矛先(過去)
後輩の仕事には、いつも「ちょっとした」ミスがあった。
数字が一桁ずれているとか、日付の西暦が抜けているとか、添付ファイルの名前が違うとか。本当に、ちょっとしたこと。
重大ではない。私がダブルチェックすれば済む話。
だから、言えなかった。
「ここ、直しておいてね」
その一言が言えない。言えばいいだけなのに、言えない。嫌われたくないのか、責めていると思われたくないのか、自分でもよく分からない。ただ、「まあ、私が見ればいいか」と飲み込んでしまう。
言い訳だって分かっている。
指摘する労力を先延ばしにしているだけだと、分かっている。
ある日の午後、フロアの空気が少しだけ張りつめた。
上司の低い声。
「ちょっといいか」
後輩が呼ばれて、会議室の扉が閉まる。
しばらくして、声が漏れてきた。
「何でこんなことも知らない」
静かな怒気。
「でも、そんなこと先輩から教わってません」
一瞬で、時間が止まる。
先輩。
私のことだ。
扉の向こうで、空気がこちらを向いた気がした。見えない矛先が、真っ直ぐこちらに伸びてくる。
心臓が、強く一度打つ。
逃げたい、と思った。
でも足は動かない。
会議室の扉が開く。上司と後輩の視線が、同時にこちらを捉える。
「どういうことだ?」
責めるというより、確認の声音だった。それでも、胸の奥がぎゅっと縮む。
本当は、言えたはずだ。
小さなミスを、小さいうちに。
私は一歩前に出て、頭を下げた。
「申し訳ありません。私の教育不足です」
言葉は、驚くほど滑らかに出た。
後輩が、ほっとしたような顔をするのが視界の端に映る。
上司は短く息を吐いた。
「今後はきちんと教えてくれ。契約書類だぞ」
「はい」
それだけで、話は終わった。
デスクに戻ると、キーボードの感触がいつもより硬く感じた。
本当に、教育不足だったのだろうか。
それとも、私はただ、波風を立てないことを優先してきただけなのだろうか。
後輩が小さな声で言う。
「さっきは、ありがとうございました」
ありがとう。
その言葉に、少しだけ苦くなる。
守ったのか、甘やかしたのか。
かばったのか、逃げたのか。
分からない。
あの日から体が重い。
日常が一つ一つ積み重なって、体が重くなる。
予兆はあった。
朝がだるいとか。
電車で動悸がするとか。
人の視線が怖いとか。
会社のセキュリティーゲートをくぐる瞬間から逃げ出したくなるとか。
本当は分かってる。
ただ、認めたくなかった。普通の人はこんなことで体が動かなくなることなんてないから。




