51.二度めの喪失を前に
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曇り空の下に、灰色の朝もやが立ち込めた日だった。
「やたら視界が悪いですねー」
新兵イスラが言う通り、ここの海岸でこんな風に見通しが悪くなるのは初めてのことだ。第六十三隊はいつも通りに朝の警護担当、塔の上から研修兵たちのいる砂浜、および四方八方と監視を続けている。けれど珍しいことに、絶え間なく動く薄い白いもやがなかなか晴れていかず居座っている。
「……と言うか、こんなの」
「戦線でも、見たことがない……」
我慢強いホノボ兄弟も、何だかやりにくそうに言った。
「……よし。皆、今日は“超老眼”をかけよう。精度はあまり上げなくていいから、見える範囲だけ広くして」
僕らはめいめい、視界をのばす小術を自らにかけた。サミは相変わらず、新兵イスラにかぶせがけしてもらっている。
『けったいな霧やな』
僕の右肩あたりで、青くもやもやしているイスラが呟いた。自分のことかいと突っ込んであげたいが、監視任務中はがまんである。
……でもそれ以上に、僕もけったいな感覚にとらわれていた……。嫌な方向のやつ。
何だかそこはかとなく似ているのだ、十四年前イスラと一緒に海竜に襲われたあの日に。どんよりとした風景からは色彩が失われてしまって、途切れとぎれにもやの合間に見える水平線は、鉛のように黒ずんでいる。
背後の砂の地平線も、灰色だった。僕はみえない圧迫感に四方を囲まれた気がして、何となく息が詰まる。砂色外套の肩にのる、もやもやイスラの青さだけが、熱を帯びて目にも温かかった。
そうしてぐるぐると位置を代わりながら、一刻ほども監視を続けていた頃。
サミがいきなり、塔の海側へりに駆け寄った。鉛色の水平線の彼方に顔を向け、短く叫ぶ。
「海竜や、モモイ隊長ッ」
それで僕と青いイスラ、ホノボ兄弟、新兵イスラはそろって同方向を見る。
「ずっと北西から……来る、こっち向こうとる!」
もやの切れ目を、術の効いた目で透かし見る……。うねうねと波間に浮き沈みしながら、不規則に水飛沫をあげてこちら方面に向かってくる黒い影があった。まちがいない!
「緊急配備ぃーッッッ、≪敵≫一体が接近中ッッッ」
新兵イスラが螺旋階段の出入り口にとんでいき、階下に向かってどなった。非番の第四十四隊が、これでとび出してくるはずだ。
「全員、海岸の研修現場へ移動。“早駆け”詠唱準備ッ」
僕もどなった。杖を構えつつ、青いイスラにささやく。
「また、運んでくれる!?」
『おう、まかしときッ』
こっちの方が、断然速いのだ。基本詠唱を始めたあたりで、半いるかの姿をとったイスラがぐるりと第六十三隊のまわりを素早く泳ぎ、その青く流れるような風の軌跡にのって、僕らは浜辺……研修兵たちの一団のすぐ後ろに着地した。
「全員、撤収退避ッッ」
「たいひーッッ」
僕とサミの怒鳴り声に、十余人の少年たちはびくりと立ちすくんだ。すぐ近くにいた教官が走り寄ってくる。
「三位、何があったんですッ?」
サシャに付き添っていた、若い担当教官だ。
「≪敵≫が一体、北西海上から接近しています。研修兵たちを直ちに全員、退避させて下さい」
彼はさっと蒼ざめた。低く早口に言った僕にうなづくと、少年たちに向けて集合して退避、とかたい声で指示を出し始める。
「ハガティ、ラガティ、イスラ、“防御壁”準備。サミ、随時攻撃に備えて春雷の詠唱開始ッ」
岩まじりの砂浜の上を横一列になって、第六十三隊は波打ち際へと進む。
「いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、高みより高みよりいざ集え」
進みながら、僕らは獅子頭の術士帽をかぶり、背中の円盾を胸に回す。五本の聖樹の杖の先端が、次々に白く光り出す。
後ろを走り過ぎる少年たちは静かだった。……何が起こりつつあるのか、誰もわかっていない。僕と、僕の脇で身構えている青い風のイスラ以外は。
『……左や、いま泡立った……来るでッッ』
「左側方向!! ハガティ、ラガティ、“防御壁”発動ッ」
ぶしゃああっっ!!
盛大な波の飛沫が前方に立って、高く高く……海竜が伸び上がってきた!
「集い来たりて 悪しき物の怪のわざより 我らを隔てる壁となれ」
ホノボ兄弟のつくり出した光の膜が、つながりあった円環の双璧となって海竜の胴体にぶち当たる。
「イスラ! 上方に“防御壁”展開ッ」
ぎり、ぎりぎりぎりッ!
落とし込むようにして迫ってきた海竜の顔面と、新兵イスラの放った光の膜が衝突する。
「拮抗!! 全員、詠唱続行ッッ」
“恨み根っこ”を本来の使い方で展開すべく準備詠唱しながら、僕は周囲をすばやく見回した。大方の研修兵たちは、若い教官と一緒に移動して、施設方面へのゆるやかな坂を上がっている……。
「急げ、急ぐんだ! ベアルサぁっっ」
その時、後ろの方から焦った声があがった。そちらを見ると、もう一人の教官がぶんぶん聖樹の杖を振っていた。
……その年輩教官の顔を見たとたん、僕は胃の辺りがうっと冷えるのを感じた。彼の視線の先をむりやり見る、……少年が一人、ちんたらした調子で走ってくる。どう見ても急いでいない。ベアルサ、……確かあれって新兵イスラにいちゃもんをつけ、サシャをいじめて逃亡させた留年不良ではなかったか?
「ベアルサぁぁぁっっ」
地団駄を踏むような勢いで、年輩教官が怒鳴っている。……知っている声だという事実を、僕はどうにか頭の脇に押しやって、……“恨み根っこ”を展開した。
すわと波の引いた濡れ砂の汀に、ずばずばずばりと無数の黒い逆根がそそり生えて、胴体下方を刺された海竜は後方へともんどり打つ。
「だーいじょーうぶ、ですってぇ。俺もいっしょに、殺っていいっすかーぁ」
年輩教官に、あるいは僕に、挑発でしかないのんびりとした声で言って、十五歩ほどの近さにまで寄っていた少年は、すいっと聖樹の杖をかかげた。
「白き氷の華をまといて 敵のその身を凍みくだけッ」
もんどり打って倒れた後、水中でのたくっていた海竜の身体の一部が、びきめきと瞬時に凍りついていった。
「あっは! ちょろー」
術士帽を胸にさげたままかぶりもせず、ベアルサ少年は笑った。以前誰かが言っていたように、留年不良の攻撃にはなかなか威力があった。けれど……。
ぐぐぐ、ぐうっ!
その凍り固まった体を引き伸ばすようにして、海竜が鎌首をもたげる。
「サミ、正面に攻撃!」
「我が敵を撃つ 朱き春雷となれ!! 花麗なる一撃ぃぃぃ」
赤い雷光が派手に弾ける、しかしこの硬直だってすぐに解けるだろう……。
海竜を殺せるほどの威力を持つのは、やっぱり僕のイスラだけだ。
塔の上から第四十四隊が援護の“防御壁”を送ってくれてはいるが……ここは戦線ではない。他に交代要員はいないから耐久勝負には出られない。僕らが疲弊して倒れる前に、この海竜をどうしたって滅ぼさなければならない!
「イスラ、行ってくれるかいッ」
『おう』
囁いた声に親友は小さく、しかし力強く応えた。僕の視界に見えていた青い風は、すうっと新兵イスラの背中に迫り、ふいと見えなくなる。
「イスラ! 正面一体に、全力の風刃攻撃ッッ」
「集い来たりて 我が敵を撃つ するどき風の刃となれ蒼き鉄槌を下せ!!」
僕らの眼前で、特大級の青い風刃が巻き湧いた。
第六十三隊史上、ここまで≪敵≫の近くに迫ったことはない。ものすごい風圧に弾かれた砂粒が術士帽の下、あごをかすめる。それがじんじんと痛い。イスラの風刃の威力を、間近に感じたのは全員が初めてだった……十四年前それで救われた、僕をのぞいて。
僕は防御壁の詠唱を続けながら、その海竜が青い風に切り刻まれ、黒々とした体液を海にまき散らしながら数多の肉片になっていくのを見ていた。海竜の首……頭は、波飛沫に包まれて見えなかった。だから前回と同じだったのかは、確認できない。ともかく、≪敵≫は死んだ……。対してこちらは全員無事だ、誰もなにも飲まれてはいない!
そう思いかけて、僕は震える。
全身の毛が……いや、右半身が何かをびりりと感じて、視線をほんの少し横に向けると。
巨大な頭が、……まったく無傷の海竜の頭が右方面の海中からぬうっと突き出て、その下にいる留年不良に向け、かぱりと口を開けたところだった!
突如、自分のまわりに落ちた闇……もう一匹の海竜の影の下で、ベアルサ少年はみにくく驚愕していた。さっきまでの挑発がうそのように、実に素直な顔で恐怖に凝り固まっている。
ざっ!!
そこへ走り込む小さな姿……、つられて僕も走り出した。
自身に“防御壁”の光の泡をまといつかせた、新兵イスラの姿が海竜下の闇をぶち破る。留年不良を突きとばすように、いやひっ抱えて……走り出した、しかし逃げ切れる距離じゃあない!
「イスラ、イスラ! イスラぁぁぁーっっっ」
僕は絶叫して、詠唱した。
もう一度イスラが僕の前から失われてしまう恐怖、それに全身全力で抗いながら、絶対そうはさせるかと詠唱した。
「集い来たりて 我が敵を刺す 百万の根となりてぇぇぇ」
新兵イスラ、その中に入った僕の青いイスラと、腑抜けた留年不良を背中にして、僕は目の前の巨大な海竜……そのふたつの目玉に、人生最大のがんを飛ばし怒鳴った。
「憎く悪しき敵の牙を折れぇぇぇぇ!!!」
――ふざけるな。ふざけるな、ふざけるな! 海竜、イスラは二度と渡さない!!
大きな大きな暗い口がひろがる、そこに僕の“百万恨み根っこ”が立ちふさがり、黒々と……
僕をのみこんだ。
『モモイーッッッ』
光のみえなくなる寸前、イスラの声が僕の名を呼ぶ。




