忘れがたき人
毎年訪れる年末の一大イベント、クリスマス。
様々な物語があちこちに落ちていると思います。
ある一組の男女の物語。
三年前のちょうど今頃だった。
当時も今と変わらず、白い吐息で彩られた街も、慌ただしく切り替わるテレビの画面も、ひっそりと声を消した住宅街も、すべてがクリスマス色に侵されていた。
「今までありがとう」
落ち葉を彼方へ追いやる北風と同じく、女性もまた僕から去ろうとしていた。別れの句を残り香にして。
「ああ」
短くない期間を共に過ごした女性が、今まさに手元からいなくなろうとしているのにも関らず、僕はにべもない二つ返事をした。
でもこれでいい。言葉はもう要らない。
少し遠出をした、その帰り道の事だった。
彩子のマンションがもう目と鼻の先という距離だったせいかなのか、車をその場で停めることはなかった。努めて平静を装った言葉だけが、ロードノイズに消される事なく余韻のように車内に浮かんでいた。
七年前の十二月、僕は「お互い恋人がいないんだから付き合うか」と問い、彩子は「うん」と応え、交際を開始した。その時も世間はクリスマス一色で、若者が人肌のぬくもりを求める恰好の動機になっていた。
ご他聞に漏れず、僕と彩子も間違いなくその中の一組だった。
会社の同期入社だった僕と彩子は、端から色々と馬が合い、なにかと時間を共にする事が多かった。恋人ではなかったものの、友人よりも些か密度の濃い関係だったであろうと思う。
交際するまで肉体関係はなかった。プラトニックと呼ばれるような高尚なものではなく、親友という括りも違和感がある。しかしそれは、ただの同期とは全くの別物であった。
久しぶりに訪れた休日のある日、赤提灯が似合う居酒屋で、会社の愚痴を肴にちびちび酒を飲んでいた時だ。
「私達ってなんていう関係なんだろうね」
と、彩子が上気したような顔をしながら尋ねてきた事があった。
「なんだよ突然。んー、なんて言うのかな。難しいけど、戦友かな」
僕は少し間を置いて答えた。これ以上の答えはあるまい、そう思ったのだが、彩子が求める答えかどうかは分からなく、逡巡してしまったのだ。
職場はいわゆるブラック企業であった。
目標と言う名のノルマに、申し訳程度の見なし残業手当て、自己啓発の名目にすり替えられた休日出勤など、枚挙に遑がないそんな企業体質に気付くのに、入社してからひと月もかからなかった。
そんな会社なのだから横の繋がりは強かったと思う。他にも同期入社は数人いたが、皆早々と退職していた。それが手伝っているのも理由だろう。
「戦友……か。和泉君、まだこの会社続けるの?」
「もう少しね。頑張れるだけ頑張ってみるよ」
「そっか。なら私も」
こんな会話も一度や二度ではなかった。
何故か彩子は会社を辞めず、「和泉君が退職するまでは私も居残る」という姿勢は頑として崩さなかった。
職場内での妙な繋がりがそう言わせているのだろう、ぐらいにしか思わなかった。
彩子は、大学卒業後に栃木の片田舎から上京したはいいものの、周りに友人は未だにいない、と言っていた。だから、伝手や拠り所がない彩子が僕を頼り、逆に僕に頼られる事で自分自身の存在を確認しているだけなのではないか、と僕は高を括っていた。実際、「和泉君とか、職場関係の人ぐらいしか知り合いはいないし、会社辞めても他に何したらいいか分からないし」と常々ごちていたほどである。
しかし、僕が彩子の事を“戦友”だと言った日から、僕の中で彩子が“戦友”ではなくなった。
職場での鬱憤を晴らすために作られた時間は、いつしか二人だけの秘事のような気がし、それと同時に背徳感も覚えてしまうのである。
気がつけば常に彩子を探すようになっていた。
上司に叱責されている姿も、時間に追われ必死にキーボードを叩く姿も、他人を見ているような気がせず、気がつけば目で追っていた。
そんな僕の視線を彩子も感じたのだろう。度々視線が重なり、その度に彩子は目を細くし、薄く笑うのだった。
彩子に“戦友”だと告げてから数ヶ月後、いつものように居酒屋でお互いの近況や愚痴をこぼしている時、僕は酒の勢いを借りて彩子に問うてみた。 聞きたいと聞きたくないが同居しているような気持ちになるが、兎にも角にも核心に近づきたい一心だった。
「彩子はさ、いつも俺と一緒にいるけど、彼氏は作らないの? 先輩も気を遣ってセッティングとかしてくれてるみたいじゃん」
彩子は特筆して見目麗しいわけではない。しかし、人懐っこい性格や、分け隔てなく明るく振る舞う様は、自分を負の部分から這い上がらせてくれるような錯覚を抱かせる。健気な女だ、と思った。きっと世の男性はそんな彩子の性格に惹かれるだろう。その思いが胸を窮屈にさせる。
「欲しいけど、いなかったらいなかったでいいや。まあ今クリスマスだから寂しくないって言ったら嘘だけどね」
そう言い、彩子は笑っていた。
「確かに街はカップルだらけだよな。だから今日もいつもの居酒屋で正直助かったよ」
「へぇ。和泉君もそういうの気にするんだ」
「人並みにね。でも流石に合コンとか、誰其れからの紹介とかは疲れたよ。一から関係を作るのが億劫でさ。それより、彩子はどうなんだ? いい人いないのかよ」
今まで意図的に触れなかった話題だ。しかし、何故か彩子の口から聞きたかった。強引だとは思う。彩子も訝しがっているだろう。
それでも、うーん、と上を向いている彩子の口が開くのを待った。
「大切だな、大事にしたいな、って人はいるかも。その人は私の事どう思っているか分からないけどね。ただ……なんだろ。特別な感情は持ってくれてると思う」
僕の顔を何度も盗み見る彩子の頬と耳が、一層赤みを増したように見えた。
それと同時に、僕自身がえらく卑怯者に思えた。何故彩子に言わせたのか。踏み込む勇気を捨て、保険を掛け、確信が持てる答えを求め、僕自身が傷付く事を恐れた。
彩子は僕に想いを寄せてくれている。僕の思い上がりではないはずだ。恋愛感情なのかは分からないが、定まらない視線の先の一つが僕であることがそう思わせ、そんな彩子が今はしおらしく見える。
今まで見たことのない彩子が目の前にいた。
そんな彩子を前に、僕もまた一つ確信を持った。
“戦友”と言った日を境に、胸の中に湧き出た感情は、まさしく恋心だった。
僕は彩子に惚れている。ならば話は早い。
そして同じ轍は踏むわけにはいかない。
「お互い恋人がいないんだから付き合うか」
脈絡も何もあったものではなかったが、嘘ではない本心を彩子にぶつけた。
彩子も逡巡したのか、少し間を起き、「うん」とだけ呟いた。
そして僕は続けた。
「俺さ、彩子が好きみたいなんだ」
彩子は何も言わなかった。だから聞こう。
「それでさっき彩子が言ってただろ。大切にしたい人がいるって」
「……言ったかも」
「それが俺だったら嬉しいんだけど。別の人?」
「別……じゃない」
その言葉が出た瞬間、僕はすぐさまコートを羽織った。そして大皿の下に一万円札を挟み、そのまま彩子の細い手首を握った。
「出よう」
鳩が豆鉄砲を食らった顔は見たことがない。しかし、彩子が見せている表情は、おそらくその例えに一番そぐうのだろう。目が点とはこのことだ。
「うん」
その言葉を待たずして、彩子の手首を掴んだまま僕は出口に向かった。
いつもの僕なら、言葉少なく場末のラブホテルに直行である。が、この日は違った。なるほど恭しいほどあっちの行儀が良い。
行きつけの居酒屋を出てすぐに大通りがある。秋にはプラタナスが葉と路面に黄金色を与え、冬にはたくさんの青を着飾った電飾が、寒空の下に佇む街を幻想的な世界へと案内している。
僕はついさっきまでこの街並みが嫌いだった。
今、横には小柄で細い女がいる。その女は大通りを歩いている数え切れない恋人達と同じ顔をしていた。青い光に照らされている彩子は美しかった。
「綺麗だね。さっきまで恨み節を吐いてたのに」
「そうだな。でも――」
継ぐ言葉を喉元で止めた。今ならどんなクサいなセリフも言ってしまいそうだ。
どちらが言うわけでもなく、僕と彩子の手が自然に絡まっていた。
その日を境に、僕たちは“戦友”から“恋人”になった。
その後の交際は順調だった。相変わらず仕事に忙殺されていたが、その分二人の会話が途切れることはなかった。
休日は月に二日か三日あれば良い方だったが、週の大半を彩子のマンションで過ごす事が多くなったため、会社の愚痴や食事以外はお互いの身体でお互いの心を慰め合っていた。事後は泥のように寝る。
初めて身体を重ねた日の翌朝、二人並んで出社したのを僕は鮮明に覚えている。
地下鉄の中でも手は繋がれたままで、会社の最寄り駅に到着する頃に、示し合わせたかのように手を離した。
道すがら、「先輩に遭遇したら何と言おう」とか、「下半身が筋肉痛で仕事に支障が出る」といった下世話な話題で笑っていたのを覚えている。
僕は、そんな日常を愛おしく思っていた。
しかし、好事魔多しとはよく言ったものだ。
月日が経ち、幸せだと感じる事が希薄になると、かつての喜びは鳴りを潜め、彩子が横にいる事が当たり前になり、慈しみを忘れる。
いつしか、彩子の愚痴を適当に受け流し、僕自身の愚痴ばかり言うようになっていた。それが原因で喧嘩も多くなっていった。
付き合ってから二年が過ぎようとした頃、会話がなくなっていた。
ただ一緒に飯を喰らい、欲情のまま身体を求め、テレビをただ眺め、寝る。そんな実りの無い日常を更に一年ほど続けた頃、彩子は会社に辞表を出した。
「俺、辞めるなんて聞いてないぞ」
「言っても聞いてくれないじゃん」
「いや、そんなことない。確かに最近うまくいってないように思えるけど、それとこれは別問題だろ」
「なんで?」
答えは……単純だ。僕の独りよがりだからだ。お互いが会社にいる事は、彩子との繋がりなのだから。
彩子の事はまだ好きだ。なくてはならない半身のような存在だ。だからいなくなってしまうと、僕自身が壊れる気がする。
ただ、引き止める機会を与えて欲しかった。つまり、僕のエゴだ。
「もう三年も付き合ってるんだから、一応は言って欲しかった」
「ごめん。だけどね」
冷え切った彩子の部屋に、互いの声だけか響く。
「やりたいことが出来たの。あなたなら分かってくれると思って」
「そうか。でも、その事も相談ぐらいはしてくれよ」
彩子のやりたいこと、それはシナリオライターだった。
昔から物語をあれこれ空想し、それを小説にするのが好きだったと、この時初めて知った。
決意は既に固まっていたようだった。
それでも彩子は、僕の内心を察したのか、恋人関係の解消はせず、また最初からやり直そうよ、と言ってくれた。
それだけが救いだった。
そして彩子は翌月、会社を辞めた。
僕はしばらく彩子のマンションに行くのをやめた。当初はメールや電話でしきりに連絡を取っていたが、次第にその回数も減り、終には月に一度食事をした後にラブホテルに行くだけになった。
“戦友”から“恋人”に変わった日から四年が経った十二月のある日、「イルミネーションが見たい」と彩子が言ったので、少し遠場にある公園まで車で出掛けた。なんでも全国的に有名なイルミネーションのメッカだとの触れ込みだ。
車を駐車場に停め、公園を散策した。鮮やかなイルミネーションに照らされている彩子は、あの時と同じで美しかった。
「綺麗だな」
僕は彩子を見てそう呟いた。届いているか分からないほどの小さな声で。
「そうだね」
彩子は僕を見ていない。イルミネーションが青く輝いている木々も見ていなかった。
見上げながら彩子は、消え入りそうな声で空に言葉を投げた。
「あの居酒屋、もう一回行きたかった」
赤提灯が暖簾の横に吊り下がった、昔ながらの居酒屋。かつて“戦友”と呼んでいた頃、足繁く二人で通った食事処だ。
もう二年は行っていない。
すれ違う若人達は皆一様に笑顔だった。木々と恋人を交互に見つめ、時に囁き合い、繋がれた互いの手を握り返し、白い吐息を重ねている。
幸せたちが連なって歩いていた。
「ごめんな」
「謝っちゃだめ。泣いちゃうから」
「なあ……俺たち、また最初から――」
「言っちゃだめ。もうほんとに泣いちゃうから」
彩子は僕から顔を隠すように歩いていた。
「んー、最近仕事はどうだ? いいライティング、出来るといいな」
うん、とだけ微かに聞こえた。
「あんまり飲みすぎるなよ。お前酒強くないんだから」
もう声は帰ってこない。
「あとさ、たまには人に弱みを見せろよな」
辺りの恋人たちの声だけが僕たちの隙間に谺していた。
「料理、ちゃんと練習しろよ」
彩子はもう反対側は向いていない。黒い髪が彩子の顔を隠していた。
「たまには栃木に帰れよな」
「あの居酒屋さ、ボロいけど美味かったよな」
彩子の顔を隠す髪が二、三ほど上下した。
「最後に、もう一度お願いを聞いてくれるか?」
僕達は立ち止まった。周りの恋人たちがすぐさま追い越してゆく。
「もう一度、手を繋いでくれないか」
僕を受け止め続けていた小さくて白い両手が、彩子の顔を覆っていた。
表情は分からない。しかし、彩子は何度も何度も頷いて、髪を揺らしていた。
僕は彩子の手首をそっと掴んだ。そして腕を降ろし指を絡めた。
目に飛び込んできた彩子の顔が、涙と鼻水で光り輝いていた。
「今までありがとう」
僕は彩子の何だったんだろうか。彩子に対して何かしてやれたのだろうか。この数刻の間に自問自答して出た答えがこの言葉だった。
「そして……本当にごめんな」
その言葉が終わると彩子は堰を切って泣いた。子供のように泣いた。声を上げて、片腕だけで涙を拭きながら泣いた。ポロポロと大粒の涙が青く染まりながら落ちていった。
それでもなお、手は力強く握ってくれている。僕が強く握ると、彩子も応えて握り返してくれる。小さな手いっぱいに力を込め、離そうとはしなかった。
僕は彩子をそのまま抱き寄せたかった。力の限り抱きしめたかった。
だけど、僕にはそんな資格はない。
縁が近くにない彩子は、僕だけが頼みの綱だったのだ。
僕を大事にしたい、大切にしたい、その言葉は嘘ではなくて、そうする事で自分を保っていた。
だから辛い仕事にも耐え、僕と思いを共有してくれていた。
それなのに僕は変わってしまった。
彩子が隣にいるのが当たり前だと思った。愚痴や悩みを聞いてくれ、欲情を何も言わずに受け入れてくれるだけの女だと、いつしか思っていた。
それが彩子の望む答えだと勝手に決め付けていたから。
しかしおそらく違ったのだろう。彩子はずっと限界だったのかも知れない。
大都会に独りポツンと置きやられ、縁だと思った恋人も変わり、肉体と精神を仕事ですり減らし、休まるはずの時間が無くなっていった。
そんな彩子を、僕は知ろうともしなかった。
だからもう一度言おう。心の限り。
「本当にありがとう。そしてごめんな。寂しかったろう」
まだ彩子は泣いていた。周りの視線は痛くない。しかし、彩子の泣きじゃくる姿は、僕にとって一番痛く辛いものだった。
ひとしきり泣き、少しだけ落ち着きを取り戻した彩子が、深呼吸をしながら口を開いた。
「ほんとだよ。ばかばか。私が寂しかったの分かった?」
「ああ。少し遅すぎたね」
へへへ、と鼻を啜り、以前、毎日見ていた笑顔になった彩子が言った。
「でも良かった。次の人には優しくしてあげてね」
ああ、誓うよ。声は喧騒に消えた。
僕たちは再び歩き始めた。手は繋がったままだ。
そのまま僕たちは帰路に就いた。
彩子をマンションに送る道中、僕と彩子は久しぶりに色々話した。
今の仕事の事、好きな小説の事、料理の事、実家の事、初めて聞く話が多かった。それだけ今まで会話がなかったという事だろう。
彩子が実家のある栃木に帰るという事もその時初めて知った。
縁談の話が来たようだった。そしてそれを受ける事も。
だから元から僕と別れるつもりで来たらしい。そして最後は綺麗な思い出を残したいから、という理由でイルミネーションを選んだのだと聞いた。
この時期になると、青く輝いた彩子を思い出す。三年も経つが、イルミネーションを見ていると、小さく白い手で強く握られた感触が蘇る。
あれから僕は変わったのだろうか。身を呈して僕に教えてくれた彩子の想いは守られているのだろうか。自問自答しない日はない。
しかし、泣きじゃくる彩子の姿を思い出すと、嫌でも身が引き締まる。
今僕の前には青く輝いたプラタナスが立っている。スマートフォンで写真を撮ろうと起動すると、メールの通知が目に入ってきた。
『今から行くね』
僕はかじかむ手で文字を打ち込んだ。
『了解。寒いから暖かくしてこいよー』
送信し、再度スマートフォンをプラタナスに向けた。
青く光るこの木は変わらない。街を歩く恋人たちは、今日もお互いに笑顔をプレゼントしている。
どこかで、青い光を浴びながら泣いている人を見かけたら、「きっと大丈夫」と声を掛けてみよう。
道行く人たちの様々な想いを光に変え、闇を照らすイルミネーションは、少し暖かい気がした。
プラタナスに掲げた手を見た。左手の薬指にはめられた指輪が一瞬、青く照らされたような気がした。
了
過去には戻れませんが、未来は過去と今がなければ来てくれません。
イルミネーションの下を歩く恋人たちの幸せそうな顔が続きますように。