでもいうように、アリスはいつもの歩みの速さを取り戻し、ディークを追い越した。
その背後で、ディークがどれほど驚いた顔をしていたか知ることも無く。
「まぁ、あなたの事はそれぐらいでいいわ。この世界の事を話して」
そのまますたすたと二、三歩行く内に、応答が全く無いことをおかしく思ったのか、アリスがディークを振り返る。
「ディー?」
ディークは心持ち顔を俯けて、胸ポケットから取り出した煙草を銜える。ぎくしゃくとした歩みになってしまうのが何だか腹立たしい。
「……話してもいいけどよ。もう、日暮れだぞ」
ぶっきらぼうに呟いたディークに、アリスが空を仰ぐ。遠く空の向こう側は夕闇に染まり、真上の空は薄紫に冴えていた。変わらないのは、体を濡らす雪の白さだけ。もう夜が近づいている。
「……じゃあ、野宿二日目ね」
その時。ほんの僅か、茂みの向こうに何かが光ったのを、アリスの腕に抱かれたアンだけが気づいていた。