表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

君の瞳に映る日

作者: 春野こよみ


 風に吹かれて、サラサラと髪が揺れている。

 木漏れ日が目に当たり、眩しくて少し開いていた目を瞑った。

 暖かな夏の日差しを感じられる昼間。


 お気に入りの昼寝場所で、一人、ゆったりと寛いでいた。


 木々が日陰を作ってくれる、昼寝に最適な場所。

 だけど校庭のすぐ側にあるので、人が賑わってくると、喧しくて寝ることが出来ない。

 朝早くと、昼休み最初の方限定の昼寝スポットとなってしまい、少々面倒臭さもある。

 だが、ここ以上に昼寝に最適な場所はないので、仕方がないと既に諦めていた。


 今の時間帯は人が段々増えてくるから、そろそろ移動しなければならない。

 静かに古いベンチから立ち上がり、次の昼寝場所へと向かった。




 静かな廊下を一人で歩く。

 自分の足音だけが、辺りに響き渡っていた。

 向かったのは、人気の少ない旧校舎の二階だ。

 この校舎はほぼ部室しかなくて、授業などで使う部屋と言ったら、一回の美術室と、三階の音楽室くらいなので、放課後まで二階には誰も踏み入らない。




 お目当ての部屋に到着した。

 二つ目の昼寝スポットは、作品展示室にあるソファだ。

 このソファは、作品を見に来た来賓専用の物だから、とても造りが良く、寝心地は最高だ。

しかし残念ながら、この部屋には日差しが入ってこない。

 作品を日に当てると劣化してしまうらしく、この作品展示室には窓がひとつもないからだ。


 ソファに横たわり、そっと目を閉じようとする。

 だが、視界に入った一枚の絵が気になり、少しの好奇心から、その絵をよく見てみようと立ち上がった。


 この学校の校庭の様子が描かれた一枚の絵。

 昼休みの時間帯だろうか、校庭で駆け回っている生徒の影は短い。

 生き生きとした生徒達の様子や、日を浴びてきらきらと輝く木々に目を奪われた。

 絵に関心を持つことはあまりなく、絵を見てこんなに感動したのは初めてかもしれない。


「『僕の瞳に映る景色』…か。」


 絵の題名をそっと呟き、目を閉じる。

 この絵を描いた人物に会いたいと、何故か強く思った。




 *****




 突然だが、俺には不思議なものが見える。

 そう言っても、妖怪や幽霊が見えるわけではない。

 俺が見ることの出来るものは、相手の心の色だ。

 心の色と言われても、なんの事なのか分からない人もいるだろう。

 それが当たり前だ。

 だが俺には実際に、その人の心の色が見える。

 正しく言うと、相手の心の色がその相手の目に表されていて、それを見ることが出来る、というわけだ。


 例えば、優しく思いやりのある人物の瞳の色は、つやつやとした蜂蜜の色であるだろう。

 例えば、人に良いことをする人物の瞳の色は、淡い若葉の色であるだろう。


 だが、ここまで綺麗な色の瞳を持つ人物とは、一度も会ったことがない。

 人間は必ずしも、綺麗な心を持っているとは限らないのだ。

 優しい心の持ち主だとしても、その傍らには欲望が潜んでいる。

 一般人の瞳の色は、明るくて濃い色であったり、色が混じっているものばかりだ。


 例えば、醜い考え方を持つ者は、淀んだ色の瞳をしているのであろう。

 例えば、嫉妬に狂って人を殺すような者は、底が見えないような漆黒の世界が、瞳の奥に広がっているのだろう。


 心が綺麗な人の瞳の色は、淡い色。

 明るくて濃い色は、中間地点に当たると思われる。

 逆に、そうではない人の瞳の色は、色が混じっていたり、暗い色である。


 他の人が見る瞳の色とは、全く違う色が自分には見える、と初めて気付いたのは、自分が発した何気無い一言からだった。

 最初は戸惑った。

 何故、自分にだけは違う色の瞳が見えるのだろう、と。

 たくさんの人を観察した。

 色の違いにいくつもの仮説を立てた。

 そしてある時に気づいたこと。


 俺に見えている瞳の色は、その相手の心を色で表したものなのじゃないか、と。


 間違っているのかもしれない。

 だけど。

 何故か、確信していた。


 その事に気付いた日から、相手の瞳の色を見ることが出来なくなった。

 そして。

 鏡で自分の瞳を直視出来なくなった。




 *****




 翌日、美術部へと足を運んだ。

 目的は、『僕の瞳に映る景色』を描いた人物に会いに行くこと。

 art clubと書かれた紙が、可愛いマスキングテープで貼られている扉。

 それは、美術室の目印だ。

 美術部の生徒が活動している美術室に到着し、俺は窓からそっと様子を窺った。


 作品展示室には、大抵、美術部の生徒の作品が飾られている。

 だから『僕の瞳に映る景色』を描いた人物を見つけるには、美術部に赴いた方が一番早いと思い付いた。


 外からは美術室の中の様子が分からなくて、窓から覗くのは止め、中に入ることにした。

 トントンと軽く扉をノックしたが、中から気配はない。

 少し待ってみてもやはり中から人の気配はしないので、「失礼します」と呟き、扉をそっと開けた。


 シーンと静まり返った室内をそっと見渡す。

 そして生徒が一人いることに気付いた。

 居留守をしていたのかと思ったが、その考えはすぐに消える。


 美術室の奥にいた一人の男子生徒は、キャンパスと向かい合い、黙々と筆を動かしていた。

 少し近付いてみたが、どうやら俺が入ってきたことには気付いていないらしい。

 あまりの集中力に、少し感心した。


 俺が近くの席で観察をしていることに彼が気付いたのは、一時間ほど経った頃だった。

 漸く筆を置いた彼と目が合う。


 久しぶりに人の瞳を見つめた。

 自分にだけ不思議なものを見る力があると気付いた時から、相手の瞳を直視することが恐ろしくなった。


 ずっと仲良くしていた友達の瞳の色が、酷く濁っている色だったら…。

 家族の瞳の色が、淀んだ色であったら…。


 そんな筈がないと思っても、もしそうであったら…と考えてしまい、相手の瞳を見ることは避けてしまう。

 そしてやはり、自分の瞳も。


 だけど何故か、今この場だけは、その恐怖が襲ってこなかった。

 大丈夫だ、と確かな確信があったのだ。

 改めて、彼の瞳をじっと見つめる。


 雲ひとつない青空。


 透き通った、空の色。


 透明感のある、爽やかな空色であった。


 視線をずらし、あることに気付く。

 瞳にばかり集中していて気付かなかったが、彼の頬は夕焼けのように紅く染まっていた。

 慌てて、彼から顔を遠ざけた。


「す、すまない。綺麗な瞳をしていたから、つい見惚れていた。」

「え、あ、その…。だ、大丈夫です……。」


 照れくさそうに頬を引っ掻いた彼は、あはは、と誤魔化すように微笑んだ。

 とくに美形という程でもない平凡な顔だが、笑った顔は、純粋に可愛いと思った。

 男にとっては誉め言葉ではないと思うから、言わないでおいたが。


「あの、何か用事でもありましたか?」

「あぁ。ちょっと聞きたいことがあって訪ねたんだ。君が絵を描くことに集中していたから、そこの椅子に座って待たせてもらった。」

「そうなんですか!?お待たせしちゃってすみません!集中すると、周りが見えなくなるんです…。」


 彼は申し訳なさそうに謝り、落ち込んだように下を向いた。

しょぼん、という効果音が聞こえてきそうだ。


 とても礼儀正しくて、人柄も良さそうな少年。

 年はきっと一つか二つくらいしか変わらないだろうが、彼のことはとても幼く感じた。

 瞳はきらきらと輝いていて、未来に希望を抱いていることが見てとれる。

 彼の瞳の色が淡い空色なのは、とても似合っていると感じた。


「俺も勝手に訪ねてきたのだから、謝らなくて大丈夫だ。連絡の一本も入れなかった訳だし、俺が悪いから気にしなくていい。」

「ありがとうございます。それで…、あの、聞きたいこととは何でしょうか?」


 彼にそう言われて、あの絵のことを思い出す。


「作品展示室に飾ってあった、『僕の瞳に映る景色』を描いた人物を知ってるか?」


 俺がそう尋ねると、彼は大きく目を見開いた。


「あ、あの…僕が描きました。」


 彼は恥ずかしそうにしながらそう呟き、そっと俯いた。




 最終下校時間まであと五分だったこともあり、「明日また来る。」と伝えて、昨日は美術室を出た。

 時間が無かったのは確かだが、名前くらいは聞いておけば良かったと思ったのは後の祭り。

 まぁ、今日も美術室に行くのだから、その時に聞けばいいだけなのだが。


 放課後を少し楽しみに思いながら、そっと目を閉じる。

 今は昼休み。

 教室では、半数くらいの生徒が昼飯を食べていた。

 残りは学食に行っており、今は教室にはいない。

 少しざわざわしているが、寝ることが出来ないわけでもない。

 心地よい眠気にそっと身を任せようとする。


「怜!昼ご飯はしっかり食べないと駄目よ!」


 俺の昼寝を妨げる人物が現れた。

 迷惑に思いながらも、彼女の言っていることは正論なので、昼寝は諦め、通学途中で買ってきたパンを鞄から取り出した。


「またパン?そればっかりだと、栄養が偏るじゃない!私がお弁当作ってこようか?」

「別に彩子が作ってやる必要ないだろ。おい、怜。パンじゃなくて、弁当買ってこいよ。そっちの方が、まだ栄養あると思うぜ?」

「まぁ、私が作ったものじゃなくても良いけどさ。ヒロもこう言ってるし、お弁当買うか、学食で食べるなりしなよ。怜ってば!ちゃんと聞いてるの?」


 俺の身体を心配してくれることはありがたいが、正直面倒くさい。

 説教紛いのことを話しかけてくる幼馴染み二人に、適当に相槌を打ちつつ、俺は放課後のことを思い浮かべていた。




 漸く放課後になり、美術室へと向かう。

 寄り道して帰ろう、としつこい幼馴染み二人をなんとか掻い潜り、少し遅くなってしまった。

 美術室に到着して、扉を軽くノックした。

 昨日とは違い、今日は「どうぞ。」とすぐに返事があった。


 美術室の中に入ると、彼は昨日と同じ場所に座っていた。

 彼以外の部員は今日もいなかった。


「美術部には、君以外に部員はいないのか?」

「いえ、いますよ。ただ、コンクールなどが無くて暇なので、皆来ていないだけです。美術部は結構緩い部活なので。でも、コンクール間近だと、美術室が戦場化するんですよ。」


 楽しそうに笑う彼を眺めて、ふと笑みがこぼれた。

 何かにあまり興味を持つことは少ないが、彼の絵と彼自身は見ていて飽きない。


「あの、なんで『僕の瞳に映る景色』を描いた人物を知りたいと思ったのですか?」


 彼がそう問いかけてきて、俺は何故だろうと思考を巡らせた。

 特に大きな理由があるわけではない。

 ただ漠然としたもの。


「君の絵に魅入ったからだよ。不思議な魅力を感じた。」

「そう…ですか。そっか…。ありがとうございます。」


 嬉しそうに微笑んだ彼から、どこか儚い愛らしさを感じた。

 そんなことを思ったのは初めてで。

 何故か、こそばゆい気持ちになった。


「そういえば、名前聞いてなかった。俺は金沢怜。…君は?」

「僕は笹原蛍です。金沢さんは三年ですよね?僕は二年で、美術部の部長を任されています。蛍って呼んでください。」

「だったら俺は怜でいい。宜しく、蛍。」

「は、はい。宜しくお願いします、怜さん。」


 どことなく嬉しそうに微笑んだ蛍を見つめ、笹原蛍、と心の中で復唱してみた。

 それだけで、心がほっこりと温まる気がした。

 これからも蛍に会いたいと感じ、ふとあることを思い付いた。


「美術部は暇らしいけど、蛍は暇なのか?」

「はい。絵を描くことが好きなので、昨日ものんびりと描いてただけですよ。」

「そうか。…あのさ、もし良かったらだけど、俺にも何か絵を描いてくれないか?」


 俺の提案に、蛍は目を丸くする。


「いや、無理にとは言わないけど、蛍の描く絵を気に入ったから。」

「昨日描いていた作品は完成したので、描くことについては大丈夫ですけど…。僕の絵で本当にいいんですか?他にも上手い子はたくさんいますよ?」

「蛍の絵がいいんだ。」


 キッパリと断言すると、蛍はまた嬉しそうに微笑んだ。


「分かりました。任せてください。」

「毎日様子を見に来てもいいか?」

「え!?は、恥ずかしいけど…大丈夫、です。」

「ありがとう。」


 面倒臭くて自分から人に話しかけようとは思わず、周りからはクールだと勘違いされた。

それを撤回する気も起こらないまま、ただ何となく放っていた。

好き好んで人と話そうとは思わないのだから、案外クールという表現も間違いではないかと最近では思い始めていた。

 だけど、興味のある相手とはこんなにたくさん話せるのだと、新しい自分を発見した気がした。




 蛍に絵を描いてもらうことを頼んだ日から一週間が経った。

 この一週間、土日を除いて、毎日かかさず美術室に赴き、時々他愛もない話をしつつ、蛍が絵を描く様子を眺めていた。


 それは今日も例外にはなく、放課後に美術室へと向かった。

 そして美術室の前に到着し、あることに気付く。

 わいわいと楽しそうな声が、美術室の中から聞こえた。

 扉に耳を近付け、中の様子を窺ってみる。


「おにーちゃん!何を描いてるの?」

「知り合いに頼まれたものだよ。あと、あまり大きな声を出しちゃ駄目。静かにしててね。」

「俺が頼んだ絵、完成したか?あ、これ?うわぁ!やっぱり蛍は才能あるなぁ!」

「え?見せて見せて!わぁ!とっても素敵!」

「二人とも!もう少し声量を下げて話してったら!」


 楽しそうな蛍達の会話を聞き、先程までわくわくしていた気持ちが萎んでいく。

 彼らの笑い声を遮って中に入る勇気が出ず、居心地の悪さを感じながら、美術室の前に突っ立っていた。


「もう!そろそろお客さんが来るんだから、楓は早くサッカーしに行きなよ。光は、絵を描くつもりがないなら家に早く帰って。暗くなったら危ないんだからね。」


 ハッと気付いたときには時すでに遅し。

 扉を開けた蛍と、ばっちり目が合った。


「あ…。あの、ごめんなさい。入りにくかったですよね。」

「あ、いや……。ごめん、入れなかった。」


 お互いの間に、微妙な空気が流れた。


「え?誰?お兄ちゃん、お客さんってこの人のこと?」

「こら、光!失礼だよ。先輩なんだから、もう少し礼儀正しく話して。」

「いや、別にそのままでも平気だ。」


 少女が口を挟んでくれて、正直助かった。


「ごめんなさい、怜さん。あの、こっちの女の子は僕の妹で、光っていいます。それで、こっちが友達の杉田楓です。」

「こんにちわ!お兄ちゃんの妹の光です!美術部に入ってる一年です!宜しくして下さい。」

「こんちわ~。蛍と同級生で、サッカー部に入部している杉田楓です。宜しくお願いしまーす。」

「三年の金沢怜だ。別に堅苦しくしなくていい。宜しく。」


 互いに自己紹介をして、一息吐く。

 蛍の妹は、正直平凡な蛍に全く似ていなくて、美少女だった。

 そして楓という蛍の友達も、顔は整っている。

 この二人と蛍が一緒にいると、どうしても蛍が地味で目立たなくなってしまう。

 蛍が悪いわけではない。

 この二人の顔が、派手すぎるだけだ。


 どうしても、二人の瞳は直視出来なかった。

 やはり、蛍だけが特別なのだと思う。

 蛍だけが、安心できる存在なのかもしれない。


「じゃ、俺は校庭に戻るから。じゃーなー蛍。」

「私も家に帰る。お兄ちゃん、またね~!」

「うん、ばいばい。光は気を付けて帰りなよ。」


 立ち去っていく二人の背中を、蛍が静かに見つめる。

 そんな蛍を眺めながら、少し複雑な気持ちになった。

 言葉では表すことの出来ないような、もやもやとした気持ち。


「怜さん、お待たせしちゃってすみません。また見ていきますか?」


 ぼんやりと考え事をしていたせいで、話しかけられるまで、既にこっちへと蛍が視線を向けていることに気付かなかった。

 「あぁ。」と短く返事をして、蛍と一緒に美術室の中に入った。




 彩子とヒロに説得され続けて、先週から渋々学食に通うようになった。

 学食で出される食事はどれも美味しいのだが、不満が一つある。

 それは、学食で彩子とヒロがいない時に、毎回女子三人組が話しかけてくること。

 彩子とヒロがいると奴らは来ないので、二人が用事のある時は、用事が終わるまで待つか、学食に行くことを諦めるかのどちらかにしている。

 二人とも学食に行けない時は、前もって昼食を買っておくのだ。


 だが今日は運悪く、二人に用事が突然入ってしまい、学食に行かざるを得ない状況になってしまった。

 仕方なく学食へと向かったが、案の定、女子三人組がまとわりついてきた。


「怜君!放課後、一緒に遊びにいかない?」

「スイーツ食べに行こうよぉ!」

「…用事あるから。」

「最近、放課後すぐに何処かに行っちゃうよね。」

「怜君、付き合い悪いぞー。」

「たまには、遊びに行かない?」


 彼女らの話を聞き流しながらうどんを頬張っていると、一つの机に目が留まった。

 憂鬱な気分だったのが、一瞬で幸福感に満たされる感じ。

 その席には、蛍と楓が座っていた。


 うどんを口の中に押し込み、皿を片付けると、一直線に蛍達の元へと向かった。

 邪魔な三人組のことは、既に頭の中にはなかった。


「蛍。」


 背後から呼び掛け、パッと勢いよく振り返った蛍と目が合った。


「あ、怜さん。こんにちわ。」

「昨日の先輩か。こんにちわ。」

「…二人とも、いつも学食来てるのか?」


 二人で談笑して食事をしていた光景を思い出し、少しもやもやとしたものが心を覆った。


「はい。怜さんもそうなんですか?」

「あぁ。俺も大抵は学食に来るよ。」


 蛍と話すと、心が満たされていく。

見かけるだけで幸せな気持ちに包まれるのだから、既に重症だ。

 でも、蛍が誰かと話しているのを見かけると、もやもやとしたものが溢れてくる。


「先輩。後ろで人を待たせてますよ。」


 楓の言葉に、不思議に思いながら振り返ると、そこには先程までまとわりついていた女子三人組が、ニコニコとした顔で立っていた。

 後ろで楓が「うわ…。あいつら、先輩が振り返ったとたんに表情変えたぞ。露骨なやつらだな。」と蛍に呟く声が聞こえ、もやもやとしたものを振り払い、女子三人組を睨み付けた。


「お前達と話すことなんてないから。帰ったら?」

「そんな!まだ遊ぶことについて…。」

「俺は用事があるから、お前達とは遊べない。分かった?」


 少し強めに言い切ってやると、彼女らは漸く諦めたようで、三人並んで去っていった。


「あの…、今の先輩方って知り合いですか?」

「いや、最近付きまとわれているだけだ。迷惑で、うんざりしている。」

「もっとキツく言ってやっても、俺は良いと思いますよー。ああいう奴等って、めっちゃしつこいから。」

「そうだな。…考えとく。」


「あれ?怜に後輩の知り合いなんていたの?」

「どうした怜ー?ナンパでもしてんのか?」


 突然、新たな人物の声が聞こえ、驚いて振り返ると、そこには幼馴染み二人が立っていた。


「あぁ、たまたま知り合ったんだ。彩子とヒロは、用事があったんじゃないのか?」

「あったよ。終わったから、怜の様子を見に来ただけー。また絡まれた?」

「怜はモッテモテだからな。女の子に話しかけられるなんて、嬉しい迷惑なんだぞー。」

「そーゆうヒロだって、毎月のように告白されてるだろ。俺だけにするな。」

「あ、バレてた?あはは。」


 蛍と楓が居心地悪そうにしていることに気付き、二人の方に向き直った。


「蛍、楓。この二人は俺の幼馴染みだ。こっちのいかにも脳筋な野郎が宮本智浩(みやもとともひろ)で、隣の彼女が柏木彩子(かしわぎあやこ)だ。」

「なんで俺だけ悪口っぽいんだよー。」

「知らん。日頃の態度じゃないか?」


 また蛍を放ってしまっていたことを思い出し、振り返ると、にこにこと楽しそうにしている蛍と目が合った。


「何か良いことでもあったか?」

「はい。楽しそうに会話をする怜さんが、とても新鮮でしたから。」

「…そうか?」

「はい。」


 新鮮かどうかはよく分からないが、自分のことで蛍を笑顔に出来ることは、純粋に俺も嬉しい。

 自然と笑みを浮かばせていると、裾を引っ張られた。


「怜。私達にも彼らを紹介してよ。」


 今度は彩子とヒロを放っていたようだが、蛍との会話に入ってこられた事に対して不満を持ったので、申し訳ないとは思わなかった。


「左から蛍と楓だ。主にヒロは、二人にちょっかいを出すんじゃないぞ。」

「おい怜さん、俺を何だと思ってんだよ。」

「笹原蛍です。美術部の部長を任されています。」

「杉田楓でーす。サッカー部に入部してます。こんにちわ、ヒロ先輩。」


自己紹介した後に、楓がヒロへと左手を挙げて挨拶したのを見て、少し不思議に思った。


「ヒロはウザいアホだな。…で、お前って楓と知り合いなのか?」

「俺の扱い酷いよなー。ん、楓はサッカー部の後輩。って、俺がサッカー部だって知らなかったのか!?」

「当たり前だろ。」


 わーわー喚くヒロを鬱陶しく思っていると、授業五分前のチャイムの音が聞こえた。

 周りを見渡すと既に生徒の姿はなく、俺達も自分の教室へと戻ることにした。


 蛍と別れる時に、そっと近付いて「今日も行くから。」と耳元で呟いた。

すると、「待ってます…!」と蛍は嬉しそうに笑みを浮かべた。

 その可愛らしい笑顔を見て、胸が大きく高鳴る。

 名残惜しさを感じながら、蛍と別れて自分の教室に入った。




 薄々気付いていたが、自分は蛍を好きなのかもしれない。

 でも、蛍と俺はどちらも男だ。

 それは変えることの出来ない事実。

 そして、蛍が俺を受け入れてくれるとも限らない。

 男同士の恋愛なんて、普通は考えられないのだから。


 放課後になり、もやもやと考え事をしながら美術室に向かった。

 いつも通りに扉を叩き、「どうぞ。」という返事が聞こえてから、扉を開けて中に入る。

 そして蛍はいつも通りの場所で、キャンパスと向かい合って筆を動かしていた。


 キャンパスに描かれている絵はまだ一度も見ていない。

 何故なら、蛍が「完成した絵を見てほしい。」と言ったから。

 確かに、絵の過程を見てしまうと、完成した絵を見た時の感動が薄れてしまうと思う。


 蛍と向かい合う形で椅子に座った。

 間にはキャンパスがあるので、蛍と目が合うことはないが。


「絵を描きながらでいいから、少し耳を傾けてくれるか。」

「…はい。」

「実は俺、相手の心の色が見えるんだ。」

「……え?」


 蛍に想いを伝えたい。

 だから、まずは。

 自分の秘密を話さないといけない、と思ったんだ。




「つまり、怜さんに見える相手の瞳の色は、他の人とは違っていて、その瞳の色は相手の心を色で表している、ということですか?」

「あぁ、その通りだ。」


 俺の最初の一言を聞くと、蛍は筆を動かす手を止めて、熱心に俺の話を聞いてくれた。

 引かれてしまうかと恐れていたが、その様子はなくて少し安心する。


「小さい頃にその事を気付いてから、相手の瞳を見れなくなったんだ…。」

「そうなんですか…。あの、初めて会った時に、僕の瞳に見惚れた、って言って下さいましたよね。僕の瞳を見ることが出来たんですか?」

「不思議だけどさ、蛍は大丈夫だと、どこか確信してた。思った通りだったよ。蛍の瞳には、爽やかな青空が広がっている。」

「青空…。僕の瞳に青空が広がっているなら、怜さんの瞳には、お日様が覗いていますよ。だって、こんなに眩しいんですもの。」

「眩しい?」

「はい。怜さんがとっても素敵な人だっていうことです。」


 蛍はそう言って、優しく微笑んだ。


 蛍と出会ってから、自分自身の何かが、大きく変わってきている。

 ただ漠然と、そう感じるんだ。

 自分にだけ見える不思議なものについて、今まで悩んできたことが馬鹿らしく思えるくらいに。

 それはきっと。

 君があたたかい人だから。

 俺は素敵な人なんかじゃない。

 だって、今も。

 君を自分だけのものにしたい、って思ってる。

 でも、そんなことをして、君に嫌われることが怖いと恐れているんだ。

 結局、自分のことしか考えていない。

 だけど、そのことを話したら。

 そんなことない、って彼が否定してくれると確信していた。

 だって君は、蛍は、そういう人だから。

 少しの時間しか一緒にいなかったけど、彼のことはよく分かっている。

 そんな君を、好きになったのだから。


「ありがとう、蛍。…ところで、絵はあとどのくらいで描けそう?」

「あ、筆を止めてた!えっと…あと一週間もあれば、完成すると思います。」

「そうか。楽しみに待ってる。」

「はい。満足して頂けるように頑張りますね。」


 絵を貰う時に、蛍に告白しよう。

 俺は、そう心に決めた。




 それから五日が経過した。

 蛍の絵が完成するまで、多めに見積もるとあと二日。

 もしかしたら、もう既に完成しているかもしれない。

 自分がとても緊張しているという事は、決心したその日から気付いている。

 だからこそ、周りに不思議に思われない様に意識していたつもりだったのだが…。


「怜って、先週からなんか変だよー。悩み事でもあるの?」

「怜が変なのはいつものことだろ~。なになに?ついに好きな人でも出来た?」


 ヒロの的確な言葉に、飲んでいたお茶を吹き出しそうなり、噎せてしまった。


 俺は今、彩子とヒロの二人と一緒に、学食へ来ている。

 今日は珍しくうどんではなく、からあげ定食を頼んでいた。

 それを見て、二人は俺が変だと思ったのか。

 …あり得ないな。


「え!?好きな人がいるの!?」

「おぉ!マジもんか~!怜にも漸く春が来たんだなぁ。」

「お前ら煩い。特にヒロはウザい。俺のことは、二人には関係ないだろ。そんなに騒ぐな。」

「そんなこと言われても!だって、私…!」

「ストップ!怪しい雲行きになってる!俺が阿呆なこと言って悪かった!ほら、早く飯食べようぜ。」


 ヒロが珍しく騒ぐのを止めた。

 いつもなら、この後も騒ぎまくるのだが。

 こいつの方が変なんじゃないか?


「あの、怜君。」


 呼ばれて振り返ると、そこにはしつこい女子三人組が立っていた。

 彩子とヒロが居る時は来なかったのに、今日は珍しい。

 こいつらも変なのか?


「怜君に、好きな人っているの?」


 一人が悲しそうに尋ねてきた。

 こいつらなら、良い様に考えて、自分のことが好きなんだ!とか思いそうなのだが。

 ふと、三人組の後ろの机にいた蛍が目に入る。

 食事をする手を止めて、こちらをジッと見つめていた。

 その隣では、楓が何も気にせずにガツガツと飯を食べている。


 正直、あやふやに誤魔化して立ち去ろうと考えていたが、蛍に聞かれているのなら話は別だ。

 俺は深呼吸をして、三人組に視線を戻した。


「そうだ。俺、好きなやついるから。」


 三人は互いに顔を見合わせてヒソヒソと何かを相談したかと思うと、俺に「そっか。じゃあ、また今度ね!」と言って立ち去った。

 てっきり食いかかってくると思っていたので、謎の行動に少し不安になる。

 ただ単に、諦めてくれるといいのだが…。




 午後の授業も終わり、放課後の時間になった。

 俺はすぐに支度を済ませ、美術室へ向かおうと立ち上がった。


「怜、ちょっと時間いいか?」


自分を呼ぶ声が聞こえて振り返ると、そこには荷物を抱えた担任が立っていた。


「今日の日直ってお前だろ?この荷物、職員室に運んでくれ。」

「急いでるんで、他の暇してる奴に頼んで下さい。」

「おいおい、そんなこと言うなよ。日直ってそこまで仕事ないし、たまには良いだろ?ほら、任せたからな。」


強引に押し付けられる形で仕事を任され、心の中で担任に悪態をつきながら職員室へと向かった。




職員室に運んだ後も他の先生に頼み事をされてしまい、いつもよりも美術室へ向かうのが随分遅れてしまった。

走ったことにより乱れた息を整えて、美術室の扉をノックする。

だが、中から返事は無かった。

「失礼します。」と一言呟いて中に入り、周りを見回して何か違和感を抱いた。

散らかっている訳でもないし、特別なものがあるわけでもない。

その違和感の原因にはすぐに気付いた。

いつもの席に蛍がいない。

ただそれだけのことなのに、主を失った部屋は静まり返っている。

居心地の良いあの空間が、まるで夢だったかのように感じるほど。


女子三人組の様子がおかしかったことと、蛍がいないこと。

その二つを繋げると、嫌な予感が頭を過ぎった。

気のせいであってほしいが、すぐに行動しなくて後悔することはしたくない。

俺は美術室を飛び出した。




走って、走って、走って。

見かけた教室から片っ端に入って蛍を探した。

鍵の掛かっている教室は、蛍の名を大声で呼んで反応がないかしっかりと確認した。

途中ですれ違った生徒には怪訝な目で見られたが、そんなことは気にしてはいられない。

とにかく旧校舎を駆け回った。

だが、なかなか蛍を見つけられず、結局最後の教室にも蛍はいなかった。


旧校舎にいないのなら、次は現校舎を探そうと階段を下りて出口に向った。

その時、通り過ぎようとした教室から、微かに人の気配を感じた。

お気に入りの昼寝場所である、作品展示室。

開けようとしたが、鍵が掛かっていた。

普段は鍵が掛かっていなかったことを思い出し、焦りすぎて周りに意識を向けてない自分を情けなく感じた。

耳を済ませたが、先程の気配は感じられない。

だが、俺はとてもこの部屋が気になった。

何故なのかは分からないが、一先ず自分の勘を信じることにした。


「蛍?ここにいるのか?」


二、三歩後ろへ下がり、助走をつけて扉に蹴りを入れた。

ドンッという破壊音と共に、扉は前方へと勢いよく吹っ飛んだ。

ふと、蛍が扉の前に居たらと考えて、慌てて倒れた扉に駆け寄ったが、それは杞憂に終わった。

だが安堵の息を吐くよりも先に、目の前の光景に頭が真っ白になった。


目隠しをされて、両手両足を縄で縛られている。

そんな誘拐された子どものような格好の蛍が、奥の床に転がされていた。

慌てて近寄り様子を確かめてみると、胸は上下に揺れていて、ホッと胸を撫で下ろした。

だが、どういう経緯でこんな状況になったのかはやはり分からず、一先ず目隠しと縄を外しておくことにした。

見た感じ怪我はしてない様子だが、念のため保健室に運ぶことにする。


犯人はやはり、あの女子三人組だろう。

だがそんな三人組よりも、怪しいと思いながら何もせず、結局蛍を危険な目に合わせてしまった自分に、一番腹が立った。




「後頭部に強い衝撃を受けて、気を失ったみたいだね。打ち所が悪ければ、出血してたかも。気絶だけで済んで良かった。」

「出血…!?」


保健室に蛍を連れてきて、倒れていたから連れてきた、と保険の先生に報告した。

他者に危害を加えられたという事実を知らない先生は、事故であると思い込んでいる。

だが真実を知っている俺は、あまりの驚きで息を飲んだ。


蛍は、鈍器で後頭部を殴られたのだ。

もし出血してしまい、そのまま放置されていたのだとしたら、蛍は死んでいたかもしれない。

カッと頭に血が上った。


「蛍を宜しくお願いします。あと、俺が助けたことは秘密にして下さい。」

「うん?ま、別にいいよ。」

「ありがとうございます。」


不思議そうにしながらも、何も聞かずに了承してくれた先生に感謝しながら、俺は保健室を後にした。


廊下を無言で歩く。

向かう先はただ一つ。

あの女子3人組の元だ。




3年の教室を一つ一つ周り、漸く目的の人物らを見つけた。

既に帰宅していたらどうしようか、と考えていたから、それが杞憂に終わって良かった。

その教室には、運良く他の生徒はいない。

俺は無言のまま、教室に足を踏み入れた。


「あ!怜君!」


振り返った女子一人が、俺の姿を目に捉えて、嬉しそうに近寄ってきた。

その後を、他の二人も続いた。


「わざわざ怜君の方から来てくれるなんて、私嬉しい!」

「今日こそ一緒にお出かけしようよ!」

「何処に行こっか?カフェとか?」


勝手に盛り上がっている彼女らを静かに見つめた。

黙っている俺を見て、三人は不思議そうに顔を見合わせた。


「…蛍をあんな目に合わせたのって、お前らだろ?」


俺が静かにそう問いかけると、三人は話すのを止めて、俺の顔をジッと見つめた。

教室がシーンと静まり返った。


「……私達、怜君のことを思ってやったんだよ。」


少しの沈黙の後、漸く言葉を発した一人の声は、微かに震えていた。


「俺のため?どういう意味だよ。」

「だから!」


俺の声を遮るかのように、その一人は声を荒らげた。


「怜君が道を踏み外さない様に、早めに対処してあげたの!私達、知ってるよ?怜君が誰を好きなのかを。」


衝撃的な言葉を聞いて、俺は頭が真っ白になった。

だからだろう、普段は見ないはずなのに、その時は彼女らの瞳を直視してしまったんだ。

酷く濁ったどす黒い色の瞳に、俺は恐れを成した。


「あいつさえいなければ、怜君は正しい道を歩めるでしょ?」

「ね、怜君。目を覚まして?」

「次は失敗しないようにするから。私たちに任せて。」


ただ、怖い、と思った。

自分には彼女らを止めることは出来ない、とも。

自分の力では蛍を守れない。

だから、だから…。


「俺は別に蛍が好きな訳ではない。最近たまたま近くにいただけだ。蛍は関係ないから…手を出すな。」


俺は蛍を守りたい。

だから、こうするしかないんだ。

蛍とは距離を置こう。

それが、蛍を守ることの出来る唯一の方法なんだから。


胸がキリリと痛むことに、俺は気付かない振りをした。




あの事件から、一週間が経った。

俺はあの日以降美術室には近付かず、学食で蛍を見かけても話しかけなかった。

女子3人組は、何事も無かったかのように接してくる。

それが何とも気味が悪かった。

俺はあの日から彼女らに対して恐怖を抱いており、今まで以上に徹底的に避けていた。



「おーい、そんなとこでボケッとしてないで、早く掃除をしろー!掃除終わらせないと帰れんぞー!」

「先生、人使い荒すぎです。」


作品展示室の扉を破壊してしまったことで、俺はこっ酷く叱られ、罰として空き教室の掃除を押し付けられてしまった。

この担任は、日直の時といい、今といい、人使いが荒すぎる。

だが、忙しいおかげで余計なことを考えずに済むため、俺は正直助かったと感じていた。




「やっと終わったか。じゃ、撤収だー!寄り道せずに帰れよ~!」

「先生もサボらずに仕事して下さいよー。」

「いや、サボってねーし!おらおら、とっとと帰れ!」


担任に教室から追い出され、俺は帰ることにした。

下駄箱で靴を履き替え、外に出る。

すると丁度、同じく帰ろうとしていたヒロと彩子に会った。


「お、早く終わったんだな!一緒に帰ろうぜ!」

「掃除お疲れ~!寄り道してく?」


一人で帰ると、蛍のことについて考えてしまう。

丁度良かったと思い、二人と一緒に帰ることにした。




他愛もない話をしながら足を進める。

そのおかげで、家に着くまで余計なことを考えずに済んだ。

俺たち三人は幼馴染みで、家がとても近い。

俺と彩子の家が隣同士で、彩子とヒロの家が向かいあわせ。

俺達は別れを告げて、それぞれの家へと入った。


自分の部屋へと入って、すぐにベッドへと寝転んだ。

身体の力を抜いて、枕に顔を埋める。

ふと、窓からコンコンという音がすることに気付いた。

カーテンを開けて外を眺めると、隣の家の窓に紙が貼ってあることに気付いた。


『メールを見て!』


隣は彩子の家である。

俺はスマホの電源を入れて、受信メールの一覧を開けた。

一番上に、彩子からのメールが届いている。

つい先程届いたようだ。

俺はあまりスマホを触らないから、それを分かっていて、彩子が気付かせようとしたのだろう。


彩子のメールを開くと、『ここ一週間、元気無さそうだけど何かあった?』という、俺を気遣う文章が書かれていた。

幼馴染は侮れないな、と改めて感じた。

気遣ってくれることはありがたいが、彩子を巻き込んでしまうのは申し訳ない。

『何でもないよ。心配してくれてありがとう。』と、彩子宛にメールを送信した。

良い幼馴染みを持てて、俺は幸せ者だな、とつくづく思う。

だからこそ、ただ自分が我慢すれば済むのだから、俺は相談することは出来なかった。

蛍も、俺と会いさえしなければ危害を加えられないのだから、その方が良いだろう。


ほんの数週間しか蛍とは関わっていない。

なのに、もう会えないという事実に、酷く胸が痛んだ。




「この教室で最後だな。いやぁ、よく頑張ったな~。」


一日一教室ずつ空き教室を掃除し、ついに今日、最後の教室を掃除し終えた。

担任はいつも通りの人使いの荒さで、考え事をせずに済むことは助かるが、それ以上に疲労が積み重なっている。

掃除が終わったことは、純粋に嬉しかった。

だが、これからは何で気を紛らわせば良いのだろう。


日に日に、蛍への想いが溢れてくる。

会えないことがこんなにも辛いだなんて、知らなかった。

こっそり会うくらいなら平気だ、と考える自分がいる影で、あの女子3人組の目を掻い潜るのは無理だ、と絶望している自分がいる。

あの瞳を持つ人間は、どんな残酷なこともやってのけそうで恐ろしい。

自分の気持ちを優先して、蛍を危険な目に合わせる訳にはいかなかった。

会いたい、会いたいと叫ぶ自分の本心から、そっと目を逸らした。


帰ろう、と下駄箱へ向かおうとした。

だが、気付いたら美術室の前へと来ていた。

普段なら、遠回りをしてでも美術室を避けているのに。

女子3人組に気付かれる前にと、俺は急ぎ気味にその場から立ち去った。


下駄箱に漸く着き、ふぅ、と息を吐いた。

もう暗いからだろうか、付近に人はいない。

地面に座って靴を履き替え、外に出ようと立ち上がった。


「帰るのストップ!おーい、えっと…怜さん?お時間いいですか?」


俺を呼び止める声が聞こえ、振り向くと、ジャージ姿の楓が立っていた。


「ん?サッカー部は練習の時間じゃないのか?」

「あ、そうですよ。ちょっと抜け出してきたんです。…で、怜さんに話したいことがあるんですけど。」


ヘラヘラとした態度から、楓は急に真面目な口調で話し始めた。

要件は蛍関係だと察していたから、俺は出来れば今すぐこの場を去りたかった。

楓の真剣な目付きから、それは叶えられそうにないが。


「単刀直入に言います。怜さんって、蛍のこと好きですよね?」

「……は!?」


突然のぶっ飛び発言に、俺は目を丸くする。

冗談を言っているのかと思ったが、そのような雰囲気はない。


「蛍が倒れたことは知っています。俺はその場にいなかったので、その時何が起きたのかは知りません。だけど、自分の中だけで自己完結して、蛍に何も伝えずに避けるって、ふざけないで下さい!」

「いや、それは蛍を守るために…。」

「だから!それが、自分で勝手に決めたことなんだよ!…蛍はそんなこと、絶対に望んでいない!」


楓の言葉に、俺は頭を殴られたような強い衝撃を受けた。

確かに、蛍のことを思って関わらないようにしていたが、蛍がそう頼んだ訳ではない。

所詮、俺が自己満足でやっているだけなんだ。


「あともう一つ!蛍を守りたいなら、ずっと側にいなきゃ駄目だろ!あんたにしか出来ない事なんだから、しっかり務めやがれこの野郎!!…蛍を泣かしたりしたら、許さねぇからな!」


ビシッと楓に指を指され、俺はハッと息を飲んだ。

楓は、俺が蛍を好きだと気付いている。

一般人なら、そんな発想は出てこないだろう。

もしかして、楓は蛍を…。


「…今からでも、間に合うか?」

「そんなの知りません。蛍に聞いてください。…タメ口で話してすみませんでした。」


楓はそう言うと、まるで自分の役目は終わったというかのように、サッと踵を返して立ち去った。

その場には、俺一人が残された。


俺は、自分のことしか考えていなかった。

蛍を守るためには、蛍と距離を置くしかないと決めつけていた。

でもそれは、あの女子3人組に恐怖を抱いていただけ。

本当に蛍のことを想うのなら、彼女らの脅威から身を呈して守ればいいだけじゃないか。


こんなところで、うだうだしていても時間の無駄だ。

楓の言う通り、蛍に会いに行こう!

俺は美術室を目指して走った。




美術室に近付くにつれて、走るスピードを落とした。

静かな廊下を、足音を立てないように気を付けて歩く。

美術室の扉は、既に視界に入っていた。


美術室の前に着いて、そっと扉に手をかけた。

鼓動が早まるのを感じる。

この中に蛍が居ると考えるだけで、手が震えた。


蛍に会いたくはない訳ではない。

むしろ、その逆だ。

会いたくて、会いたくて、仕方がない程だ。

だったら、何故これほど緊張しているのか。

それは。

…蛍に合わせる顔が無いから、だ。


危険な目に合って、突然避けられ始めて。

蛍からしたら、意味が分からない話だろう。

そうだ、だって俺が勝手に決めてしまったから。

俺と関わらなくなれば、蛍は危害を加えられない、と。


楓が教えてくれた今なら分かる。

俺は蛍のことを考えていなかった。

自分の保身の為に、蛍を遠ざけていたのではないか。

だって最初から、蛍の傍にいるという選択肢を考えていなかったのだから。


俺は、彼女らの瞳に恐れていた。

あの瞳の持ち主には、抵抗する手段が無いと絶望していた。

だから、蛍は俺の傍にいるよりも、他人であった方が安全なのだと考えていのだ。

でも、何もせずに諦めるなんて駄目だろ。

どんなことを犠牲にしても、がむしゃらに蛍を守りきればいいだけじゃないか!

俺の蛍に対する想いは、こんなものじゃないだろっ!


俺は息をひとつ吐き、扉を軽く叩いた。

コンコン、という軽快な音が響いた。

少しの沈黙の後、「どうぞ。」という声が聞こえた。

よく聞き慣れた好きな人の声。


静かに扉を開けて中に入ると、こちらを見つめていた蛍と目が合った。

蛍は何を言うこともなく、俺を見つめ続けている。

俺も蛍と視線を合わせたまま、歩みを進め、いつもの椅子に座った。

その場は少しの間、沈黙に満たされた。


「怜さんのこと、彩子さんから聞きました。」

「…え?」


先に沈黙を破ったのは、蛍の方だった。

蛍の口から彩子の名が出て、こんな状況なのに嫉妬してしまう自分に嫌気がさす。

少しモヤモヤする気持ちを振り払い、続く蛍の言葉に意識を傾けた。


「悩みを誰かに相談せずに、自分だけで背負い込んでしまう。自分達が気付いた頃には、すでに悩みを一人で解決して、自分達よりもはるか遠くに進んでしまう。怜はそんなやつだよ、と彩子さんが言ってました。」


彩子からのメールを思い出し、彩子はどんな気持ちで蛍にそう言ったのかとふと考えた。

彩子が俺のことをそんな風に思っていたとは、思いもしなかった。

今思えば、悩みを誰かに相談することは滅多に無いと気付く。

相手の性格を、瞳の色で捉えることの出来る能力だって、蛍に初めて話したのだ。

幼馴染二人や家族には頼らなかった。


「怜さん、よく聞いてくださいね。僕が怪我をしたのは、決して怜さんのせいではありません。」

「…っ!それは、」

「怜さんが僕を実際に傷付けたわけではないでしょ?色々な理由で間接的に怜さんのせいになってしまうのならば、それは僕のせいでもあります。だから、最低でも怜さんだけのせいではないんです!」


蛍の言葉を聞いて。

蛍の真剣な目を見て。

少し救われた気がした。

ずっとずっと、自分自身を責めてきた。

でもそれは違うんだよ、と。

何よりも被害者である蛍が言ってくれたのだ。


蛍の言葉で救われたと同時に、俺は罪悪感にも蝕まれていた。

勝手に自分のせいだと決めつけ、蛍を避けるという行為。

楓にも気付かせてもらったが、改めて最低なことをしてしまったと反省した。


ふと、蛍が顔を下に向けた。


「怜さんに突然避けられて、僕が何かしてしまったのかと不安になりました。」


やはり、蛍を傷付けてしまっていた。

俯いているせいで、蛍の顔を見ることが出来ない。


少しして顔をあげた蛍の瞳には、涙が浮かんでいた。

瞳から今にも涙が零れそうな蛍が、でも、と言葉を続けた。


「でも、彩子さんが…何か理由があるのだろう、と励まして下さいました。詳しい事は、僕にはよく分かりません。だけど…僕が怪我したことが影響している、ということは何となく分かります。怜さんが僕を避けていた理由を教えてくれませんか?」




ぽつり、ぽつりと避けてしまった理由について話す俺を、蛍は急かさずに黙って話を聞いてくれた。

もちろん、俺が蛍に好意を持っていることは隠して。

そして俺が話し終わると、そうだったんですね、と一言呟いた。


「怜さん、今度からは一人で思い悩まずに、ちゃんと誰かに相談してくださいね。」

「あぁ、分かった。……怒ってないのか?」


恐る恐る尋ねた俺に、蛍はにっこりと笑みを浮かべた。


「怒ってますよ、もちろん。でもそれは、怜さんに対してではないので安心して下さい。」


自分には怒ってないのだと気付きほっとしたのも束の間、蛍の静かな怒りを間近で感じ、初めて見る蛍の姿に戸惑った。


「女子三人にはムカつきますが、それは後日どうにかしましょう。今は怜さんとの時間を大切にしたい。」

「…蛍は強いな。あぁ、俺も蛍との時間を大切にしたい。」


照れくさそうに微笑む蛍を見て、俺は自分の弱さを恥じた。

一人で出来ないことも、蛍となら乗り越えることなど容易いだろう。

蛍をとても愛しく感じた。


「怜さん、遅くなってしまいましたけど、これ…。」


蛍から手渡されたのは、俺が頼んでいた絵だった。

キャンパスには、窓際で校庭を静かに眺める俺の姿が描かれていた。

瞳の色は、前に蛍が言っていた通り、お日様の色。


「怜さんが美術室の窓際で校庭を眺めてた時に、こっそり写真撮ってたんです。黙っててすみません。」

「いや、写真の一枚くらい気にしない。素晴らしい絵をありがとう。…これは貰っていいのか?」

「はい!怜さんのために描いたので、ぜひ!」


蛍が俺のために描いてくれた、世界中でただ一つの絵。

一生大切にしようと心に誓った。


「怜さん、ちょっとついてきてください!」

「あぁ、別に構わないが…。」


蛍に手を引かれるまま、俺は美術室を後にした。




蛍につれてこられた場所は、作品展示室だった。

ここには、蛍を含める美術部員の絵が飾られている。

そして、俺と蛍が出会うきっかけを作った場所とも言える。

蛍は覚えていないと思うが、蛍が閉じ込められていた部屋でもある。

つまり、いい意味でも悪い意味でも、繋がりの深い場所だ。


蛍に手を引かれたまま、作品展示室の中に入った。

そして蛍の描いた絵の前まで行き、漸く蛍は立ち止まった。

蛍と俺の手は、未だ繋がれたまま。


「僕と怜さんが出会うきっかけを作ったのは、この絵なんですよね。」


蛍は絵を見つめながら、静かにそう呟いた。

俺も絵に視線を移す。


何度見ても、飽きることなく眺めていられる。

俺の心を惹き付ける不思議な絵。

それは蛍も同じだ。

この絵のように、俺を惹き付ける存在。

蛍が描いたのだと思うと、この絵まで愛しく感じるほどだ。


「怜さん、この辺をちょっと見て下さい。何か気付きませんか?」


蛍が絵の中央あたりを指差しそう言ったので、俺は絵に近付きじっと見つめた。

蛍が指差したのは、校庭の側にあるベンチ。


「あ、このベンチって…。」

「気付きましたか?怜さんのお昼寝スポットですよね。」

「お昼寝スポット…。蛍に話していたか?」

「いいえ。よくそこにいることは知ってましたが、お昼寝スポットだということは、彩子さんと智浩さんが教えてくれました。」


この場にはいない幼馴染二人のしたり顔を思い浮かべ、心の中でこっそり悪態を吐いた。

蛍に余計なこと教えるなよ…。


「怜さん、よく見てください。ちょっと分かりにくいけど、ここに怜さんがいるんですよ。」

「あ、本当だ。」


小さくて分かりにくかったが、言われてみると確かに人がベンチに寝転がっている。

それが俺だと言われれば、確かに俺に見えてくる不思議。

蛍の絵に俺が描かれていたのだと知り、嬉しく感じた。


「…怜さん。僕、怜さんに美術室で話しかけられる前から、怜さんのこと知ってたんです。」

「えっ…?」


思ってもみなかったことを言われ、俺は目を見開いた。


「ただ一方的に知っていただけで、怜さんと知り合ったのはあの時で間違いないですよ。」

「良かった。てっきり前から知り合いなのに、俺が忘れてしまったのかと…。」


蛍に失礼なことをしてしまっていたのかと焦った。

蛍の言葉に、ほっと息を吐く。


「美術室から怜さんがベンチで寝ているのが見えて、なんか格好いい人だなって憧れてたんです。名前も学年も知らなかったので、眺めることしか出来なくて。でもこの絵を描けば、もしかしたら自分が描かれていることに怜さんが気付いて、話すきっかけになるかな…なんて突拍子もないこと考えてたんですけど。見事、それがきっかけになっちゃいましたね。」


あはは、と照れた様に蛍は笑った。

蛍が俺に憧れていたのだと知り、顔に熱が溜まるのを感じた。


「怜さんと話して、怜さんの人柄を知って…。見た目だけでなく、中身も怜さんはとても格好いいです。優しいし、頼りになるし、大人だし。僕の描いた絵を褒めて下さって、本当に嬉しかったです。怜さんが褒めてくれた事が、一番嬉しかった。」


蛍は本当に嬉しそうに微笑んだ。

蛍が嬉しいって言ってくれれば、俺だって嬉しい。

蛍が笑顔になれば、それだけで俺は幸せでいっぱいになる。


「僕、今までは怜さんを眺めているだけで嬉しかった。でも怜さんと会えて、一緒にいて、話して。もっともっと、って欲張りになりました。女の子が側にいると嫉妬してるし、怜さんに避けられたら、凄く辛くて寝込む程でした。何でこんなに怜さんのことばかり考えているのだろう、ってずっと悩んでました。でも、とても単純なことだったんですね。僕、怜さんのこと…っ!」


思わず蛍を抱きしめてしまった。

蛍の言葉を遮る形になってしまったが、この後に続く言葉には既に気付いていた。

だって、蛍は俺と同じことを考えていたのだから。

その事実が嬉しすぎて、ぎゅうぎゅうと蛍を抱きしめているのは仕方のないことだ。

蛍も、そっと俺の背中に手を回してくれた。


「突然抱きしめてごめん。俺、蛍のこと好きなんだ。」


蛍が俺の手の中でぴくりと動いたのを感じた。

手の力を緩めると、蛍がそっと顔を上げて俺の顔を見つめた。

その瞳が、不安そうにゆらゆらと揺れていることに気付く。


「本当…ですか?僕って男だし、顔も普通だし。」

「性別なんて関係ない。それに、蛍は凄く可愛い。蛍は俺のこと嫌い?」

「…っ!大好きに決まっているじゃないですか!」


蛍はそう叫ぶと、ボスっと俺の胸に顔を隠した。

耳が真っ赤に染まっていることに気付き、あまりの可愛さに悶えた。


少しした後、蛍はゆっくりと顔を上げた。

真っ赤に頬を染めたまま、俺の顔を見て微笑んだ。


「怜さん、僕と付き合ってくれませんか?」


蛍の空色の瞳を見つめ返して、俺も微笑み返した。


「喜んで。」




後日、作品展示室には、追加で新しい絵が飾られていた。

『僕の瞳に映る景色』とよく似ているが、少し異なる箇所がある。

一人の生徒がベンチに寝転がっているのに対して、新しい絵には二人の生徒が座っている様子が描かれていた。








評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ