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第一話

 その薬の話が最初に出たのは、春が終わろうとしていた頃だった。


 研究施設の食堂には、冷房が入り始めたばかりの、少し乾いた空気が流れていた。昼休みの終わりを告げるチャイムまで、まだ十分ほどある。窓の外では、散りきった桜の代わりに若い葉が揺れ、季節が確実に進んでいることを主張していた。


「ねえ、それ……本当だと思う?」


 ミナがスプーンを止めて言った。白いトレイの上で、スープの表面がわずかに揺れる。


 向かいに座るユウタは、手元の端末から視線を外さずに答えた。


「政府の公式発表だから、少なくともデマじゃないと思う」


 画面には簡素な告知文が表示されている。


――不老化医薬品〈エターナ〉

――臨床試験を終え、限定的に提供を開始する


「不老、ねえ……」


 ミナは眉をひそめ、少しだけ困ったように笑った。


「正直、胡散臭すぎない?」


「胡散臭いのは確か。でも、完全に否定できるほどでもない」


 そう答えながら、ユウタ自身もどこか落ち着かない気分でいた。

 不老。終わらない時間。

 どこか現実から浮いた言葉のはずなのに、政府の名前がつくだけで急に重みを持つ。


「俺はちょっとワクワクするけどな」


 同じテーブルにいたトモカズが、身を乗り出した。


「一生若いままだぞ? 悪くないだろ」


「トモカズはそう言うと思った」


 ミナが即座に返す。


「即決派だもんね」


「迷ってる時間がもったいない」


 トモカズは肩をすくめた。


 三人は同期で、この研究施設に配属されて三年が経つ。仕事終わりに飲みに行くことも、休日に集まることもある、ごく普通の関係だった。


 だが、この話題が出た瞬間から、空気の質がわずかに変わった。


「ユウタは?」


 ミナが視線を向ける。


「どう思う? 飲みたい? 飲みたくない?」


 突然話を振られ、ユウタは言葉に詰まった。

 考える時間は嫌いじゃないが、答えを急かされるのは得意ではない。


「……正直、よくわからない」


「即答じゃないんだ」


「考えるのは好きだけど、決めるのは遅いんだよ」


 トモカズが笑う。


「それ、悪口?」


「褒め言葉のつもり」


 ミナは小さく笑ったあと、再び端末の画面を見た。


「私はね……少し、気になってる」


 その声は軽くも重くもなく、ただ正直だった。


「まだ否定できない、って感じ」


 ユウタは黙ってうなずいた。

 不老の薬そのものよりも、ミナがそれを真剣に考えていることの方が、胸に引っかかっていた。


 この何気ない昼休みが、

 これから先、何度も思い返す始まりになることを、

 その時のユウタはまだ知らなかった。


==


 それからしばらくの間、不老の薬の話題は、三人の間から完全に消えることはなかった。


 仕事に追われる平日は、いつも通りに過ぎていく。実験データの整理、報告書の提出、上司の小言。だが、休憩時間や帰り道のふとした沈黙の裏に、あの話題が影のように張りついていた。


 梅雨が来て、研究施設の窓に雨粒が打ちつけられるようになった頃、ユウタは気づいた。

 自分が無意識のうちに、「時間」を意識するようになっていることに。


 時計を見る回数が増えた。

 今日という一日が、少しだけ惜しく感じられる。


「ねえ、ユウタ」


 残業帰り、駅までの道を歩きながら、ミナが言った。アスファルトに反射する街灯の光が、濡れた路面に滲んでいる。


「最近、ぼーっとしてない?」


「してるかも」


 ユウタは正直に答えた。


「考えごと?」


「まあ……」


 答えなくても、何の話かは伝わっていた。


 ミナは歩幅を緩め、ユウタの隣に並ぶ。


「ね、不思議だよね」


「何が?」


「前はさ、将来の話なんて、もっと曖昧だったのに」


 ミナは小さく笑った。


「急に、期限を突きつけられた感じがする」


 ユウタは黙ってうなずいた。

 不老の薬は、飲むか飲まないか以前に、「時間が有限である」という事実を、いやでも意識させてくる。


「もしさ」


 ミナが言葉を探すように間を置いた。


「本当に飲んだら……私たち、どうなるんだろうね」


「どう、って?」


「同じまま、じゃいられないでしょ」


 ユウタは返事に困った。

 頭では理解している。見た目だけの話ではない。生きる速度、価値観、人との距離。そのすべてが、少しずつズレていく。


「……それでも、ミナが選んだなら」


「うん」


「否定はしない」


 ミナは足を止めた。


「前も、同じこと言ってたね」


「ブレてないだけ」


「優しいね」


「臆病なだけだよ」


 ユウタは笑って誤魔化したが、本音でもあった。

 誰かの選択を否定することは、その先の結果まで背負うことになる。それが、怖かった。


 夏が来て、蝉の声がうるさくなる頃、トモカズは一層その話題に前向きになった。


「俺、海外行くかもしれない」


 昼休み、何気なく言われて、二人は顔を上げた。


「研究の話?」


「ああ。不老が前提のプロジェクト」


 冗談ではなかった。

 未来が、少しずつ具体的な形を持ち始めている。


 その日、ユウタは初めてはっきりと感じた。

 この選択は、ただの薬の話ではない。

 これから先、誰と、どんな時間を生きるかの話なのだと。


 夏の終わり、夕焼けの中で三人が並んで歩いたとき、ユウタはふと、今の光景を覚えておこうと思った。


 理由は、まだ言葉にできなかった。



全3話の短編です。

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