はじめの一歩
「はじめまして、臨床心理士の佐藤です」
軽く頭を下げた人は、とても穏やかな目をしていた。
左手にはシルバーのシンプルな結婚指輪。生活感のある指。きっと休日は公園で子どもを追いかけているような、そんな人。
主治医の言ったとおりだな、と少しだけ肩の力が抜けた。
ショートケアに通いたい気持ちはあった。
でも、人が怖い。
他の利用者さんもいる。
人と関わる練習の場だと分かっているからこそ、怖い。
ちゃんと挨拶できるだろうか。
変なことを言わないだろうか。
浮かないだろうか。
胸の奥がざわつく。
「主治医の先生からお話は聞いていますよ。まずは見学だけでも大丈夫です」
佐藤さんは、こちらの不安を急かさず、ゆっくり言葉を置く。
「ショートケアは、“できるようになる場所”というより、“できなくても大丈夫な場所”なんです」
思わず顔を上げた。
できなくても、大丈夫。
会社ではできないことは許されなかった。
普通でいること、普通以上であること。
ミスをしないこと。
役に立つこと。
できない自分は、いない方がいい。
そんな前提で生きてきた。
「最初は、部屋の隅で座っているだけの方もいますよ。途中で帰る方もいます。ここは練習の場なので、それでいいんです」
優しさが怖い。
でも、少しだけ、あたたかい。
「今、不安はどのくらいですか?」
急にテストをされている気分になる。
でも、佐藤さんの目は評価ではなく確認の目だった。
「……七十、くらいです」
「じゃあ、今日は七十のままで大丈夫です。ゼロにしなくていい」
ゼロにしなくていい。
私はずっと、不安をゼロにしてから動こうとしていたのかもしれない。
「来週、1時間だけ体験してみませんか。途中で帰ってもいいし、僕もいます」
“僕もいます”
その一言が、不思議と支えになる。
人が怖い。
でも、人がいないと生きていけない。
ショートケアは、社会に戻るための場所だと思っていた。
でももしかしたら、自分を取り戻すための場所なのかもしれない。
緑が基調のホームページを思い出す。
落ち着いた色。
全部に当てはまったチェック項目。
私は小さく頷いた。
「……行ってみます」
不安は七十のまま。
でも、ゼロにしなくていいなら、歩けるかもしれない。




