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39人のイタリア紀行2017 

作者: 河井正博

 7年ぶり、久し振りのイタリアに旅行だった。

 39人の大人数でのイタリア紀行だったが、ユーニークな参加者が多く、傾聴に値する話も沢山聞くことが出来た気がする。もちろん、眼から得たイタリアの美術、建築、風土も多彩だったので、旅行の「個人メモ」を作ってみた次第。

 同行の37人に感謝しつつ!

この所、数年、タイ、インドを中心にアジア7ヶ国を歩いてきたので、久し振りに空いた季節のヨーロッパを少人数で歩きたくなって1月のイタリア旅行を申し込んだ。

ところが、当初予想していた私達夫婦二人を含めて10数人の旅では無く、予想外の大人数、それも37人の人達とご一緒する事となった。

インドでは、若い人達が多い一行だったが、今回は経験豊富な旅のベテラン中心のメンバーに感じられた。そのせいか、到着したミラノ空港ロビーで、皆さんのお顔を見回しているとルネッサンス美術や古代ローマ建築の知識も豊富な方々が多そうに思われ、色々と新鮮な知識をご教授頂けそうな楽しい予感がして、これからの会話を期待している自分を感じた。

旅の楽しみの一つに、見知らぬ土地の魅力を満喫すると同時に、自分達とは大きく異なる別分野の豊穣な人生を送って来た方々の豊かな経験と人生観をお聞きする機会が得られることがある。添乗員は、39人という大人数の為か、ベテラン女性のHaさんと研修中の幹部候補生Yoさんの2名とのこと。


一方、別の観点から見ると今回のイタリアツアーは、「歴史街道の旅」と呼んでも良いくらいの古代ローマから現代に続く南北のイタリアの街道をバスで紀行する予定になっている。

主要ルートは、現代のイタリアの高速道路アウトストラーダ1号線のA1及びA2であり、特に、前半の工程は、飛行機の到着地である北のミラノから南のナポリまで延々と走り続けるわけなので、「アウトストラーダの旅」と呼んでも可笑しくないと思っている。

当然ながらイタリア半島の全長の6割近くを移動する旅なので、地理的にもこれからのイタリア理解の扶けになりそうであり、此方の方も期待できそうな予感がする旅のスタートであった。

唯、何時もながら、横着な私達二人は、なんの準備も無しに参加した点は、追々明らかになると思う。


プロローグ

紀元前600年、古代ケルト人が都市を建設したというミラノのマルペンサ国際空港に着陸態勢に入った飛行機の窓から、想像していたよりも山々の尖り具合が細かい白雪のアルプスが意外に近く見えた。

古代ローマ帝政末期、ロンゴバルト人がアルプスを越えて侵入し、ローマを掠奪した後に定着したのが、このロンバルディア平原だったと聞く。

日本では、この「ロンバルディア平原」をアルプスとアペニン山脈に挟まれた広い領域の名称として理解している人が多いようで、私もそう解釈していた。しかし、イタリアでは、「ポー平原」あるいは、「パダナ・ベネト平野」と呼ばれるケースが多いようで、「ロンバルディア平野」と呼ぶ場合は、ロンバルディア州の領域を現わすらしい。

けれども、飛行機から見下ろしたミラノ周辺の平野は大きく、日本には、これほどの大きな平原は存在しない感じがした。

アルプス方面を除くとロマーニャ、トスカーナと続く、南の方の山は低く、ミラノから望む平原は、ローマまで、ずっと続いているような印象を受けた。

ミラノを中心としたロンバルディアは、イタリア最大の工業地帯で、世界のファッションの中心地の一つでもある。日系の企業も多く、デザインの為の事務所をミラノに置いている会社も少なく無いと聞くし、もちろん、日系の銀行も同様で、ロンドンの金融の中心シティや独のデュッセルドルフ程ではないが、多いらしい。

そういえば、前回、デュッセルドルフを歩いた折は、四月の後半で、八重桜の並木は満開だったし、オランダの公園はチューリップと黄色の水仙で一杯だったことを理由無く想い出して、今回の旅で出会える花を楽しみにすることにした。


到着後、直ぐにホテルに向かうが、ホテルの玄関付近の北向きの敷地には、1週間前の大寒波の残雪が数センチ残っていたし、バスを降りた通路は凍結していた。

ホテルのフロント前では、皆さん、まだ、日本に居る雰囲気が濃厚で周辺に外国人(我々が外国人なのだが!)の姿が少ないこともあって、寛いだ雰囲気で初対面の挨拶を交わす姿が見受けられた。


39人の中で、最初に会話らしい会話を交わしたのは、第一夜のホテルの部屋の鍵を待つ間のMuさんとの立ち話だった。

「真空管オーディオが好きで、コレクションしています」

とのご挨拶がスタートで、2A3から始まる幾つかの往年のST管の名前が続々と出て来るところも、ただ者ではない様子。こちらも、807始め幾つかの真空管の名前を挙げると、オーディオ分野がご専門らしく、アマハム用では無い、オーディオ分野で有名な真空管の型番が、Muさんの口から出てきた。

「好きな球は45です」

当に、往年の名三極管の名前である。

45は名品ながら三極管のため出力が小さく、大事に、大事に使わないといい音が出ない球なので、如何にもMuさんらしいと思った。

お持ちの真空管オーディオのコレクションの数量も相当らしく、親類のKaさんのエジソン蓄音機や初期真空管オーディオの話をすると喜んでくれた。オーディオのコレクション以外では、

「音楽は、長唄から始まって、カンツォーネでも、クラシックでも幅広く何でもOKです」

とのこと。

お話をお聞きした印象では、ご専門分野の知識の幅も尋常ではない雰囲気ながら、一言もその内容に触れないご様子も好ましい方だった。

後にポンペイでお聞きした話では、奥様の趣味は、書道と和歌とのことだったので、和歌の散らし書きや中国唐代の書の話でもしたかったが、女性らしく遠慮されていて、深く会話には発展しなかった。


初日のホテルにバスタブが無かったのが残念だっただが、同行する37人の人達との明日からの会話とイタリア文化との再会を楽しみにして寝に就いた。

ベッドの中で、

「イタリアも7年振りなので、イタリアの変化も是非知りたい」

と思った。


アペニン山脈とアウトストラーダ

イタリア半島の脊梁を成すアペニン山脈とイタリアの高速道路アウトストラーダは、今回の旅の重要な因子の一つかも知れないとミラノを出発して、そう想った。

アペニン山脈はイタリア半島を縦貫する最大の山脈で、全長1200km、北と中央、南の山塊からなり2,000mを越す山も多い。帰国後、調べたところでは、中央山脈の「コルノ・グランデ2,912m」が最高峰とのこと。

今回の旅行では、コルノ・グランデはアウトストラーダのルートの関係で、見る可能性は少ないが、山脈自体は、常に、遠景、近景となって旅の背景を務めてくれそうな気がしている。


一方、独のアウトバーンに触発されて造られたアウトストラーダは、先進国の高速道路の中で珍しく、国家の財政赤字の影響か? 日本の高速道路と共に有料である。

また、日本のETCは、アウトストラーダの自動料金システムを参考に作られたとも聞いている。今回お世話になる高速1号線は、ミラノを起点にボローニャ、フィレンツェ、ローマを通ってナポリに至る全長約760kmのイタリア半島を南北に結ぶ幹線道路である。

この高速はミラノ、ローマ間がA1、ローマ、ナポリ間がA2と呼称され、A2は特に、「Autostrada del Sole(太陽の道)」の愛称で親しまれているらしい。


今回の紀行では、「ローマ」もミラノからポンペイに至る長い幹線道路の一通過地点に過ぎない存在に成りそうな気がしている。前回のイタリア旅行でローマには3泊したので、腰を据えて各時代のローマを見る機会を与えられたと思っている。二千年以上の歴史を誇るローマには、大きく分けて次の4つの時代があるように思う。

 ・古代ローマの時代

 ・キリスト教勃興期の中世ローマ

 ・ルネッサンス全盛期のローマ

 ・バロックから現代へと続くローマ

同じように、「フィレンツェ」は、ルネッサンス期をピークとしてバロック期へと繋がる都だし、「南のナポリ」は、古代ローマの代表的な遺跡「ポンペイ」から始まって、十字軍時代に続くフランスのアンジュー家、神聖ローマ帝国、スペインのハプスブルグ家の強い干渉を受けた長い歴史がある。

後半に寄る予定の「アッシジ」には、イタリアの守護神とされた「聖フランシスコ」の大聖堂があり、日本でも良く知られた中世初期から大航海時代に至る著名な修道会の本拠地でもあった。確か、「フランチェスコ・ザビエル」の右腕は、今でも聖フランシスコ大聖堂の中に収められていたと記憶している。

アッシジから先でアペニン山脈を越え、アドリア海側を北上、十字軍時代から大航海時代の中期まで繁栄を誇った「ベネチア共和国」に向かうことになる。ベネチア観光後、今度は、ロンバルディア平原を今度は東から西に向かって横断、旅の最終目的地「ミラノ」を目指すことになっている。


長いバス旅行の最中、39人の中で、以前夏に一度イタリア旅行を楽しんだ経験があるらしい方の独り言が自然に聞こえてきた。

「各地の観光地が空いていそうなので、1月の旅行を申し込んでみたが、予想外に正解だった。南下しても続く雪山、ナポリのベスビアスの雪景色も見られて幸運だった」

と、

結果論になるが、当にその通りの紀行だった。アペニン山脈の西側と東側を南北に移動する際、春から秋の季節では考えられない、山脈高所の雪を北のロマーニャから南のナポリ近郊まで望められたし、アッシジからの東へ向かう山越えでは、積雪40cm以上の峠越えを全員で経験することになった。

長い北から南へ、南から北への旅だったが、イタリアの街道と州毎の風土の違いを実感出来た得がたい旅行に今回はなるのであった。


昼食そして旅のメンバー

ミラノのホテルを出て直ぐ、ミラノの大渋滞に遭遇した。我々のバスが捕まった時間は約1時間と少しだったが、これが午後のフィレンツェ観光の時間に大きく影響するとは、誰もその時は気が付かなかった。

ミラノを出て少し先でイタリア半島を南北に縦貫するアウトラーダ(高速)A1号線に合流、南を目指す。

飛行機から見て何処までも続くように感じた「ロンバルディア平野」も、隣のロマーニャに入ると緩やかな丘が連続して現れ、その先のトスカーナに続く道は海抜が低いものの山越えとなった。

峠のそこここには、残雪が白く残り、先週のヨーロッパ大寒波の影響を示していた。豊かなロマーニャから、峠を下ってトスカーナに入ると、別の州に入った実感がした。当然ながら中世では、別の国に入った印象だったと想う。


ミラノのホテルで、「イタリアも7年振りなので、イタリアの変化も是非知りたい」と思った最初の衝撃は、二日目の昼食時に訪れた。以前、ローマでの三日間の食事の際のワインの値段は、普通店のカラフェの小が5ユーロ、同じく、高級店のグラスワインが5ユーロ、水が1.5~2ユーロだった記憶があったが、出されたメニューのグラスワイン7ユーロの高価さに、思わず憮然としてしまった。

何も頼まずに居ると前に座った築地で長年ご活躍のKoさんご夫妻が二人で、私のグラスにビールを、家内のグラスに水を注いで頂き、細やかなお気遣いに思わず恐縮してしまった。

Koさんはお仕事の他に、『歴史街道&地形たんけん隊』を主催されており、東海道、中山道、鎌倉街道などの古道をメンバーで探索されているとのご紹介があった。それも相当な知識をお持ちの方で、鎌倉街道に関しても、武蔵国の3つのルートの詳細を良くご存じの様子で、蘊蓄の深さを感じさせる第一印象だった。

歴史探訪以外のご趣味では、クラシック鑑賞が好みとのことで、何曲かの曲名を相互に出し合いながら、お互いの好みの曲と分野を探っていくと、

「一番好きなのは、ヴァイオリン曲です」

とのこと、

しかし、ピアノ曲もチェロの曲もお好きなようで、クラシックの鑑賞の幅は、私の領域を遙かに超える広範囲な趣味人を感じさせた。

その後、旅の始めに驚かされたグラスワインの値段も、どうやら杞憂だったようで、旅行の間、このような高額な飲み物に出会うことも無く、以前の記憶通りのイタリアらしいリーズナブルな価格のワインとビールを楽しむことが出来たのは幸いだった。


今回の旅行を共にする39人の人達を2日目のバスの中で、それとなく見回してみるとやはり、ご夫妻が多く、友人や親子の組み合わせは少なく感じられた。

明確に親子と解る一組目は、後の会話で解った所では北区赤羽在住の方だった。お母さんも若々しく、お嬢さんは20代半ばの一見、姉妹に見えそうな母娘で娘さんは法律事務所勤務とのこと。ローマではカンツォーネの夕べで、私達の斜め前に着席されていたが、歌い手の対応でご苦労されていた。

もう一組は、後で年齢をお聞きしたところ年齢よりも若く見えるお母さんと息子さんの組み合わせだった。この方とは、ベネチアの昼食時と夕食時にご一緒することになるが、世田谷にお住まいでニューヨークと隣のニュージャージーに三人のお子さんが小さい頃に8年間滞在されていたとの由。


フィレンツェとウフィッツィ美術館

フィレンツェ周辺も古代にはエトルリア人の土地だったと聞いているが、古代ローマの進出により、この町もカエサルの時代、ローマの植民都市として町が建設された。

古代ローマ軍団の駐屯地と同様に、フィレンツェでも一辺約400mの正方形に近い区画が整備され、全周1.8kmの城壁で囲まれ、城門は4ヶ所設けられていた。各城門から入った道が交差する所が、現在のレプッブリカ広場で、現在は若干蛇行してしまったが、古代ローマ時代の道を現在の観光客も歩いていることになる。

城壁も町の発展と共に何度も(7度か?)拡大して建設をやり直している。最後には、アルノ河の両岸まで拡張されたが、その後の時代的な発展にはフィレンツェが追随する為か、函館の五稜郭に似た角陵保の城塞は、城壁の外側に2ヶ所建設されている。

ルネッサンス期のフィレンツェの繁栄を想うとき、「メディチ家」抜きでは考えられない。記憶では、銀行業からスタートして財を成したメディチ家には兄の系統の家と弟の家系があった。メディチ家の最盛期を導いた「ロレンツォ(1449~1492年)」は、兄系であった。「ロレンツォ」は美術史の上でも「ポッティチェルリ」や「ミケランジェロ」のパトロンとして有名だった。

しかし、金融業で大成功し、政治家に変身したメディチ家には政敵も多く、数度の追放も受けている。

追放から戻ったメディチ家を更に発展させたのが初代トスカーナ大公として有名な「コジモ1世(1519~1574年)」である。17歳で後継者に選ばれた彼は系統的には弟の家系で傾いたメディチ家を再生させ、この家系からフランス王妃マリア・デ・メディチも出ていると記憶している。


フィレンツェに現存する宮殿その他の重要な建物で、メディチ家に関連する建築物で考えると「ロレンツォ豪華王」と関係が深いのが、現在市庁舎のヴェッキオ宮殿とこれから行く、ウフィッツィ美術館である。

次に、トスカーナ大公コジモ1世に関係深い宮殿は、「ピッティ宮殿」である。確か、コジモ1世が奥さん(ナポリ副王の娘エレオノーラ)の持参金で購入して、内外を整備した宮殿である。

コジモ1世、37年の治世の間、「ピッティ宮殿」を住居とし、二階の大会議室五百人広間で有名な「ヴェッキオ(ドゥカーレ)宮殿」を迎賓と式典用に使用し、市内にそれまで散在していた役所機能を集約するため「ウフィッツィ宮殿」を建設している。ウフィッツィとはオフィスの意味らしい。

コジモの息子フランチェスコ1世は政治に関心が薄く、ウフィッツィ宮殿の最上階をメディチ家所蔵の美術品コレクションの展示スペースとして改装している。その結果、同家の絵画彫刻コレクションが現在の「ウフィッツィ美術館」の原形として残り、現在の姿になったと聞いている。


余談だが、現在のフィレンツェ市の紋章は、「おしべとめしべが付いたユリの花の紋章」だとHaさんから説明を受けた。それも、元はメディチ家の家紋に由来するという。

メディチ家の紋章としては、六つ球の紋章が有名で、あちこちの宮殿の壁には、その紋章が今でも多数散見される。

「ユリの花の紋章」と聞くとフランス王家の紋章が有名で、帰国後、調べたところでは、多分婚姻時だろうと思うが、メディチ家に対しフランス王家から「ユリの花の紋章」の使用が許可されて、メディチ家の家紋の一部にユリの花が組み込まれた結果、今日、ユリの花の紋章が市の紋章となったらしい。


これも全く余談だが、コジモ1世は戦場で黒い甲冑を纏って戦った歴戦の勇士で、「黒隊長」として、28、29歳で戦傷が元で死んだジョバンニの子供だったと思う。彼の剣には、詳しいことは覚えていないが、「正義のため意外には、この剣は抜かない」旨の銘文が彫刻されていたと記憶している。

この剣技にも戦場での指揮能力にも優れ、部下からも慕われていた黒隊長を大怪我させたのは、敵「ランツクネヒト軍」の火器だったと伝えられている。時代は確実に個人の武勇から火器を用いた集団戦闘の時代に移行しつつあったのである。この点に関しては、後半のベネチアの旅で、実感することになる。


(ウフィッツィ美術館)

今回の旅のメインの一つが、ウフィッツィ美術館の見学であり、この美術館訪問が最大の旅の目的の方も多かった。

フィレンツェ中央駅の北にある五稜郭を大型にしたような要塞「フォルテッツァ・ダ・パッソ」の側でバスを降りてフィレンツェの中心部へ向かう。驚いたのは、フィレンツェ中央駅のホームを皆通って、ドンドン進んだことで、どうも駅のホームが自由通路になっているらしい。

この近道は、もの凄く有効で、「サンタ・マリア・ノヴェッラ教会」の前を抜け、フィレンツェの大聖堂「ドゥオモ」の前に短時間で出ることができた。

正式には、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」と呼ぶらしいが、多数のフィレンツェ・ファンの日本女性は、どうしても、この長い名前を覚えられず、「ドゥオモ」と親しみを込めて呼んでいる人が多い。

ミケランジェロ作の高名な「ダビデ像」のレプリカが立つ「ヴェッキオ宮殿」の前を通って隣のウフィッツィ美術館に向かう。今回のフィレンツェの滞在時間は短く、「ヴェッキオ橋」を渡ってアルノ河の南にある「ヴィッティ宮殿」まで行くことが出来なかった点を惜しむ方も多かった。私も「ヴェッキオ宮殿」の有名な「五百人の大広間」に入って、壁面を飾るフィレンツェ勝利記念の有名な「シエナ攻略」と「ピサ攻略」の絵を見てみたいと長年思っていたが、実現しなかった。


ウフィッツィ美術館では、並ぶことも無く、入場と共に一気に最上階の第一回廊まで階段を上がった。古代ギリシャとローマの大理石彫刻群を見ながら、説明員の側を離れないように進む。回廊の両側には、古代ローマの有名人の胸像や大理石の石棺があちこちに並んでいる。

解説を聞きながら歩きながら、今回案内してくれるガイドの方は、室内の並んでいる順番では無く、どうも、私達が理解し易いよう、年代順にルネッサンスの各時代を紹介してくれそうな雰囲気を感じて、好感を持った。

特に、彼女が愛情を感じていると思われる名作の絵画の前での解説は詳細で、知識の豊富さが感じられたし、お持ちの知識の半分もお話しされていない印象を受けた。

案の定、15世紀前半のフィレンツェの絵画から、本格的な解説は始まった。怪異な容貌の「ウルビーノ公」の肖像画を眺めた後、フィリッポ・リッピの「聖母子と二天使」と続き、いよいよ、ポッティチェルリの「春」と「ヴィーナスの誕生」の大画面と遭遇することとなった。

ポッティチェルリの作品は、ルーブル美術館やフランクフルトの美術館その他で既に数点拝見していたが、やはり、大画面の両代表作には、今まで観た作品を圧倒する迫力があった。特に、「春」はポッティチェルリの最高傑作と呼んでも過言で無い絵で、右側から中央、左側への物語が進行して行く様が絶妙で、部分的に観ても全体を鑑賞しても作者の高度な力量が感じられた。


メディチ家の部屋を巡った後、ミケランジェロの「聖家族」、ラァフェロの「若き日の自画像」、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」等々の日本でも有名な名作を見て回った。後半に観たのが、昨年国内で展示会があったカラヴァッジョで、掛かっていた絵の中で印象に残ったのが酒の神「バッカス」だったが、前の3人の表現力の豊かさと精神性の高さに比べると、技巧重視の印象が個人的にはあり、余り感動しなかった。

この美術館で最後に案内されたのが、レオナルド・ダ・ビンチの部屋だった。案内してくれた女性も何となく最も大事な物を最後に紹介するような口調で懇切で熱のこもった説明を始めた。最初に皆さんが案内されたのが「東方三博士の礼拝」の前だったが、どの絵も前にも多くの人が並んで鑑賞していたのに対し、何故か、この部屋にある同じダビンチの「受胎告知」の絵の前が比較的空いていた。

即座に、受胎告知の前のソファーに座って、私はじっと「受胎告知」を見つめ始める幸運を掴むことが出来た。

この美術館の所蔵するレオナルド・ダ・ビンチの絵の中でも私が好むこの名作の前に、長い間座ることが出来る幸せを充分享受。多くの人が出入りする空間でありながら、絵と二人だけで居るような不思議な時間を過すことが出来た幸せな時間だった。

解説では、この名画は、長い間、真贋論争があったらしいが、近年ではレオナルドの若い頃の作品ということで、独立後の第一作で決着したらしい。


チビタ・ディ・バニョレージョの散策

同日午後、フィレンツェからローマへ向かう高速を途中で降りて、トスカーナの象徴のような「糸杉」の数が心なし少なくなった頃、山道を「チビタ・ディ・バニョレージョ」に向かう。

ラツィオ州にあるこの小さな山村は、近年急速に日本でもBSの放送以来有名になったと添乗員Haさんの解説。

フィレンツェ同様、2,500年前、エトルリア人の地域だったこの一帯は、古代から中世に掛けて、日本古代史で見る防御の為の「高地性集落」が発展した。

中世、ローマ教皇領だったこの一帯の集落の多くは、道路から見える高台の丘の上にある。特に、ヴァチカンが万が一の場合の避難場所に想定されていた教皇領の集落は、バスから見上げると山村と言うより堅固な城塞の雰囲気を漂わせているし、村の立地場所自体が峻険な山城を築城するのに好適な場所を選んで村が成立している。

細い山道を辿ってある村に着いて、ミラノから乗ってきた大型バスから小型バスに乗り換え、狭い道を進んで、いよいよチビタ・ディ・バニョレージョに向かう。

車の終点に着いて駐車場から緩やかな坂を下りて少し行くと小さな谷の向こうに目指す「チビタ・ディ・バニョレージョ」が見えてきた。映像で以前みた以上に横幅の狭い丘の上に建っている村と言うよりも小さな集落だった。

チビタ・ディ・バニョレージョの建つ丘とこちらの村落を隔てる谷を渡る細い橋が掛かっていた。橋の幅は、日本の軽自動車一台がやっと通れる程度の幅で、長さは約200m位か?

橋の袂に料金の徴収所があり、脇に展望台と言うには小さすぎるスペースがあった。帰国後に調べた範囲では、この展望台と前方に見えるチビタ・ディ・バニョレージョの村の間の約300mの谷間は、100年ほど前には尾根として繋がっていたらしい。

この地方では、大地の崩落が急速に進んでおり、昔、地続きだったチビタ・ディ・バニョレージョが、崖崩れにより、孤立してしまったと言う。その結果、近年では、「死に行く町」と呼ばれて、有名になっているとのこと。

観光客が訪れだして数年、有名になったカフェも崖の崩壊が進んだ為、先日、店じまいして安全のため建物を撤去、経営者も去って行ったと聞いた。現在の居住者は、十数人とのこと。そんな小さな集落にも、かって大きかった村を象徴するように入り口に古い門の跡や中央部に昔からの教会が厳然と建っていて、エトルリア時代から続く長い歴史を感じさせた。


長い長い伝統と歴史を持つ日本の山村の多くでも、今回見た「チビタ・ディ・バニョレージョ」と同じような人口減少、過疎化が進んでいる。しかし、同村のように地質による地形の急速な変化による場合は少なく、大都市への人口の移動や学校卒業時の就職先が地元に無く、あっても、その地方の中核都市周辺だったりする為である。

人口10万人以上の良く知っている東北の都市でも、人口はこの20年安定しているものの顕著な市境の山村の人口減少が起きている。

第一に、市の努力で首都圏からの企業の誘致に成功しているせいもあって、市役所を中心とし市街化区域が急速に大きくなっているのに対し。

逆に、周辺部の山村や農村地帯の人口が急速にしぼみ、老齢化と過疎化が余りにも明らかになっているのである。同市には5年置きくらいに訪問しているので、余計、その段差が身近に感じられる経験がある。

古い伝統のある町並みがあっても、これを生かす工夫と地域経済が循環するシステムの構築が成されない限り、この「死に行く町チビタ・ディ・バニョレージョ」と同じように、最後は、地域から若者の声が聞こえ無くなって、無人の空間が広がっていくのだろうと強く感じて、日本に帰ったら山陰か九州の僻村を歩いて考えてみたいと私なりの自覚を新たにしたのだった。


懐かしのローマ

トスカーナを象徴する「糸杉」に別れを告げて数時間、有名な「ローマの松」が散見され始めるとローマ市内が近づいて来た証拠で、Haさんのアナウンスの後、バスの車内は、何となく期待感一杯の雰囲気に変わった。

最初に目に飛び込んできたのは、懐かしの「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で、前回は、この大聖堂とテルミニ駅の間の駅寄りのホテルだった。

有名な「コロッセオ」は今回、車中からの観光で、物足りない人達から、溜息が漏れていた。前回は、バスを降りてゆっくりとコロッセオの廻りを一周したのだったが、最近はバスの駐停車が厳しくなって、簡単にはできないらしい。歩いて廻るとコロッセオも大きな近代建築に慣れた現代人には、意外に小さな建物に感じた記憶がある。

それから、コロッセオの各階の柱だが、徒歩でゆっくりと見ると、1階がドーリア式、2階がイオニア式、3階がコリント式であることが明確に分かる。

そして、ドーリア式柱頭にしても、何処かギリシャ神殿の本家のドーリア式柱頭に比較して力が無く貧弱な印象を受けた記憶がある。

まだアテネのパルテノン神殿のドーリア式柱頭の実物を見ていないが、ギリシャ時代のこの様式の柱頭に比較して、古代ローマ時代の「ドーリア式柱頭」は、気のせいか、何処か模倣の弱さを持っているように今回も感じた。

その後もポンペイやアッシジでローマ時代の「イオニア式柱頭」も観察してみたが、やはり何処か力が無いように感じられた。多分、シシリーに行って、ギリシャ時代の建築物の柱や柱頭を見る機会があれば、古代ギリシャとギリシャの植民都市だった時代のイタリアの建築と古代ギリシャに憧れた古代ローマの建築の柱頭の微妙な相違を感じ取れるかも知れないと想った。


以前ローマを訪れた折りに、レストランの主人から次のような話を(もちろん通訳を通してだが)聞いている。(笑い)

「南イタリア人とミラノを中心とした北部の人とは、とても仲が悪い」

「ローマから北は豊かで、中でもミラノ周辺は工業地帯でもあり、デザイン能力も世界的に高いという自負を持っている。それに対し、シシリーを含む南部地域は、農業地帯で、農業と観光以外、これといった産業も少なく失業率も高い為、南部と北部の仲は悪い」

「その点、ローマ人(Romani)は、そのどちらでもないので、巧くやれる」、「それに、ミラノ人もナポリ人も、ローマに来れば全員、ローマ人なので問題無い」

と笑いながら話していた。

「そして、冗談だが、と言いながら、ローマ人も南に行くときは、盗難の被害に注意するようにしている」

と付け加える事を忘れなかった。

念の為、シシリーの友人にこの件を話すとシシリー最大の都市の市長も警察署長もマフィアで、シシリーの主な町は、皆こんな状態だと笑っていた。心配になって、色々としつこく、片言の英語で聞いてみたが、彼等の利益に関係しない以上、市民生活に影響は無いと平気な顔をしていた。


それからもう一つ、前回のローマでは、地中海を越えて飛来するサハラ砂漠からの砂で市内の車の窓ガラスは全て真っ白に汚れていた。サハラの砂は、砂漠が大きいために、日本の黄砂被害よりも甚大な被害を及ぼしていた。

だが、今回は、まだ、サハラの砂は来ていないようで、ローマ市内の車は、ピッカピッカに綺麗だった。


コロッセオを車中から見ながら、「テヴェレ川」を渡って「サン・ピエトロ広場」に向かう。途中、「サンタンジェロの城」がチラッと見えた。

入場のため「サン・ピエトロ大聖堂」入り口の長い行列に並ぶこと20分、漸く、警備員の前に着いた。

今回のツアーで追体験することになったのが、イタリア全土の主要な観光地で実施されている厳重な警戒で、警察では無く軍隊による入場検査だった。中には、前からの検査で、全部の検査終了と勘違いして、入場しそうになり、肩に手を掛けられて引き戻されて後ろを検査されている人もいた。

大聖堂の中は、何処も盛況で、特に、ペテロの墓の入り口のある祭壇付近とミケランジェロの傑作「ピエタ像」の辺りでは、感嘆の溜息を付ながら見入っている観光客やカソリックだろうか信心深そうな人々が居た。

教皇の祭壇の上には、今まで見たことの無い大きさの金の装飾をふんだんに施した大天蓋があった。このバロックの傑作の豪華絢爛な天蓋は、ローマ教皇の偉大な力を象徴していた。

当に、ルネッサンス期からバロック期に掛けて、設計され建設されたこの大聖堂と広場は、ローマ教皇の富と権力の象徴だったと思う。しかし、有名なボルジァ家を始めとするルネッサンス期の歴代ローマ教皇には庶子が多く、禁欲とは遠く掛け離れた生活を送っていた事実は今日では良く知られている。

出口を離れて、「サン・ピエトロ広場」中央のエジプトから運ばれたオベリスクに向かいながら、前回見た「ヴァチカン美術館」のシスティーナ礼拝堂の天井画「最後の審判」と大理石彫刻の傑作「ユニコーン」を何故か思い出していた。若しかしたら、フィレンツェで見たユニコーンの模刻品が本物と余りにも大きく違っていた点が、心の棘となって刺さっていたせいかもしれない。(苦笑)

そういえば、パリ、ロンドン、ローマ、ワシントンの何処に行ってエジプトからの略奪品の大オベリスクが建っている。我国の首都東京の広場に略奪品のオベリスクが無い事実を幸せなことと感じながらサン・ピエトロ広場を離れた。


ポンペイ秘儀莊ヘの道

ローマからナポリへの道で期待していたのは、『アッピア街道』と『モンテ・カッシーノ修道院』を見ることだった。高速道路の前方両側に『アッピア街道』のローマの松の並木が迫ると、何故かほっとする気持ちの良い光景だった。

記憶では、『ブリンディジ』まで続く古代ローマ街道で、カエサルもユスティニアヌスもアントニウスもこの街道を通って、ギリシャ、エジプト方面に旅立っている。

また、ブリンディジは「マイルストーン」が残っていることでも有名である。古代ローマ人は、一里塚を日本人が築く、千五百年以上前に、それ以上の「マイルストーン」を建設している。この一事を持っても、日本の文明が世界史的に見て「若い文明」である事は、間違いが無いし、逆に、若い文明に誇りを持って生きて行くべきだと思った。

日本は隣国に中国という長大な歴史を持つ国家がある関係で、中国人に「中国三千年の歴史」などと言われると直ぐに萎縮する傾向が無いでは無い。しかし、中国の唐代の薫り高い文化を今でも伝えている国は、世界中で日本しか無いし、唐の文化遺産を伝承している「正倉院」も我国にある訳なので、我国の歴史的な民度にもっと誇りを持って良いと考える。

古代ローマ帝国が滅亡してから、イタリアは時代によって異なるが多くの国家や教皇領に分裂してしまい、統一したイタリア王国になってから、まだ百数十年しか立っていない若い国家である。


 やがて、道の左手前方に、八合目以上に白く雪を被った「ベスビアス火山」が見えてきた。アペニン山脈の高いところの雪は、この三日間見慣れていたが、南のベスビアスの雪とは驚きだった。

やがて、ナポリの町並みとその先に長く伸びるソレント半島、そして、ソレント半島の先に、有名なカプリ島が見えてきた。

バスは、ナポリを横目に見て、ひたすらポンペイへの道をバスが急ぐ。

ポンペイでの昼食は、ムール貝やイカの入った海鮮風の昼食だった。イタリアもに南の方に行くと地中海の風を感じる料理になるようだ。食後、レストランの庭に出てオリーブの樹の向こうに、雪を頂くベスビアスを見ながら寛いだ後、5分ほど歩いて、ポンペイ遺跡の入り口に向かう。


今回、案内してくれる方は地元のナポリの大学を出て日本研究をされている熟年の女性で、日本にも一度だけ研修で行ったことがあるとのこと。その割には、正確で上手な日本語を話されていたのに大いに驚いた。

入り口は、元海岸だった船着き場近くにあり、坂を登って市内へと続いている。思いの外、道は狭く馬車がやっと通れる程度だし、車道脇の歩道はもっと狭かった。しかし、交差点に置かれた石の高さを観察すると、どうも馬車の車輪は相当大きかったようだし、車道の所々に馬車を繋ぐための、日本で言う、駒繋ぎ石がある。

道を歩くと水飲み場、パン屋、飲食店、飲み屋、売春宿等々の店や神殿、集会所、金持ちの別荘が次々と現れてきて、我々を飽きさせない。裕福な家の入り口を入った所には長方形の浅い池が必ずあって、雨水を溜るようになっていて、インドで観た王様の居室の前の水の流れる空間を思い出した。インドの王は、必ず、水が流れる設備を部屋の前に設けなければならなかったらしいが、若しかしたら、古代ローマ時代からの伝統かも知れないと脈絡も無く空想したのだった。

秘儀莊に向かう城門を出た所の道の両側には、古代ローマの習慣で多くの墓石が並んでいた。有名なアッピア街道の両側の白大理石の優雅な彫刻を施した墓石群は有名だが、ここの墓石もこじんまりと道の両側にまとまって続いている。

中の一つを指さして、案内の女性が、

「あれは、キケロの墓です」

と言った。そこで、

「キケロとはいつ頃の人ですか?」

と、聞いてみたら、

「スキピオ・アフリカヌス(大スキピオ)の頃の政治家で雄弁家です」

との答えだった。

しかし、日本に戻ってから調べてみるとキケロはカエサルからアントニウスの頃の人で、アントニウスに暗殺されたキケロの墓はアッピア街道にあるとのことだった。時代的に古い大スキピオとも外孫の小スキピオとも整合しない政治家である。


「秘儀莊」はポンペイの城門を出て墓石の並ぶ道を下った昔の海岸近くにあった。最初に見える台所の空間も広く、部屋数も多い大きな建物で、各部屋の壁画の保存状態も良好だった。有名壁画のある部屋には最後に案内された。

壁は、「ポンペイ・レッド」と呼ばれる印象的な赤を背景に絵が描かれており、左側から右へと場面が転換して行くらしい。左に描かれている女性は、まだ少女といって良い年齢であり、正面の壁の女性は匂うような美しさだった。右壁面の成人の女性は、何処か恥じらいを含んで哀愁を帯びた表情をしていたが、この女性も整った顔立ちで品の良さを感じさせた。

何故か、この三面の壁画を見た瞬間、日本の平安貴族の生活をテーマにした「笑い絵」のレベルの高い絵巻の出だし部分を想い出した。日本のこの系統の絵巻物も高貴な姫君などの教育用資料との説もある。

しかし、ギリシャ彫刻の完成度の高さと同様、秘儀莊の絵の芸術的な完成度と近代絵画に通じるセンスの高さには、今更ながら瞠目させられた。この秘儀莊のポンペイ・レッドを背景にした壁画が二千年の時を超えて我々現代人に語りかけてくる美意識と神秘の波動のうねりは大きく、今なお大きな感動を無数の人々に与え続けている。

今日、その無数の感動する人々の一員に加えて貰えた幸運を満喫しながら秘儀莊を後にした。


ナポリとフランス・アンジュー家

イタリア第三の都市であり、南イタリア最大の人口を有しているとサレルノの友人の弁護士に聞いていた。彼の話では、都市部の人口が約100万人、周辺部を入れると約300万人になるそうだ。

ナポリの歴史は。紀元前6世紀のギリシャの植民都市に始まるというが、古代ローマ帝国が崩壊して安定期が終了すると多くの民族や王国が南イタリアの中心地ナポリの覇権を求めて争うことになる。

1140年、最初にシシリーと共にナポリを手に入れたのが、ヴァイキングの子孫ノルマン人で、その後、神聖ローマ帝国、スペインのハプスブルク家、フランスのヴァロア家の争奪の的となった。

ナポリの歴史で印象に残っているのが、フランスのヴァロア家で、シャルル8世のよる1495年のナポリ王戴冠(第一次イタリア戦争)やルイ12世によるナポリ侵攻(第二次イタリア戦争)である。

しかし、何れの場合も遠隔の地フランスからのナポリ王国の維持は難しく、ベネチィア共和国やミラノ公国、神聖ローマ帝国、ハプスブルク家の連合によって失敗している。

しかし、現在残る城塞正面の三つの円筒に囲まれた城門を見るとアンジュー家の影響が今でも色濃く残っている。


ナポリを出て、1時間半、行きに原さんの説明が無かったので見ることが出来なかった『モンテ・カッシーノ修道院』の建つ丘の下のドライブインに入った。

この旅行で入った店の中で最もワインのレベルは高かったが、それでも「キャンティ・クラシコ」の19ユーロが最高で、探していたトスカーナやピエモンテ州の中級から上のワインに出会うことは無かった。

出来れば、ピエモンテ州を代表するワインの一つ「バルバレスコ」くらいは飲みたいと探してみたが、店のレベルが違うらしく姿は見えなかったし、逆に安くて美味しいカンパーニャやシチリアの白ワインもお目に掛かれず残念な旅だった。昼食や夕食時に頼んだワインも毎回判で押したような低いレベルのワインで、レストランのワインリストからも頼みたいワインが見つかる機会は残念ながら無かった。(溜息)

若い頃、イタリアワインを勉強した時期に直面したのが、フランスの「A.O.C.」を始めとする厳格な分類と異なるイタリアらしい「DOCG」、「DOC」の緩やかな分類だった。DOCGの中にキャンティ等の一般的なワインが入っている一方、高級ワインがDOCGに分類されていなかったりで、すっかり困惑してしまった思い出がある。

その混乱も2009年に、「DOP」に統一されて少しは収まったが、それでも、DOP表示にプラスして、従来のDOCGやDOC表示を併記したラベルがあったりして、今でもイタリアワインの表示には、悩んでいる。

また、イタリアワインを代表する品種で、色が濃く、酸味、渋みが強いトスカーナの代表的な品種「サンジョベーゼ」がある。このイタリア独特の葡萄は、熟成が続くと国際的にも充分通用する品種である事は、ワイン通の間では常識ながら、何故かこの旅行の間に「サンジョベーゼ」100%のボトルには、お目に掛からなかった。カリフォルニア・ワインを代表する現地独特の葡萄の品種「ジンファンデル」から造ったワインは、カリフォルニアのどのスーパーの棚にもあったような気がするが、今回の紀行で見た「サンジョベーゼ」のワインは、100%「サンジョベーゼ」では無く、比較的に同品種の混合率が高いボトル1種だけだった。

どうも、「イタリアワイン」に関しては、今回も不満を抱えたままの帰国になりそうである!


約500mの丘の上に建つ同修道院は、第二次世界大戦時イタリアに侵攻した米軍の攻撃目標となってしまった。独陸軍が同修道院内に潜んでいるとの誤情報により米空軍が猛烈な空爆を行い、崩壊させてしまったのである。

その後、廃墟と化した同修道院内に独軍は強固な陣地を構築、米独の間で長期間の争奪戦が行われたことは有名。特に、日系人による第100歩兵大隊がこの戦線に投入され、無能で現状分析力の欠如した冷酷な上級指揮官の無能な指揮により、壊滅的な戦死者を出しながらも攻略した事実は、日本人として明記すべき戦争の悲劇であろう。

瓦礫の山と化した同修道院の写真を本で見たのは、小学校6年だったが、崩壊した同修道院は、戦後、早い時期に元通りに復旧されたと聞く。

ナポレオン始め、同修道院は何度も破壊されたが、その度に信仰心の厚いイタリア国民によって再建された。見上げると、今日も、千年以上前の姿で、変わらず建ち続けて居るように感じるから不思議である。


ポンペイから帰って一休みした後、12人ほどのメンバーでローマ市内にバスで出て、「カンツォーネの夕べ」を楽しんだ。実は、昨日の夕食時にもカンツォーネの唄とCDの売り込みがあったので、二夜連続のイタリア民謡鑑賞になった次第。

我々日本人の席は、ピアノ近くの長いテーブルで全員が一つのテーブルに座った。テーブルを2つほど隔てた先には、何人か妙に静かな20人弱のメンバーが3つのテーブルに分散して座っていた。

歌手は、中年と言うよりは熟年の男女で、日本人向けの「サンタ・ルチア」や「帰れソレントへ」から始まり、だんだん盛り上がって行った。年齢のせいか音域が少し若い頃より狭くなっているかも知れないが、テノールとメゾソプラノの声量のある唄を暫し楽しんだ。やがて、リクエストの提案が男性の歌手からあり、皆さんから、ジュリオラ・チンクェッティの「夢見る想い」や「雨」がリクエストされた。

だんだん場が盛り上がってくると如何にもイタリア人の男性らしく、メンバーの中で最も若いMoさんのお嬢さんを立たせてピアノの前へと導き、熱心に自分の唄を披露している。彼女も困った顔をしながらもリードに微笑んでいた。

イタリア男性にとって、少し厭がりながらも正面から断らない日本の若い女性層は、好ましいターゲットだと以前、友人のイタリア人から聞いた話を思い出しながら、はにかんでいる彼女を見ると無く見ていた。


「フニクリフニクラ」の唄が聞こえてくる頃、向こうのテーブルの妙に静かな旅行者が少し気になってきた。ウエイターとの遣り取りは英語で札もドル紙幣だったので、アメリカ人かと始め考えたが、余りにもアメリカ人にしては静かすぎる上、イタリア音楽で盛り上がらないアメリカ人がいるとも思えないので、トイレに行った際に側を通ってみたらロシア語で会話していた。

どうも、東欧からロシアの旅行者は日本人以上に静かで、借りてきた猫のように静かである。以前の日本人観光客も旅を静かにエンジョイする人が多かったが、最近の若者世代を中心に明るく楽しむようになった気がしている。


アッシジ:聖フランシスコ聖堂見学と昼食

イタリアの守護聖人『聖フランチェスコ』を祭る聖堂のあるアッシジに向かう。本道をそれて、目指す大聖堂の建つ丘をバスはゆっくりと登って行く。

バスを降りて最初に向かったのは、この町の貴族の娘で聖フランシチェスコの信仰心に賛同して修道生活に入った「キアラ(英語風にはクララ)」の遺骸が安置してある「サンタ・キアラ教会」である。教会のファサードは想像以上に簡素で凜とした建物であった。内部には、彼女が身に纏った日常着と礼装の衣装が展示されていた。最も美しく見える衣装は、後世の奉納品に見える。

彼女は長命で、聖フランチェスコの没後も長生きして、59歳で没している。以前読んだ本では、聖フランチェスコの創設した修道会の戒律は厳しく、過酷な労働と極単位短い睡眠時間もあって、修道僧の平均寿命は32~33歳だったと記述されていた。やはり、聖フランチェスコも長命とはいえない44歳で病没している。

古い町並の散策を楽しみながら、緩い下り坂を聖フランチェスコ大聖堂に向かう。

「聖フランチェスコ大聖堂」に入り口では、ご多分に漏れず、輝く連隊徽章をベレー帽に付けた陸軍兵士が平和そうに警備していた。

アッシジでは、周囲に人も少なかったので、携帯している銃器を良く見たが自動小銃は新型の5.56mmNATO弾使用のベレッタAR70/90、拳銃は同じベレッタの9mmパラベラムのM92だった。

以前ローマ市内で見た兵士の銃器は旧式の6.5mmNATO弾使用の小銃だったが、この数年でイタリア陸軍の装備は大きく変わっていた。

大聖堂では、丁度日曜午前のミサの最中で、祭壇の前に観光客は進ませて貰えなかったが、司祭の退席の行列を見ることが出来た。印象的だったのは、3m程の白い棒の先に捧げられた聖火ろうそくで、捧げ持った二人の若者は神妙な顔で司祭の後に従っていた。

我々観光客は、途中の階段から地階の聖遺物の部屋へと誘導され、聖フランチェスコの遺骸と聖衣を見ることが出来た。


ベネチア・サンマルコ広場とドゥカーレ宮殿

海の都ベネチア共和国の中心「サンマルコ広場」とベネチア総督の宮殿「ドゥカーレ宮殿」を楽しみに、船で、サンマルコ広場へ向かう。驚いたことに、サンマルコ広場と向かい合う位置の岸壁には、イタリア海軍の高速ミサイル艇が3インチ(76mm)砲を同広場に向けて係留していた。同艇は2基のSSMを後甲板に装備し、最大速力も50ノットはあるはずである。

帰国後、海上自衛隊出身の友人聞いてみたが、日本では歴史的に重要な建築物に砲口を向けて停泊するケースは考えられないとのことだった。

逆に見ると、歴史時代の大半で平和だった日本と、絶えず戦略的な対峙や戦術的な小戦闘が耐えなかったヨーロッパ人の警備活動に対する考え方の相違が現れた現象の一つと取られるべきと一風景のように感じた。

船はサンマルコ広場を過ぎて、「溜息橋」の少し先の桟橋に着いた。桟橋からお上りさん一行は、ガイドさんの解説を聞きながら広場に向かった。「溜息橋」は当時の牢獄の2階と裁判が行われる「ドゥカーレ宮殿」の間の中空に、一般人の接触を拒絶するように渡されていた。


「ドゥカーレ宮殿」の前を通り過ぎた所にあるサンマルコ広場への海からの出入り口の二本の円柱の間は、ベネチア市民が通り抜けない場所と言われている。どうも、何も知らずに通るのは観光客ばかりらしい。

私たち二人も何気なく片方の円柱の根本近くを通ってサンマルコ広場に入った。

この場所は、中世、溜息橋を通って、ドゥカーレ宮殿の裁判で死刑判決が下された死刑囚は、直ちに、この二本の円柱の間で、刑が執行された忌むべき場所だった。

しかし、見回してみたが、それらしい標識も見当たらなかった。

そういえば、昔々、イタリアの友人に「ヴェネツィアン・グラス」と英語で話したところ、それは、なんなんだと聞かれた記憶がある。イタリアでは、世界中で「ヴェネツィアン・グラス」と呼ばれているグラスを、そのグラスが生産されている島の名前から「ムラーノ」と呼ぶと教えられた。

その色鮮やかなムラーノの有名な赤や緑のグラスの店を見学、女性達は買い物を楽しんだ後、私達二人はドゥカーレ宮殿の入り口へと向かった。

このベネチア共和国ドージェ(総督)の住まいであり行政府、司法の場であるドゥカーレ宮殿は何世紀に渡って改築された結果、豪華であり、内部の各室は華麗なヴェネツィア派の絵画で飾られていた。

何と言っても有名なのが、「大評議会の間」の正面を飾る大画面、ティントレットの大作「天国」で、余りに大きな部屋のせいか、相当な人数が入っているにも関わらず閑散と見える部屋の中でも人を集めていた。

その他の絵では、ベネチアの栄光の瞬間である「レパントの海戦」の大絵画が掲げられていた。トルコのガレー船と死闘するベネチアのガレー船が描かれていたが、激闘の描写は、海戦と言うよりも陸戦の描写に近く、帆船が海戦の主力になるまでの海上の戦いは、陸戦の延長上にあったと思わざるを得ない印象だった。この他にも十字軍の「テュロスの陥落」を描いた絵もあったはずだが、見当たらなかった。

ベネチア共和国の歴史を象徴する大きな歴史画の上には、「歴代のドーチェの肖像画」が、整然と並んでいる。但し、塩野さんの著書にあるように、唯、一ヶ所裏切り者のドーチェの所だけ黒い空間があり、印象的だった。

大広間以外では、武器の展示室を観ることが出来た。第一つの一方の壁に、「ハルバート」が多数展示してあった。

ヨーロッパの中世後半からルネッサンス時代の代表的なポールアーム(長柄武器)としては、「ハルバード」がある。ハルバードは、日本では「槍斧」等と訳す場合があるように、槍+斧+フックの3機能を合体させたヨーロッパらしい強力な武器である。

ハルバードの全長は比較的短く、2.3m前後の物が多い。槍と斧、フックの3つの部位から構成されるヘッド部分は、全長50~60cm位だろうか? 

この武器を有効に使いこなすためには、可なりの修練が必要だが、ハルバードを持つ熟練した歩兵は、騎乗の装甲騎兵を落馬させて殲滅することが出来た。

現在でも、ヴァチカンの衛兵がこの武器を持って警備に就いているので、馴染みの方も多いと思う。

武器展示の第1室の奥には、ミラノ製と思われる精巧な甲冑群の後ろに、日本の大薙刀に似たポールアーム(長柄武器)「グレイブ」が大量に林立していた。グレイブはフランス発祥の武器で、薙刀に似た刃長、約55cmのブレード部分と2m前後の柄から構成されている。薙刀と大きく異なるのは、棟の中ほどに敵の武器を受けるためのフックが付いている点である。

グレイブが使用された時代は、中世末期(13C末~14C初か?)から17世紀だったと本で読んだが、ここに展示されているグレイブは、表示によると1490年頃の物らしく、刃部は日本風に寸法を述べると2尺5寸位の長さに見える。

ハルバードの発祥地は不明。多くの国が昔から興亡を繰り返してきたヨーロッパでは、敵国の持つ最新式の武器に対する情報の収集能力が高く、優秀な兵器は、瞬く間にヨーロッパ中に普及している。

また、日本では長柄武器として、薙刀や槍、長巻き位しか普及しなかったのに対し、ヨーロッパでは、ハルバード、グレイブの他にも、「パルチザン(鎌槍に似た武器)」、「パイク(槍)」、「ビル(ハルバードに似た武器)」、北ヨーロッパの大斧「バルデッシュ」、イングランドの大鎌「ウォー・サイズ」等々、複雑多岐に渡るポールアームがあった。


しかし、ドゥカーレ宮殿最大の武器コレクションは、15世紀後半から17世紀のベネチアの刀剣類だった。前半の展示品は中世騎士の時代からの流れを引いた「ナイトリー・ソード」で、15世紀の表示があった。刀身の長さは約80cm、片手使いの剣が主だった。

時代の経過と共に(16C~17Cか?)、刀身は長く成る傾向で、両手使用の剣「ツーハンデッド・ソード」が増えて行く感じが、展示内容からは感じられた。

本では、十字軍によって、中東の湾刀の影響を受けたと書いてあるが、鉄砲戦場の主流武器に普及するまで、イタリア・ベネチアでは騎士の時代の剣の系譜を引く形状の剣が愛好されていたと思われる。

湾刀は無いかと探してみると片隅に、トルコの刀剣、「タガヤサン」があった。タガヤサンは日本でいう逆刃刀で、彎曲した刀身の内側に刃がある刀である。トルコの有名な「イェニチェリ」の基本的な武器で斬れ味で有名だった。展示の表示には、17世紀、ペルシャとあり、当時ベネチアではトルコを含めて中東のことをペルシャと呼んでいたらしい。

日本の打刀に似た短くて軽快な刀剣は、この刀身の長さ60cm位のタガヤサンだけで、これ以外の多くの剣は、長大で重そうな諸刃の剣が主流であった。

但し、1560年の年紀がある展示品には、細身で突き専用の剣に近い両用の剣があり、刀身も軽そうで、刀身も多の剣に比較して極端に長く、時代は、既に火器の時代に入った事を示すように感じた。

その他の武器としては、「クロスボー」が展示されていた。弓も小形で、矢も長さが60cm位と短かったが、貫通力は相当のものがあったと想像される。円筒型の矢筒も軽快そうで移動に便利な気がしたが、携帯できる矢の数はそう多そうでは無かった。(20本位か?)

剣とポールアーム、クロスボー以外では、金属製の円盤状の曲線が盛り上がった盾があったし、火器では、フリントロックのマスケット銃と拳銃が幾つか展示されていたし、最後の部屋に日本の徳島藩の狭間筒を拡大して野砲にしたような口径30~35mmの長砲身の野砲(砲車付)があった。砲身長は2m弱あるように感じた。

日本の戦国時代以降の火器の発達を考える時、ヨーロッパと大きく異なるのが大砲、特に砲車を用いた野砲や攻城砲の発達が全く無かった点であろう。日本独特の抱え大筒の修練に各藩の鉄砲方が励んでいた頃、ヨーロッパでは、砲車の改良と砲身の軽量化に努力していた。その途中経過の実物が、目の前の展示品であると強く感じた。

後に調べたところでは、ベネチアでは、船の修理を1104年以降、艦船の建造を1320年~、各種武器の製造を1370年~ナポレオンに侵入される1797年まで、続けていたという。であれば、ドゥカーレ宮殿の武器コレクションの大半は、14世紀後半から、ナポレオン戦争までと考えてそう大きな誤差は無いように感じた。


ドゥカーレ宮殿を出て、家内と二人で大急ぎでサンマルコ広場を横切り、「コッレール美術館」に向かう。残り時間20分。入り口が解らず、1分以上掛かって入場、三階に有名なベネチア派の「ピエタ」の絵とカルパッチョの「二人の娼婦」の絵があるが、パス。二回の歴史館を中心に大急ぎで見て廻る。

ガレー船の黄金の模型はベネチア共和国の全盛期を象徴するように豪華でもあり華麗でもあった。その反面、後年(18世紀初頭か?)の二層甲板艦の模型は、既に、ベネチアから覇権が去ってしまった事実を象徴するように、英国の基準でいう4等級艦程度の60門艦レベルで、当時の英国やフランス、オランダの海軍と対等に戦う力がベネチアから去ってしまった現実を示しているように、根拠は無いが感じた。

そして、18世紀後半以降の船の模型は短い時間では、発見できなかった。


多様性のある国家群:ヨーロッパに於ける武器開発

地球上の長い歴史に於いて、我々日本人は、少なくとも3つの「多様性のある国家群」を見てきた。

その第一は、近くに存在して古代からから大きな影響力を受け続けてきた「中国」である。特に漢から唐に至る時代の「倭国」への影響は大きく、多くの多民族の影響を享受して繁栄した唐の優れた文物は、武器を含めて「日本」建国の重要な文明的な支援となった。

第三の「多様性のある国家」は、近代から現在に至る「アメリカ合衆国」の存在である。多くの民族からの移民の集合体である同国の多様性に敵う近代国家は存在しない。多様性を武器に同国は、この150年間、発展を続けてきたと考えても大きく的を外していないと考える。

そして、第二の「多様性のある国家群ヨーロッパ諸国」は、中国ともアメリカ合衆国とも全く異なる大きな特徴がある。

中国やアメリカと異なり、古代ローマ帝国を除くとヨーロッパは中規模の国の集合体であり、ヨーロッパ全土を統一して領土とした国家は全く存在しなかった。

逆に、古代ローマの剣、「グラディウス」や「ヴァイキング・スォード」のように優秀な武器は、瞬く間にヨーロッパ全土の剣や武器に影響を与えたし、中国で発明された「火薬」も中近東を経てヨーロッパに伝わることによって、諸国間の戦闘の激化により大幅に改良され、使用する火器も大きく進歩していった。

ヨーロッパに於ける「マスケット銃」と「大砲」の開発と改良が無ければ、後に来る「大航海時代」のヨーロッパ諸国の活躍も無かったと考えられるし、世界中にヨーロッパ諸国が植民地を持つことも無かったと考えられる。


さて、本題に戻って、イタリアに於ける「ルネッサンスの武器」を考える時、上記の様に、多くの中小国家群による抗争による影響を無視することは不可能だろう。ルネッサンス期のイタリアは、多様性のある小国家群が互いに抗争しており、ヨーロッパの縮図の様相を示していたと私は考えている。

ルネッサンス期のイタリアは南から北まで、多くの中小国が林立していた。イタリアの中央には広大なローマ教皇領があり、南には、シシリー王国やナポリ王国が存在した。中部には、フィレンツェを始めとする経済、貿易で富を蓄えた富裕な国々が多い。北部には、ベネチア共和国やライバルのジェノバ共和国がある上、ミラノ大公国の存在も軍事的に侮れない物があった。

 イタリア諸都市の場合、十字軍時代から始まって、大航海時代の初めまで、ヨーロッパ諸国の先進都市であった。当然ながら、「ミラノ産の甲冑」始め、優秀な武器は多かった。必要があれば刀剣製作の為に、優れた「ダマスカス鋼」をイスラム圏から優先的に手に入れる手段もベネチアやジェノバは持っていた。

ハプスブルグ家や神聖ローマ帝国の関係から、スペインや独の武器情報も遅れること無く入手出来たろうし、ナポリやミラノとフランス王家の交流から、フランスの最新の野砲情報も遅ればせながら把握できたかも知れない。

しかし、今回見た、「ドゥカーレ宮殿の武器コレクション」を見ると、何処か『こけおどし的』な長大さを感じさせる剣であり、ポールアームであった。時代的にルネッサンスは、日本の戦国時代から桃山時代に相当すると言われるが、武器だけから見ると南北朝期の大太刀や大薙刀を見ているような印象で、何処かイタリアのルネッサンス期は虚勢を張った時代だったような気がする。

そういえば、ルネッサンス期のイタリアの戦争の大半は、「折れは強いぞ!」との示威行為が主で、全滅覚悟の死闘は少なかったと学生時代に読んだ記憶がある。

中には、双方二千人規模の軍勢が激突したとされる戦闘で、両軍の死者の合計が一桁だった例もあると記憶しているので、スイスを始めとする傭兵も多かったイタリアの戦闘では、相互の消耗を最小限に留めて戦ったのだと思う。


ルネッサンス後半期、マスケット銃が戦場で幅を効かせ始め、フランスのシャルル8世のイタリア侵攻時には、仏軍の野砲が大きな働きをしている。

フランス軍は、機動性の高い大砲の働きもあって、瞬く間にイタリア半島の北からナポリまで侵攻に成功。このシャルル8世のイタリア侵攻を「バターをナイフで刺すように――」と表現して、イタリアの諸国は大いに萎縮したと読んだ記憶がある。

イタリア製の優秀な甲冑や長剣、長大なポールアームもフランスの近代化した軍隊が持つマスケット銃や機動性の優れた野砲の前に主役を譲って行った流れが良く解る展示だった。そして、最終的に落日のベネチア共和国の命運にとどめを刺したのが、ナポレオンによるイタリア侵攻だった。

その結果、隣国フランスの革命とナポレオン支配の衝撃が、「イタリア統一」への潮流となって、大きな流れとなって行った。

日本人は忘れがちだが、統一国家としてのイタリアの成立は、日本の明治維新寸前の1860年であり、それまでの約1400年間は、小国の分立状態が平常の状態であった。


旅行最大のトラブルとその日の夕食の会話

そういえば、今回の旅行での最大のトラブル? は、ベネチアでの昼食時に発生した。観光地らしい極めて狭い空間のテーブルに一行39人+2名の添乗員が詰め込まれて食事になったのだが、家内の隣の母親と親子で参加していた男性(40代半ば?)の息子さんにトラブルが発生した。

原因は、空調の室外機がレストランの真ん中に置かれおり、除湿によって排水された水がホースで男性のイスの下のバケツに溜められていたのが事故の原因だった。バケツたっぷりの水の中に、彼のコートの襟と袖口の部分が浸かり濡れてしまったのである。

直ぐにバックの中のタオルを彼に渡して拭いて貰ったが、一度濡れたコートが、拭いて乾くものでも無いし、夏ならばともかく、冬のベネチアでは外套は必需品とあって悲惨な事故だった。

直ぐに、添乗員のHaさんを通じて店側に抗議して貰ったが、案に相違して店側の対応は、「あ、そう」程度の軽いレスポンスだった。

当然の事ながら、息子さんは怒り、再度、Haさんを通じて、猛抗議、店の側も今度は慎重な態度で、彼を含む私達6人が座ったテーブルに出した「水」を無料提供する提案をしてきた。その結果、彼も妥協、Haさんの陰で旅行最大のトラブルは急速に終息した。

突然のトラブルによって、無料の水を飲むことになった4人のその後の会話を代表する締めくくりを息子さんが、一言で述べて私達6人は店を辞去した。

「無料が分かれば、水では無く、ワインをボトルで頼むべきだった!」


その夕刻、ミラノでの夕食は、やや広めの室内に日本の女子大生一行とおぼしき明るい集団も居るレストランだった。偶然、4人テーブルに昼食時の親子の方が座られており、私達はその前に座ることとなった。当然ながら、昼の話になり、彼はボソッと、

「切れそうになりましたよ!」

と言った。多分、不正を許せない性格が強い人だろうと思ったが、こちらが対応できずに、きょとんとしていると母堂が、フォローするように出発前の彼の日本での準備状態とローマでの行動について、話してくれた。

「皆さんがポンペイに行っている間、二人で、『カラヴァッチョ』の絵を探して、一日中、ローマ市内を歩いたのですが、その準備は全て彼が日本に居る時に綿密に調査してくれたのです」

と、

「いつも、テーマを言い出すのは、母親なんですが、詳しい調べは何時も私です」

「パソコンがあれば、直ぐに調べますよ。『カラヴァッチョ』の件は、ヴァチカン美術館とローマ市内の教会を中心に彼の名画がある教会が出て来る映画で調べました」

と、彼は言っていた。どうも、パソコンでの調べ物は、相当自信がある様子。

「昨年、カラヴァッチョ展が日本でありまして、私達も見に行って彼の絵に感動したので、今回は、一日掛けてローマ中の彼の絵を見たいと思っていました」

お二方共に、絵に対する熱意が旺盛で、調べる力も相当な物である雰囲気だったので、

「こちらは、調べ物は余り得意では無いので、今回も20数年前に読んだ何冊かの本の記憶だけで旅行に参加している現状なので、どうやって、調べられたのかお教え下さい」

とお願いすると、

「まず、ネットで『カラヴァッチョ』の絵のローマ市内の収蔵先を探しました。次に、カラヴァッチョの絵を所蔵している教会が出て来る映画を参考にして、市内の教会の名前を見つけ、地図で場所を探しました」

とのこと。

「凄い探究心ですね!」

と、応じると、お母さんが自信を持って、

「この人は、凄いンですよ!」

と、嬉しそうに応じた。

「この人の調べた結果で、昨日は1日、ローマ市内を朝早くから、夜まで歩きました」

「ヴァチカン美術館に開館と同時くらいに入り、午前中は、カラヴァッチョの絵を中心に見て歩きましたが、古代ローマや他の絵よりも、やはり、カラヴァッチョの絵は最高でした。午後は、映画の教会を探して、2ヶ所を廻りましたが、時間の関係で、最後の1ヶ所は、見ていません」

と、お二人のカラヴァッチョ礼賛は続いた。事前の綿密な調査といい、現地での行動力といい、興味のある絵画に対する熱意あるお二方の態度に感嘆してしまった。

人には好みの絵があるようで、前回、前々回のヨーロッパ旅行では、人間の内面に対する深い洞察力を感じるレオナルド・ダ・ビンチやレンブラントの傑作の絵に心酔してしまった結果、カラヴァッチョの絵は軽く流してしてしまっていた。

その様な訳で、お二人の熱の籠もったカラヴァッチョ探求のローマでの話をお聞きしながら、思わず反省した。


ご子息の下には、二人のお嬢さんが居て、お二人ともご結婚されて、お孫さんもいらっしゃるとの事。

「この人は、まだ、なんです」

との話に、

「我家の二人も、まだなンです」

との、家内の愚痴。

この夜のカラフェのワインは白だったが、空くのは早かった記憶がある。


帰国後、念の為、カラヴァッチョの絵のあるローマ市内の教会を調べてみたら、次の教会が見つかった。「サンタ・タゴスティ-ノ教会」、「サン・ルイージ・ディ・フランチュージ教会」、「サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会」。


それからもう一つ、この日の夕食には、サプライズが待っていた。今回の39人の中に、旅行中に誕生日を迎えた人が、それも2人も混じっていたのである。

一人は、イタリア語が堪能で研究熱心な独身女性のSuさんで、もう一人は、我々と同年代の旅行好きな男性Maさんだった。ショートケーキにロウソク1本の誕生祝いだったが、お二人とも幸せそうな雰囲気で、贈り物の袋を受け取る際もSuさんは上気した顔をしていた。

そういえば、ベネチアの船着き場で、

「今日のベネチアの空の巻雲の隙間から斜めに漏れる陽の光が、とても印象的だった!」

と、寒風に頬を染めながら話していたのを思い出した。


ミラノのドゥオモ

ミラノと聞くとルネッサンス期前半(~1447年)のヴィスコンティ家と後半(1450年~)に栄えたスフォルツァ家を想い出す。フランスや独との国境に近い関係もあって、歴代のフランス王家や神聖ローマ帝国皇帝、ハプスブルク家の強い影響を真面に受けてきたミラノであった。そのせいかミラノの街は、ローマよりの何処かパリを始めとするフランスの都市や南部ドイツの街に近い印象がある。

ミラノでは、ヴィスコンティ家の居城を後にミラノ公爵スフォルツァ家が改修拡大した「スフォルツァ城」に行ってみたかったが、ミラノでの見学時間が余りにも短く、「スカラ座」と「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世・ガレリア」、「ドゥオモ」の観光に留まった。

世界のスカラ座の総本家、オペラの殿堂であるミラノのスカラ座は、当時の政治的配慮もあって思ったよりも簡素な建物であった。しかし、内部は外観と異なり、相当豪華な装飾が施されているとの由。

「スカラ座」と「ドゥオモ」を結ぶ通路の丁度中間にある「ヴィットリオ・エマヌエーレ2世・ガレリア」は、ブランドショップの建ち並ぶ華やかなエリアで、パリやニューヨークとも違うシックな一角だった。交差点の真ん中に幸運スポットがあり、左かかとを軸に開店すると幸運を呼ぶという、シンボル牛の角の部分は相当窪んでいた。


14世紀にヴィスコンティ家によって建設が命じられたミラノの「ドゥオモ」は、無数の尖塔が特徴的な壮麗な建築で、内部に入るとバラ窓は中世の物は残っていないらしく、色ガラスを通した光は明るかった。何故か、時代が新しく見えるバラ窓を見ながら、19年前に見たパリのシテ島のノートルダム寺院の最も古い中世のバラ窓を思い出してしまっている自分を発見して驚いてしまった。

どうも、ガラスの歴史が少し解るせいか、中世の僅かに残存するステンドグラスに異常な興味を持ってしまうクセが私にはある。


和やかな帰国

前日の夜、夕食にバスで出かけようと玄関に行くと、何故か周囲がざわついていた。僅か1~2分前に、ホテル内部の玄関近くで、盗難騒ぎがあった為である。

ホテル内部に到着して、一安心の青年のバッゲージとその上に置いたリュックサックをイタリア人の若者が強奪した事件だった。窃盗グループは、3人組で、一人は車を直ぐ発車出来るようホテルの前で待機していたと、見ていた人に聞いた。青年は、引きずられながらも強奪に抵抗したようだが、三人目の犯人に妨害されて、引きずられ、擦り傷を負ったとこれは、私達の添乗員の吉村さんから伺った。パスポートも現金も一瞬にして全て失った青年の同行の女性は、泣いていて痛ましかったと我々と同じ旅行メンバーの若いお嬢さんの話だった。


1月という寒い季節だったが、寒い冬の季節がアペニン山脈の観察にも側面援助を与えてくれて、イタリア半島70%の地域の南北の地理と気候の概略を理解することが出来た。

その上、メンバーにも恵まれ、天候も峠越えの積雪ルートも走ることが出来て、一週間前のヨーロッパの大寒波の残像も見る機会に恵まれた気がする。


更に、別のグループのように盗難にも合わず全員が無事帰国できたのは幸いだった。ご同行頂き、色々とお教え頂いた37名の方に感謝してこの紀行を終りたい。


今回の紀行で残った若干の不満は、美味しいイタリア料理とそこそこのワインに出会わなかった点だったが、その不満も帰国後、親しい友人のOさんが五反田でイタリア料理店に案内してくれて、美味しいワインと共に羊料理やローマ料理を含むイタリアの味を充分に味わわせてくれた瞬間霧消してしまった。

Oさん有り難うございました。(感謝!)


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