ぬいぐるみ
目を開けたとき、まず真っ白な天井が目に入った。
――ここは、どこだ。
体を起こそうとしたが、お相撲さんにのしかかられているみたいに重く、びくともしない。仕方なく目だけを動かす。白いカーテン、金属製のベッド柵、規則正しく鳴る機械音。腕には点滴がついていた。
病院らしい。
誰かが助けてくれたのだろう。本来なら感謝する場面なのに、胸に浮かんだのは「死に損ねたな」という感情だった。
「あ……仕事……」
その言葉と同時に、背中に冷たい汗が流れる。必死でスマホを探すと、左側の棚の上にカバンが置いてあった。そこから取り出し、画面を点ける。
会社からの着信履歴が、画面いっぱいに並んでいる。
吐き気がした。
連絡しなければ。
重い体に気合を入れて起き上がり、ナースに電話の使用場所を聞いて移動する。
事情を説明すると、上司はため息混じりに言った。
「体調管理も仕事のうちなのにね……うちが人手不足なの、わかってる?」
くどくどと説教をされたあと、渋々ながらも数日の休みだけは許された。
過労。軽い脱水症状。栄養不足。
医者の口から出てきたのは、予想通りの言葉だった。
再びベッドに横になると、数秒で意識が沈んだ。そのまま夕飯まで眠り、起きて食べて、歯を磨いて着替えたら、また朝まで眠った。
罪悪感や復帰後のことを考えて憂鬱になりはしたが、身体はそれどころではなかった。休養を強く求めていたらしい。
入院は一泊だけだった。
ポカリやうどんなど、数日分の食料を買い込み、家に帰る。
まだ本調子ではない。また倒れて職場に迷惑をかけるのは避けたい。しばらくは、きちんと休もう。
そんなことを考えながら鍵を回す。
「おかえりー。しんぱいしたのー!」
誰もいるはずのない部屋から、声がした。
淡いピンク色。丸い体。長いくちばし。
カモノハシみたいな見た目の、ぬいぐるみじみた生き物が、不機嫌そうに腕を組んで立っている。
「……は?」
声が出るまで、五秒かかった。
「そのリアクション、ひどくないなの」
腰に手――らしきものを当て、じっとこちらを見る。
「なに……なに、これ……」
心臓が妙な音を立てる。血が、どくどくと脈打つ。
「はじめて見るみたいな反応されても困るなの」
「なんで……しゃべ……」
喉の奥がぎゅっと縮んで、思考が追いつかない。
「ちょ、ちょっと待って……」
「待つも。お茶でも飲むか?」
ぽよんぽよん、と不思議な音を立てながら台所へ向かい、慣れた手つきでやかんを触る姿を見て、現実感が削れていく。
腰が抜け、その場に座り込んだ。
戻ってきたそれは、お茶とチョコクッキーをテーブルに並べる。
「はい。一緒にたべるなの」
袋に入った二枚のクッキーのうち一枚を自分で食べ、もう一枚をこちらに差し出す。
――ぬいぐるみが、クッキーを食べている。
「……夢じゃない」
「うん」
「……幻覚でもない」
「さわるか?」
突然、腕や肩を触られる。ふわふわしていて、温かい。膝の上に乗られ、思わず息を呑んだ。
生きている。
「重……」
「それ、言葉を選ぶべきなの」
ぽすっとお腹を殴られる。
「なんでいまさら怖がるなの?最初に会ったとき、そんな顔してなかったのに」
「……最初?」
「覚えてないの?」
髪を指にくるくる絡めながら、ぬいぐるみは話し始めた。
「一か月くらい前。公園できみにゲロ吐かれたの」
断片的な記憶が、じわじわ浮かぶ。
同僚と飲みすぎた夜。解散後、公園でひとり飲みしようとして――。
「缶チューハイ持って、ふらふら歩いてきたなの」
「……あー」
「で、ベンチで読書してたボクの横に座ったの」
嘘だ。夜に読書なんてできるわけがない。
本当は、ぬいぐるみはエンエンと声を出して泣いていた。その光景が漫画みたいで面白くなり、からかいたくなって声をかけたのだ。
「『大人になると泣きたくても泣けないのよ。だから、大人になる前に別の対処法を考えなさい。わたしはね。つらい時はくだらないことを考えるのよ』って言ってたなの」
ぬいぐるみが、わたしの声色を真似る。
「『わたしは五本指の中で一番えっちなのは親指だと思う。唾液が染み込んでいるからね。 きみは?』って」
――最悪だ。
「意味わからなかったから無視したの。でも、怖がらずに話しかけてきてくれたのが、うれしかったの」
ぱぁっと笑って抱きついてくる。短い腕は、腰に全然届いていない。
「……覚えてない」
「知ってるの」
ぬいぐるみは少しだけ眉を歪めた。
「で、話聞いてたら、急にうえーって吐いたの。そのまま寄りかかってきて、お互いゲロまみれなの」
「すみませんでした……!」
思わず声を荒らげて謝る。
「許さないなの。むっかーなの」
ずずっとお茶をすする音がする。
「それでボクを抱えて帰って、お風呂にじゃぼじゃぼされたの」
「……記憶、消したい」
「さっきまで消えてたなの」
静かな沈黙。
「きみ、寂しそうだったの」
ぽつりと、ぬいぐるみが言う。
「ボク優しいから、一緒に住もって言おうとしたの。でも、きみ――」
朝は早く出て、
夜は帰ったらすぐ寝て、
話しかけても無視。
「ボク、透明になったのかと思って、鏡何回も見たの」
胸がちくりと痛む。
「むっかー! なの」
「……ごめん」
「今さら」
少しして、ぬいぐるみがこちらを向いた。
「それより。体調だいじょうぶなの?鼻血ぶっしゃーで怖かったなの」
「……なんでそれ知ってるの」
「帰ってこなくて心配で探したら、倒れてたの。んしょって運んで、すみっこで見てたの」
両手でピースを作り、誇らしげに笑う。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
助けてくれたのは、この生き物だったのだ。
「ねえ」
ぬいぐるみが、少し近づく。
「しばらく休みなよ」
命令でも、説教でもない声。
わたしは、静かに頷いた。
目の前には、しゃべるぬいぐるみ――いや、正体不明の生き物がいる。
それなのに、不思議と、怖くはなかった。




