31.闇の夜空はやさしく、美しかった
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聖樹の陰から抜け出ると、そこでも夕闇がゆっくりと落ちてくるところだった。
新兵イスラとその両親と、宿舟近くの食事処でごく簡単な夕食をとり、船に引き上げる。
「モモイさん、外側の室でよろしいんですか? 船倉の方がずっと暖かいんですのよ、周りの音も聞こえなくって静かですし……」
僕のことを気遣ってくれる新兵イスラのお母さんは、さばさばと優しい人だった。
船頭理術士の二人は、停泊所に建つ事務所みたいな所で寝るのだそうだ。就寝前に少し散歩もしたいから、と船倉に降りる新兵の一家にことわりを入れる。
「一人で大丈夫ですか?」
おちょくっているのではない、少年が真顔で聞いてくる。
「……大丈夫だよ。お休み、また明日」
暗闇の小径を歩き出した時、肩の近くがざわついた。
『いや、イスラ君なぁ……。モモイは経験ゆたかな正規理術士三位で、でもって君んとこの隊長やぞ? イスラ君の倍も生きとる大人やぞ~? どうゆう心配すんねや、ひとりで大丈夫かって……』
見えない親友イスラが、ぼそぼそ早口でしゃべり始めた。なんだか茫然としたようなあきれたような、そういう言い方である。僕はふふと笑った。
「あの子は、素がまじめだよね」
『いや、天然とちがうか……。俺が言うたらぼけで済むが、イスラ君は微妙にずれとるで』
「……せやから、サミとも平気で張り合えてるんとちがうかな?」
『あ、そっかー』
聖樹門前集落の店先には篝火や吊り燭台が灯されているけれど、人通りは少ない。日帰りで参拝する人の方が多いから、煌々と明るいのは宿屋とそこの食堂ばかりだった。
その明るみからも外れて、僕らは再び聖樹の森へ近寄って行く。
携帯式の吊り燭台をさげた、巡回の管理係と行き合った。
「今日の参拝は終了しています。……散歩ですか? 環状路を絶対に外れないでくださいね。これ以上、聖樹の近くに寄ってはいけません。夜も落枝はあるんですから」
静かに注意して、男性は行ってしまう。
『……枝、落ちるんやって。気をつけよ、モモイ』
「せやね」
見えないイスラとぼそぼそ囁き合いながら、僕は闇の中に白っぽく浮き立つ、森の小径をたどってゆく。
『よく考えれば、おそろしいな? あれだけ高ーいところから、でっかく硬い枝が勢いよう落ちてくるのや。おつむに突き刺さったら即死やで。聖樹のまわりなんて、こんな危険なところを暗い中、うろうろほっつき歩いてるやつの気が知れんな!』
「まんま僕らやん」
そう、聖樹はしょっちゅう枝を落とす。でっかい樹だから落枝も派手だ。その落下を察知した後、鋼の兜や革鎧で重装備した人たちが枝を取りに行く。門前集落にある石積み建物へ運び込んで、理術士の杖に加工するのだ。
ふわり、と風が吹き過ぎていった。
夜間配備の北海岸ほどではないけれど、ここの夜はティルムン市内よりずっと冷え込む。
僕は外套の前を閉めて、ついでに頭巾をかぶった。休暇入りした時、戦線すぐ南の保養施設で軍備を預けて、引き換えに支給された一般平服である。地味な紺色外套、どこにでもあるような型だから、ぱっと見で僕らの身分素性は他の人には知られない。けれどもらった衣類は理術士の砂色外套と同様、温かな良いものだった。
『ここ、えらい気温さがるな~。ちゃんと着込んできて正解やったな、モモイ』
「イスラ、暑い寒いはわかるの?」
『うん、わかる。それをしんどく感じるところは、なくしたけどなー』
「ふうん……」
食べ物の匂いも色も感じ取れる、しかし空腹はおぼえない。それと同じなのだろうか。
今のイスラの感覚は、僕にはやっぱり想像しにくい不思議さだ。
『にしても、この≪森≫ってなー。こんなに闇と緑が濃ゆくて、けったいなところや。あの物語、「常緑の森」の森ってのも、こんな風なんかな? 結局、最新十四巻にもぜんぜん記述が出てこんかったけど』
「本当だよね。どんだけ表題で引くのって感じ」
……けれどイスラは、知識経験は蓄積している。これまで僕が読んだ時に横からみていて、『常緑の森』全巻の内容を知っていた。
「面白いから追ってるけど、話が広がりすぎてて、これぜんぶ収拾つくのかな、って読んでて時々思うよ。主人公が生きてるうちに、決着つくんかなぁ」
『それ言うたら、作者が生きてるうちに、ちゃんと大団円するんかなという疑問もあるぞ』
「どういう人なんだろうね? 『常緑の森』の作者って…」
あれだけ流行して、数々の亜流を生み出しているというのに、『常緑の森』の作者は謎に包まれているのだ。性別も年齢層も、全く知られてはいない。
『それこそ、別世界から来た人っちゅう噂があんのやろ? むふっ、何だか怪談めいとるのー』
ざわぁ……。
何か胸の底をえぐるような、強く冷たい風が吹き過ぎた。
ざわ、ざわわ……。
風とともに森の樹々、そしてはるか上空にある聖樹の枝々にざわめきが流れてゆく。僕は立ち止まり、聖樹をふり仰いだ。
闇に慣れた目の先にも、その巨大なきのこ型の存在は黒ぐろしくそびえている。聖樹は暗黒だった。
しかしその上……深い深い紺色の夜空には、白く小さい星々がまたたいている。
「へえ……」
『何や?』
「夜空って、こんなにきれいだったっけ? イスラ」
夜間戦線配備で≪敵≫を前にしている時、僕の頭上にある夜空とは別ものみたいに思えた。
真っ暗なりに明るい……。よくよく見ていると星々の輝き具合も色みも、少しずつ全部ちがう。その輝き、またたきが何だかにぎやかに思えるくらいで、やさしかった。
空虚が落ちてくるような、そしてその闇の中に飲み込まれそうな圧迫感がまるでない。僕はそれを感じるのが嫌で、夜は顔を上げて頭上をよく見もしなかったのだけれど。
……闇の夜空は、きれいで優しいものだった。
ずざっ。
その時、何かが重く地面と衝突する音がした。
「……落枝だ」
『だいぶ遠いな』
落ちた枝の夜間回収はしていないらしい。当たり前か。
風の吹き去った後は静まり返って、人の声や気配はどこにもなかった。
『……俺らの杖も、こうやって降りてきたんやな』
「せやね」
聖樹の杖は、人が理術を使うのに力を貸してくれる媒体である。かつてその一部だった枝を通し、聖樹の力添えを得ることで、理術士はより強力に詠唱を行うとができるのだ。
『あのな、……モモイ。白状するわ、今モモイが持ってるあの杖な……。あれ、俺の杖やってん』
何だかもじもじと、しおらしげな調子で言ったイスラの声に、僕はぷっと笑った。
「やっぱりなー。わかってたよ、……わざとすり替えたん? なんで?」
『……なんでかは、忘れた。でもってモモイの杖は……』
僕らはおし黙る。唇を引き結んでから解いて、僕はイスラに囁いた。
「あの時、……あの瞬間、僕は≪敵≫に吹っ飛ばされた。空中ぐうんと飛びながら、全部見たんだ」
『……』
「その辺のこと。イスラは憶えてるかい」
『……詠唱して。青く光った、ってことだけや……』
語尾がかすれた、……。僕は溜息をつく。
聞くしかなかったのだけれど、またしてもイスラを黙らせてしまったのが悲しかった。
「ごめん。もう二度と聞かないから、思い出さなくっていい。忘れちゃってええよ」
気分を害したか、怒ったのか。イスラは黙ってしまった、……いいや。悲しんでいるのだ、イスラも。
「……」
ふと、右手のあたりがぼんやりと温かくなった。
「イスラ……」
どうしよう、まさか泣いちゃっているのだろうか。詠唱の声調で呼んでも、イスラは答えない。
僕の右手だけが、不思議な温かさに取り巻かれている。
このぼんやり温かいのが、ひょっとしてイスラなのだろうかと思った。
僕はあわせていた外套の前をひらいて、自分の右手を胸にあてる。心臓があるという辺りに。
「ごめん、イスラ」
『ええねん』
何だかぐずついた小さな声が、胸の辺りからようやく返ってきた。
『暑い寒いのしんどさは忘れたけど。温いのが気持ち良いのは、まだわかる』
その夜、聖樹の森の暗黒の中で、僕らはそうやって長いこと佇んでいた。




