棚に置いたままの声(過去)
高校二年の夏。
蝉の声が窓から流れ込み、部屋の空気は熱で膨らんでいた。
進路希望調査の紙を、何度も書き直していた。
第一志望――文学部。
小さいころから本を読むのが好きだった。
図書室の静けさの中で、言葉だけが確かなものだった。
物語の中では、誰にも「こっちのほうがいいでしょ」と言われない。
好きなページを、好きなだけめくっていい。
夕食後、わたしは勇気を出して言った。
「文学部を受けたいと思ってる」
母は箸を止めた。
一拍置いて、静かに言う。
「文学部?就職に不利よ。やめなさい」
その声は、あの日のスーパーと同じ温度だった。
叱っているわけでも、怒っているわけでもない。
ただ、“より良い選択”を示す声。
「でも、好きだから……」
「好きだけじゃ食べていけないの。経済とか、看護とか、資格が取れる学部にしなさい」
わたしはうなずかなかったし、反論もしなかった。
胸の奥で、何かが静かに折れる音がした。
思い出した。
七歳のあの日、キャンディを棚に戻されたときの感触。
――選んでいいよ。
その言葉は、いつも途中までしか本当じゃない。
わたしは進路希望の紙を書き直した。
文学部の文字を消し、経済学部と書き込む。
ボールペンの跡が濃く、紙にへこんで残った。
夜、机に向かいながら思う。
どうしてわたしは、自分の「好き」を守れないんだろう。
母はきっと、わたしを守ろうとしている。
傷つかないように、困らないように、失敗しないように。
でも——。
守られるたびに、わたしの中の小さな声は、また棚に戻される。
キャンディも、文学も、
わたしの「好き」は、いつも少しだけ手の届かない場所へ置かれる。
蝉の声がやまない夜。
わたしは消したはずの文字の跡を、指でなぞった。
へこんだ紙の感触が、
まだ、確かにそこにあった。




