9話 そうだ!仕事を辞めよう!
狭いトイレの個室。
心臓が耳元で鳴っているみたいにうるさい。
私は便器の蓋を閉めて座り込み、脇に抱えていた「白い塊」を、床にどん、と置いた。
シーツとゴムマスクを脱ぎ捨てて、ぷらたんが顔を出す。
「……ついやっちゃったの。ごめんなの。愛佳、お仕事こまっちゃうの……?」
短い手をもじもじさせて、心底申し訳なさそうに私を見上げてくる。さっきまでの勢いはどこへやらだ。
……困る?
そうか、たしかに困るな。
あんな得体の知れないお化けが職場に乱入して、上司にタックルをかましたんだから。明日、どんな顔をして出勤すればいいのだろう。「すみません、うちのぬいぐるみが暴走しまして」なんて、言えるわけがない。
そう思ったら、なんだか急に、すべてがバカバカしくなってきた。
毎日、胃をキリキリさせながら、上司の機嫌を伺って。
理不尽な怒鳴り声に肩をすくめて、新人の武藤さんが泣いているのを「ごめんね」と心の中で謝るだけでやり過ごして。
そんな生活を守るために、私はこの「わけのわからない生き物」に、こんなに申し訳なさそうな顔をさせているのか。
「……ぷらたん」
私は床に膝をついて、ぷらたんをひょいと持ち上げた。
「ぷらたん、私、仕事辞めるわ」
「……は?」
「なんかどうでもよくなった!」
「愛佳、大丈夫なの? おかしくなったの……?」
ぷらたんは、黒目がちの目をこれ以上ないほど見開いて、私の顔を覗き込んできた。
短い手をあたふたと動かし、私の額に手を当てようとして空振りしている。
「ボ、ボクのせいなの? ボクが変なタックルしたから、愛佳が壊れたの? どうしよう、どうしようなくなの!」
彼は完全にパニックになっていた。私が正気ではないと思ったのか、あるいは自分のしでかしたことの重大さに今更気づいたのか。
「いや、気にしないで。なにかきっかけが欲しかったから、ちょうど良かった」
ぷらたんのさっきの行動に、人生を救われたなんて大げさなことは思わない。
もちろん、あの上司が転がった瞬間はスカッとした。けれど、それだけだ。
昔、どうしても仕事に行きたくない朝があった。
朝食の納豆に卵を入れようとしたら、殻が入ってしまった。たったそれだけのことに猛烈に萎えて、そのまま会社を休んだ。
もちろん、殻が入ったせいだけで休んだわけじゃない。
もうとっくに限界まで溜まっていたコップの水に、たまたま最後に落ちた一滴が「殻」だっただけ。今回はその「殻」が「ぷらたん」だった。
さすがに、今日この瞬間にすべてを放り出して辞められるわけではないだろう。
けれど、心の中にはもう、驚くほどの開放感が広がっていた。
『無職』。
その言葉の重みを、今はまだ、不思議と感じなかった。




