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ミスと陰り

 午後五時を過ぎたバンケットルームには、花の香りと紙の音だけが漂っていた。

明日行われる披露宴の準備で、スタッフたちは最後の確認に終われている。

ステージ横では、フローリストが白い胡蝶蘭を飾りつけ、音響スタッフがマイクテストを繰り返していた。


 結衣はテーブルごとの席札を手に、進行表と、にらめっこしていた。

目の前の披露宴会場は、夕焼けがステンドグラスを通して柔らかい光を落としている。

ーーこの光の下で、明日は二人が永遠を誓う。

そのことを思うだけで、疲れも少しだけやわらいだ。


 そのとき、スタッフルームから慌ただしい足音が響いた。

印刷会社の担当者が、顔を青くして駆け込んでくる。


「白石さん、ちょっと大変でして‥‥席次表、印刷し直しが必要かもしれません!」

 

「‥‥えっ?」


結衣は思わず手を止めた。

渡された見本を見るとーー新婦の名前が間違って印刷されている。

 本来は『佐伯美咲』なのに、『佐伯美沙希』となっていた。


「そんな‥‥‥最終データは差し替え済みのはずよ」

「こちらには、旧データのまま届いていまして‥‥」


 結衣の脳裏に、昨日の業務が走馬灯のように蘇る。

最終データの更新は、昨日、新人の藤崎美奈に任せていた。


 藤崎美奈ーー二十三歳。入社して半年。

柔らかい栗色の髪に大きな瞳、話す時は語尾を少し甘く伸ばす癖がある。

 誰からも「可愛い」と言われる存在だが、その裏で計算高さをのぞかせる瞬間を、結衣は何度も見ていた。


「えっ?でも、最終確認って"白石さん"じゃなかったですか?」


その声が響いた瞬間、空気が凍りついた。

振り向くと、美奈がファイルを抱え、小首をかしげている。

怯えた様子もなく、むしろ落ち着いた表情で。


「ちょ、ちょっと待って!」

 隣に居た、同僚の紗英が眉を吊り上げ、立ち上がる。


「はぁ?あんた、なに言ってんの?入力したのはあんたでしょ?」

「え、でも‥‥白石さん、昨日バタバタしてたし、"任せる"って言いましたよね?」

「それを"全部押し付けていい"って意味に取る?」

「そんな言い方していません」


 軽く笑う美奈の声が、静かな会場にいやに響く。

他のスタッフたちは顔を見合わせ、空気がじわじわと冷えていった。


 結衣は深呼吸し、紗英の腕をそっと掴んだ。

「いいの、紗英。今は原因を探している場合じゃない」

「でもーー」

「式は明日。席次表を刷り直すほうが先」


 紗英は悔しそうに唇を噛む。

そのとき、重い扉が開く。

黒いスーツの男性ーー橘主任が入ってきた。


「何があった?」


 その低く落ち着いた声に、場の緊張が一瞬で形を変える。

「橘さん、席次表のデータが‥‥」

「確認済みの新婦の名前が、漢字違いで印刷されてます」結衣が説明すると、橘は淡々と頷いた。


「責任の所在は後で整理する。今は"どう直すか"を考えよう」

 その一言で、空気が再び動き出す。


「印刷所には新データを送って、俺が確認する」

「はい」


橘の的確な指示にスタッフが動き出す中、美奈はわずかに頬を染め、橘の背を見つめていた。

ーーまるで、助けてもらったと勘違いしているように。



結衣は深く息を吐き、印刷データを再確認する。

 頭の奥が痛い。

 でも、今は感情よりも、式を守ることが先だ。

"幸せ"を壊すわけにはいかない。





 作業が終わったのは夜九時を過ぎていた。

スタッフルームには結衣と紗英以外誰も残っていない。

コーヒーの香りがかすかに残り、パソコンのモニターだけが淡く光っている。


「ほんっと、ムカつくわ。あの子」

椅子に腰を落とした紗英が、缶コーヒーをテーブルに置いた。

「結衣がどれだけフォローしてるか、見えていないのよ」

「‥‥いいの。誰かが悪者になれば、現場は回るから」

「はぁ?またそれ?優しすぎるって」


 結衣は微笑み、静かに首を振った。

「私たちの仕事って、誰かの"幸せ"を整える仕事でしょ?でも、それを作る裏側がきれいじゃないなんて、よくあることよ」


「‥‥それでも、誰かがあんたの味方してくれてもいいのにね」

結衣はまた微笑みながら

「味方なら‥紗英がいるだけで十分。今日は私のために怒ってくれてありがとう」

「‥‥そっか」


 そのとき、ドアの外からノックの音。

振り向くと、控えめに覗く顔ーー相沢くんだった。

とっくに厨房スタッフは帰ったのに、相沢は結衣が終わるのを待っていた。


「‥‥白石さん、まだ残ってたんですね」

 その手には、温かい缶のココアが二つ。

 小さな優しさが、疲れた心にじんわりと染みていった。

「相沢くん、ありがとう」


紗英(‥‥ん。今の私って邪魔者?‥‥)



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