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ライフコース  作者: 只野 唯
退職編
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はじめの一歩

 目が覚めた瞬間、胸の奥に薄く広がる湿った悲しさだけが残っている。でも、どんな景色だったのか、誰が出てきたのか、何一つ思い出せない。ただ、少し寂しい。

 だけど、カーテンの隙間から入る光が、今日はまぶしすぎない。

 頭が、少しだけ冴えている。

 今しかない。

 そう思った。こういう日は貴重だ。波が引いたあとの、ほんのわずかな凪の時間。逃したら、また沈むかもしれない。

 テーブルにノートパソコンを置く。深呼吸をして、相談窓口のメール画面を開いた。

 先ずは伝えたいことを箇条書きにする。

 ――体調が悪いこと。

 ――メンタルクリニックにかかりたいこと。

 ――自分で病院を選べないこと。

 ――最寄り駅。

 読み返すだけで、心拍数が上がる。こんなに弱い自分を、文字にして差し出していいのかと、まだどこかで迷っている。

 書いては消し、書いては整える。

 「お忙しいところ失礼いたします。」

 「突然のご連絡で申し訳ありません。」

 謝ってばかりの文章になる。何に対して謝っているのか分からないのに。

 最寄り駅の名前を打ち込む指が震える。自分の居場所を特定されるような、妙な緊張がある。でも、相談するなら必要な情報だ。

 時計を見ると、午前中はとっくに過ぎていた。

 たった数百文字のメールに、半日かかっている。

 いつもなら一分もあれば送れる業務メール。定型文を貼り付け、確認し、送信。それが普通だったのに。

 今日は、ひとつの文を決めるのに三十分。

 それでも、やめなかった。

 今しかないから。

 最後にもう一度、全文を読む。

 完璧じゃない。弱々しいし、要点もまとまりきっていない気がする。それでも、今の自分が出せる精一杯だ。

 送信。

 画面に「送信しました」と表示される。

 その瞬間、体の力が抜けた。椅子にもたれかかり、天井を見上げる。

 これで、今日はもう十分だと思った。

 返信は翌日に届いた。

 件名に、自分の名前が入っている。

 それだけで、胸がぎゅっとなった。

 恐る恐る開く。

 文面は、体調を気遣う言葉から始まっていた。

 「ご連絡ありがとうございます。つらい中でメールをくださったこと、とても大切な一歩だと思います。」

 その一文を読んだだけで、視界がにじんだ。

 返信が来た。

 それだけで、私はこんなにも救われるのか。

 ぽたぽたと涙がキーボードに落ちる。誰かがちゃんと読んでくれた。私の言葉を、受け取ってくれた。

 メールには、住んでいる地域から通いやすいメンタルクリニックが三つ、丁寧に記載されていた。住所、電話番号、簡単な特徴。

 一つ目。女性医師在籍。予約制。

 二つ目。駅から徒歩三分。口コミが良いと書いてある。

 三つ目。比較的新しく、待ち時間が少ない傾向。

 どれも、ちゃんとしている。

 ちゃんとしすぎていて、また迷う。

 どれが正解なんだろう。

 どこを選べば、間違いじゃないんだろう。

 スクロールして、上から順に見直す。下からも見る。順番を変えてみる。

 決められない。

 それでも、ずっとこのままではいられない。

 私は画面を閉じて、もう一度開いた。

 三つのうち、真ん中に書かれていた病院に、目が止まる。

 理由はない。特別惹かれたわけでもない。強い根拠もない。

 ただ、真ん中。

 極端じゃない位置。

 真ん中なら、間違いすぎない気がした。

 電話番号をタップする。

 呼び出し音が、やけに長く感じる。

 出なかったらどうしよう。予約がいっぱいだったらどうしよう。声が震えたらどうしよう。

 数コールのあと、受付の人の声が聞こえた。

 「はい、〇〇クリニックです。」

 その瞬間、喉がひりつく。

 それでも、言えた。

 「初診の予約をお願いしたいのですが」

 声は少し震えていた。でも、確かに出た。

 予約日は、来週の火曜日になった。

 電話を切ると、手のひらが汗で湿っていた。

 何か大きなことをやり遂げた気がする。

 まだ診察も受けていない。何も解決していない。それでも。

 自宅の玄関も開けられない私が、病院の予約を取った。

 たったそれだけのことが、今日は少し誇らしかった。

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