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短編集

月、剃刀、抱っこ

作者: 夏野ゲン

お月様を見上げると、じいちゃんのことを思い出す。

それほどにあの日のお月様は、印象的だった。







私がまだ小さかったころの話だ。


私は散髪というものがひどく苦手だった。

その散髪の中でも、最後の剃刀がけ、特に首筋のそりが大の苦手だった。

くすぐったがりの私は、首筋を金属でなぞられるたび、ぞわぞわした気持ちの悪さが背筋を駆け抜けていくのに耐え切れず、思わず暴れてしまうような子だった。


本当に今思うと、剃刀が何であんなに嫌いだったのかわからない。

しかし、当時の私は泣き叫んで抵抗するぐらい嫌いだったのである。


私が散髪に行くときは、じいちゃんが決まって私を連れて行った。

床屋のおじいさんはじいちゃんと顔なじみで、じいちゃんは床屋さんと世間話をしつつ、タバコをふかして待っているというのが常だった。


その日も私は床屋に連れて行かれ、例のごとく暴れていた。

じいちゃんは私が剃刀をかけられて暴れそうになるたび、「耳がなくなるぞ」と脅してみたりした。

しかし、幼い私でも脅し文句にはなれるもので、次第にじいちゃんの脅しは効かなくなっていった。


脅してだめなら、次はご褒美作戦である。

「ひとつだけお前の願い事をかなえちゃる」

この殺し文句を糧に、私は幾度となく剃刀の攻撃に耐え抜いた。


そしてその日も、私はじいちゃんから「願い事をひとつかなえる権利」を得ていた。


私は涙を抑えて、その日も拷問に打ち勝った。そして、私はその日のお願い事を高らかに宣言したのである。


「お月様に触りたい!」


じいちゃんもさぞかし面食らったことであろう。

子供の夢の詰まった願い事というのはげに恐ろしいものである。無碍にはできないし、それでいて実現させることは到底不可能だ。


しかしそんな無茶な私のお願い事を前にしても、じいちゃんいつものように不敵に笑い、「おっしゃ任せろ!」というのだった。


そんな威勢のいい答えの裏で、じいちゃんは必死に知恵を絞っていたことであろう。






さて、その日の夜はよく晴れて、お月様はまん丸。まさしくお月様にタッチするには絶好の日だった。私は縁側に座ってお月様に手を伸ばし、手を開いたり閉じたりした。


お月様はどんな感触なんだろう。やわらかいのかな?それともごつごつしてる?


私はわくわくしながらじいちゃんがお月様に触らせてくれるのを待っていた。

じいちゃんはしばらくするとリュックサックを背負ってのんびりとやってきた。

私に「いくぞ」と声をかける。

私はパタパタと走って追いつき、ごつごつざらざらした、でも暖かいじいちゃんの手を握った。


じいちゃんの後につき、夜道を歩く。それは夜に出歩いたことなどほとんどない私には、それだけで十分わくわくする大冒険だった。


じいちゃんと歩く道は次第に暗く細くなり、街灯もない山道になる。

じいちゃんがリュックから懐中電灯を取り出し、行く道を照らす。

真っ暗闇に響く虫の声、差し込むお月様と星の光。時々恐ろしげに響く鳥の鳴き声。


夜の闇の恐怖は私にどきどき感を、じいちゃんの手のあったかさは私に安心を与えてくれて、私の気持ちはぐるぐるまわって飛び上がっていきそうなほど興奮していた。


山道を登るたびにどんどんお月様が近づいてきて、今にもタッチできそうな気がしてくる。




そんな私の興奮は一瞬止まる。


続いていた山道、途切れ途切れの林が急になくなり開けた場所に出る。

そこには決して広くはない池があった。

そこでは静かに水面が揺れ、星空をいっぱいに移していた。


「……きれい」


あのころに比べて語彙の多くなった今の私でも、あのときの情景はこの言葉でしか表せないと思う。


私は目の前に広がる星空に心を奪われ、しばらくの間ボーっとしていた。

そしてそのあいだに、暖かくて安心感をくれていた手が離れていることに気がついた。

私は急に心細くなる。じいちゃんはどこだろう?


じいちゃんはすぐに見つかった。懐中電灯の明かりは消してあるが、月明かりだけで姿が見える。暗いけど明るい。


何をしているのかと覗き込むと、そこには一艇のボートがあった。


じいちゃんが池に向かってゆっくりボートを押し出すと、静かだった水面に波紋が立つ。

私はじいちゃんに抱き上げられて、ボートに乗る。


「さあ、月を触りにいくぞ」


じいちゃんはゆっくりと漕ぎ出した。


ボートが進むたび、目の前に広がる星空は少し崩れ、ゆらゆらしながら元に戻る。

その幻想的な光景に私はとりこになった。まるで宇宙を旅しているみたいだ。


ボートは進み池の真ん中。そして目の前には大きな大きな月がゆらゆらとゆれている。


私はボートから身を乗り出し、お月様に触れた。

月は私の手で崩れ、ゆらゆら揺れる。波紋は広がり、そして次第に元の形を取り戻す。


じいちゃんはのんびりときいてきた。


「お月さん、どうだった?」


「…なんだか冷たくて気持ちよかった」


じいちゃんは何も言わず、ただ笑ってうなずいた。




…まぁでも、これで終わらないのがわが祖父である。


じいちゃんは担いできたリュックをがさごそとあさった。

そして出てきたのは一升瓶とお猪口。


とくとくとお猪口に注がれるお酒。

そして、じいちゃんはお猪口を私に見せてニカリと笑う。


「お月さん見えるか?」


じいちゃんの手の中、お猪口をのぞくと、確かにお月様が映っていた。

私はこくこくとうなずく。


じいちゃんはそんな私を見届けると、お月様が映ったお猪口の中身を一気に飲み干した。

そして言うのである。


「あぁお月さんはうまいなぁ…」


私はうずうずした。お月様はどんな味?

私の様子を見て、じいちゃんはまたも不敵に笑った。


「お前もお月さん飲んでみるか?」


私は大きくうなずいた。


じいちゃんはニヤニヤしながら私にお猪口を手渡し、とくとくとお酒を注いだ。

お猪口にゆれるお月様。お酒の甘いにおい。


私はお月様を一気にあおって……盛大にむせた。

その日飲んだお月様は大人の味がした。きっといつまでも忘れられない。




興奮し続けた後に、お月様を飲んだのがよくなかったのだろう。

私は帰り道で耐え切れずに眠ってしまった。


じいちゃんはお酒の入ったリュックを背負って、私を抱っこしながら山道を下って帰った。

その途中のことは何も覚えていないけど、タバコと少しのお酒のにおい、そしてじいちゃんの体温が安心感を与えてくれた。


そのときはなんとなく素敵な夢を見ていた気がする。

私が宇宙飛行士で、じいちゃんは船長。そんな風に宇宙に漕ぎ出してふわふわ漂う。そんな夢だったような気がする。







あの日以来、お月様を見るとあの日の光景とじいちゃんのことを思い出すようになった。

そして、そんな幼かった私は大学生になり、


……祖父は亡くなって2年になる。


時は夏休み、お盆間近。


今年の帰省はおいしいお酒を買って帰り、じいちゃんとお月さんでも飲もうかな。

そんなことを考えている。



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