第二話
秋が深まるにつれて、空気が目に見えない重さを持ち始めた。
研究施設の中庭に植えられた木々は色づき、朝夕の冷え込みが指先に残るようになる。ユウタは出勤時、無意識にコートの前を閉じるようになった。そんな些細な動作の一つひとつが、「時間が進んでいる」証拠のように思えた。
不老の薬の話題は、以前ほど頻繁には出なくなった。
だが、消えたわけではない。むしろ、話題にしないことで、存在感を増していた。
「説明会、来月だって」
昼休み、ミナがそう言ったとき、ユウタは一瞬だけ手を止めた。
「もう、そんな時期か」
「うん。逃げられなくなってきた感じ」
ミナは笑ったが、その表情は少し硬かった。
トモカズは以前より忙しそうで、海外とのオンライン会議に追われているらしい。昼休みに顔を合わせても、どこか遠くを見ていることが増えた。
「トモカズ、決めてるんだろうな」
帰り道、ユウタがそう言うと、ミナは小さくうなずいた。
「うん。迷ってない人の顔してる」
「羨ましい?」
「……少し」
正直な答えだった。
駅前のベンチに腰掛け、二人はしばらく黙って人の流れを眺めた。仕事帰りの人々、学生、観光客。誰もが、それぞれの時間を生きている。
「ねえ、ユウタ」
「なに?」
「もしさ……私が飲むって決めたら」
その問いは、何度も聞いたはずなのに、今回は重みが違った。
「それでも、今と同じように話してくれる?」
ユウタは、すぐに答えられなかった。
できる、と言いたい。
でも、できるかどうかではなく、どう変わってしまうかが問題だった。
「……話すよ」
それでも、ユウタはそう言った。
「少なくとも、話さなくなる理由はない」
ミナは安心したように息を吐いた。
「ありがとう。……それだけで、少し楽になる」
その夜、ユウタは一人で部屋に戻り、灯りを消したまま天井を見つめていた。
もしミナが飲めば、
自分は老いていく。
同じ景色を見ても、立っている場所は違っていく。
それでも――
同じ時間を過ごした事実まで、消えるわけじゃない。
そう思いたかった。
冬が近づき、街にイルミネーションが灯り始めた頃、説明会の案内が正式に届いた。
ユウタはその封筒を、しばらく机の上に置いたまま動かせずにいた。
選ぶ時が来ている。
逃げないための時間は、もう十分にあった。
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選択の日は、拍子抜けするほど静かにやってきた。
冬の朝の空気は澄んでいて、研究施設の白い外壁がやけに明るく見えた。ユウタはいつもより少し早く目が覚め、何度も時計を確認したが、時間の進み方が変わるわけではなかった。
指定された部屋は、簡素だった。
白い壁、長机、そして小さなトレーの上に置かれた錠剤。
説明員の声は落ち着いていて、事務的ですらある。
「服用は任意です。署名後、すぐに実施されます」
ミナはユウタの隣に座っていた。
横顔を見るのは、これが何度目だろうと思う。
だが、今日のそれは、少しだけ違って見えた。
トモカズは迷いなく署名を終え、立ち上がった。
「先、行ってる」
「うん」
短いやり取りだった。
トモカズは振り返らず、別室へと消えていく。
残された二人の前に、用紙が置かれた。
ミナはペンを取り、名前を書く。
その動きは、思っていたよりも落ち着いていた。
「……やっぱり、飲む?」
ユウタは、最後の確認のように尋ねた。
ミナは一度だけこちらを見て、うなずいた。
「うん。怖いけど……後悔したくないから」
「そっか」
ユウタはそれ以上、何も言わなかった。
言葉を足せば、彼女の決意を揺らしてしまいそうだった。
ミナは錠剤を手に取り、少しだけ笑った。
「行ってくるね」
「うん」
それだけだった。
ミナは薬を飲み、
ユウタは、何も口にしなかった。
署名欄に、自分の名前は残らない。
部屋を出たとき、外の空気は冷たく、そして変わらず澄んでいた。
世界は、何も変わっていないように見えた。
ただ、戻れない場所が一つ、確かに増えていた。
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最初の変化は、五年後だった。
ユウタは三十代の後半に入り、朝、鏡の前でネクタイを締めるとき、ふと目尻に薄い影を見つけるようになった。照明のせいだと思って流していたが、何度も同じ場所に現れるそれは、少しずつ確実に深くなっていった。
季節は巡り、研究施設の中庭の木は、何度も葉を落とし、芽吹いた。
一方で、ミナは変わらなかった。
正確に言えば、見た目が変わらなかった。
「久しぶり」
五年ぶりに再会したとき、彼女は選択の日とほとんど同じ顔で、同じ声で笑った。
ユウタだけが、時を進めてきたのだと、その瞬間にはっきり分かった。
「……元気そうだね」
「ユウタも」
ミナはそう言ったが、ほんの一瞬、視線がユウタのこめかみで止まった。
言葉にはならない確認。
二人とも、それ以上は踏み込まなかった。




