決定事項(過去)
就職した会社は、母が好きそうな会社だった。
派手ではない。急成長でもない。けれど、潰れなさそうな、堅実な、いかにも「ちゃんとした」The日本企業。
「いい会社じゃない」
内定を報告したとき、母は満足そうに言った。
私は総合職で入社した。四年の秋から研修が始まる。
スーツを新調し、パンプスを磨き、提出書類を封筒に入れる。社会人になる準備を、淡々と進めていた。
その横で、母が何気ない口調で言った。
「引っ越しはいつするの? 一人暮らし、楽しみでしょ」
手が止まった。
引っ越し?
一人暮らし?
一体、何の話をしているのか分からなかった。
「え?」
と間の抜けた声が出る。
私は、大学卒業後も実家から会社に通うつもりだった。
そのために、総合職だけれど転勤のない企業を選んだ。勤務地が変わらないことを、何度も確認した。家から通える距離かどうかを基準に、会社を選んだ。
「通うよ。ここから」
そう言うと、母は少し驚いた顔をした。
「え? 社会人になるんだから、一人暮らしするのが普通でしょ」
普通。
またその言葉だ。
「のんびりしてると、いい物件はなくなっちゃうわよ」
もはや、母の中では一人暮らしは決定事項だった。
私は、混乱していた。
実家にいろと言われてきたわけじゃない。門限があったわけでもない。でも、大学生の間、終電で帰れば責められた。夜遅くまで外にいると心配された。
それなのに今度は、「自立しなさい」と言う。
どちらが普通なのか。
どちらが母の望む娘なのか。
私は、自分の意思で会社を選んだつもりだった。
でも、その選択の前提は、「家から通う」という静かな希望だった。
家を出たいわけではなかった。
安心できる場所を、急に手放したくなかった。
それは甘えなのだろうか。
社会人になるということは、一人暮らしをすることなのだろうか。
スーツのジャケットをハンガーにかけながら、私は黙った。
母はすでにスマホで物件情報を見始めている。
「駅近がいいわよね」
画面の向こうに並ぶ、間取り図。
そこに、私の気持ちはまだ追いついていない。
私の人生なのに。
いつも、少しだけ、決定が先に進んでいる。
私は、そのあとを慌てて追いかけている。




