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32.“白き沙漠”の密航者

 

・ ・ ・ ・ ・



 南区パバルナンの下宿個室よりさらに狭いけれど、宿舟やどふねの船室はそこまで窮屈でもない。つる編み寝台の中、袋になった毛布にもぐり込んで僕は眠った。


 五人一室の戦線宿舎に慣れ切った身には、多少の風や樹々のざわつく音、遠くで何か言っている他人の声なんて、騒音のうちに入らない。


 良く寝たけれど朝は早くに目が覚めてしまって、昨夜入った時と同様、そろりと船室の外に出た。



『ひゃあ……何や、これ』



 見えない親友イスラの小さな驚き声に続いて、僕もびっくりした。白っぽいもやが濃い、船の周り……いいや、聖樹の森の一帯に立ち込めているらしかった。


 甲板から伸びている縄梯子を使って地上に降りた時、上の方からそっと声がかかる。



「モモイ隊長ぉー」



 新兵イスラが船べりから顔をのぞかせ、僕を見下ろしていた。



「どこ行くんですか?」


「散歩だよ」



 少年は僕らについてきた。やはり戦線にいる時の習慣で、休みの間も早く起きてしまうのだそうだ。両親は朝が遅い、起きたらその辺で朝食をとって帰路につくだけだから、その前にもう一度聖樹に参拝しておきたい、と言う。



『何とゆう真面目さや……。理術士のかがみみたいな子やな?』



 かぶった外套頭巾の内側、僕のうなじ辺りで温かいイスラの気配が、ぼそぼそ言っている。



『俺とはえらい違うぞ~』



 生前の親友は寝ぼすけであった。あれだけ読んでばっかりだったのだから、無理もないけれど。



 いつの間にか僕らが新兵イスラについて行く形になって、あの天蓋で覆われた参拝通路の前に来ていた。乳色のもやはどんどん引いていって、周囲の森の樹々が鮮やかにその緑の色彩を放ち始めている。


 いま、曙光を浴びて輝く聖樹は明るい。


 昨日見たようなあの暗さは薄らいで、幹の表面もざらざらしているのが遠く見てとれる。


 ほとんど人のいない通路の入り口前で、少年は足を止め、はるか上空の聖樹の梢を見上げた。



「モモイ隊長。きょう俺、願掛けするんです」


「そうなんだ?」


「ゆうべは色々、感謝をしました。戦線でちゃんとやっていけるようにとか、おっかない人のいない隊に入れますようにとか、前来た時にしたお願いをぜんぶ叶えてもらったから、その感謝だけしたんです。それで今日は、また新しい願掛けします」


『いや、二つ目かなってないで? でっかいにいやんという、実に怖い変人のいる部隊に配属されてもうたやんか……。さすがの聖樹も力およばんかったと見えるな』



 親友イスラの言葉に胸の内で同意しかけて、いや待てよと思う。サミのことを全然気にかけていない新兵イスラは、やつを超越した大物なのかもしれない……きっとそうだ。



『で、次は何を願うん? 四位昇進か~、イスラ君?』



 ぺらぺらしゃべり続ける親友につられ、僕も新兵に何気なく聞いた。



「こんどは壮大な願掛け、するのかい?」



 微笑して言った。秘密です、と笑顔が返ってくるとばかり予想していたけれど、少年はまじめな顔つきのまま言った。



「はい。皆とティルムンの、役に立つ人間になれるように、って」



 子どもにしてはやたら引き締まった雰囲気をもって、新兵イスラは言った。



「……」


「他の人は、願いごとは言っちゃだめだって言いますけど。俺の先生はなるべく口にした方が良いこともある、って言ってました。頭の中だけにある願いが、言った時点で言葉になれば、それは実現にむけての第一歩なんだって」



 僕は首をひねった……。反対側にもう一回ひねって、それは本当かもしれないと思う。


 形のないもの、見えないものに名前をつけるのが言葉、僕らの使う理術そのものだ。僕はそれらのおかげで、親友イスラの存在をはっきり近くに感じられるのだし。



「……そうだね。そうかもしれない」



 低く言った僕に少年はこくりとうなづいて、静かに天蓋型通路に入ってゆく。


 後ろに続きながら、それでも自分の願いは口に出すのがためらわれるな、と僕は思っていた。



 僕は俗物である。


 さして秀でたところもない、凡人の三位さんみ理術士だ。賢明なる新兵イスラのように、故国ティルムンとそこの人々のために尽力しよう、なんて思ったことはない。多分これからも思わない。


 今までは、翌日の戦線配備のことだけ考えて生きてきた。そしてこれからは、ようやく取り戻した僕自身の小さな周辺世界を、再び手離すことなく生きてゆく……。僕が望むことなんてそれだけなのだ、実は。


 昨日と同じ、てかてか蜜蝋みつろう灯りに照る聖樹の根元に右手を伸ばしながら、僕は想い願った……。



――かえってきた親友イスラを、再び失うことなく。ずっと一緒に仲良く楽しく、やっていけますように。



・ ・ ・ ・ ・



 ティルムンに向けて、宿舟は帰路をとる。


 昨日と同じく澄んだ青空の下、宿舟は船頭理術士の風を帆に受けて、ぐいぐい気持ち良い速さで進んで行く。


 聖樹と水源のある湖沼地帯をずっと後ろに、左手に白河の水緑域をみとめた辺りで、甲板席に座っていた新兵イスラが腰を浮かしながら言った。



「あれっ……?」



 僕が見ていると、少年はするりと立って行く。交代して休憩中の方の船頭に話しかけた。



「河の向こう岸に、舟がたくさんかたまっている!」


「えっ? ……あ、ああ……。よく見つけたね」



 少年と船頭、二人が見据えている方向を、僕も眺めた。水緑域のその草緑色の帯が途切れ、白い砂の丘がなだらかに始まるあたりに、確かに行列らしきものが見える。



「いざ来たれ 群れなし天駆あまがける光の粒よ、高みより高みよりいざつどえ つどい来たりて 我がはやぶさの 光を宿やどせ」



 こっそり“超老眼”の小技をかけて、詳しく見入ってみた。


 数人乗りの砂舟が、六艘……七艘か、東に向かって流れ進んで行くところだった。 ……東??



『東むきぃ? ティルムンはこっちやんか、あの人ら東へ何しに行くん?』


「おじさん、あの一団は道を間違っているんじゃないかな。何もない東の方へ向かっている」



 僕の間近にいる親友イスラと、新兵イスラとがほぼ同時に言った。




「大丈夫かな。遭難する前に、教えてあげた方が良くない?」


「……いいんだよ、坊ちゃん。あれはね、……あれは内緒で、東へ向かう人たちなんだ」



 おじさん船頭は何やらわけありの表情をして、新兵イスラと僕の顔を見た。


 僕ら二人が正規理術士であることを、知らない様子である……どっちみち彼にとって、僕らはお客でしかない。



「時々ね、いるんだよ。東向きに“白き沙漠”を横切る人たちが」



 様々な事情を抱えてティルムンを去らなければならない人々が、秘密裡に小舟団を作って行くのだそうだ。



「イリー都市国家群やその先に行きたいなら、海から行くのが簡単じゃないの? 船に乗って……」



 素朴な質問をあげた新兵イスラに、船頭おじさんはゆっくりうなづく。



「その通りだね。けれど船に乗ったら、名前だの在所だの、全部港の帳簿に残ってしまうだろう? どこに行って何をするのか、そういうことを誰にも言えない人たちは、海の船を使えない。砂の舟に乗って、東へ消えて・・・ゆくんだ」



 おじさんは口をつぐみ、イスラ少年もその先を問わない。


 そんなことがあるなんて、僕はこれまで全く知らずにいた。イリー側の境界まで、いったい何千愛里あるのか。


 どんなに小さく縮小された地図でも、ティルムンとイリーの間にはどかんと大きな空白が目立つ。それが“白き沙漠”だ。突っ切って行くのに、一体何日……何週間、いや何か月かかるのだろうか。訳あり密航は無謀……絶望的としか思えない。



「……東に行く人たちを見たってこと、あんまりよそで言わない方が良いね」



 悲しいものを目にした、という調子で船頭はぼそりとつぶやいた。




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