55.海の底のエイルリ・コー
『大丈夫ですよ。ここと水との間には、膜があります』
脇から優しく言う声が聞こえて、僕はそちらの方を振り返る。
“恨み根っこ”の黒いいがいが殻のすぐ横に、背の高い妙齢女性が立っていた。
生成色の長衣と股引と上っぱり、保育士さんのような地味で動きやすそうな恰好である。実に平々凡々たるティルムン女性の装いをしたその人が、僕にうなづきかけた。
『けれど、足元はすべりやすいの。気をつけてね』
「はぁ……」
いつもの僕らしくまぬけな調子で答えて、そろそろ足を踏み出したところは、岩を削って床にしたような……濡れた一面だった。それがずうっとだだ広く続いている。一段下がった所は水面だ。海の内側に作られた、港の波止場……? そんな風に言えないこともない。
「あのぅ……。ここは一体、どこなんです?」
頭上いっぱいに果てしなく広がる≪海≫、水中風景の天蓋からどうにか目を離して、僕は女性に聞いてみた。
『ここは、エイルリの出入り口です。あなたが立っているのは、竜港のすぐ近く』
「エイルリ……?」
初めて聞く地名だ。
『どこそこ? つか竜港て……、なに??』
イスラがむにゃむにゃ呟いた時、女性はやわらかくうなづいた。
『そうですね。海底にあるから、エイルリは一般ティルムン人には知られていません。竜港というのはそのものずばりで、わたし達の竜が発着をする場所です。……ご覧なさい、足元に気をつけて』
彼女のひらめかした手の方向、一段下がった水面の方を見て、僕は思わず叫びそうになった。どころか、腰が抜けそうになった!
波もなく動かない水の面の下、青く透ける中に……海竜がいるではないか!?
瞬時にイスラが形をとり、僕を背に浮いて立ちはだかる。一緒に、じりじりと後じさりをした。
『大丈夫です。今は静眠状態にしてありますから』
すぐ後ろで、女性の声が落ち着いていた。
『あなた方二人を搭載していたこの黒い殻を吐かせたあと、休止させました。わたし達が起動させない限り竜が動くことはありませんから、怖がらなくっていいのですよ』
「……あなたは、一体……」
獅子頭の玻璃膜と握りしめた聖樹の杖ごしに、僕は女性を見据えた。
『詳しく説明をします。こちらへ、どうぞ』
金融機関の待合室で顧客を呼ぶくらいの非深刻さで言うと、女性はくるりときびすを返す。ざらついた床に四角い穴があって、階段が下へ続いている。
『わたしについてきて下さい。足元に、気をつけてね』
僕らはついてゆかざるを得ない。イスラは僕と女性の間に、ふよふよと浮いている……。
『ここまで続く摩訶不思議とは、前代未聞やぞ……! にしても海竜のやつ、俺らをげろって出したちゅうことかい……』
「とにかく外に出られたんや。上下はこの際、どうでもええよ」
『いや……。だいぶんましやと、ほっとするところやで? ここ』
妙に長い螺旋階段だった。どこから光が照っているのか、よくわからない。ちゃんと明るいのにもかかわらず、不安になるような段数を下りおりる。女性はようやく、踊り場のようなところで大きな扉の前に立った。それを軽く開ける。
『さあ、どうぞ』
そんなばかな、と言いたくなるような風景がそこにあった。
見たこともないくらいに広い広いだだ広い室、……遠くに見える幅広の窓から、穏やかな外光が入ってきている。
「……」
『あそこにある長椅子に、かけて下さい。二人とも』
僕は、獅子頭の術士帽をとった。
「あの、……あなたには見えるんですか? その、僕の……連れが」
『わかりますよ』
やはり保育士さんのような優しい言い方で、女性は答えた。
『二人とも、そこへかけて楽にして……。少し待っていて下さいね。すぐに戻りますから』
がらんと広大な室、そこに唐突な感じで置かれた低い木の卓子と、布張り長椅子が二つ。ティルムンの家庭ならどこにでもありそうな、何の変哲もないその長椅子にイスラと並んで座る。
床も天井も、板目でできた室だった。前方はるか彼方に、書斎みたいな一隅。後ろの方、反対側の隅にも、もうひとつ棚を背にした机が見える。日砂も入れていないのに、奥まで妙に明るい。とりあえず人間のいるところではあるらしいけれど……、本当に不思議なところだ。
女性は大きな窓の方へ向かう、その後ろ姿を僕らは何となく見守る。彼女はそのまま、外側へ出てしまった。窓と思ったのはまちがいで、それは庭へと続く大きな戸口らしかった。緑色の草々が、さまざまな色の花々が、灌木が樹木があふれる庭……。
『ここ……。海の中と、違たんかいな……』
イスラの声が、驚愕にふるえている。僕も自分の目が信じられなかった。背の高い樹々の上方にはやわらかい明るさの空が広がって、のどかな光はそこから落ちてきているのだ。
かちゃかちゃ、とささやかな音を立ててさっきの女性が戻って来る。
あふれる光の中で、彼女の長い髪はほとんど白に近い銀髪なのがわかった。女性は湯のみをいくつも載せた、お盆を両手に持っている。
その時彼女の後ろに、ぴょこんと緑色のものが動いた。
『ひぁーっっっ』
声にならない絶叫悲鳴を、隣でイスラがあげる。囁いているんじゃない、本気で怖くて声が出ない状況なのだ。
両手で僕の左腕を握りしめてきている、いだだだだだ。その痛さで、僕はむしろ気を失わずに済んだ。
『ものほんの、おーばーけーッッッ』
そう言ってるイスラ自身こそ、正真正銘の本物おばけなんだけど……。この辺はイスラの天然だ、ゆるしてあげないといけない。
『おばけでは、ありません。わたしはエイルリ・コー』
ぐみぐみ、ぐみぐみ……。
けったい極まるその小さな生きものは、やわらかい足音をたてて卓子のそばに近寄り、ぴよっと跳ねるようにして僕ら向かい側の長椅子に座った。
そら豆みたいなまるい頭に、黒豆みたいな巨大な目が二つ。鼻らしき二つの小さな孔の下、小さな口がにこやかに笑っている……。三頭身もないような身体はつるっと小さく、どうみても緑一色だった。小さな手に持っていた、書類ばさみのような板をひょいと脇において、それは僕らにうなづいた。
『呼びにくいと思うので、エリコと呼んでくれて構いません。そしてこちらは、わたしの補助機能のダマヤです』
『よろしくね』
銀髪女性は気さくに言いつつ、僕ら二人の前に湯のみを置いていく。
『あなた方のお名前も、教えてもらえますか?』
「あっ、……失礼しました。僕はモモイガ・モシャボ、……モモイです」
『えーと、イスラです……。昔はイニーシュラゆう名前でしたけど……』
『……やはり、モモイにイスラなのですね。エイルリにようこそ……まずは、飲みものをいかが?』
目の前のエリコさんは、どう見たって人間ではない。しかし僕はふと思い当たった。隣でがくぶるうろたえているイスラだって、がっつり人外のものである。つまりエリコさんも、イスラっぽい何かなのかもしれない。きっとそうだ、何よりイスラのことを普通に見て聞いているらしいのだから。そして見たところ、害を与えてくるおっかないものという印象はなかった。単に、緑色で小っちゃくてぐみぐみしているだけ、話す声だけ聞いていれば普通の成人女性……それも役所かどこかで働いていそうな人の、平凡なティルムン語である。
僕は小さな湯のみを手にして、中身をすすってみた。
横では、イスラもおずおずと飲んでいる。どうぞとすすめられたもの、すなわちお供えであるからイスラもこうして口にすることができている。やっぱり大丈夫そう、と僕は警戒心を解いた。
明るい褐色のお湯は、未知の味がする。
『……ええ匂い。何やろこれ、香湯?』
だいぶ落ち着いた声で、イスラが言った。
『これは、お茶というものです。そこの庭の……平べったく刈ってある灌木、タエの木から作っているの』
エリコさんの脇にかけ、自身も湯のみを手にしながらダマヤさんが指さした。
『わたし達が持ち出せた、数少ない遺産の一つです。気に入ってくれたのなら嬉しいです』
不思議な言い方をするぐみぐみおばけに、僕は向きなおる。
「持ちだせた……?」
――いったい何を……どこから?
『モモイ、イスラ。わたしとダマヤは、人間ではありません』
『うん! それはもう~、しっかりわかるで? 一目瞭然で』
自分も人外のイスラが、鉄板の合いの手を入れた。
『わたしの名が示すように、わたしエイルリ・コーは、この海底施設エイルリそのものです。アイレー新大陸において、人類が存続できるよう監視する、という使命のもとにつくられました』
「……」
僕とイスラはお湯のみを手に、目を点にして聞いている。
――アイレー新大陸? ……人類??
『あなた方には突拍子もない話だと思うし、よくわからなくても構いません。けれどわたしは嘘をつけないし、これから言うことは全て本当のことです。信じられなくても、どうかそういうものとして受け止めてみて下さい。……わたしはだいたい七千年ほど、ここでこうしてアイレーの人々を見守っているの』
「ななせんねん」
『だいぶ旧ない?』
僕とイスラは顔を見合わせた。まぬけに驚いている僕と違い、イスラの青い顔はなんだか明るい空色になっていた……。何でそこで、興味津々になるの?
『七千年ゆうたらー、ティルムンも前文明もうまれてない頃やんなー? ええと。そんな大昔に、こんな……海の底にふしぎなお城つくれる魔法使いみたいな人らがおった、と。そう言うことなん?』
『魔法じゃなくって技術なんですよ、イスラ。呼び方は何でも構いませんが』
エリコは優しく言った。
『ほー……。何ちゅうことや、モモイ……。俺らはもしや、世界の秘密の真理に近づいとるのやろうかッ?』
そうだった……。イスラはその手の本が大好物だった。僕らが子どもの頃に静かな流行を見せていた、歴史基盤の空想冒険小説の一連。僕も当時は、一緒になってはまっていたけど。主人公が世界を裏で操っている究極の存在と対決したり、旧文明の謎をあばく物語を夢中になって読みまくっていた。けれどそれはあくまで架空の話……。今のイスラが本気にしていないのはわかる。面白おかしくちゃかしているのが、その証拠だ。僕だって、眉につばをつけたい。
『そこまで仰々しいことはないのよ、イスラ。けれど実際、人類には生きのびてもらわなくては困るのです。それでわたし達は、知られることなく人々を監視し、ときおり調整をしています。その目的のため、今回のあなた達のように、生体採取をしているのだけれど……』
そこでエリコは、きゅっと口を閉じた。せつなそうな表情(だと思う)になる。
『あなた方を採取し、搬送している途中の外観簡易解析で、重大な発見をしてしまいました。あなた方二人は、わたしがおかした甚大な過失の被害者なのです。わたしはそれについて、イスラとモモイにおわびをしなくてはなりません』
『あかん……。全然、話についてゆかれへんのですけど……?』
隣でぼやいているイスラの声は、僕に届いてはいたが……。全身から血の気がさあと引く感覚にとらわれていた僕は、そこに突込みも合いの手も入れてあげられなかった。僕にはエリコの意味するところが、瞬時にわかってしまったのだ。
「……海竜を。あの怪物をあやつっているのは、あなたなんですか?」




