沈黙の視線
打ち合わせが終わったあと、結衣は会場の資料を抱えて控室に戻っていた。
表面上はいつもどおり。
けれど胸の奥は、まだどこか重く揺れている。
ーーまったく、どうして今さら。
平然と笑える自分が、一番腹立たしい。
そんな思考を断ち切るかのようにドアを開けると、
そこに橘主任がいた。
デスクに広げられた書類に目を落としながらも、
その視線はすぐに結衣に向く。
「神谷夫妻の打ち合わせ、終わったのか」
「はい。七海さんは素直で素敵な方でした」
「‥‥そうか」
短い沈黙。
橘の指先が、無意識にペンを転がす音だけが響く。
「‥‥少し、顔色が悪いな」
「そうですか?たぶん照明のせいです」
「強がるな」
その一言に、結衣の手が止まる。
視線を上げると、橘の瞳が真っ直ぐに自分を見ていた。
「‥‥っ噂は‥‥聞いた」
「噂、ですか?」
「神谷って男が、お前のーー」
結衣はすぐに微笑みで遮った。
「昔の話です。今は"お客様"ですよ」
「‥‥そうか」
橘は何も言わず、少しだけ息を吐いた。
その横顔はいつもの冷静さを保っているのはずなのに、
どこか柔らかく、どこか苦しげにも見えた。
「白石っ」
「はい」
「無理はするな。‥‥お前の仕事は、人を幸せにする事だが、その前に、自分まで壊すな」
心の奥に、何かが静かに落ちていく音がした。
「‥‥主任、優しいですね」
「勘違いするな、ただの上司の責任だ」
そう言って視線を戻す橘。
だがその手元のペンは、少しだけ止まって見えた




