第三話
十年が過ぎた。
トモカズは海外の拠点で責任ある立場につき、時折送られてくる写真の中でも、姿は変わらない。若さを保ったまま、忙しい仕事を楽しんでいるようだった。
ユウタは役職が上がり、部下が増え、会議の席で年長者として扱われるようになった。
体力の衰えを、認めざるを得ない日も増えた。
それでも、ミナと会うときは、自然と昔の距離に戻れた。
「不思議だね」
ある夜、二人で食事をしながら、ミナが言った。
「十年も経ってるのに、話してる内容はあんまり変わらない」
「変わったよ」
ユウタは笑った。
「俺が、ついていく側になった」
ミナは少し困ったように笑い、視線を落とした。
「……それ、嫌?」
「嫌じゃない。ただ、現実だなって」
二十年後、ユウタの髪には白いものが混じり始めた。
写真に写る自分と、隣に立つミナの差は、誰の目にも明らかだった。
街を歩けば、親子に間違われることも、一度や二度ではなくなった。
それでも、ミナは変わらず隣を歩いた。
「一緒にいるの、やめたくなったら言って」
ある日、彼女が静かに言った。
「負担に……なってしまうなら」
ユウタは首を振った。
「そう思ってるのは、俺じゃない」
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四十年が過ぎた頃、ユウタは自分の体が、確実に終わりへ向かっているのを理解していた。
朝起きるのに時間がかかり、階段を上ると息が切れる。
それでも、ミナは変わらない時間の中に立っていた。
変わらないからこそ、苦しそうな時もあった。
「ねえ」
ある夕暮れ、ミナが言った。
「あなたは……後悔してる?」
ユウタは、少し考えてから答えた。
「後悔してない」
それは、用意していた答えではなかった。
時間をかけて、自然に辿り着いた言葉だった。
「老いる時間を、生きたって思えるから」
ミナは黙ってうなずき、空を見上げた。
夕焼けは、何十年経っても同じ色をしていた。
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ユウタが施設を離れ、療養中心の生活に入ったのは、それからほどなくしてだった。
窓の外に見える景色は、特別なものではない。小さな庭と、季節ごとに色を変える木々。春になれば芽吹き、秋には葉を落とす。ユウタはその変化を、以前よりもずっと丁寧に眺めるようになっていた。
時間が、有限であることを、今ははっきりと知っているからだ。
ミナは、ほぼ毎日顔を出した。
変わらない姿で、変わらない声で。
「今日は少し暖かいね」
「そうだね。春が近い」
何気ない会話を交わしながら、二人は並んで窓の外を見る。
沈黙は、もう怖くなかった。
「ねえ、覚えてる?」
ある日、ミナが言った。
「最初にこの話が出たとき。食堂で」
「覚えてるよ」
「スープ、冷めてた」
ユウタは小さく笑った。
「あのときは、こんな未来、想像もしてなかったな」
「うん」
ミナは、少しだけ間を置いて続けた。
「でも……私は、間違ってなかったと思ってる」
ユウタは、ゆっくりとうなずいた。
「俺もだよ」
ミナは、不老の薬を飲んだ。
ユウタは、飲まなかった。
それぞれの選択は、違う道をつくり、違う時間を流れさせた。
けれど、同じ時間を共有しなかったわけではない。
むしろ、限りがあるからこそ、ユウタは一つひとつの瞬間を抱きしめるように生きてきた。
「老いるってさ」
ユウタは、ふと思ったことを口にした。
「失うことだと思ってたけど……増えていくことでもあった」
「増える?」
「思い出とか、納得とか」
ミナは、しばらく考えてから微笑んだ。
「それ、ずるい言い方」
「そう?」
「不老の人間には、言えない特権みたい」
その声には、冗談めいた響きがあった。
ある朝、ユウタは、目覚めた瞬間に理解した。
ああ、今日は――と。
恐怖はなかった。
むしろ、不思議なほど穏やかだった。
ミナは、いつもと同じ時間に部屋を訪れた。
そして、ユウタの手を取った。
「……ありがとう」
それは、どちらからともなく出た言葉だった。
ユウタの呼吸は、静かに、ゆっくりと、やがて止まった。
季節は、春だった。
その後も、世界は続いていく。
ミナは老いない。
彼女の時計は、あの日から止まったままだ 。
けれど、彼女は時折、自分の手のひらを見つめる。
そこにはもう、ユウタの枯れた手の温もりも、カサついた皮膚の感触も残っていない。
それでも、彼女が季節の移ろい――芽吹く木々や散る葉、そして燃えるような夕焼けを見るたび、隣には白髪の彼が確かに現れる 。
「ずるいよ、ユウタ」
独り言は風に溶け、首を静かにふった後、彼女は再び歩き出す。
彼が教えてくれた「納得」という名の重みを、今の体に抱えながら。
彼と生きた、限りある日々。
その輝きだけは、永遠という名の孤独にも、決して浸食されることはない。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




