35.祖母の≪海の挽歌≫
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金融機関で現金をおろし、新兵イスラのお婆さんへの下宿代支払いの準備をする。
室代はいらないと言われはしたものの、僕は食事代に大いに色を付けたいと思った。
「だって、次の休暇にまた来たいじゃないか。イスラにとってもお婆さんなんだし、実家みたいにさせてもらったらありがたいよ」
『せやな~。他のとこを改めて探すとなったら、そらめんどい』
イスラを取り戻した今、ティルムンも再び僕の故郷に戻った。ここに来て、イスラと歩いて本を読む、それだけでいい。僕には次回休暇という待つべきもの、楽しみにする未来ができていた。
夕方前、下宿屋地上階に訪うと、お婆さんは裏庭の庇付き露壇にいた。古びた安楽椅子にかけている。
僕の差し出した包みを受け取ると、お婆さんは隣の椅子に座って香湯一杯つき合え、と言った。
台所に行って戻ってきたお婆さんは、明るい翠色のお湯の入った白い陶器ゆのみに添えて、小さな布片を僕に手渡す。
「はい領収書。近頃は休暇費用の助成が出るところも多いからね。軍の人を泊めたのは初めてだし受理されるかどうか知らんが、とりあえず提出してみたらどうだえ」
教えられることばっかりである……全然知らなかった。ふと布片を見れば、やたら流麗な領収書だ。しかも何だか、見覚えのあるような筆致である。
「あたしが書いたんではないよ。うちの学生たちに手伝わせてるのさ」
お婆さんは貫禄たっぷりに、安楽椅子にふんぞり返って湯のみを傾ける。
えーと……もしや、これは?? 僕は目をばちばちさせた……。右耳の脇で、親友がもぞもぞ呟くのが聞こえる。
『……パンダル君の、内職やろうか』
お婆さんはゆっくり一口飲んでから、穏やかに言う。
「……この年齢になると、どうにも故郷の言葉がなつかしくなってね。イリー留学生のさえずる所に身を置いときたくて、宿屋をやっているんだよ」
「テルポシエには、もう戻られないんですか?」
「うん。船で行くにも、ちっときついね。何にしたって、あたしはティルムンが好きで居ついたのだから、寂しいだの帰りたいだのってことではないのさ」
「そうなんですか」
少し冷めてきた香湯を、僕もすすった。生の薄荷を抽出した、さわやかな薫りが広がる。
「……あんたはあの子を、知ってたと言ったね」
低く問われて、僕はうなづいた。唐突な問いだけど、それでも僕にはすぐにわかる。彼女にとってはいなくなってしまった方の孫、僕の親友イスラのことだ。
「あんた達がやって来てから、あたしも少しずつ思い出すことがあってさ。だからほんとに久しぶりだが……。歌ってみたんだよ」
「歌?」
お婆さんはうなづいて、次の瞬間ひくく歌い出した。
♪ ワタシハアナタヲ オモイヨブ
ナミダノナカノ ウミニヨブ
アナタノネムル ウミニヨブ
ナミダノヌクモリニ アナタガイル
♪ ナミニダカレ ネムルアナタ
トワニイキル アナタハココ
ワタシノナカノ ウミニイル
ワタシトトモニ アナタハアル
ティルムン語でもイリー語でもない言葉。ばら色紅をさしたお婆さんの唇が紡ぐ≪歌≫の意味は、僕にはさっぱりわからなかった。
かなしくて切ない、けれど何かを必死に思い求めているような、明るみに向かう美しい旋律だった。
「……」
やがてお婆さんは、ふいと口をつぐむ。小さな卓を隔てて座っている僕を…… いや、視線がずれている。僕の右脇を、お婆さんはじっと見ていた。
深い蒼の瞳が、やさしく潤んでいる。
「忘れずにいる限りは、なくなりはしないのさ」
ぼそりと言って、お婆さんは笑う。
「モモイさん。イスラをよろしく頼んだよ」
「えっ、あっ、はい」
僕の右脇で、イスラの温かみがふるふると震え出したのがわかった。
「両方だよ。 ……どれ、そろそろ夕食のしたくにかかろうかね」
『……婆ちゃん……?』
安楽椅子の手すりに大きな手をかけて、ゆっくり立ち上がるお婆さんと一緒に、僕も腰を上げる。
空の湯のみを手渡しかけると、お婆さんはいつもの調子で言った。
「そうだ。あんた、あのでっかい子には会ってるのかえ?」
「えっ……いえ、サミには三日くらい会っていませんが……。あいつが、どうかしましたか?」
ああ、突如としてよみがえる変人の記憶! 一体何をやらかしたのだ、まさかここの代金を踏み倒すつもりでいるとか……?
「うむ、今日の昼前に支払いしてくれたのだが。やたらめったらぐんにゃりしていて、嵐の後に倒れちまった樫の大木みたいだったよ。もう三日からこっち、朝も夕も食事に来ていなかったし……。慣れない所で、身体の具合でも悪くしたのと違うかね?」
嵐の後の樫の大木、というのを見たことはなかった。いやそもそも樫の木を知らない僕だが、お婆さんの言いたいところ、壮絶にして凄惨な感じというのは何となくわかった。
「……あとで僕、サミの室に様子を見に行きます……」
「簡単な薬なら用意しているからね。遠慮なくお言いよ」
「はい。責任持って連れ帰りますので、どうかご心配なく……」
その後サミの個室の扉を叩いたけど、返事はなかった。仕方なく引き返す。
今夜で最後、イリー風のまろやか豚肉煮込みを食べ、食堂から自室に戻ろうとしたところで、正面玄関あたりにふらりとのっぽの影が揺らいだのに気づく。
「サミ?」
影はゆらーり、とこちらへ振り返る。長い巻き巻き金髪の隙間から、ぎぎーんと赤い閃光が二本放たれた(という印象を僕は持った)。
その瞬間、あからさまにびびったらしいイスラの気配が、ふるるっと僕の背中にまわったのを感じる。
「モーモーくーん」
地響きみたいなぶるぶる低音で、サミの気色わる声が僕にからみついてくる。
「どこでー、なにをー、しとったんやぁぁぁ。うちが壮絶なる悲嘆に暮れている時にぃぃぃ」
「……はあ? 聖樹参拝に行って帰って、……普通にここにいたよ?」
ぬぬぬぬぬ……サミが迫ってくる。
『も、モモイ。逃げた方がええのんと違うか……』
うなじの後ろで、うろたえた親友の声がする。
がばり!!
やしの木みたいな長ひょろ巨体が、いきなり僕に覆いかぶさってきた!
「げえ!?」
『うぎょええええ!?』
サミは僕の首ったまに抱きついて、ぎりぎり締め上げてくる!
『こりゃ、モモイに何すんのや! 乱心したんか、でっかいお兄!? モモイを放さんかーッッ』
「……いざ来たれ 群れなし天駆ける光の粒よ、」
命の危険を感じて、僕が本気で詠唱を始めたその時、「わーん」と子どもみたいな声を上げて、変人は泣き始めた……。締め上げが弱まる。
「義姉やん、なくしてもうたぁぁ……」




