56.僕を忘れず、いつまでも笑う君と
「……海竜を。あの怪物をあやつっているのは、あなたなんですか?」
僕は深呼吸をひとつ、ついた。
「……僕は今までに二回、海竜の目の裏に映った二つの人影を見ました。あれは、あなた方だったんですか?」
『あれらは、ダマヤの複写です。海岸で人間を採取するのは難しい作業なので、一般的な海竜のみではできません。複写したダマヤをのせて、操作していました』
かたり。僕は、湯のみを卓子の上に置いた。
「……それじゃあなた方は、ティルムンの≪敵≫なんじゃないか。絶え間なく北海岸を脅かして、理術士兵たちを傷つけて、……」
僕の肩が震える。
「そして僕のイスラを死なせた、当事者なんじゃないのか!」
小さなエリコは、真っ黒い大きな瞳で僕を見る。
『その事実について、わたしはなにも弁明できません。ただ、わたし達はイスラをさらう予定でしたが、傷つけるつもりは全くありませんでした。十四年前、イスラがとった行動は全くの予想外でしたし、……それにイスラの理術によって海竜が破壊される、という事態も予期できなかったのです』
『……どないするつもりだったん? 俺をさらって……。そもそも、何で俺やったん?』
どうにか話について来たイスラが、かなり動揺した声でエリコにたずねた。
『わたし達には、ティルムン国内に協力者がいます。その報告により、東部原住民との混血であるあなたが異様な理術威力を持っていると知って、ぜひ解析してみたいと希望していました。気絶させたまま海竜に運ばせて検体をとり、経歴記憶を読みとった後に、全てを忘れさせてそっと送り返す予定だったのです』
エリコは淡々と続けた。自分たちが人類と文明を見守るためには、めまぐるしく変化する人間の進化発展を詳しく観察し、解析していかなければならないということ。その下準備をしている存在……それがテサボ先生らしかった。と言っても≪複写≫なのだという、よくわからないが写し書きに近いもの……。
『これまでにも、生体採取は何度も行っています。そしてイスラの一件があってから、より慎重を期すようになりました。海竜を見たこと、このエイルリに来たこと、全てを確実に忘れてもらうために、生体たちには強力な記憶抹消を施術しています』
“若年性もの忘れ”の術の永年版だろうか。僕はふと思い出した。サミと新兵イスラ、ホノボ兄弟が言っていた都市伝説……。サシャがおびえて泣いていた、≪研修の忘れもん≫の話を。全てを、それまでにあった全てのことを忘れて帰ってくる子どもたちのこと……。
また、今のイスラが実体を持たない存在になったことを、彼女は理解しているらしかった。
『わたしやダマヤは、イスラの存在を察知することができます。ゆえに、イスラは何らかの方法でわたし達と同等のものへ変化した、という可能性が考えられます。人間の寿命を越え、死と時間の限界をこえた、永遠の存在へ』
永遠…… 僕の持たないもの。
かたん。
僕の胸の底で、何かが音をたてた。いや、僕の≪心≫が泣き叫び始めたのだ。突きつけられた、あんまりな絶望の痛みに耐えられず。
「……あなた方が何者なのかは、さっぱりのみ込めないけれど」
かすれた声が、僕の喉からもれる。
「……少なくとも物語に言う、神々に近い存在なんだ、ということはよくわかりました」
この奇妙な施設、やすやすとイスラの姿をみとめ会話を成し遂げている人外のエリコが、そういう測り知れない存在であるということは、疑いようもない。
うなだれて、僕は低くうめく。
「けれど、だからって。……だからってイスラから人生を取り上げて、……僕からイスラを取り上げるなんてことは……。ゆるされなかったんだ!」
僕は乱暴に立ち上がる。イスラの腕をつかんで、ずかずかと庭へ踏み込んでいった。
海の底にあるというこの施設……。どんな理術技術をもちいているのだか、やわらかい光に満ちたこの林は、エリコの力で作られたものだと言うのが信じがたいほどにほんものだった。
いいや。実際には本物なのかどうか、僕に判別できる力はない。緑がかった明るい空、そしてティルムンでは全く見られない種類の植物しかないのだから。
『モモイ、……』
ゆらゆら、珠のれんがつり下がるような不思議な枝葉のさざめく大木、その幕の中へ入った時に僕は決壊した。
絶望にとらわれて涙を流すなんて、僕には珍しい現象だった。顔を下に向けて、涙はな水がぼたぼた地面に落ちるにまかせる。右手に、……たしかに手のひらの中にある、イスラの左手。それを、……温もりを握りしめながら、僕は嗚咽した。
どうして。どうして。……どうして!!
「せっかく取り戻したのに。取り返したのに! 何でどうして、そうなるんだぁぁ」
ぐちゃぐちゃになった顔を外套の袖でぐいと拭いて、僕はイスラを引き寄せた。ぱたりと聖樹の杖も放り出して、両腕いっぱいに僕はイスラを抱きしめる。
こんなにやさしいイスラなのに。こんなにいとおしいイスラなのに! どうしてそこまで、どこまでも苦しまなきゃいけない……。たった一人で!? 大切なイスラに僕は寄り添いたい、けれどイスラの永遠に僕は追いつけない。
昔から無力だった僕は……いつまでも、どこまでも、今でも無力だ。イスラに守られるだけ、海竜からも祖国からも孤独からも、イスラを救えない……。どんなに頑張ったって、僕に永劫の未来はない。いつかは死んでなくなる。
「……本読んで、泣いてたんやろ」
『え?』
「ディンジーさんに精霊って呼ばれて。本当はそれが何なのか、不滅の存在なんやって、パンダル君たちにもらった本の中で知って……。イスラは泣いてたんやないか。僕といつまでも一緒にはいられないんやって、わかってたんやろ。もうずうっと前に」
僕はまぬけだ。大傑作級のあほうだ。不滅の意味を取り違えて、何も考えていなかった……!
『……しんどすぎて。よう言わんかったし、そのこと考えるんもやめてたんよ』
頬にふれているうねうね暗色髪が、やわらかい。そこへとめどなく僕の涙が流れ込む。
『モモイ……』
「十四年前の研修も……。あそこで海竜を倒してなければ、イスラは! イスラは帰ってきたはずやった。でも僕のことを全部わすれて、帰ってこなあかんかった」
実際にはイスラは記憶をなくさず、身体をなくしてかえってきて、ずうっと僕のそばで辛い独りぼっちを過ごした。
そうしてようやく、こうやって名前を呼びあえるようになったのに。温もりを感じて、声を聞いて、その姿を見て……抱きしめあえるように、なったのに。
「……でもって今度はイスラは、永遠に生きなあかん、て……! 僕が死んでもうた後も、一人で……。たった、ひとりで……!」
その長いながい孤独を耐えるために、イスラは僕を忘れるだろうか。そうだ、そうしなきゃいけない。僕は結局、……イスラに忘れられてしまう。
『忘れるわけあるかいな』
言葉に出していないのに、イスラは僕の考えを聞いたように言った。
『……もとはと言えば、俺がモモイを守りたくって自爆してもうたんが原因やもん。後悔なんかしてへんし、運命やって受け入れるわ』
「運命とか! 言うなぁぁぁっっ」
子どもみたいに、僕は情けなくわめいた。
「……いっそ。忘れちゃってよ、イスラ。僕のことでイスラが永遠に苦しみ続けるなんて、どうにも我慢できひんよ。僕のこと全部、……全部忘れちゃってや……」
『あほー』
イスラの言葉が、その唇を通して僕の右耳穴に入りこんでくる。
『自分の半身のことを忘れるて。できるわけないやろ』
「……」
イスラが、……イスラが再び、僕の≪魂≫の中に入りこんでくる。
『一人ではしんどいけど。俺はモモイと一緒なら、簡単にはめげへんで』
穏やかに青く光る左手に涙をぬぐわれ、僕らは一緒に空を見上げる。流れる枝葉のあいまに透ける、やさしい緑色の空。
『モモイスラは、一緒なら何だって越えるんや。時間とか運命とか永遠とか、その辺のちょこざいは。押して引いてつぶしてのして、やっつけかけて……逃げようや?』
イスラが笑った。だから僕も笑った……。無理にではなくて、本当に笑えた。
不安が、絶望が消えてなくなったわけじゃない。けれどイスラの≪心≫に抱きしめられた僕の≪心≫は、かなしみを振り切って熱を生み出してゆく。熱は力に変わる、立ち向かって何とかしたろ、と思う力に変わってゆく……。
「……逃げるんかいっ」
『ふふふ、そうや。全力のど根性で、逃げたろやないかい』
「どうやって? イスラ」
『知らん。そいつをこれから探すんや、モモイと一緒に』
・ ・ ・
風にそよぐその巨木の枝葉の下で、しばらく僕らは黙っていた。
どのくらい時間が経ったのか……。海の底にあるはずのない陽が、かたむいて微かに翳る。
ぐみぐみ、ぐみぐみ……。
やわらかい足音が、草々を踏みしだいて来るのが聞こえる。さらさらと揺れる珠のれんの枝葉の下、ちょうど窓布のように僕らの姿を覆い隠していたその淡い緑色の幕の下に、小さなふたつ足が見えた。エリコだ。
『モモイとイスラ。どうかお願い、話をさせてください』
「……」
僕らは立っていって、枝葉の幕を開ける。真っ黒い、巨大な双眸がひとりの僕らを見上げていた。
『……あなた方は。そこまで二人は、一緒になれるのね』
僕らはうなづき、そしてしゃがんだ。小さな彼女に目線を合わせてあげたい、と思ったイスラの意志により。
『何度でも、繰り返します。わたし達はあなた方を傷つけ、あるはずだったイスラの人生を壊す意図は全くありませんでした。けれど、結果このようになってしまったことを、本当に悔やんでいるのです。……ごめんなさい』
「……あのな、エリコちゃん」
僕の声で、イスラが話し始める。
「俺な、モモイのこと、ずーっと好きやねんか。こどもの頃から、今もずうっと」
エリコは丸い眼をさらにまるくして、驚いたようだった。
「けどほれ。知っとると思うけど、……ティルムンでは、男の子どうしはそういう好きになったらあかんことになっとるやん? せやし、もし……。もし何のさわりもなく、俺が今も普通に生きとって。生身の人間でおったんなら、モモイにそう言えんかったはずなんや。それこそ、永久に」
『……』
「十四年前のこと。モモイはまだゆるせんと、これからもわだかまると思うねん、けど」
「……そうだね」
「うん、本人も言うてるな? けどエリちゃん、あったかもしれんこと比べてみるとー。俺はモモイにほんとのこと言えんと、ずーっとかくしたまんまで人間生きるよりは……。色々不便でも、全身青くっても、めいっぱいモモイの名まえ呼んで、くっついてられる今のほうが、実はずうっとしあわせなんやと、そう思うんよ。そこを考えると、俺はエリちゃんにありがとう、と言いたい」
エリコの大きな黒い瞳が、かなしげに震えた。みるみる潤んで、ぽろんと涙のしずくが浮かび、流れる。
緑色のおばけは、どこからともなく取り出したもも色の小さな手巾でそれを拭う。
『そうだったのね。何てこと』
「エリちゃんは、神さまとしてどうや? 俺が、……俺ん中の自然が、こういう風にモモイのこと想って、モモイの名まえ呼んでるんは、ゆるされへん? こども生まれない、未来のない恋はあかんと思うかー?」
『まさか。冗談じゃあ、ないわ』
やたら人間くさく手巾で鼻をかんでから、エリコは大きな頭をぶんぶんと振った。
『イスラ、わたし達は人類の存続を見守るためにつくられたけど……。未来のもとをつくるのは、いま現在生きているひとのしあわせなのよ。それを尊重せずに、どうして先のことを語れるの。こんなすばらしい奇跡にいたったあなた達を祝福こそすれ、否定なんて絶対にしないわ』
「そっか! ありがと」
『父の名において。わたしはモモイとイスラが最善の結末を迎えられるよう、全力を尽くします。……そう、させてくれますか? イスラ……、モモイ』
もも色手巾をぎゅーと握り、大きな瞳の間にかたい決心のしわしわを寄せつつ言ってきたエリコの肘に、……僕は右手を使って触れた。ぐみぐみしている。
「エリちゃん、お父さん居るのん?」
ものすごく真剣な場面で、イスラの天然が冴える。




