25.入門書・よくわかるイリー世界
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会いに来てくれたイスラを、僕は窓から見送った。
その後ずうっと起きていたから、今日の僕は朝食一番乗りである。
戦線にいる時なみにお腹が空いて、おかわりを取りに席を立ったら、イスラのお婆さんが配膳卓子に果物籠を置いたところだった。
「孫のもらってきたやつだよ」
緑の油果と白いゆで卵の鉢の右隣に、杏の盛られた籠。
円いもの達が、すましたように並んでいた。
たくさん食べて飲んでから、室で昨日買った本を読んでみる。
イリー世界に関する入門書の数々は、先日パンダル君たちに借りたややこしい学術書とちがって、だいぶ読みやすい。ざっと端折った歴史に地理風土、都市国家群それぞれについての大まかな知識が網羅されていた。
錬成校で一通り習った記憶はあるけれど、十数年もたてば情勢だって変わってくる。最新版の本をすすめてくれた書店員さんに感謝だ。それに学生だった頃と違って、今の僕にはイスラの謎を解く手がかりを探す、というはっきりした目的がある。親友イスラのお母さんの出身地、東端の都市国家テルポシエとその周辺について、特に入念に読んでみた。
アイレー大陸南側の沿岸地域に点在するイリー都市国家群、その中でも“東の雄”と呼ばれるテルポシエは、ティルムンからの植民集団が最後にたどり着いて作った国だ。“白き沙漠”から彼らに寄り添っていった≪守護神≫も、西のデリアドから順に人々が都市国家を建国していくのを助け、最終的にはテルポシエに眠ったと伝わっている。
「……≪守護神≫って、何? 僕らティルムン人にとっての、聖樹みたいなものかなぁ」
イリー守護神≪黒羽の女神≫についての記述はそこだけで、詳しい説明はなかった。そんなに重要な部分ではないのかな、と僕はどんどん読み進めていく。
――あ~~、モモイ! ≪黒羽の女神≫についてはなぁ、俺ちょっと知ってるで! お母ちゃんが話してくれたん憶えてる。向こうの国には、広場とかに石の女神像が置かれとるのやって。それ見る限りは、背中に翼を二枚くっつけた、おねえさんらしいぞ。言うても、おばけやあらへんで? むしろ美人でかわいいらしい! 特にお母ちゃんはなー、小っさい頃に連れていかれた本屋にあった像のことを、ようく憶えていてな。でっかい翼をのびのび伸ばして、その間にある小っさい身体が、ぼん・きゅん・ぼうん!と実に光々しく、くびれていたそうな……! うん……、うちのお母ちゃんの目のつけどころ、独創的すぎるな。俺も聞いててそこかい、と思うたわ……くびれ、って……。まぁ世の中めりはりはあった方がええのやろう、俺は身体とともになくしたが。……ってもともと俺にくびれはなかったか、あはっ。 あかん、モモイに聞こえてへんと思うと、どうしても語りが長くなりよる……。俺のしょうもない話は放っといて、どしどし先を読み進めよしー。
「えーと。テルポシエは名実ともに、イリー都市国家群の代表格とされる国で……、」
経済繁栄が著しい一方、テルポシエでは貴族の権威がイリー諸国内で最も強い。ブリージ系原住民の住む東部大半島、北部穀倉地帯と境を接しているために、軍事力の維持にも力を入れている。
「ブリージ系……東部ブリージ系の原住民……!」
イスラが強調していたところだ。僕は期待をこめて読み続けたけれど、アイレー最果ての東端に住む人たちのことには、それ以上触れられていなかった。イリー世界に関する入門書なのだから、さらに東方のことは範疇に入っていないのだろう。
「うーん……。イリー世界の知識を一通り理解したら、東部大半島のことを別に調べて読んだほうがいいのかな……。そうか、こういう時こそ書店員にお金を払って、検索してもらえばいいんだ」
何とはなしに声に出して言いつつ、ほつれてきた髪を解いてまとめ直す。
「……どう思う? イスラ」
開け放した窓からいっぱいに差す陽光、明るい室内に親友の姿はもちろんない。
けれどイスラは、だいたい僕のそばにいる、と言っていたのだ。借りた新兵の身体を返して、また戻ってきているんじゃないのか。そう思って声をかけている。
返事はない。気配もない。
「……検索してもらうんなら、やっぱり昨日の北区の大書店に行ったほうがいいよね」
静寂……。
――うーむ……。傍から見たら、僕は独り言だらけの危ない人だ。でもしょげてはいけない、何だって色々初めはむずかしい。理術の詠唱だって、僕はこつをつかむのにだいぶ時間がかかったのだし。
「ま、いいさ」
僕は身支度をして、下宿を出る。
午前なかば、歩き抜ける小路の一画に市が立っていて、ずいぶんな人出があった。路上にむしろや布を敷いて、野菜くだものや各種の豆類を売っている人が目立つ。食料品ばかりの朝市で、買いに来ているのも地元の人々。
「あら、あらららッ」
僕のすぐ右横を通りかけた人が、声を上げた。
何かの拍子によろめいたかつまづいたか、手にしていた籠を落としてしまって、丸っこい中身がころころ地面に散らばってゆく……。
僕と、気づいた他の人たちが、次々にまる瓜を拾って奥さんの籠に戻した。
「どうも……皆さん、ありがとう」
ふかふか、こんもりした髪を振り立てて、その小柄な奥さんはお礼を言った。
「まる瓜、うちの息子の好物なの……。本当にありがとうね。助かったわ……」
手首に巻き付けた無数のじゅず腕輪をじゃらじゃら鳴らして、籠と杖とを持ち直すと、奥さんはとことこ歩いて行く。
杖……。聖樹の杖だ、もちろん。もぐりの女性理術士だった。
理術士というのは基本、兵士だ。だから女性兵士を認めていないティルムン軍は、理術士錬成校への女の子の入学も認めていない。
けれど、理術を学べる場というのは実は他にも存在していた。退役除隊した元理術士の父親や親戚が、向いている子にそれを教えることがよくある。結果、便利な小技を提供する女性理術士が巷にはけっこういるのである。もぐり、とやや蔑んだ言い方で呼ばれてはいても、別段違法な存在ではない。摘発されるようなこともない。むしろ便利な専門業者として、ティルムンの一般市民に重宝されている。
正規理術士、戦線に立つ兵士として、僕は彼女らと自分とを比べることはない。けれど、恐ろしい≪敵≫に向かって延々果てのない攻撃防御を詠唱することもなく、ひたすら他の人の暮らしを豊かに、心地よいものに変えるために理術を使うことは、それはそれで大事なことなのだろう……と、他人事としてとらえている。
それでもやはり、久し振りに女性の理術士を見たことで、僕は思わずにはいられなかった。
――お母さんが理術士って言うのは、どういう感じなのかなぁ……?




