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5話 チュパチャップス

仕事復帰初日。

タイムカードを押した瞬間から、身体が重い。


朝からずっと、こんな調子だ。


朝食を食べた直後、吐いた。ぬいぐるみの「ぎぁゃーー!」という悲鳴が頭に響いて、さらにもどした。身体がずっとぽかぽかしている気がして熱を測ると、三十八度。風邪ではない。昔から、ストレスが溜まると熱が上がる体質だ。ふらつく足で着替えを済ませ、そのまま家を出た。


休みの日とは、街の色がまるで違う。本当はもっと鮮やかなはずなのに、今日は全体が濁って見えた。


「あ……」


玄関にお菓子を忘れた。うちの職場には、迷惑をかけたら菓子折を持っていくという、暗黙の風潮がある。まだ時間に余裕はある。踵を返して、家まで取りに戻った。


「ずいぶん休んだね」


更衣室に入る前、上司が何気ない調子でそう言った。責めるでも、気遣うでもない、中途半端な声音がいちばん堪える。「すみません」と言いかけて、癪だったのでやめた。結局、曖昧に会釈するだけで通り過ぎる。


たった三日。されど三日。


現場に入ると、頭と身体がうまく噛み合わない。申し送りを聞きながらメモを取るが、手が追いつかず、名前と状況が絡まっていく。


「小松さん、何ぼけっとしてるの」


声をかけられて、はっとした。


三日休むだけで、ここまでポンコツになるのか。いや、前からこんなものだったかもしれない。


休んでいる間も、みんなは普通に前へ進んでいた。その分だけ、自分だけが取り残されたような気分になる。そういえば、田中さんはどうだろう。熱は下がったと聞いたが、気になって仕方がない。あとで様子を見に行こう。


「田中さん、体調どうですか?」


声をかけても返事はない。いつもの、「ぁぁ」と声にならない音だけが返ってくる。それでも相手は生きている人間なのだから、話しかける。


骨と皮ばかりの身体。生きているというより、点滴で生かされている、という印象が強い。


ベッドを起こし、おやつのチュパチャップスを取り出す。家族の希望で医師の許可を得て、口にすることができている。本人にとって、少しでも楽しみな時間になっていればいい。


チュパチャップスを口に含ませると、ほんのわずかに表情が和らいだように見えた。それだけで、この仕事に意味がある気がしてしまう。


午前中は、てんてこ舞いのまま過ぎていった。


昼休み。

休憩室の椅子に腰を下ろした瞬間、どっと疲れが押し寄せる。弁当のふたを開けても、食欲はほとんどない。箸をぼんやり動かしながら、ふと思い出す。


あの子。

家にいる、ぬいぐるみ。


そろそろ名前を決めたほうがいいのかもしれない。昨日も結局、「ぬいぐるみ」と呼んだままだった。


昨日、本人に名前を聞いた。


「名前、あるの?」


そう尋ねると、嬉しそうに何かを答えてくれたのだけれど、それがもう、何語なのか分からなかった。宇宙語か、夢の中の言葉のような響きで、舌がまったく追いつかない。


「……ごめん、もう一回」


そう言っても、返ってくる音は同じだった。


正式な名前は無理でも、ニックネームならいい。

そう思って、昼休みのテーブルでメモ帳を取り出す。


モフモフしているから――もふお。

響きが可愛いから――タマ。

やけに図々しい性格だから――ズーコ。

カモノハシは英語でPlatypusだから――ぷらたん。


思いつくままに書き並べていく。


どれもしっくりくる。我ながら、なかなかセンスがいい。


「小松さん、いつまで休憩してるの?」


声をかけられて、慌ててメモ帳を閉じた。


考え込んでしまって、十分ほど休憩時間を過ぎていた。うちの休憩は三十分しかない。短すぎるといつも思う。というか、労働基準法違反だ。そこまで考えると現実が余計につらくなるので、やめる。ストライキを起こしてみたいが、たぶん私には無理だ。


午後も相変わらず忙しく、ゆっくり考える暇はなかった。それでも、ふとした瞬間に、メモ帳の中の名前たちが頭をよぎる。


私は特にズーコが気に入っている。

家に帰るとズーコがいる。そう思うと、ほんの少しだけ仕事へのやる気が湧いた。


これを嬉しいと思っていいのか、自分でも分からない。まあ、考えなくてもいい。


今日の晩ご飯は何にしよう。オムライスとか、喜ぶだろうか。あの子が来たおかげで、現実逃避の手段が増えた。現実逃避は、悪いものではない。生きるためには必要だ。


生き残ってしまったのだから、仕方がない。



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