2-4、尊大なウサギ様っ!?
深い沼の中にいるような気分だ。手足が言うことを聞かない。体が何かにひどく圧迫されていて、不快なしびれがアリスの意識を突いてくる。あまりの体のダルさに目覚めたくもないが、耳に入ってくる数人の話し声がアリスの覚醒を促した。
「で、いくらで売る?」
「八百ぐらいでどうでしょう。この面ならイケるんじゃないっすか?」
「いや、誰にやられたのかは知らんがかなり傷だらけだからな。値切られる可能性もあるだろう」
「あー、確かに……じゃあ……」
目の前に見えたのは、何本かの足。視界が横になっているのは、自分が床に転がされているからだと分かった。頬に感じる木張りの床が冷たい。
億劫さを押して目を上に上げると、五人の男の姿が見えた。
五人のうち三人が椅子に腰かけ、テーブルを挟んで向かい合い話し合っている。そして、一人が扉の前に立って外を気にしている。これは見張りだろう。そして、残る一人はアリスの傍に座り込んで欠伸をかみ殺している。
こいつらがどういった集まりなのか、そんなものこの会話を聞かなくても分かる。それぞれにやっていることは違うが、どの目にもぎらついた暗い光が宿っている。
とりあえず今進められている話は、アリスをいかに高く売り払うかという算段。アリスを「売り物」として考えているなら、拷問などの目に遭う可能性は低いかもしれないが、絶対とは言い切れない。こうした目をした奴らの気分というのが、まるで天気のようにくるくると変わりやすいことは、これまでの旅の中でアリスが得た数少ない知識だ。
ざっと見た限り、どの男もすぐ手が届く場所に武器を所持している。今のこの状態で、あれを持ち出されたら、アリスはいともたやすく殺されてしまうだろう。
そこまで考えて、どっと全身を襲った倦怠感にアリスは目を閉じた。本来なら、ここからすぐにでも逃げ出す算段を考えなければならない筈だ。これまで似たような状況に置かれても、アリスはずっとそうしてきた。しかし、思考がうまく纏まらない。
――どうして? 私は、ここで死ぬ訳にはいかないのに。
アリスは誰とも知れない何者かに、問いかける。その問いかけに答えるものはいない。
アリスの存在理由。それがアリスのたった一つの行動原理で、これまで培ってきた筈の記憶をなんら持たないアリスの心のよすがだったのだ。
アリスにたった一つ残されていたもの。
――あの一族を、必ずこの世から殲滅する。
その願い。強い強い思い。それを叶えること。それしかないからこそ、アリスの行動にはブレがほとんどなかったのだ。
それなのに――アリスの意思どおりに、アリスの身体は動かない。
(怪我……してるから……?)
心の中で呟いて、アリスはすぐにそれ否定した。この、絡みつくような無力感は、怪我の痛みから来るものではない。
『死ぬってことがどれほど恐ろしいことか、お前に分からせてやるよ』
残虐な光を宿しながら弧を描いていた赤茶の目を思い出す。そしてそこから始まった、地獄のような時間。
カタ。
小さな音が聞こえたのは、その時だった。
カタカタカタカタ。
小さな音は途絶えることなく続く。どこからそれが聞こえるのかと耳を澄まして、アリスは愕然とした。
その音は他でもない、縄で自由を奪われたアリスの手から発したものだった。小刻みに震える手が気張りの床を叩く音。それが音の正体だった。
(なんで? なんで震えてなんか……)
この、どうしようもない状況に怯えているのか? まさか、こんなこと、巻き込まれたのは一度や二度ではなかった筈。初めて経験する「感情」に、アリスはそれが自分のものとも思えず混乱していた。
その混乱に乗じて、それまで完全に安定していたアリスの精神の中に、異物が流入してくる。
割れた爪から染み出している赤黒い血。その爪の間に埋まる土。全身を襲う鈍い痛み。胃の底からこみ上げてくる酸っぱい嘔気。指先一つ思うままに動かない。
それらが、ディークに与えられた『恐怖』と『絶望』。アリスはこれまで、あの時ほどになすすべなく一方的に叩きのめされたことはなかった。圧倒的な力の差。振るわれる暴力。それらが「人間」に及ぼす影響というものを、アリスは今己が身をもって痛感していた。
(怖い? そうか、私、怖いんだ)
たった一人の人間に負けた。圧倒的な力でねじ伏せられた。そんな自分が、本当に『あの一族を殲滅することなど出来るのか』。その思いが、アリスの全ての行動に歯止めを掛けていた。
『それ』を果たせないのだとしたら、私は何を標に生きていけばいいのか――。
その自覚は、アリスにこれまで味わったことのない強い恐怖をもたらした。体の震えが止まらない。歯の根が合わなくなり、冷や汗が皮膚の上を伝う。
「……おいおい、気がついたみたいだなぁ」
軽薄な声が頭上から降ってくる。全身に絡みつくような視線を感じて目を上げると、顔色の悪い痩身の男が視界に入ってきた。ぎょろりと動く目玉が言い様もなく気味が悪い。
土と雪に汚れたアリスの金銀髪を掴み、アリスの顔を覗き込んでくる。
「なぁ、ちょっとこいつでも遊んでもいいかぁ?」
軽薄そのものの声で、男は顔を突き合わせて話しこんでいる奴らに伺いを立てた。
話を止めてこちらに目を向けた男達は、ふうと息をついている。
「おいおい、またこいつの悪い癖がでやがったよ」
肩を竦めて椅子の背もたれに両腕をかける男は、興味なさ気に懐から酒を取り出し煽り始めた。
その男の隣にかけている違う男が、一瞬だけこちらに視線をやって目を眇める。
「遊ぶのはいいが、壊すなよ。大事な『商品』だ」
向けられた視線は、『モノ』を見るそれと変わらない。その冷めた目に強烈な吐き気を感じた。しかし、それに対して対抗するだけの力も気力も残っておらず、アリスは襟ぐりを掴まれて隣の部屋へと続いているだろう扉まで引きずられる。
扉が開け放たれると同時に、部屋の中に放り投げられる。アリスは床に身体を打ち付けられる痛みを覚悟したが、予想に反して肌に感じたのは、柔らかい布の感触だった。
これは、と思った瞬間、腹の上にぐっと何かが乗ってくるのを感じてアリスはうめき声を上げた。
腹の上に乗っていたのは、言うまでもなく顔色の悪い痩身の男だった。アリスの身体を跨いでその体重でもってアリスの動きを制している。そんなことをせずとも、アリスが抵抗出来ないことぐらい見れば分かるだろうに。
「へへっ、久々の「女」だ。楽しく遊ぼうぜぇ?」
大人しくしてりゃあ、お前も楽しませてやるからよ――と、ぎらついた目でアリスを見下ろし、男は舌なめずりをしてアリスの首元に手を伸ばしてきた。
びりっと、胸元から腹にかけて服が切り裂かれる。外気に直接肌をさらされ、その寒さに皮膚が粟立つ。しかし、すぐに肌の上を滑る粘っこく生ぬるい他人の手の温度の方が、余程鳥肌ものだ。
「…………ぅ」
この気持ちの悪い手を跳ね除けたいのに、その力もない。
「ひ…………っ」
次いで肌を這った生ぬるい濡れた感触に、それが男の舌だと知ってアリスは叫び出したくなった。
――だれ、か。
心の中で、必死に叫ぶ。
――だれ、か。たすけて。
アリスは「助けて」という言葉をこれまで使ったことがない。何故なら、意味がないからだ。アリスは現在の「アリス」として目覚めたときから、誰も頼るものなどなかった。その言葉を使って「助けてもらえる」のなら、アリスはその言葉を幾らでも紡いだだろう。しかし、目覚めた時からアリスはひとりで、どんな状況においても頼りに出来るのは自分の力だけだった。それで何とかやってこれたのだ。だが。
恐怖を「実感」として知った今、心の奥底から湧き出してきたその言葉を留める術はなかった。
それは音になっては現れなかったが。
「……おいおい、そんなに怖がらなくてもいいじゃねぇか」
にやにやしながら手と舌を這わせる男から顔を背け、アリスはぎゅっと目を瞑った。
久しぶりの更新です……。