第40話「異世界7日目」
長い長い夢を見ていたような気がする。
小説やゲームに登場するモンスターが跋扈し魔法が存在し、超科学なロボットが飛び交うファンタジー世界で生きているそんな夢。
しかしながら、今の俺はただ茫然と動くことができない。
見飽きた己の部屋で瞳を逸らすことなく一点をただ見つめていた。
見つめる先は電源の入っていないテレビ。
漆黒な画面に映り込むのは反射した自分自身のはずなのに、そこには自分は愚か部屋の風景すら映り込んではいない。
このままいつまでも見つめていたい。
この時間が永遠に続けばいい。
何もない事こそが至高。
なぜ、そんな事を一途に願っているのかなどわからない。
人は常に新しいこと新鮮なものを求めて生きている。
退屈は悪だ。
今この瞬間でさえも意味を見出さなければ肯定することができないとするならば、つかの間の刻でさえ諸悪の根源となりえる。
ここで選択したことが間違いであるというならば選ばれなかった選択肢が正解であり正義なのか。
本当にそうなのか。
自問自答する。
必ずしも正解が正義だとは限らない。
その根拠が目の前に迫りつつある。
選ばれなかった選択肢が定を成す。
漆黒の底から、こちらに伸びてくる。
光?
光源でなければ視覚できないというのは常識である。
だが、伸びてくるのは光とは真逆の存在。
闇から闇が迫ってきている。
これは視覚がとらえた情報などではないと脳が理解する。
イメージするならばこれは腕。
細い腕から五本の指が、黒く、仄暗く、静謐で、淡く、靡いて、蠢き、笑みている。
不敵。
そろそろ、その指が俺の首に触れるだろう。
俺は伸びてきた腕が振れる瞬間に掴む。
そこで現実という夢が泡となって消、真実という名の夢へと再び引き込む。
「痛いかな」
「すまない」
「謝らないで」
「ふっ……。いつもありがとう」
「どういたしまして」
「必ず、元の世界に帰す。必ず俺がユイナを守る」
「かっこいい台詞だけど、しまらないね。これじゃ」
美少女に膝枕をされていては締まらない
いつの間にか眠っていたとしても目を覚ますまで気がつかなかったというのも、なんとも奇妙な話だと思うのだが現実っていうのはいつだって奇天烈なものなのだ。
「このまま二度寝としゃれこみたいところだけど、起きるとするかな。一応リーダーなんだし……な」
「寝かせてって言われても、二度寝なんてさせてあげないかな」
「ようし、まあー、あれだ。今日も一日よろしく頼むぜ!!」
「末永く宜しくお願いします……。なーんてね」
「なんか、変わった? 雰囲気というか、性格とか?」
「変わったのは私じゃなくてアマトの方だと思うんだけど。というよりも元に戻ったって感じかな。寝てる間に何かあったんでしょ、夢の内容だと思うけど教えてくれるかな」
俺は何か変わったのか、敢えて口に出して言ってくるのだから何かあるのだろう。
しかしながら、夢の内容など覚えていない。
夢というものはどうにも危うい。
それでいて最重要な鍵を担うというのであればたちが悪すぎる。
「うぉぉお。思い出せん。なんだか、もにゃもにゃするなぁ!1」
「何それ!? 可愛いね」
「はぁ。笑えないっての」
時間が経つのが早いのか遅いのかわからない。
それが自然と口にできるというのだから、確かに何かが変わったのだろう。
「今日でこの世界に来てから一週間かぁ。短いようで意外と毎日充実してた気がする……。もう、一年いや、数年は経ったような気さえしてくるから不思議なんだよな」
「私も同感。こっちに来てから、違った? 生まれてから十数年しかたってないけど、ここ数日はその数百倍は時間が経つのが早かったって思ってたところだよ。元の世界に帰るのも案外早いかもね」
「……。ああ。そらぁ、そうさ。明日、ひょっこり元の世界に帰れるなんてこともあり得る」
「楽しみにしてるからね。戻ったら………。その時考えるかな」
「その時は任せろって!! この世界から帰れるってことは、もうなんだってできるだろ? むしろ出来ないことを探す方が難しいってくらいだろ。さあて、7日目の旅を始めようぜ!!」
「始めよー」
ユイナが俺のテンションに乗っかってきたことに内心で、興奮がこみ上げてきてることを拭いきれない。
これは何て充実した日々なんだ。
異世界でなければとは言っておきたいところではあるのだが、今はどうでもいい。
簡易住居の中で寝ていたのはバニティーを除く三人だけだった。
昨晩は交代で見張りにあたっていたが、バニティーは一番初めで最後がユイナだった。
「バニティーさんなら朝食の食材を取りに行ったよ。まだ、出ていったばかりだからすぐには戻ってこないと思うけど」
「ユイナはどう思う?」
「アマトと同じかな。でも、首都につくまでは意識しなくていいんじゃないかな」
「どうも、気になるんだ」
アビリティ、スキルの類で見破ることができない何かがある。
最強の矛と最強の盾の話のようである。
俺達から見破ることのできない何かがバニティーにはあるのだが、それが必ずしも悪しきものであるという保証がない。
寧ろ箱を開けてみなければわからないというのであればシュレディンガーの猫もとい、パンドラの箱であるとさえいえるのではないだろうか。
悪人であったと人もそれを知らずに受けた恩のみを見れば俺達にとっての善人以外の何者でもない。
極悪人であろうとその事実が俺たちにとってマイナスに働くことなどありはしない。
でなければ、一度でも罪を犯した人間が更生して社会に復帰することなど事実上不可能である。
だが、バニティーについて思う事は形容しがたい気持ち悪さであり、不快感である。
外見やしぐさではない漠然としたものであるからこそ引っかかって苛立ってしまう。
「みんな、思ってることはアマトと同じだよ。スペラは自分一人で何とかしようとしてるみたいだから、気にかけていてあげないとあの程度じゃ済まなくなるような気がするかな。誰よりもアマトの為にって考えてるのはあの子だからね」
「慕われて悪い気はしないけど、あれは行き過ぎだなんだよなぁ。結局どこまでいっても普通の大学生どころか、ここじゃ学生ですらないからさ。それでも俺のやれることだけしかやらないスタイルは変えるつもりもないけどね」
「気になってたんだけど、『やれることだけ』じゃなくて『やれることは』じゃないの?」
「いや、間違ってないよ。確実にやれることだけを正確にやるからこそ意味があるんだ。言い換えれば俺がやることは全て絶対の自信があるって事さ。この世界をどうにかできるかわからないから、世界を救うとは言わないけど、目の前に世界を揺るがす首魁が倒せる位置にいるなら倒すと言っておくよ。根拠何ていつの時代も全てが終わった後に書き起こされるものだしな」
ユイナは俺が言う前から全てをわかっていたかのように笑顔で、「そうだね」と言った。
わかっているなら聞くなよと思ったのと、なぜわかったのかという疑問を抱いたのだが至極どうでもいいと捨て置くことにする。
「今日は早起きだね。どう、ボクの隣で一眠りしていくっていうのは?」
「そうしたいのはやまやまなんだけどなー。俺が朝飯創らないと飯抜きになるけどいいわけ?」
「ありゃりゃ、ノリは良くなったのに言ってることは厳しいなぁ。ボクもそれが困るっていう言うんだから、人間てのも大変だよね」
「あんまり、うるさくすると二人を起こしそうだから俺は行くけど寝てていいから。独りで」
「もう、目も冴えたしボクも手伝うよ。料理っていうのも興味をそそられるんだよね。食べるのもいいけどその工程も楽しめればまさに一石二鳥だと思わない?」
「確かにこっちに来るまで料理もろくにしなかったのに、やり始めると案外はまっちゃうんだよな。せっかく作るんだから美味しいに越したことはないわけだし……。よしっ! じゃあ一緒に料理しようか」
「任せておいて、なんだかできそうな気がする。根拠は……」
ルナが言いかけたが最後まで聞くつもりはない。
言い出すまでに僅かにラグがあるのだから、それがルナ本来の思考から導き出された台詞ではないのだから聞くわけにもいかない。
少しずつ溶け合う魂が完全に一つになるまではルナであってルナではないのだ。
朝食は小動物の類と果物が中心だった。
ルナは思いのほか手際が良く初めての料理だとはとても思えなかった。
というのも自分が初めて包丁を握った時は、みじん切り、短冊切り、拍子木切りどれもうまく切り分けも出来なかった。
ルナは料理の仕方を身体が覚えているといえば違和感がない。
きっと家の手伝いをしっかりしていたのだろう。
「この分だと俺が手伝ってるみたいだな。まあ、その方が楽ができていいってもんだけどかっこつかないなんだよな」
「作り出すとこれが止まらないんだよね。でも、一人だと飽きるよ!? 一人じゃ作らないからね。だから、やめないでよ!!」
丸投げして、丸太に腰を掛けていたらすっぽ抜けたナイフが俺の腰の真横に腰掛ける。
それはそれは深く深くもう動きたくないよと言わんばかりに深々と。
俺は笑顔で立ち上がらざる負えない。
「刺さったら洒落になんないっての。刃物を人に向けるなってお母さんに教わらなかったのか? ……ったく」
「良く知ってるね。初めて包丁を持たせてもらった時にうまく切れてはしゃいでたら、怒られちゃったんだよね……」
「さあて、そろそろスペラ達も起きる頃だろ。ぱぱっと作ってしまおうぜ」
バニティーが果物に魚とおかずにデザートと品数のバリエーションを増やすにはもうしぶない程の成果を上げて戻ってくるのが見えた。
それなのに、ルナの気配が変わる。
露骨に流れる空気が変わったのは料理を通して、本来の幼い感情が昂った為だろう。
(俺がどうにかしないと、不味いな。これは……)
「ルーニャ!! ズルイにゃ。ミャーもいっしょに料理したかったにゃ」
「あ、明日はスペラちゃんにお願いするね」
「一晩寝たらすっかり元通りだな。だが、あんまり無茶するなよ」
スペラは日を増す度に細かいことに気がつくようになっているのがわかる。
子供の成長は早いと言うが、ステータスといい契約の形が目に見えて現れている。
姿かたちこそ成長しているようには見えないというのに。
朝の団欒としては穏やかなものだった。
バニティーは終始無言だったが、このぎすぎすしたような空気の中ではむしろ好ましいとさえ言える。
意外だったのがディアナが最後まで眠っていたことだろう。
昨日何が有ったのか簡にな共有したまでにとどめておいたが深く掘り下げて聞いておくべきだったのか、今となっては切り出すタイミングがない。
時間の経過は問題を深刻化させてしまった時に取り返しがつかなくなるという危険性が伴う一方、うやむやにすることで保てる信頼関係があるのも事実である。
「後片付けは私がしておきますので、アマトさん達はは出発の準備でもしていてください」
「了解。こっちは任せるけど、急がなくていいから。戻って来たらすぐ出ることになるだろうし、タイミングは任せるよ」
「どっちが本当のアマトさんなんですか?」
「恥ずかしいことにどっちも俺さ。軽いホームシックだったって言ったら笑えるだろ? (……戻れる可能性は、まあ無いんだろうけどな)」
「それを言うなら私は常に戻るところに焦がれているんですよ。お相子ですね」
「秘密な」
「私も秘密でお願いしますね」
「長居をしてたらいつまでたっても出発できなさそうだな。じゃあ、頼むわ」
後ろ手に手を振って向かった先は簡易住居などではない。
バニティーの為に作った簡易工房だ。
武具の制作をするために作ったとはいえ衣食住には十分すぎる程全てが整っている。
俺の練習ということもあり今できうる技術の全てを注ぎ込んだ。
「首尾はどうだ?」
「次も頼むが」
「そうか。わかった」
どうやら、俺の仕事の甘さがバニティーの腕を満足させてはいないらしい。
どれだけ優れた強者も獲物ががらくたでは本質は見いだせても形には出来ないとみた。
失敗作を闇雲に生産しては原生林に放置しておくなど、自然保護の観点から見たら不届きな事この上ない。
しかしながら人間もまた自然の一部と都合のいい解釈をするというならば、人工物ですら自然と一体だというのだから全く救いようがない。
それでもここに失敗作を設置することが戦略上必要条件であると確信している。
無論、前回同様外敵の侵入を拒みいずれ時が来た時にこそポートとして役立つ。
それが全てではないが重要であればラインは繋げておかなくてはならない。
後悔するくらいなら先んじても行動を起こさねばならない。
元の世界に帰る為にこの森を焼けと言われれば、迷わず焼き払えてこその信念である。
意味がないとわかっているからこそ、できる限り痕跡は残さないようにしているつもりではあるのだが完全に消すことなど出来るはずもなく同等かそれ以上の観察眼があればみつかってしまうだろう。
現状でこちらの動向を探る動きがあるのを黙って見過ごすことはしない。
こちらの気配は結界を張ることで隠蔽しているが、裏を返せば大まかにその場所のどこかにいるという辺りはつくという事である。
公人でもないのに所在を公にしなければならないというのは釈だ。
これではどうしたって休まる機会は当分来そうにない。
日が昇って間もない。
昨日の教訓もあり、バニティーの歩くスピードに遅れることなく寧ろ追い抜くことすら容易であるかのように軽快に進む。
足元には人の腕よりもはるかに太い根が張っている。
昨日よりもその手つかずの自然もより深みを増しているのは恐らく最深部に差し掛かったからではないだろうか。
森という性質上中央に行けば行くほど外界との接触がないため成長を妨げるものは何もない。
現代では島国であれば手つかずなど幻想と言っても良い。
ここにはその幻想があるのだ。
隊列を乱すこともなくスペラが先頭を行くバニティーの真後ろにつく形をとっていることに違和感を感じつつも、ディアナに任せているので俺が出しゃばるような真似はしない。
後ろから何かあった時に三人で動けるようにだけ気を付けておけば良い。
「会った直後は違和感なんてなかったってのに、やっぱりおかしいよな。俺の勘違いで済ませる話でもないし。何よりみんな気がついていながら、当の本人が何のアクションもないってのはないよな」
「あれって誘ってるのかもしれないよ。態とボクたちにプレッシャーをかけてるんじゃないかな。そうでなくちゃ、何の嫌がらせなのかわからないよ」
「どうするの?」
「ディアナがスペラを見ているうちは様子見だな。まあ、原因がはっきりしないうちは我慢するしかないさ。どうも、裏がある気がするんだが……」
何か重要な事に気がついていない気がする。
嫌悪感というものは払拭させたい衝動に駆られるものだが、その方法を誤ればいつだって取り返しのつかない事になる。
終始楽しい話題もないままひたすらに前へ前へと前進あるのみ。
気がつけば30kmは休まず駆け抜けていた。
近いようで中々の距離であるのは言うまでもない。
疲れていないかと問われれば、誰一人といて疲労を否定することはないだろう。
それでも元の世界の数百分の一の疲労感しか感じてはいない。
無理をすれば数日は走り続けられるとさえ思えるのだから、根本から摂理が違ってしまっている。
「少しずつ傾斜がきつくなってきてるような気がするかな。スペラはしっかりついていけてるみたいだけど、私は山登りなんてしたことないから、もう転ばないようにするだけでもやっとなんだけど……。ルナは平気なの」
「大丈夫って言いたいけど、思ってる以上に身体はついていけてないよ。アマト君におんぶしてもらわないといけなくなるかもね」
「そうしたいのはやまやまだけど、どっちかだけなんて不公平なこと出来ないだろ? まあ、あれだ。歩け」
ルナが疲れを感じていることは予想の範疇ではあったものの、ユイナも疲労を感じていることに違和感を感じた。
確かに、だんだんと斜面を登っているような感覚があるが山登りの経験がない為に今の状況をまるで分っていなかった。
登山。
響きは悪くない。
身の丈よりも高い場所を求める心情などわかるはずもない度思っていたが、どうしてなかなか気分が昂るものだ。
だが、登山の本質は自分を殺す事だと昔から言われていた。
もともと、生物は海から上がって来ただとか取り残された者がそのまま山に住み着いたと言われている。
それにも関わらず開拓する為ではなく自己の高揚の為に山登りを始めた酔狂な人間がいた。
結果、毎日登山で死者が出ている。
自然に踏み込むのだから死もまた隣人なのだ。
今、俺達はその隣人の元へと赴いている。
原始林とはいえ草木が生い茂る高度の低い土地とは違い、酸素が薄くなり草木も様変わりして空気がまるっきし変わってくるからこそ注意もする。
うっかりで命を落とせるのだから油断などするわけにもいかない。
「雨の降ったあとなんだ。足場が悪いから気を付けてくれよ」
「了解。それにしても、結構登ったつもりだけど遠くまで見通せるほど急でもなかったみたいだね。あんまり疲れてるようには見えないけど、アマトってアウトドア派には見えないけど、実はスポーツが得意だったりするのかな」
「悲しいかな。昔からそういわれるんだなぁ、これが。まあ、苦手じゃないし寧ろ得意な方だよ。つっても努力とか、練習ってのは好きじゃないから普段は割とおとなしく見えたんだと思うな。やるときはやるさ」
「私も似たような感じだけど、打ち合わせはしておいた方がいいと思うかな。自分一人ならともかく今はみんなで行動してるんだし」
ユイナは俺が真っ先に行動を起こすことに釘を刺しているのだ。
自分勝手と言えばそれまでだが、それで蒙る被害は計り知れない。
切り捨てていいものなどないのだから、致し方がない。
仮に切り離すとしてもそれは最後の手段であり、犬死にするようならば選択肢になど到底入るはずもありはしない、
盤上の駒ではないのだから、失ったもの取り戻すことは出来ない。
この山から転がり落ちて麓に辿り着くならまだしも、終着点があの世では洒落にもならない、
悪を滅ぼすことが目的ではなくみんなを各自ゴールに送り届けること。
忘れはしない。
急な斜面でさえも易々と昇っていく前の三人と不慣れな、後方でたじろぐ三人には明白な差がある。
この世界で生を受けたか、何らかの形でこの世界にやって来たかの差だ。
ルナは明確にはこの世界の別の次元から、依代となったのがこの地の人間という複雑な立場だがやはりふなれなことにちがいなど無い。
バニティーの事は詳しくは知らないが、原住民だと勝手に推察したが大方あたっているのではないだろうか。
不思議とこの世界には多種多様な種族からモンスターまで幅広く営みがあるというのに、種族間での差別はみられない。
偶然にも今の仲間は誰一人として種族の同じものはいないが、誰一人として意識している者はいない。
しかしながら、各個人についてはその限りではないという。
町を歩いていても聞こえてくる声は多種間の声でなく、個人の能力についてであった。
首都ともなればまた違うのだろうか。
如何せん視野が狭くては見えてこない。
明確にモンスターが敵である事実が最下層を置くことによる逃避となってしなければいいのだが。
距離は平地に比べて半分も進んでいないというのに時間を掛けただけの事はある。
ようやく一帯を見渡すことができる場所へと辿り着いたのだ。
根の張った樹木から垣間見える世界は空気が澄んでいるのだろう、地平線まで見渡すことができる。
北の方角が見渡すことができないことを除けばある程度近隣の把握に安心感を覚える。
しかし、この場所からではあの断絶された地形が見渡せない。
初めてこの世界に召喚されたところまでは見通すことができないのは距離が遠いためだろう。
標高は千メートル近くあるこの山の途中から見える限界には森林が辛うじて見える。
凡そ距離にして数百メートル程になる。
一週間かけて進んだ距離にしては順調とはいえない。
このままのペースではいつ首都に辿り着けるのかすら想像ができない。
待ったいらな道ならともかく、舗装のされていない道を行くことは思っていた以上に困難であった。
卓上では一本道のようなものだと 安易に考えていただけに生身の人間という駒をつかって進めるゲームに頭を抱えざる負えない。
そうこうしているうちにこの山の頂上に差し掛かっていた。
やっと一息つけると思って気を緩めた俺は思わず息を呑んだ。
意表を突かれへたり込んでただじっと眺めずにはいられない。
「蒼い……まるで空の上にいるみたいだ」
山だと思っていたのはカルデラ湖の周囲を取り囲むように突起した壁の先端だったのだ。
向う岸が辛うじて確認できなければ海だと錯覚してしまうほど、広大な湖であったのだが感動を覚えたのはそこではない。
広大な蒼空を一片の曇りもなく映し出すその圧倒的な透明度の高さだ。
カルデラ湖とは即ち太古の時代に火山として噴火した後に、水がたまった巨大な水たまりなのだ。
それゆえに河川の類はみられなく水の流入は一帯に降り注ぐ雨のみである。
完全に他者と切り離された神秘の秘境であり、魚の類も本来は存在しない。
生物の出入りが無ければ汚染する要因もないため、この奇跡が存在しえるのだ。
そう、本来ならいない。
水生生物などいない。
いないはず。
何か見えたような気がする。
いくら透明度が高くとも推進が深くなれば光が当たらない為、その限りではない。
一足先に登りきったスペラ達はそのまま東に向かって進んでいる。
この湖を突っ切れば北へは最も近い距離であるのは間違いがない。
しかし、見通せない以上万が一地面が割れていない場所があるならば近道である。
それを確かめるまでもなく湖を泳いで渡る選択肢などあるはずはない。
何故なら、湖に向かっては断崖絶壁である。
草木こそ生い茂ってはいるものの安全に下りることは困難のはずだ。
少なくとも安っぽいアウトドア知識や登山家では生きては帰ってこれない。
危険生物も蔓延るというのなら、これは命を懸けてなお余剰に対価が必要である。
「周りもだんだん霞がかってきて一層幻想的な感じがするな……。なんか今あそこに恐竜の頭が見えなかった?」
「今流行のUMAでしょ。コッシーとかアッシーっていう謎の生命体。学校でも夜のプールに出たって騒いでたよ」
「それは謎の生き物じゃないと思うけどって、いくらなんでも霧が深すぎるだろ」
「そうね。この周りを囲むように霧に包まれてきたわね。まるで結界のようだけど、当り?」
「まあ、十中八九当り。それも湖までは鮮明なところから推測するにお呼びみたいだぜ。UMAさんがね」
先行していたスペラ達も立ち止まってこの異変にどう対処するか検討していた。
そのまま進むことも事実上困難となった。
何故なら霧に阻まれ先を譲るようなことはしてくれない。
ディアナですらこの結界を突破できないでいる。
即ち、術師としては格上の存在であるという事は明白でいて揺るがない事実として警鐘を鳴らしている。
先程まで下ることすら困難極まりないとさえ思えた断崖絶壁に緩やかな傾斜が見受けられる。
「本当に呼んでるみたいよ。さあ、早く行きましょ。スペラ達を先に行かせるつもりはないんだから?」
「ああ、その通りさ。こんな美味しい見せ場譲るなんてもったいないってね。先に行かせてもらうさ」
俺は買ってもらったばかりのおもちゃを手にはしゃぐ子供のように、無邪気に、無垢に、稚拙で、蒙く、駆け下りた。
そこは、絶美なる岸辺。
水面が割れた。
底の見えない水底から青白く輝く巨大な何かが上がってくるのがわかる。
徐々にその姿が露わになる。
一切の節目のない滑らかなフォルムは蛇を思わせる。
蛇は神として崇められていた地域もあるように、その神聖というものは人が外面で定めたものではないのだ。
そして、大凡数千メートル級の巨体が俺達を見下ろしている。
表面には凡そ鱗と呼べるものが見当たらない。
蛇に睨まれた蛙のように身動きの取れない緊張感が縛る。
蛇にしては額の一角が何とも言い難い空想上の生き物であるかのように定義を覆さんとするが、不思議と龍の類とは思えない。
まじまじと窺えば蛇よりは断然龍に見えるのだが、それよりもしっくりくるのがユニコーンだった。
鱗のない蛇に額がユニコーンという歪な外見のはずが、これ以上ない程生物として完成していると思えるのだから妙な話だ。
これが神生物。
目の前には太陽光を遮るビルのように立ちはだかる一柱。
青く光り輝く後光が神々しさをより引き立たせる。
表情一つ変えてこなかったバニティーでさえも冷や汗が滴り落ちるのを。俺は見逃さなかった。
この静寂を断ち切ったのは意外にも目の前の神生物であった。
「我はこの地を統べるもの、名はズィファル。お前たちをここへ呼んだのは頼みを聞いてもらう為だ。無論対価は支払おう。聞いてもらえるか?」
「見ず知らずの人間に頼み事ってのもどうかと思うが、お前が出来ないようなことが俺たちでできるとは到底思えないしな」
目の前の存在は正しく生と死の象徴ともいうべき者。
これまでの短い間にこの世の者とは思えないほど偉大な存在を見た来たが、その誰でもない圧倒的なオーラを感じた。
無論、これまでの誰しもがその片鱗こそは見せたものの全貌は見せてはこなかった。
しかし、この神生物はこの空間においては包み隠すことなく威厳を放っていた。
すべての力が放出されているかというと恐らくそうではないという事はわかっているものの、俺たちに決定権などないことを知らしめることにおいては正しいと言わざる負えない。
「確かにお前の言う通りだ。我はお前の名を知らない。だが、それは些細なことだ。もう数万年この地に住んでおるが、お前たちのような生物はここに来たことがない。理由など容易に想像がつくだろう?」
「断る選択肢が無い? 冗談だろ。場合によってはこちらの命にかかわる以上、まずは内容を聞かせてもらう。それからお前って言うのは釈に触るんだよ。神だろうが、王様だろうが個人として見れないような奴は交渉相手としては認められないな。ズィファル」
「我も言葉を交えたのは数万年以来なのだ。これからは長い付き合いになるのだから容赦願う。すまなかったな。改めて聞かせてもらおう名は何と言う?」
「俺は天間天人、人間だ。こっちがハーフエルフのユイナ・フィールド。猫耳のがスペラ・エンサ、悪魔のルナ・ヴェルナー、吸血鬼の眷属ディアナ・ホーリージェデッカ。最後にバニティーだが旅の同行者だ」
「では、アマトこれを我の弟ザファルに届けてほしい。この湖で4万年磨いた永劫結晶だ。これと同じものを一つ納めてくれていい。価値はお前ならわかるだろう」
渡されたのは手のひら大の無色透明な正立方体の水晶が二つ。本来であればどちらも目を凝らしても視認することは出来ない。
取り出されたのが澄み切った湖の中だった。
そうでなければ、この不思議な存在を眼に収めることなど出来なかったのだ。
油の中にコップを入れると視認できなくなるのを見た事がある。
裏を返せば目に見えない程光を完全に透過する材質であったとしても、それを液体が包み込めば形が浮き彫りになる。
「国宝級の代物だな。ちなみにこんなもんが湖の底にはわんさかあったりするのか?」
「……」
「言わなくてもわかってるからいい。依頼を受けるよ」
俺は二つの水晶を受け取ることにした。
このまま刺し違える覚悟で挑むという選択肢もあったというのに、それをしなかったのはこの時点で臆したからだと言わざる負えない。
無理難題というのであれば考えようによっては断ることも一つの選択肢ではある。
だが、目的は少なからずあったほうが良いのも事実であり報酬が本来であれば人生で一度として所持する可能性が限りなく低い代物である以上この期を逃すのも愚の骨頂だと言える。
そもそも成功報酬を前払いで受け取れることなど機会は僅か。
もともといた世界でもエンジェルなるものと出会える機会なんてものが、宝くじを当てるよりも低い確率の国で生きてきた。
そもそも宝くじなんてどぶに金を捨てるようなものなので買ったことはないのだが、今目の前には当選金が先に手渡され後は当選番号に合わせてくじを買うだけの状況なのだ。
無論くじを買うまで困難なのだが、報奨金は受け取っているのだから因果を結んでやらねばならない。
「弟はここから大陸の最北東に五岳の大小疎らな火山の中央にいるはずだ。期限は特に設けるつもりはない。気長に待つとしよう」
「期限がないのは助かる。俺もこう見えて暇じゃないんだ。まあできる限り早くに片付けてしまおうとは思うけどな」
「本来であれば人里まで見送ってやりたいのだが、我もこの地を離れるわけにはいかんのだ。アマトよ、武運を祈っている」
「ああ、任せておけ。必ず届けて見せるさ。期待しておけばいい。じゃあな」
ズィファルはその場から胴体から上だけを乗り出して見送るにとどめた。
俺達は恐らく担がれている。
斯くして、文字通りの爆弾を背負い込んだ。
見えないところで手放せばその場で重要運搬任務から解放される。
リスクはない。
ズィファルに確かめるすべはなく、万が一手放したことが分かったところであの湖から動けないというのであれば手出しのしようもない。
なんてことは、十中八九あり得ない。
人を縛るのは必ずしも損得勘定ではないのだとこの数日で身をもって知った。
この依頼は必ず果たす。
そして、報酬はしっかり利用させてもらう。
「厄介事がまた一つ増えた……」
「そうには見えないけど? だって笑ってるじゃない」
アマトは笑ってなどいない。少なくとも表情は普段と何も変わりはない。
それにも関わらずに、ユイナはアマトが笑っていると言った。
少女は昂った感情を必死に抑えて嘯く青年の一言に人間味を感じ、高揚感と願望を抱いた。
この一瞬の出会いが永遠であったならどれほど生きている実感を得られるのだろうかと。
一度失って初めて一朝一夕の期待と継続する普遍の時間に憂いを思うようになった。
この人はただただ面白い。
降りてきた時に辿った傾斜を再び登っていくことになるのだが、整備された階段だと言われても誰も疑う事はない程に足に負担もなく軽快に駆け上がることができた。
それでも数千段の階段だと思えば優しくなどないように感じるが一万段近い階段もあるというのだから、比べればましなのだろう。
登りたくなどないと思む反面、挑戦してみたいと思うのもあり困難なほど燃えるのだから仕方がない。
登りきった後に振り返ればそこは静まり返った清き静寂の世界が広がっていた。
澄み切った湖にあんな巨大な神生物がいるなど思いもしないだろう。
結局のところ同じ場所へと戻る形になったのだから、再び東に進むことになる。
南から北へ渡る近道は存在していないのだから、遠回りになろうと円周上を進んでいく。
このまま辿っていっても結局東の果ての海まで行かなくては、地割れは回避できないはずである。
亀裂が徐々に狭まっている事だけはわかっている。
海までさけてしまっていては渡るのは困難になるはずである。
そうなっていないことを祈りつつ険しい岩肌を踏み外さぬように進んでいく。
それにしてもだ。
こうも足場が悪いと足にかかる負担は想像以上である。
「足場さ気を付けだ。死火山つっても山には違いねが」
「死火山ってのは今じゃ聞かないな。活火山だというのなら、この世界というよりこの星もまた地下深くに……」
火山があるという事が当たり前だと思ったのなら、それは必要最低限の教養があるからだということである。
そもそも地球が丸いというのもそれを実際に確かめるすべがなかった時代においては、卓上の絵空言でしかなかったのだ。
何故なら確かめることができなかったからだ。
この世界でさえも朝が来て夜が来るからの一日のサイクルがあるから球体の星なのだと仮定はしているものの、それを確かめるすべがないのだから実際のところは不明確である。
だが、火山があるという事は核がある可能性があるのだ。
地球の内核は約5700度の高温の個体であるのだから、表面に近づくにつれて温度が下がり高温の液体であるマグマが噴火し火山になる。
この世界でも同じことが起きているのだと推測できる。
無論、小学校で習う程度の知識がこの世界の構成要件に合致するなど到底思えないが可能性の一端としては捨て置けない。
この場所から一度は盛大に辺りを焼いたはずなのに今では原始林が形成された土地なのだから、自然とはどうして素晴らしい。
その自然でさえも強敵になりえるのだから無暗に踏み込むのは避けたいところである。
「ここからじゃ首都の方角は全く見えないな。それにしても自然豊かだよな、人がどれだけいるのか
想像もつかないぜ」
「私も村から出た事がないからわからないけど、モンスターが人も動物も襲ってるから元の世界に比べたら少ないと思うよ」
ユイナの言う通りなのは容易に想像がつく。
この世界では人が食物連鎖の頂点には立っていないことなど少ない経験で確信していた。
「人でなくても言葉が通じるんだから、全体で見れば均等が取れてるんだろうな。村にいた熊のおっさんもキグルミみたいだったけど俺達と普通に接してたわけだし、人は見かけじゃないを体現してたわけだ」
「私も最初は驚いたんだよ。生まれたばかりだと自分では動き回れないんだから、もうなにがなんだかわからなくて怖かったんだから」
「それは分かるわ。俺もこの歳でも怖いことの連続だったんだからな。ユイナの両親との対面も今だから言えるけど、生きた心地がしなかったんだからな。いっぽ間違えたら俺はあそこで死んでたと思う」
「私もお父さんにあんな力があったなんて知らなかったんだよ。もしかしたら、アマトよりも驚いたのは私かもしれないくらい。それでも驚くことが多いと慣れちゃうんだよね。それはそれで怖いけど」
ユイナのこれまで過ごしてきた時間全てが驚愕の連続であった。
元の世界で魔法もモンスターもなかったことで、この世界で恐怖を引き立てることとなったのだ。
生まれながらにして魔法もモンスターもいれば、それは当たり前の現実であり怖さの尺度も変わってくる。
それだけの話なのだ。
時間が経つのはやはり早く感じる。
日は徐々に下がり始め、ちょうど視線の先にその眩しくも燃えさかる光景が見える。
そもそも東西南北が存在するのかという話なのだが、コンパスも確かに太陽の動きと一致している。
それどころか時間の感覚の誤差がほとんどないようだ。
月が双月あったりと明らかな違いもあるのに、どこか懐かしさを感じてしまう事に困惑してしまう。
ようやく東端までたどり着き、また一つ深く深呼吸をすると目を凝らした。
地平線ではなく水平線が見えたのだ。
無論、標高の高い位置から辛うじて確認できるのだから、歩くとなると少々骨が折れるというものだが何分ゴールが見えたのだから安心感は十分得られた。
しかしながら、良いことばかりでもない。
北側の地割れが海にまで到達しているという確たる証拠をこの目でしかと見てしまった。
こうなってしまえば仕方がない。
行くしかないだろ?
海に。
ここで海といえば即ち広大な蒼き海原をそうぞうするだろう。
しかしながら、俺が目にしたのは日が照らし出す淡く赤みがかった揺れる水面の一片にすぎない。
元の世界でさえも海の形はまちまちであったのだから、この世界が同一であるとは限らない。
赤く見えたのでさえも本来の形であるというのであれば、本質から揺らぎかねない。
思い込みというのは甚だ恐ろしい物なのだから、うかうかなんてしてられない。
急ぎはせども草木に足を取られながらも、遠くの注意は怠ることはない。
上を向けば相も変わらず長く背の高い木の傘。
下を向けば手入れなどされてもいないのだから、無規則に生い茂る草木に小動物から昆虫まで絶え間なく視界に映り込む。
奴らは襲ってくることはないにしろ、友好的などとはかけ離れている。
手を伸ばせば牙をむき、膝をつこうものなら群がってくる。
気の許せる場面などあるはずはない。
それにもかかわらず。発狂することもなくこの生物たちをみて平気でいられるのはこの香りに他ならない。
空気が綺麗などと言えば聞こえはいい。
そんなに甘いものではない。
死と再生を繰り返す条件さえ整えばこの空気が作り出される。
香りはその成分が鼻孔に辿り着いて初めて感じられる。
そして、自然を感じるという事は即ち不自然な環境に生きてきたという事である。
人が出入りした形跡がないとしても、巨大ロボットが存在しているのだからこの辺りに侵入してきてもおかしくはないと思うのだが現実はそう甘くはないのだと知っている。
数十メートルの巨体だとしても、森のゴーレムでさえも生身の人間と戦を行えば必ずしも勝てるわけではないのだ。
原始林などという何がいるかわからない場所では安心なぞできようはずもない。
神生物なんてものの前ではがらくたも同然。
少なくとも先日戦った量産型のおもちゃでは到底かなうはずもない。
少し便利な乗り物程度という認識からはたまた動く棺桶とでもいうべきか。
あれが全てではないと思いたいという願望もあるがそれを認めたくはない。
これだけの高低差にまったく問題とならずに対応できる理由がある。
千単位で高低差があれば気温から気圧まであらゆる環境が変わってくる。
いついかなる時でも快適な温度だと感じたのはこの装備の効果である。
軽装備ではあるが恐らく万単位の山であろうと、この装備なら応えてくれる。
渡さられてまだ一週間しかたっていあいというのに、もう数十年は共に過ごしてきたかのように馴染んでいる。
それに、静寂であれば息遣いさえも聞こえてきそうなほどおとなしい相棒といったところだ。
「ねえ、向う側に行くのにどれくらいかかるのかな。もしかしたら、何か月もかかるんじゃないかな」
「村を出たときは二、三日で着くと思ってたけど。実際に三日を過ぎた頃から一か月はかかるんじゃないかって思ったんだけど言えないよな。それ以上かかるかも何て」
「私も長い旅を覚悟はしてたからそんなに気にならなかったけど、首都がこんなに遠いなんて思わなくて」
「地割れなんてなかったらそのまま平地を突っ切ってすぐ着いたんだろうけど、もしもの話をしてもしょうがないしなぁ。兎にも角にもいつか地割れ野郎には目にものみせてやるさ」
そのまま真っ直ぐに進めていれば後数日で着いていたはずなのだから、冗談ではない。
それにしても平地から山の中を迂回して海まで行くルートにしただけで単純に、距離にして五倍以上遠回りを余儀なくされている。
未だ、海にさえ辿り着かないまま日が暮れつつあった。
そろそろ山も麓に差し掛かる、それと同時に神域を守る壁は解き放たれる。
ついさきほどまでは雑魚モンスターの存在を忘れていたわけではないにしろ、特に意識などせずともいられたというのに降って湧いたかのように現れた。
どうやら、やつらにとっても壁の周囲というものは吹き溜まりにはちょうどいいのだろう。
自然に集まったのかも知れないがやたら目立つモンスター共。
そのせいもあって動物の類はこの場には見当たらない。
大方食べつくしてしまったのだろうか。
そして、案の定先頭を行くスペラ達に襲い掛かる。
乱戦状態に突入するのは目に見えていたというのに、こうも落ち着いてられるのは神の一柱と邂逅直後であった為なのか。
それにしてもだ。
ここにきて明らかに毛色の違うモンスターがちらほらと混ざっている。
特徴としては人工物のようにも見えるブリキの馬のようなモンスターだ。
ブリキというと一昔前まではゼンマイ仕掛けのおもちゃが流行ったのだが、最近ではその存在は薄れつつあった。
海外ではオルゴールの需要とともに今でも愛好家は多い。
これはどちらかというと決まった動作で、配膳をして帰っていく類の規則性のあるモノとは一線を画している。
不規則でありながらも一定の規則性を有するところが、生物の本質に即しているのだ。
一種の癖と言えばわかりやすいだろう。
あれは生きている。
ヴーエウルフの群れに紛れているその異様な姿のブリキの馬。
『ブリクス レベル3 』 ランクD 備考:錫の身体
見た目通りの身体だとは思っていたが、レベルが低いわりにランクが高い。
基準がわからないところだが、甘く見ていい敵ではないのだろう。
ここで一つ気になることがある。
周囲のモンスターと互いに干渉していないのだ。
ここら一帯に数百とモンスターがいるのだから、互いに縄張りを犯されれば何かありそうなものだが何もない。
お互いが存在していないようであり、ぶつかったところで反応が無いのだ。
これは異常だ。
いうなれば、そこにいるのにいない存在。
否、奴からは無害であるというそんな風に思わざる負えない気質を感じる。
思っている以上に厄介だ。
危険なものを安全だと思って疑わないことがどれほど恐ろしいか想像もつかない。
ブリクスを見ても何の感情もわかないのだから、『if』という概念が無いのだ。
もしも、襲いかかってきたら、若しかしたら仲間を呼ぶかもしれないなどという事も思考の外の話である。
無論可愛いなどとも思わない。
だが、姿そのものに一種の疑問が及んだのは理から外れた概念だという固有のそれから外れたからだ。
奴の特性には穴がある。
智能も低く思考も単純なのだろう、そうでなければこちらが気がつかないうちに行動を起こすはずなのだから。
そうでなければ俺はこうは思わなかっただろう。
「ユイナ、頼む」
ユイナは返事をするよりも早くガルファールへ風を纏わせる。
俺は腰を据え居合の構えを取る。
そこからは示し合せたかのようにスペラ、ルナ、ディアナが俺の後ろへと下がった。
僅かに遅れはしたものの動き出しは三人と寸分違わず、バニティーも合わせて退避していた。
モンスターは問答無用で一閃する事をやってのける。
水平に放った剣戟は樹木を一切斬ることなくモンスターのみを真っ二つにした。
そんな事が可能なのかという疑問もあって然りではあるのだが、『かまいたち』といえばわかりやすいだろう。
稀ではあるが鎧、服は何ともないのに素肌が真っ二つに裂けたという現象が報告されている。
実際に俺自身も昔、偶然目の当たりにしたことがあったのでイメージがしやすかった。
この世界ではイメージの具体性が具現化しやすい。
それなら仲間に下がってもらう必要などないとおもうだろう。
ドドドドドッ……バサ、ドカン!!
下がらせて正解だった。
樹齢数百年の大木が地響きを鳴らす光景は圧巻であった。
森の中だというのに目の前が見えなくなるほどの泥、埃、水から動植物が巻き上がった。
湿気があることもあって瞬く間に落ち着きを取り戻すが、生き残ったモンスターは何がおこったのかわからず慌てふためき混乱状態に陥っていた。
意図して起きた事態ではなくともこの状況はこちらにとっては好機であるのだから、利用しない手はない。
後ろに向かって合図を送ると俺はモンスターの群れを突っ切る形で駆けだす。
険しく道なき道をひたすらに突き進む。
剣戟の届いていない数百メートル先では健在であるモンスター共がこちらの気配に気づいたようで待ち構えていた。
ただでやられてやるつもりもなければ、無駄な時間をくれてやるつもりもない。
ユイナの力を借りて風の刃を軽く振るって最小限の力と時間で蹴散らす。
無論、立ち止まるつもりもないのだから多少の攻撃ならば振り払って進むだけである。
ユイナも少しずつ慣れてきたのだろう、今ではスペラ達にもマナを供給している。
精霊の力がこれほどとは。
ユイナの力は格段に強くなっている。
今ではマナの供給が全員にいきわたるほどなのだから、もはや本物の精霊がいなくとも何とかなりそうな気さえしてくる。
そんなことを思っていたのだがどうもうまくはいかないようだ。
「ユイナ、大丈夫か!? あんまり無理しなくていい……駄目だ、いったんストップだ」
ユイナは尋常ではないほど汗を流し、僅かに瞳から涙が頬をたっどたのが見えた。
涙を見てしまった以上このままってわけにはいかない。
それも甘いと言われればそれまでだが、まだ命を懸ける場面ではないと踏んでの判断なのだからしかたがない。
「私は大丈夫……大丈夫」
それは俺にではなく自分に言い聞かせているようで、儚くも虚ろな吐息のような声だった。
耳を澄ませなければ聞こえないというのに、何が大丈夫だというのか。
自然の中だと言えば静かなものだと思っていたが、この辺りは意外と騒がしい。
遠くではこちらを追ってきているのだろうかモンスターの足音が響き渡り。
連鎖するように巻き込まれたくない生物は一斉に騒ぎ立てながらもこの場から立ち去ろうとする。
鳥の羽ばたく音も数メートルはあるだろう体格が奏でるのだから、聞こえないわけがない。
それも幾重にも重なると祭囃子もいいところである。
風切り音に囲まれたところで声でやり取りをすることは必ずしも成立するとは限らないのである。
それでも、言葉にしなければ伝わらないこともある。
だがしかし、それが全てなどとは思わないことも正解なのだから目を配らないわけにはいかない。
目に見えて取り囲んでいたモンスターが散っていく。
ようやくひと段落したなどとは思わなかった。
それは誰しも目の前の脅威が去って肩の力を抜くその瞬間こそ、油断が最大おなり危機感が最少の瞬間だと知っているからである。
狙うのならこの瞬間がまたとない絶好の機会である。
獣程度の頭なら、まず間違いなく襲ってくる。
この機会に何もなければ最早脅威どころか、カモにでもすればいいとさえ思える程の間抜けもいいところである。
何故なら、わかっていたとしても必ずしも対処できるとは限らないのだから。
僅かに影が視界に入るのを見逃しはしなかった。
どこを見ても樹齢数百年の大樹の幹はそれだけでも大木というに抵抗などあるはずもない。
人影にも見えたというのに、俺のわき腹をかっさらうかのように鋭くえぐりる一撃は容赦なく体内の空気を吐き出させる。
計算したかのように息を吐き出したタイミングからの攻撃に呼吸困難に陥る。
本来取り込むはずの空気が何もないことで、苦しくもがき苦しむさまを見ていて滑稽そうに笑う姿は人の三倍以上もある巨大な猿だ。
セオリー通りの動きをするとは限らないとはいえ、人であれ動物であれ利き腕が存在するように動きには癖がある。
それは一種のルーティンワークのようなもので一定の法則が存在する。
本人が意図して起こす行動でないのだから改善を図らないかぎり変化はない。
右わき腹から胸にかけて内臓がめちゃくちゃにされたことで左利きだとわかった。
幸いにも徐々に肉体派再生されているが、涙に視界がゆがむ。
その先に見たくはない物が見える。
次のターゲットユイナへと切り替え、今まさに腕を振り上げる瞬間がいまかいまかとやって来る。
不意を突かれたとはいえまともに受ければただでは済まない。
それは身をもって知っている。
では身構えていれば対処ができるものか。
必ずしもそうではない。
一瞬のうちに最善の策を講じるができればよいのだが、最善でなくても次につながれば良い。
失敗はそもそも次が無いのだ。
先が無いとは笑えない。
今、俺は笑っている。
意表を突いたと思っているのだろう。
一際大きい人猿は俺を一撃で仕留めたと思い、ユイナの方へ向かった。
止めを刺していかなかったのは、この世の理であれば放っておいたところで時期を待たずして尽きる道理であるからだ。
俺を甘く見た事を後悔はさせない。
「後悔……する間もなく、逝くがいい……」
俺の生き絶え絶えに絞り出す声を聞きとった人猿は、振り返り標的を俺へと変えた。
そのままユイナに振り下ろしていればいいものを、侮蔑の目が余程気に障ったのか地面を均しながら数歩で再び俺の頭蓋に拳を振り下ろす。
僅かな迷い。
怒りを覚えたその動きは単調なしぐさでさえもより不確かなものへと帰化する。
至って単純。
結末は簡素であって何の面白みもない。
命の取り合いで相手に同情することも、躊躇することもなければそこにあるのは結果だけである。
盛大に頭から地面に叩きつけられた人猿を見下ろし、間髪入れることなく振り下ろした刀が人猿の頭を別つ。
挑発に乗ると踏んで目の前に微弱な風の罠を仕掛けただけでこのありさまだ。
風は埃を巻き上げなければ視認されにくいのだから、警戒が怠った者であれば人間でも回避は難しい。
まして、挑発されて飛んでくる輩なら躱せる道理がなくとも何も不思議ではない。
それだけなのだ。
至ってシンプル、転んだだけであの世逝きなのだから笑えもしない。
足を掬われたのはたまたま俺ではなかったというのが事の顛末。
しかし、これを好機と言わずしてどこに機会があるのだろう。
ならば絶好の機会へと昇華させるしか道はない。
「敵の大将を討ち取ったー。これでお前たちは終わりだ。死にたくなければ即刻立ち去るがいい!!」
目の前で転がるこの人猿が敵の親玉なんてことはないだろう。
気持ち他の個体よりも小さいような気さえする。
それでも勝鬨を上げることで味方を鼓舞し、敵には戦意の喪失を促す効果がある。
過去、勝鬨を上げただけで実質双方の被害がないままに戦争が終わった事例もあったという。
本当の目的は偏に勝利を掴むに他ならないのだから、結果は見えている。
俺のところへと戻って来た仲間がそれを証明する。
奴らは規則的に行動しているせいもあって予期せぬ事態が発生した時の対処方法がわからなかったのだ。
それも、別段敵にしてみれば重要なポジションでもない者をさも首魁を打ち取ったかのように騒ぎ立てるわけのわからなぬ変人が突然発生したことも想定の範疇にはなかった。
そのせいで放っておいても問題が無いという判断と、一兵士ならば打ち取れる程度の危険性があるという判断の相互矛盾に陥ってしまった。
たかが数秒の判断の揺らぎが明確に隙となった。
本命である先導者はバニティーによって打ち取られたのだが、そこからが早い。
ほとんど同じタイミングで敵は全滅を余儀なくされた。
窮鼠猫を噛むとはよく言ったもので、追い詰められた側が全てをひっくり返すのが戦である。
決着がついてしまえばもう取り換えしはつかない。
いつだって結果がものを言うのだ。
「ユイナ大丈夫か?」
「それは、アマトの方でしょ! どこからどう見てもあなたの方が重傷じゃない!! ちょっと見せて……」
ユイナに魔法による治癒を受けなくとも時間が経てば治るとわかっていたが、素直に従う事にするしかなかった。
そうでなければ数刻前に命の危機に襲われたユイナのフォローなど出来ようはずもない。
まさに失敗の上塗りならばと思わざる負えない。
全員が集まってみれば、深手を負ったのは俺だけのようだ。
皆、大なり小なり怪我を負ったが治療の必要は総じてない。
「俺は侮った? 違う。躊躇したんだ」
俺はモンスターを人とも猿とも違い、その容姿で違和感を覚えていたんだ。
俺の思っている事が正しいとすれば想像以上に悍ましい。
目の前のモンスターはこと切れている為、直接聞き出すこともできない。
こいつらのステータスを俺はみることができなかった。
単純に自分の力量の問題だと思うにはどうにも腑に落ちない。
悶々としているとユイナの顔色が悪いことに気が付いた。
スペラ達は特に変わった様子はないというのに、ただ一人気分が悪いのか頭を押さえている。
「大丈夫か? やっぱりどこか怪我でもしたんじゃないのか」
「大丈夫……大丈夫だからちょっとだけ放っておいて、お願い……」
「本当に……、わかった。俺で力になれることが有ったら言ってくれよ」
「ありがとう……」
ユイナを休ませることにして、俺達は少しばかり休息をとることにした。
今こうやって休息をとることが果たして、身体的に意味を成すのか。
少なくとも精神的に休んでいるという実感が持てていればそれが、心身に影響をもたらすと信じている。
そうでなくとも考える時間がほしい。
自分よりも巨大なモンスターが圧倒的なスピードで駆け抜けるのだから、笑えない。
時間が体重の4分の1乗に比例するなんてことは昔から言われてきたが、確実にこちらの動きを把握し対応してくるやつらには異なった概念があることは明らかである。
寧ろ、巨大なモンスターの方が構成する質量に含まれる何らかの物質が能力で上回っても不思議ではない。
それについては何もおかしなことなど無い。
高速で飛び回る蠅が法則道理であれば人間がどうあがいても捕らえることなどできようはずもないはずが、あっさり捕まえることができたり闇雲に手を振って叩き落とすことなど出来ない。
結局は時間の感覚など人間が勝手に推測したに過ぎず、すべて等しく時間が流れているのだ。
違うのは対象でありそれを観測する者のみである。
故に人猿は俺達に敗れた。
あの、猿のようで人のようなモンスターが何かを私は知ってしまった。
うすうすそうではないかと思っていたところに決定打になる事があった。
それがどうしたのかと聞かれたら、どこに着目すればいいのだろう。
アマトも私と同じところに気がついてしまったのだろう。
顔に出さないようにと気を付けているのは私ならわかる。
それがどういうことか彼は知らない。
今までモンスターとの交戦は当たり前になっていたのに、それが人間もとい人間でなくなったものなど相手にすれば動転もする。
全てが終わった後でなければ今こうしてうなだれることすらできなくなっていた。
そして何よりも恐怖したのは元々の原型を失ってしまったこの者達に何が有ったのかが、何一つとしてわからなかったからだ。
それを調べるのも考えるのもアマトがすることだと割り切れるか、割り切れるはずもない。
他人任せにすることへの負い目などではない。
これはあまりにも重すぎる。
自分がもうすでに種族でいうところの人間というものをやめてしまっているから、わかりえる事実の一片である。
この世界では言葉を話し意思の疎通ができればそれがそのような形であれ世界では平等であり、それができなければ隔たりがある。
ただそれだけのことだ。
彼らは何者なのかを突き詰めていくことは、また一つアマトを闇へと誘う。
これは最早避けようもない。
私たちはアマトを闇へと進むことを止めなければならない。
スペラ達も何か考えがあるのはわかっているけれど、それが必ずしもアマトの役に立つのだろか。
それどころか、この集団の連携が崩れるのではないかとおもってしまう。
誰が見てもスペラのアマトへの忠誠心は異常なので、黙って放っておくこともできない。
幸いにも私の事も精霊だと言って敬いの態度は崩していないのだから、最悪いう事を聞いてくれると信じたい。
ディアナとスペラの間にも私達とは違った関係が構築されているのも、暴走を止めるためには有効である。
問題はルナとの関係性が見えない点かな。
ルナは私達みんなとわけ隔てなく接しているようで誰とも心を開いているとは思っていない。
アマトの関係性を保つ為だけに演じているのではないかと思う。
彼に何かあればこの集団は確実に崩壊する。
私が何とかしないといけないなんて思いもしなかった。
実際には幾重にも積み重ねた経験と感情が織り交じりあっていた。
私が状況に変化を臨んだのは初めてではない。
いつだって傷つき精神をすり減らす人間など誰であろうとみていて気持ちのいいものではない。
そこには特別な感情なんてものはなかったはずなのに、どういうわけか意識してしまう。
エルフも魔族という種族もともに人間よりも長寿であり、異性に特別な感情を抱きにくくその種は圧倒的に他種族より気象とされていると聞いている。
これは身体的なことなのか、魂に所以するのか定かではない。
「ユーニャ!? 大丈夫かにゃ」
一人しておいてほしいと言ったはずなのに、スペラが恰もこの瞬間を見計らったかのように声をかけてくる。
冷静さを取り戻してしまった今では聞こえないふりも出来ない。
そのしたたかさと場の空気を的確に読まない技術に今まで気がつかなかった。
「私は大丈夫かな。それよりもスペラもあんなモンスターと一人で戦って大丈夫だったの? 数も多かったし私よりも大変だったんじゃないかな」
「そんなことなかったにゃ。アーニャの一声で簡単に倒せたにゃ。アーニャはやっぱりすごいにゃ、一度に大勢のモンスターの動きを止めるなんてミャーには出来ないにゃ」
「アマトならどんな危ない場面でもひっくり返すのは当然かな。私もそろそろ戻るから一緒に行きましょう」
「もういいのかにゃ? じゃあ、戻るにゃ」
何も考えていないようで、思考を巡らせている人間ほど面倒なものはない。
というのも前世で培った人間関係がまさに、女の仲良しグループで学んだことであった。
男だとか女だとかそんな前時代な考え方なんて思っても、経験として確かに味わったのだから仕方がない。
スペラはアマトに対する気持ちというのは神として崇めつつ、異性として心酔している。
恋に溺れるなんて言葉があるようにその忠誠心は時に思考を停滞させ、時に加速させる。
これが最善に作用すればって思いたいけど、後押しできないのだから少なくとも私にとっては面白くはないと思う。
(歳をいくつ重ねてもリセットされてしまえば、結局は中身は高校生のまま止まってるのかな)
ユイナとスペラが戻って来た。
顔色も幾分か良くなっているように見える。
この分ならば全快するまでにそれほど時間はかからないだろう。
「ユイナ、もう大丈夫なのか? 辛いならもう少し休んでいこうと思っているけどどうする」
「もう、大丈夫だから行きましょう。あんまりここにいるのも危ないし、少しでも早くふかふかのベッドで寝たいしね」
「ユイナがそういうならいいんだけど……。無理はしないでくれ」
「ありがとう」
少しの休憩と言っても気がつけば一時間を過ぎていた。
それが意味することは精神的な負担の大きさに他ならない。
冷静さを取り戻すために、事の重大さに気が付く為に要した時間に比例した。
それでも割り切ることなど出来はしないのだから二度目が無いことを祈っていた。
「スペラ、ディアナ、ルナ、バニティーあのモンスターなんだが何か気にならなかったか? どんな些細なことでもいいからあれば教えてくれ」
「あれはモンスターって感じじゃなかったにゃ。見かけはモンスターだったけど、中身は違うのかにゃ。なんだかよくわからないにゃ」
「魔力の類は感じられなかったわ。モンスター特有の魔力が一切ないというのもおかしいとは思うのだけど、精霊、法力の影響も感じられなかったって事から薬物の可能性があると思います」
「やはり……」
「元は人間だね。それも悪魔の力を借りて作り出したものでもなくて明らかに誰かが証拠を残さないように変質させたんだと思うなぁ。念のためだけど、一体を生贄の供物にしてみたけど特別な毒になるようなものはなかったよ」
「つまり完全に肉体を別の生物に作り変えたってことだよな。うすうすそうじゃないかと思ってたけど、みんなすぐ気がついたのか?」
「そりゃあそうだが。どう見てもモンスターでも人間でもないって言うことはな、異常なんだが。気がつかんほうがおかしいだが」
俺とユイナの感性は近く、この世界の人間との感性は異なるという事のようだ。
異文化交流もここまで来れば別次元のようなものだと思える。
理が違うのならば視点を変えろ。
必ずしもねじれの関係ではない。
接点を見出すのだ。
必ず、この人猿から読み取れることがある。
ステータスの読み取れなくなるほどの変貌をとげた人間の末路がこれでは、誰一人として報われない。
何かの役に立つのかと思い動かなくなった人猿一体を取り込んでみたものの、目ぼしい情報として得られるものはなかった。
しばらくたったというのに援軍もなければ、事のあらましを探る輩もこの場には現れない。
「こいつらが何者か気にはなるけど、このままここに居座るのも良いとは思えないしそろそろ行こう」
「なんだか塩っぽい匂いがしてきたにゃー、花がむずむずするにゃ」
「もうそろそろ海が近いって事かな。ながかったなぁ」
「そうだね。やっと海が見れるって思うとわくわくしたかも。私海には行ったことないから余計に気になっちゃうね」
「ボクは何度も見てるはずなのになぜか胸がざわざわするのはなんでかな。ダーリンといっしょに行けるからだよね……たぶん」
「いや、それは違うな。ユイナと同じってことだろ?」
「千年ぶりくらいになると思うと懐かしいですね。海には内陸では手に入れにくい物もあるのでこの機に手に入れておきたいです」
「今更だが海の気配なんてまるでしないんだけど、本当にこっちであってるのかバニティー?」
「おめら盛り上がってるところわりーが、このままの速さだ進んでっと今日中には海どころかこの森さ抜けることもできねえだが」
スペラが海の香りを嗅ぎつけたところで、それがそのまま目的地を間近にしたからとは限らない。
猫の行動範囲は1km前後あり、虎では200kmにも及ぶ範囲で行動するにも関わらずしっかりとした縄張りを持つという。
海までの距離を目算して当りをつけたスペラと俺達が同じ感覚で話をするのは間違っていた。
既にまだ見ぬ目的地を見据えているのは猫耳少女のみであり、そこまでにこの集団が辿り着くにはそれなりの時間を有することを理解している。
それゆえに言及するようなことは一切していないのだから、恨み言を言うのは筋違いであり誰もスペラに追及するようなことはしない。
要するに今日は海を拝めないのである。
皆一様に海を目前にしたように、各々が物思いにふけっていたがバニティーの一言で我に返ったのだ。 誰しもその内は画一していないからこそ反応は違っていた。
特に顔色が変わらないスペラは、周囲の反応から海に何かを見出そうとしていたかのように見た。
一度も見た事がない物を想像する事に意欲はなく、それでいて情報としての必要性に重きを置いているからこその反応を示した。
バニティーの家での一件以来、本質を見極める能力が格段に磨かれたようだ。
本能に忠実な行動が物事の本質をなぞる様に成れば最早それは、自分自身を模範に生きるという事だと言える。
そこには思考と行動にラグが出来ないのだから、これ以上ない程実戦に強くなるのは必然である。
人猿が人間であったことを知った上で躊躇することも後悔もないというのなら、何も苛むことさえない。
反対に人間の身体を触媒にしているルナは、その心身に苦しめられている。
その痛みが必ずしも悪しきものではない。
人間であれば理解出来うるものであると思うのは哲学の話であり本人の知るところではない。
国も人種も、まして異世界ともなればそもそも倫理も哲学も同じと考えていいのか怪しい。
十人十色。
このコミュニティーですら各々考えも文化も違うのは明白であり尚且つ、目的すらも異なっている。
それでも主着点は同じである為に空中分解するようなことはないと思いたい。
「まだ、私の事を信じるには早いかもしれないけど周囲に悟らせるようでは首都についてからは厳しくなるわよ。昔の面影が残っていれば人も多く、治安の悪い地域だと隙を突かれれば失うものも出るのは容易に予想できます。今から気を付けておかないと取り返しがつかなくなりますよ」
「気を付けてるつもりなんだけど、顔に出てるのかな。自分でその都度どんな顔してるかなんてわからないし、言われなければ気にもしなかった。ありがとう、助かるよ」
「違います。一切表情には出てないんですよ。アマトさんが纏う雰囲気が良くありません。抽象的な言い方だって思ったんじゃないですか? 細かく分析するよりも気分を変えて悪いことを考えないのも一つの方法だと言ってるんです!!」
「お、おう。そうだな。なんか、あれだ。テンション上げてこう」
普段おしとやかなディアナがただ語尾を強くしただけで、ふと我に返った気分だ。
何かある度に必要以上に考え込んでしまっている自覚はあっても、なかなか正していくのは難しい。
ここがターニングポイントだと思えば改善の余地はあるはずだ。
この世界でルナとディアナ、どちらの方が長い年月を過ごしたかわからない。
この不安定な局面で的確なアドバイスをくれたのはディアナだった。
適格というのは何も数学の証明問題の様に、今抱えている問題と結論の整合性がある事を言うわけではない。
今、俺にとって何を言ってほしいかという事言ってくれたという事である。
俗にいう精神論、根性論などとも言えるが感情に訴えかけなければどれだけ正しい事であっても心に響くことはない。
それを経験則で知っていたのか、性分なのかなどそこには考えるだけ意味のない事なのだ。
「アマトさんにはユイナさんも、スペラちゃんもルナもいるのよ。独りだった私とは違うの。それは幸せなの事だと思う。失ってから気づいても遅いのよ」
「俺が言うのもなんだけど、ディアナもそこに含まれると思うぜ。少なくともディアナが目的を果たすまで一人にするわけにはいかない。自分勝手だとかエゴの一言で片づけられないように俺は自分のできることをやる」
「アマトさんは私がやりたいことを叶えられるって言うの? 私だって何千年も出来なかったことが人間の限られた刻の中でできるというの……。心配しなくてもアマトさんの目的地までは一緒に行くつもり……」
俺は唐突にディアナの言葉を遮り言った。
人の話を最後まで言わせないのがお家芸のようになっているのが、致し方が無い。
「これ以上は無しだ。やると言ったらやる。男に二言はないなんていうつもりはないんだけど、男だろうが女だろうが、それがディアナだろうが関係ない。本人が出来ないことが他人が出来ない道理なんてあるかよ。まあ、俺が出来なかった時にそのあと言いたかったことを聞くさ」
「本当に自分勝手みたいね。嫌いじゃないわよ」
いたずらっぽッく笑うディアナはやはり年上か年下かがわからなくなるほど不定形で、あどけなく艶めかしかった。
「少し早いが、そろそろ野営の準備をしよう。時間があれば少しは手の込んだ料理もできるしな」
「晩飯は任せてくれねいが? ここらの食材ならまともなものさ、拵えることも容易だが」
「いいんじゃないかな。ねぇ、アマト?」
ユイナの意図を読んでバニティーに後を託すことにした。
食材の調達から支度までを一人で熟すからと俺達は今日の臨時拠点の設置に回った。
無論、寝食をするためだけではないのだから設営がすめば自ずとやらねばならぬことがある。
手際が良くなってきたこともあり、建物自体は当初の半分もかからず建てられるようになっていた。
オブジェも多岐にわたる。
ベッド、円卓、椅子もその役割を果たす以上に快適が付随したものとなったのは進歩と言えるだろう。
椅子に至ってはただの土くれから座り心地にまで気を配れるように、弾力を持たせるなんてことができるようになったのだからその進歩は革新的だ。
中央には今の倍の人数でちょうど良い大きさの円卓を用意した。
今後必要な時にも引き続き使用できることを見込んで作ったものではある。
それとあまり人数が多くない場合は全員に対して相互に発言し易い円形は非常に都合が良い。
座席は俺と出会った順に左手から左右に分かれて順に座っていく。
示し合せたというわけでもないのに、誰一人迷う事も誰に聞くこともなかった。
一見気に留めるにはあまりに些細と言われてもおかしくはない。
しかし、主義主張も全く異なる個人が一切文句も言わず序列に従うのは奇異なことなのである。
自分の主張を通すために涙ながらに熱弁することもなく、自分の的確なポジションを手に入れることは簡単なようで難しい。
末端に腰を据えることも諦めからではなく意味を見出す事も容易なことではない。
何よりも全員が今この時においては一様に合理的な選択をした。
それは自分の立場を無意識に自覚し、上座に真っ先に向かった己にも癒えることなのだがそれを自覚することはない。
自覚せずにコミュニティが成立することにこそ絶対の意味を成すのだから。
のんびりと談笑をしている暇はない。
食事の準備が整うまでの僅かな時間で今後の現状確認から今後の方針まで決めなければならないのだ。
それならば腰を据えるための椅子など必要もないと誰しも思うかもしれない。
だが、ここで急かしたところで緊急時に身動きが取れなくなるのでは本末転倒だと考えたためこのような形をとった。
無論、気が休まる暇など一時もないと思えばこそ椅子に背もたれを設けてはいない。
研究室などで背もたれが無いのは緊急時に回避運動が取りやすいからだと聞いた事がある。
どこから襲われるかわからない場所でのんきにふんぞり返ってはいられないのだから、知らなくとも必然的に効率且つ時と場合に適した形となることは必然だろう。
皆、一様に静かに上座へと向き静かに時が動き出すのを待つ。
ものの数秒でも、静かに座して無心になれる時間は貴重である。
見張りを兼ねて野外で晩餐の準備をするバニティーに少なからず信頼を置けばこそ、この時間が得られた。
「みんな、ありがとう。そして、これからもよろしく頼む」
俺は心から感謝の言葉を口にした。
旅は始まったばかりだというのに、もうすでに何年も共にしてきたかのような仲間たちには感謝の念が堪えなかった。
口に出さねば伝わらないこともあれば、伝える機会が無くなることだってある。
「アーニャの為なら、なんだってするにゃ」
「感謝の気持ちは態度で示してもらわないとわからないなぁ。退屈なお話はやめてボクと二人っきりで語りあいたいなぁ」
「しょっぱなから話の腰を折るなっての」
「ルナは放っておいて早く始めましょうね」
「アマトさんの邪魔しないでくださいますか?」
結局、なんだかんだで場をかき乱されるのだから当初の以心伝心は何だったのかと思いたくなる。
「時間もないからこのまま続けさせてもらう。山の南側頂上から首都の方角には遮蔽物が多く見渡すことができなかったんだ。辛うじて北東の一部だけ見ることができたんだが街、村の類は確認できなかった。あくまで俺がある程度の規模の建物群をそう定義してだが……」
「ということは、人が住んでいそうな建物はあったという事かしら。と言っても、モンスターが蔓延る土地に住居を構えるのは簡単ではないから、人が住んでいない可能性が高いわね」
「そうにゃ、モンスターが村人を食べつくして廃墟になることも少なくないにゃ。廃れた村はいつの間にか家も壊れてぼろぼろになってそのうち無くなってしまうにゃ」
「ちょっと待てよ。人がいないと建物が無くなることが同義なら、そのまま建物が残っていることはおかしいんじゃないか。俺が見たのはかつて村だったからそのまま建物が残ったのか、最初からその建物だけを単独で建てたのか。確かめるまではわからないが、数か所確認できた。確かめてみたいが……」
「気になるなら寄ってみればいいんじゃないかな。村なら何らかの防衛手段もあると思うし、私がいた村も今まで人がいたところはモンスターが村や町に入り込まないように対策されてたでしょ。建物が残っているなら人がいないにしてもモンスター除けが機能しているってこともあるでしょ」
「ボクは行くべきだと思う……。寄り道なんて時間の無駄だと思うけど」
「オーライ。とりあえず、積極的に寄らせてもらう。まあ、時と場合によるけど気になったら探りは入れていこう。明日の昼には海には辿り着くだろうが、そこからどうするかは行ってみないとわからない。漠然と首都を目指してはいるが、この分だと首都につくまでに何軒拠点が建つのか……」
「安心して、その都度結界と現状保存の魔法をかけてあげるから」
ディアナの魔法に頼らなければ、拠点として保管ができないのは歯がゆいが致し方が無い。
分担して事にあたれれば良いのだが、現状では俺が建物を建てディアナに魔法で仕上げをしてもらって初めて一つの拠点が完成する。
効率の事を考えれば一人で完成させるか、全員で分散して時間短縮に努めれば良いのだがどちらもできない。
それゆえに料理が完成するぎりぎりまで拠点の制作を余儀なくされたことで、話をまとめるにはあまりにも時間が経ち過ぎた。
結局、昨晩とあまり進展することもなく他愛無い話で夜が更けるのを待つしかなかった。
生産性のある話ばかりが必ずしも意味を成すとは限らない。
夜空の星々の光さえも遮り鬱蒼と生い茂る森の中でさえ、ざわざわと吹き抜ける風音が話に混ぜてくれと言わんばかりに俺を求める。
そこに意味など見出そうとはしないだろう。
「そろそろ、日も暮れてきたな。ユイナ、明かりを頼む」
「任せておいてね。火を起こさなくても光魔法で辺りを照らせるのって意外と便利かな。この辺りはマナも十分にあるから、魔力を使わなくとも朝まで照らしておくこともできるよ」
ユイナは周囲のマナに干渉するとまるで蛍が舞うかのように辺り一面疎らに光り出す。
蝋燭の灯りと同等の明るさで数十を数える程度の光源があるだけで建物内は十分に照らし出される。
漂う光り輝くマナ触れても空を切るだけで熱を感じない。
火を使わなければ火災の心配がなく、熱は愚か感触が無いのだから余程実用的ではなかろうか。
問題は特定の人間にしか扱えないという事と、マナがなければいけないという事なのだがこれがハードルとしては高すぎるのだ。
魔力を捻出したのでは消費量と疲労感諸々と割に合わない。
「本当にユイナ様様だな」
そうこうしているうちに足音と香ばしい香りが徐々に近づいてくる。
バニティーが両手いっぱいに出来立ての料理を持ってくると、円卓に並べ始めた。
一度で持ち切れなかったのだろう、残りの料理を取りに再び外へと向かう。
俺とユイナはバニティーの後ろをついて行くことにした。
何度も往復させるのも気がひけるというのもあるが、時間効率を考えればその方が都合がいいと思ったに過ぎない。
スペラは既に並べられた兎の丸焼きにかじりついている。
恐らくスペラならば真っ先に食いつくことを考慮して目の前に、配膳したのだろう。
丸焼きというのは文字通り姿を崩さずそのままの原型を残しているのだから、一人で独占するには都合が良い。
だからと言ってスペラの舌が鈍感という事もない。
ただ、焼いただけの丸焼きを与えていれば納得するかと言えばそれもなくこれがまた面倒なのだ。
前回俺がただ焼いただけで調味料もろくに使わなかった時それを食した時のスペラの何とも言えぬ表情に戸惑ったものだ。
まずいとも言わず無表情に黙々と食べただけ。
そこには一種の義務があった。
美味かろう不味かろうではなく、誰かにとられるくらいなら死んでも食べてやるという意地。
それが今は全くなく黙々と食べているのだから、言わずもながなそこには確かに夢中にさせる魅力があるのだろう。
「これ全部バニティー一人で作ったんだよな。こう言っちゃあれだが、まだ食べてもいないのに美味いってわかる。食材もこの辺りで調達したにしてはまともな物をそろえたみたいだし、本当に何でもできるんだな」
「一人でいた時間が長かったが。おまえも一人でいればいや応なくこなせるようになるが」
「そうかな」
一人暮らしを数年していた割にろくに何もできなかったのに返事は曖昧にも肯定で返す。
「そうだ、ユイナは得意料理ってある? ちなみに俺はカップラーメンが得意」
「料理はお母さんが作ってくれたからあんまりがすることなかったかな。クッキー、ドーナツにケーキとか甘い物なら良く作ってたかな。それとね、お湯を入れるだけで料理っていうのもどうかと思うけど調味料やとピングに何か入れても得意料理とは言わないんじゃないかな」
「先に言われちゃったよ。俺も甘い物好きなんだけど、首都に行けば食べられるかな。なければその時はユイナに作ってもらえばいいか……」
「そうね。こっちにきてからも村で揃う食材で簡単なものは作ってたけど、余裕があれば手の込んだものを作っていたみたいね。その時は味見にしてもおうかな」
「盛り上がってるとこ悪いが、おらが作った物さ運ぶだが」
「お、おう。悪い」
「ご、ごめんなさい」
道を塞いで話しこんでいた俺達にバニティーが声をかけた。
そこには僅かに聲のトーンが落ちる瞬間、イントネーションの起伏を感じた。
ユイナは特に気にする様子もなかった。
三人ですべての料理を運べば意外と料理があまり多くないという物足りなさに、本当に足りるのだろうかとどうでもいいことに心配する自分がいた。
食事を済ませた後の片づけは皆で手分けして手早く終わらせると、この日は早めに休むことにした。
バニティーだけが食後に俺が用意した鍛冶場に籠り一人作業につくが、気を使う必要など誰にもなかった。
この日もディアナ、スペラの順に見張りをする事になっていたからという事もあるがそれだけではない。
それぞれに役割があるという事と、利害こそ一致しているもののそれ以上の関係性を必要としていないという事も一つの結論として出ている為である。
そうでも思わなければ空も開けていない鬱蒼とした森の中で眠ることなんてできはしない。
雨が降ったせいで湿度が高いのも気が滅入る原因でもある。
魔法で雨を降らせたといっても無から有を生み出す類ではないと思いたい。
たかだか数時間で数千ミリも雨を降らせることも脅威ではあるがそれを生み出したというならば、この世界は瞬く間に水没してしまうかもしれない。
敷き詰めていけば必ず因果関係がはっきりするのだから、元凶に出会うまでにはそのネタは掴んでおきたいところではある。
今もなお、雨となって降り続いた水の元素は確かにここに存在しているのだから爪痕は消せはしない。
時間の経過とともに消えてなくなっていたならば見解も、また変わるのだろう。
回答を先延ばしにされた問題とはいつだって碌なことがない。
昨日は早めに眠りについたことで早く目が覚めれたのだが、それは皆同じだったのだろう。
建物内には気配はなく、外に出ていったのだろうかやけに静かだ。
ここまで静かだと不気味だと感じてしまうのは常であり、初めてではないのだから別段慌てることもないのだが落ち着かなくなる。
案の定外に出てみれば、辺りは真っ白で一寸先は闇と言わんばかりに先行きが見えない。
霧が出るとは昨晩の内に予想していたとはいえ、こうも濃いと昨日までの様に進むことは出来ないだろう。
どうしてこうも次から次に問題が発生するのだろうか。
スムーズに進み過ぎるのもそれはそれで気のゆるみが後々響く可能性があるにしても、まだ8日しか経っていないというのにこれでは首都までたどり着くかも怪しいというものだ。
「凄い霧だね。こんなに濃い霧って見たことないかな。手を伸ばすと掌だって見えなくなるなんて面白いと思わない」
「そうだな、面白いと言われれば面白いま。田舎にいたときは田んぼの近くを通ると霧で道が見えないこともあったけど、都会のビル街ではめったに見なかったから懐かしい気もしてくるから不思議だ。まあ、今日の事を考えれば笑えないんだけど」
「方角と周りの事がわかるなら平気じゃないのかな。足元だけ気を付けていればそんなに心配しなくてもいいんじゃないの?」
「そうだといいんだけど、察知できる範囲外から飛んでこられでもしたらどうしようもないんだぜ。モンスターって奴は俺たちの想像の斜め上の事を平気でしてくるんだからな」
「ここはスペラの力の見せ所かな」
「ミャーに任せておけニャ。このしょっぱい匂いの方に行けばいいのにゃ。楽勝にゃ」
「当たらずとも遠からずって奴だ。スペラが歩くのは先頭じゃない。モンスターをいち早く見つけ出してその都度、必要なら先に仕留める。昨日に続きバニティーを筆頭について行くスタイルは変わらないからな」
「わかったにゃ」
食事も早々に済ませ、旅路につく。
霧のせいで今しがた歩んできた道すらその存在がない物の様に思ってしまう。
隊列は変わらずにバニティーを先頭にしてついて行くのは昨日と同じだというのに、バニティーの姿は見えない。
油断をしているとはぐれてしまうやも知れないが、仲間内であれば最早だれがどこにいるかは把握できるのは当たり前となっている。
皆把握方法が異なるが俺の場合は視覚的に把握することができる。
簡易地図にメンバーのアイコンが出ていると言えばわかりやすい。
スペラの場合は五感が鋭い。特に臭覚を十分に活かすならばこの濃い霧の中であろうと普段以上に活躍してくれるだろう。
「アーニャ、ちゃんとついて来てるかにゃー」
「おう、俺もユイナも大丈夫だ。何かあったら教えてくれ、頼むぞ!」
「任せておくにゃー」
「当たり前の事を言うなとは言わないんだね」
実際に俺はスペラが俺たちの動向は全て把握しているだろうことはわかっていた。
しかし、それを当たり前のことを言うなと屁理屈を言いかけてやめたのだ。
コミュニケーションをとるうえで必死に足元を掬う事を良しとしない。
数日前ならばこうはいかなかった。
今ならばわかる、ユイナは俺に反省を促したという事だ。
「もう、大丈夫。問題などあるわけがない」
「かまってあげるならその方がいいことだってあるんだよ」
「気に留めておくさ」
歩く速さが思っていたよりも遅くならないことに気が付いた。
恐怖感が薄れているからか、平衡感覚が常人のそれでないからか視界が悪いというのに普段のそれと変わった気がしないのだ。
躓くこともあるが、立て直す事が動作の一部となっている為慌てふためくこともない。
足を取られることがあるのは油断に他ならない。
意識していればそれすらも無くなるやも知れない。
それでも、目を閉じたまま森を歩いているようなものであることに違いなどない。
しかしながら、暗闇と純白の世界とではこうも違うものなのか。
同じ視界の悪さでも光があるのと無いのとでは人の心に与える影響は計り知れない。
不安こそあっても恐怖に直結しないのは身をもって知っている。
「こんなところをモンスターに襲われたらどうしたらいいかな。あんまり考えたくないけど……」
「そうならないようにスペラに見張りを任せてはいるわけだが、うまくはいかないよな。できればこちらから打って出るようにしたいところだが……」
ドカァンバサササ
遥か先に何かが爆発したかのような爆音と、草木がなぎ倒される様な音が微かに響く。
僅かに遅れて地響きが足に響くのを感じ取ったがここからでは何も見えない。
振動が伝わるという事はそれなりに衝撃を伴う何かがあったことは容易に想像できる。
「アーニャ、音ががしたところからしょっぱい匂いがしてきたにゃ。でも、モンスターの気配はないにゃ」
「潮の匂い……。海岸まではまだ距離があるはずだよな。何が有るかわからない、引き続き警戒しながら進むぞ」
「アマト、私たちに向かって攻撃したきたと思う? 結界の中にいたってことは外からは私達の居場所はわからないはずでしょ。また何か良くないことが起こってる気がするんだけど……」
「十中八九何か起きてるだろうな」
距離があると言っても今まで歩んできた道のりを考えれば目と鼻の先というところまで来ていることは間違いない。
だからと言って霧が晴れていたところで、たとえ開けた場所だったとしても海岸線までは見通すことができていたとは思えない。
何者の気配もなく衝撃のみが伝わってきた以上恐らく何らかの攻撃によるものか、もしくは間欠泉でもあったのかと考えられなくもないがそれにしては突発的すぎる。
実際に海の中でさえ間欠泉があればそこが温泉として使用されることもあるのだが、それは短絡的すぎる。
スペラの表現から鑑みれば海そのものが直接的に関係していると考えるのが妥当だろう。
このままここにとどまっている選択肢はここで捨ててしまう。
突然発生した現象でなければ必ずその事象の発生要因に付随する緒が見つかるはずだ。
それにしても、この辺りは松が多いのが見て取れる。
倒れた松でさえもその隙間のない年輪は火山列島のそれを思わせる。
突然森のざわめきが辺りに響き渡る。
鳥、動物、虫、はたまた植物でさえここから逃げ出そうとするようなあらゆるものが騒ぎ出したかのような音が響く。
霧とは違った水しぶきのような粒が肌に触れたと同時だった。
「上から何か来るにゃー」
「ディアナ!! 頼む!!」
ドォォォドオドドドゴ
咄嗟にディアナが俺たちを囲むように結界を張るが、結界には水しぶきと衝撃を受けるのみで何かが直撃することはなかった。
確かに上から何かが落ちていたのは間違いないのだが、落下地点はなおも確認できる距離にない。
霧散したのならばその正体も確認できるのだろうか。
どちらにせよ、このまま進むのは危険なことは明らかであるが迂回するにしても上空からの攻撃ならば意味をなさない。
「アマトさん、結界には衝撃、水、後は恐らく近くに落ちてる物があたっただけで人工物はこなかったのは確かよ。若しかしたら魔法で水を撃ち出してきてるのかもしれないわ。できれば落下地点で痕跡を調べてみたいけど、どうしましょう」
「スペラ、もっと早くディアナに伝えることは出来るか?」
「次はもっと早く伝えるにゃ。任せておけニャ!!」
正確な方角こそわからないが、確実に海岸方向からの攻撃だとわかる。
スペラが後発の攻撃に反応できたのは、初手で存在を知り、距離が近くなり、そして霧が徐々に霧散していることに起因する。
このまま霧が晴れるのを待つよりもこの霧を活かして痛手を負わせることのほうが余程有意義というもの。
「ボクは一足先に海を拝みたいところだけど、悪目立ちするわけにもいかないようだね、ディアナとバニティーのフォローでもしてようかな」
「そういう事だ。さっきからどうも俺たちにあてる気が無いみたいなんだ。下手したら、襲われるよりも面倒なことになってる気がする……。まあ、やれることだけやればいいさ」
俺のアビリティで一切反応が無かったのは危険と言える状態でないことを意味している。
ついさきほどの事でさえ結界を張るまでもなかった。
結論ありきで動くのは軽率ではあるものの、答えは出ていると言っても過言ではない。
敵か味方か、兎にも角にも複数いる可能性がある。
何がと言わなくとも、それ相応の力のあるものであるのはわかる。
足元に流れる海水となぎ倒された木がそれを物語っている。
どれほどの質量を持った水の塊が落下してきたのかはわからなくとも、勢いよく足元に押し寄せた水は足首まで呑みこみ危うくバランスを崩しかけた。
次にどこが落下地点になるかを予想するよりもこのまま直進し、一刻も早くこの状況から脱する。
そのためにもこの一層水浸しとなった森を駆ける。
「ガルファール……錆びないよな」
「……」
一瞬何か聞こえた気がしたが、刀が返事をすることなどあるはずがないと水にはできるだけ触れさせないようにしつつ巨大な水たまりを通りぬける。
地面に至っては衝撃であらゆるものが吹き飛んだせいもあって足元は泥にまみれぬかるんだ足場は容赦なく足を掴んでくる。
「連日雨に、泥にもまれたせいで何とも感じなくなってきた自分が怖いかも」
「何十年も住んでればもっと早くに慣れそうなものだけど」
「そうでもないからね。村にいればサバイバル生活なんてするなんて思ってもなかったんだから。森にだって入ったことが無かったし強い雨の日は外に出ることもなかったのよ。もしかしたら元の世界よりも安心して生活できてたのかもしれないかも」
「お姫様やってたわけだからそれもそうか。寧ろ今のこの状況ってありなのか、お姫様的に?」
「いまさら言われてもどうしようもないんだけど……。なんだか、どっと疲れたかも」
「俺も投げ出せるならお役御免で、さっさと家に帰りたいわ」
現実逃避などしている暇などない。
何故ならもうすぐそばまで問題が迫っているのだから。
徐々に視界も良好になってきているがそれでも隣を歩くユイナの表情がわかる程度でしかない。
それでも全くと言っていいほど周囲がわからない状況に比べれば幾分もましになっている。
このまま完全に晴れ渡るまでに先手を打ちたいところである。
俺たちは東に向かって次第にスピードを上げて一気に走り抜けようとした瞬間、後方数十メートルに先程同様の爆発音が響き渡る。
落下した地点はここから北西という事から落下地点が南から北へと移ってきているようだ。
このままやり過ごせれば問題を先送りするだけとなることも考えられる。
「あと少しで海に辿り着く。スペラ、ここからは撃ってる奴もいるはずだ。見つけ次第教えてくれ。各員警戒を厳に、些細なことでも見落とさないように頼む」
「「「了解」」」
海までの距離はもう数百メートルというところまで来ている。
海から陸に向けて砲撃ならば、陸に何かがある可能性が高いことは容易に想像がつくのは誰もが同じであるからこそ、誰も俺の言葉に疑問はなかった。
それでいてこの緊張感は経験を重ねることで日に日に増している副産物の一つというわけだ。
ざわざわと騒がしい音が聞こえてくる。
思わず、ため息が出る。
わかっていたが、どうやらバカンスとはいかないようだ
「アーニャ、向うの方に誰かいるにゃ。数は……沢山ニャ」
「敵か味方かわからない以上飛び出していくわけにもいかないな。見つからないようにどんな奴らか見てきてくれって……。できそうか?」
「任せておくにゃ。ついでに海の方から撃ってくるやつらも見て来るにゃ」
「見つかったら元も子もない。あんまり調子に乗って見つからないようにしろよ」
「泥船に乗ったつもりでどんと構えていればいいのにゃ」
スペラは霧の中を音もたてず沈むようにすっと消えていく。
「しょうがないから、ボクも行ってくるよ。少しでも情報が多い方がいいでしょ。それにアマト君が思ってる通りだと介入するのは必至だと思うよ」
「わかった。もしもの時はスペラのフォローを頼んだ」
「了解。行ってくる」
スペラの行った南東方向には行かず、北東から回り込むように飛んで行った。
万が一スペラが見つかるようなことがあれば、別方向から陽動を仕掛けるか俺たちと囲い込みに参加するかとその役割は一つではない。
そうなってしまうのは最悪の場合なのだから、速やかに戻ってきてもらわないと困るのだが。
それはその時になってみなければわかりはしない、
スペラは視界がほとんど利かない濃霧の中を、普段と遜色ない足さばきで草木を蹴散らし駆けていく。
絡みつく水の粒子で全身がびしょ濡れになりながらも、全身を巡らせている神経が情報を的確に集めていくが行動となって表れる。
まずは手始めに手近な松の木の表面を薄く焦がすように焼いておくことにした。
これは思い付きで何気ない行動であり、それ以上の意味を持たない。
おもむろに思い付きで行った行動であればあるほど信ぴょう性が増すのは、そこに介入する余地がないからである。
どれだけ複雑な暗号でもそこに規則性が生じてしまえば必ず答えが導かせてしまうのだから、前もって決めておく必要もなければ念を込めるようなことも、寧ろ逆効果になってしまう。
完全犯罪を意図して行えばいつの世も暴かれ答えは決った原型を呼び覚ますというのに、計画もなく意図せず起きた事柄であれば答えを導くことは困難を極める。
なぜならば当事者すら正確な回答を持ち合わせていないのだから、追及されても理解することは愚かそれを追求するすべを持たないのだ。
今ここで樹木痕を残したことで本人も敵も、味方すらも意味を理解することは出来ない。
確かなのはここにスペラが確かにいたことを示すという事だけである。
これを誰がどう捉えるかは見つけた者の裁量次第というわけだ。
スペラは痕跡その一か所にを残した後はただ全力で走る事に徹した。
そこでざっと数えても数十人はいるはいる獣人をいつでも飛び掛かれる範囲内に捕捉する。
成人した人間にしては一回りも二回りも小柄な、二足歩行の一本角の犬頭が何やら騒いでいることがぎりぎり聞こえる茂みに陣取るのだった。
獣人の一団の動向をもっと正確につかむために近づこうとして、前に出掛けて東から目の前の獣人たちとほぼ同数の仲間が戻ってくる。
このまま近づけばぶつかるようなことはなくとも気づかれる可能性があった。
臭覚が優れているスペラが目視でなければ見つけることができなかったことでただの獣と侮ることの危険性を再認識する。
使っている言語も一般的な言語である為に会話を聞き取ることもできる。
しかしながらそれが言いえて妙だと言わざる負えない。
とても文化的な格好であるとは言えないのだ。
襤褸雑巾のような布に鑓を構えただけの烏合の衆でありながら、片言の言葉を操るその姿は奇怪。
そこにどれほどの智能があるのかもわかりかねるというのに、スペラの索敵をかいくぐる者が紛れ込んでいるこの不釣り合いな共同体。
外見こそどれも代わり映えもなくモンスターだと言っても差し支えなどない。
そこで一つの答えを導き出した。
それは人猿との共通項が垣間見れたことだ。
人間からモンスターに変える何者かの技術があるのならば、その逆もまたしかりであるという予想に過ぎなくとも綺麗に収まるピース。
「こいつらに意味なんて無いにゃ……」
スペラが早々に見切りをつけて目指すは初めての大海原であって、ターゲット。
今は広大な世界を楽しむより先にやらなければならないことがあるのだから、時間を無駄にしている暇なんてあるはずがない。
今すべきことはこの場一帯の情報の確保であって殲滅でも救助活動でもない。
あちらこちらに息絶えた獣人が転がっている。
皆一様に膨大な水の質量に押しつぶされたのではなく、衝撃で吹き飛び岩に打ち付けられている者いる。
周囲が樹木で満たされているならば襲撃者からは、この獣人を倒した事を把握していない可能性が高い。
それ以前に本当に狙って撃っているのかすら怪しいまでに規則性が無い。
再び衝撃が地面を伝わりスペラの元へと辿り着くが、遥か北の方角からという事も有り僅かに感じられる程度にまで微弱なものとなっていた。
しかし、なぜそのようになったかは今目の前に開けた大海原を目の当たりにしたことで理解することになった。
霧が薄らと漂う中に二つの陰。
これこそ元凶。
霧向、海獣大決戦宜しく巨大な蛇のように長いシルエットと船のようなシルエットの二つが激しい攻防を繰り広げている。
互い濃い霧を撃ち抜くように水弾と炎弾を撃ちあっているが、片方は海に向かって一方的に攻撃をする。
片や海に向かってのみ攻撃をするのみで相互が入れ替わることはない。
ここからではまるで影絵を見ているようで動きに立体感はなく、三次元の奥行きが感じられない為に二つの陰の距離間がまるで分らない。
確かなのはここで何かが争っている事実だけだ。
それ以上はここからでは距離がありすぎて確認することも出来なければ、その術を見出す事さえできない。
いずれにしよ、正体の片鱗すらつかめずにここを離れるわけにもいかない。
気嵐というにはあまりにも深すぎる霧に辛うじて見えているシルエットですら見落としそうになる。
時たまに両者の攻撃が今なお争いの真っ只中であることを知らせるにとどめていた。
一気に森から飛び出せばそこはきめ細かい砂浜が広がる海岸が広がっていた。
「にゃっ!?」
思わず声が出てしまう。
足の裏へ伝わるその感触は繊細でいて悪くはないと感じる。
ただそれだけで。
すぐに周囲の何者かに察知されていないか確認し、見つかっていないことを認めると海へとゆっくり向かって行く。
さざ波が聞こえ、もうすぐそばまで迫っている事に気づく。
不意に波が素足に跳ねる。
ここから先は視界を遮るものがない世界が広がっていると聞いている。
アマトとユイナは海を知っていると言っていた。
それならば必要な情報は縛る必要があるのだ。
そこを見極めて伝えることで信頼を勝ち取れることを知っている。
初めて見る大海原は霧に覆われ、幻想的と言えば聞こえは良い戦闘が起きている事を考えれば物思いにふけることを許さない。
それに二つのシルエットは次第に陸地から遠のいているように見える。
このままでは介入する機会は愚か、正体も特定することが出来ないまま見失ってしまう。
何も成果を上げることなく戻るくらいならば、この身を海の底へと沈めることすら厭わない。
覚悟なんてする必要なんてありはしない。
いつだってこの命は捧げられているのだから、迷わない。
スペラは足に纏った稲妻で海上を滑る様に駆け抜ける。
しかし、いつもとはまるで違う水面の動きにうまく適用することができず勢いを殺すこともなく転覆し海深くへと沈んでいく。
あまりの衝撃に脳震盪をおこしたスペラは仄暗い海中へと身を沈めていく。
薄れゆく意識の中で、人影を見た気がした。
ここは周囲には何も隠れられる場所すらない海の中だというのに、その人影が海の流れを操作し足を掬ったように見えた。
それは湖だろうと海程ではなくとも波があり、川であれば流動しているという環境でも足を取られることなんてなかった。
それに海だというのに体が重く感じる。
浮かないのだ。
まるで何かに引きずり込まれているような気さえする。
電気を発生させることも魔力を感じることも出来ないのは、集中できていないからなのか何かの影響を受けているのか最早思考もままならなくなりるるある。
悔しい、歯がゆい。
ここで終わるのだろうか。
答えは出ないのだった。
ルナは北上を続ける水弾の落下地点の軌跡を辿る形で回り込んでいた。
スペラが南下し理由は下り坂になっていた為早く目的地に到着するルートを選んだ為であるが、ルナはあくまでもスペラのフォローである。
少しずつ斜面を登ることになった為に時間と効率においては幾分もかけることとなったが、獣人を早急に捕捉し一瞬ではあるが遠目に水弾を打ち出すシルエットも確認できた。
流石だと言わざる負えないのがスペラの姿は確認できず、気配もルナで出なければ感じることは出来ないほど消している事だ。
ここからは同時に三方向に警戒しつつ、アマト達に吉報を伝えるためにも、避けた大地から先への新入ルートの確保を行わなければならない。
今起きているこのいざこざはイレギュラーであって本来の目的は首都への道を見つけ出す事なのだ。
霧が晴れるまでに見つけらればいいのだが、できなくとも安全にこの場は押し通らなければもともこもない。
幸い視界が悪いことも有り誰にも見つかっている様子はない。
本来であれば獣人から向かってくる形となっている北に回り込むことは、発見されるリスクが高いことを意味している。
敢えて見つかることで注意を引きつけられるかと言えば現状においては必ずしもそうではないのだが、追い詰めることにはなる。
敵の敵は味方とは限らないのだから、見知らぬ第三者の介入があればパニックを起こさないとも限らない。
何者かに一方的に襲われているのならば助けに入ることも選択肢に入りそうなものだが、アマトは介入する旨を伝えるにとどめたのはどちらが自分たちに利があるのかを決めあぐねているという事がいえる。
敢えて獣人に一歩近づくとふと目があった3匹が慌てて後ずさるがそれが命取りとなった。
斜め後から高速で落下した水弾が纏めて獣人を吹き飛ばした。
その衝撃は凄まじく火の気はないというのにまるで爆発したと言っても過言ではないほどに、血肉をまき散らせた。
その光景に慌てふためき騒ぎ出す獣人共は錯乱し暴れまわる。
ルナの存在を確認する余裕もなく。
目の前の衝撃を受けて行く手を塞がれる形となった獣人は何を思ったのか一斉に海の方へと走っていく。
犬頭だというのに、ルナを見つけ出すことができないというのだから大したことのない雑兵だと侮ってしまいそうになるがところどころで視線を泳がせているのが見て取れることからあながち全てにおいて無能というわけではないようだ。
しかして結果が伴わなければつまるところ敵ではないのだが、それはこの一点にのみ限ったことであり奴らのバッグの者が未だに尻尾をみせていないのだから組織としてみれば優秀な事この上ない。
「今、行かれるわけには行かないんだよ。おーい、そこのワンちゃん達こっちにおいで―」
姿が見えないように可能な限り気配を消して挑発して、さらに距離を取りつつ北上する。
まんまと追いかけてきてくれるのが都合がいいのだが、ぴたりと動きを止めるとその場に留まり追ってくることもなければ海へと進行することもやめてしまった。
少々不気味なのは取り乱す事なく騒ぐ者がいなかったことである。
「あれれ、おかしいなぁ。みんながみんなってことはないと思ってたけど、さすがに誰もついてこないとは思わなかったなぁ……。おーい、こっちだよー」
やはり反応がない。
このまま引き延ばせば、アマト達の存在はばれるとしてスペラにも何かしらの影響が出てしまう事も考えられる。
もう少し挑発してみようかとしたその時、スペラが海へと走っていくのが見えた。
霧も次第に薄くなってきているのが、目に見えて実感できるところまで来ている。
即ちアマトが行動を起こすのならば今を逃すわけには行かないという事を意味していた。
それがわかっているからスペラは海へと向かっただろう。
「もう一度、お、おわっと!!」
一瞬霧が晴れると首筋に鋭い刃が空気を刈り取っていったが、首と胴体は別たれるようなこともなく髪の毛が数本散ったが余裕を奪う事すらなかった。
そこに立つのは獣人だが、霧の中では人間にもみえる輪郭をしている。
何よりも耳が四つあるのが見て取れるのだから、どうもただの獣人ではない。
コスチュームプレーをした人間でもなければ本来の形としては些か妙である。
勿論、例外が無いわけではないが例外なのだからほいほい出てくることが定石であってたまるものではない。
どちらにせよ、好戦的な者ならばやられてやるわけにもいかない。
「そっちがその気ならちょっとばかり痛い目を見てもうことになるからね。さあ、ゲームスタートだ」
ルナの瞳は煌く。
誰も見ていないからこそ自由に力を振るえる時もあるというもの。
人間という枠組みの中でやれることなどたかが知れているという事は理解しているつもりではあるものの、油断すれば力を暴走させ肉体を崩壊させかねない。
それでも、目の前の獣人にはこの制限を僅かに解き放たなければスピードについていけないことはわかっている。
「ほらほら、もっと早く動かないと僕には触れることだって出来ないよ。やるからには本気で来ないとあっという間に僕がゲームを終わらせちゃうよ」
ルナは全身の筋肉が切れる音が聞こえた気がした。
この身体はまだ幼い子供の者なのだから激しく動けば未熟な細胞は崩壊してしまうのは明白だった。
筋肉痛の理屈は要は細胞の損傷である。
それが常時身体中で起こっているのだから、痛みが伴わないわけがない。
あえてこの茶番に付き合ってもらわなければいけないのはアマト達の邪魔をさせない為であった。
身体の劣化を強いる必要もなく最小限の崩壊で目の前の四つ耳獣人を消し去ることは造作もない。
足周りは極力負担にならないように手さばきだけで獣人の鋭い爪をいなすことに集中し、時間稼ぎに徹するが要所で確実に息の根を止めに来る一撃は躱しきれない。
首は数度の閃光のごとく突きで血がにじんでいるというのに、痛みはまるで感じない。
胸を刺すような視線が常ににらみを利かせていることを認識してからはスペラを完全に意識から消し去っている。
万が一にでも別行動をしている対象に誘導するそぶりでも見せてしまえば、尊厳にかかわるという意識からなのだがその根源はルナに芽生えた感情の単だと言える。
今となってはスペラが無事に目的を果たすことができるかを確認するすべが無くなってしまった。
「もう疲れちゃったのかな? ほらほら、本気で来なよ。のろまなワンちゃん」
「……」
四つ耳獣人は返事をすることなく黙々と長く鋭い爪を振るってくる。
徐々にルナの身体は傷つき血が飛び跳ねて、水たまりを赤く染めていく。
血しぶきがまるで霧の一部に同化するかのように艶やかに、カーテンをかけて遮る壁となり確かな隔たりがそこに存在した。
四つ耳獣人の視界からルナは姿を消す。
そこで初めて慌てふためきもだえ苦しむ姿をさらすことになった。
ルナは今まで監視されていた対象へと飛翔し、その四つ耳人間の首を勢い任せに大木諸共粉砕した。
最早ここから消えてなくなった人間の頭には獣人と同じように耳が四つあり、辛うじて男性であったことを確認できるのは首から下の胴体が転がっていたからである。
右腕には水晶の嵌め込まれた杖を握りしめ、ギラギラと輝いていることからこれで獣人に指示をしていたのだと推測できる。
操っていたのではないというのは観察した結果、突発的な出来事に対応できなかったというのに落ち着き払っていた為である。
指示待ち獣人宜しく支持する者が消え去った今、彼らの心の支えはない。
あれだけ素早く動くことができた四つ耳獣人ですらルナが司令塔を潰したことを認識してしまってからは、数刻前までの安定したルーチンをやめる始末なのだから行動規範が見えない。
本能に任せて襲い掛かってくることすらしないというのは些か妙だが、そこは獣を半ばやめたからこそ得られた唯一無二の能力ともとらえることができる。
これが進化の過程で得られたものだという事なら喜ばしいのだろうが、悲しいかな悪魔の眼前であるのならばそこに未来はない。
四つ耳獣人に最早未練などないのだから、活かしておく必要もないという思いの反面情報が引き出せないものかとも思う。
しかしながら半ば洗脳されたと同義の獣から得られる情報などたかが知れているのは、経験上良く知っていた。
忠誠心が高い者ならばそもそも口を割るような真似もしない。
「やっぱり、つまらないゲームはだらだらするのも疲れちゃうよね……お互いに。今、楽にしてあげる」
ルナの瞳が燃え滾る夕日の様に鈍く光ると同時に四つ耳獣人が発火し一歩前に踏み出すことも許されず消し炭となった。
そこには最早何も残らない。
消し炭でさえ数刻もせずに塵となって霧散する。
これで全てが片付いたなどとは思ってはいない。
司令塔であるはずの四つ耳人間を打ち取ったというのに再び、何者かの指令下に入ったように行動を開始したのだ。
少なくともルナの存在は知られてしまった。
しかしながらアマトに伝える情報としては手堅いと言える。
それもスペラが既に戻っていると仮定してのことではあるのだが、それを知るすべはない。
再び連携した獣人達は海岸からの合流を果たすと再び来た道を戻っていくという、傍から見れば些か珍妙な行動といえなくもないのだが今は構っている余裕はない。
あれだけ深かった霧も周囲5メートル程であれば普段とさほど変わらない程視界が良くなっている。
最早ここまでくると、こちらから見えるものは敵からも同等以上に見えていると考えたほうが良い。
時間の経過は傷の治癒にも一役買ってくれた。
プラスマイナスゼロとはいかなくとも得られるものが僅かにでもあれば、十分目的は達せられたと言っていい。
周囲の気配が完全に無くなるのを見計らうと高台から滑空するように、アマト達の元へと舞い戻る。
「先に戻ってきたのはルナか。スペラはどこで油を売っているのやら……」
「もしかしてボクの方が先に帰ってきちゃったってことだよね。途中で獣人の相手をしていた内に見失ってそれっきりになったんだけど、先に戻ってると帰って来たのは間違いだったかもしれないね」
「スペラに限って何かあったとも考えにくいが、問題はルナが見失ったってところだろう。とりあえずわかっているところまで教えてくれればいい。スペラはこのまま、単独で動いてもらいつつ合流を待とうか」
一通りルナから事の成り行きを聞く。
案の定、敵意を持ってルナと戦闘を行った事と言葉が通じる相手でないことを確認した。
後は、海からの攻撃を行っている首魁の情報が分かれば裏をとれるのだがそれを待っていては霧が晴れてしまう。
「手分けして、獣人を操っている者を見つけ出し捕獲する。くれぐれも雑魚は死なせないようにしてくれよ。行動開始」
「「了解」」
索敵範囲内には獣人が数十規模でまとまっていることは確認でいたというのに、率いている司令塔となる親玉が見つからない。
こちらの動向は既に知られているとは思っていたが、これだけの視界の悪い中で索敵範囲内に入ることもなく獣人が数十ともなる集団をまとめて操れるものか。
次々と倒れていく敵の一団を目の前にして不安しかないというのも些か腑に落ちないもので、クリアになる視界も相まって脳裏にはより深い靄が反比例するように濃くなっていく。
太陽も頭上に見えるところまで上がりきっていることと、濃い霧が晴れた事で伏兵がいたとしても目視で確認するのも容易な環境となっていた。
森の中ではあるものの、海に近い地形ともあって潮風に耐えられる樹木が大半を占めている。
これは性質上の事もあり中心部よりも光が良く通り、草木の成長を促進させる要素もあるのだろうか。
海が元の世界と同じと仮定するのならば塩分を含んでいるのだから、風に乗った塩分が森を襲う事になる。
そのため耐える事が出来なければ枯れるというのに、寧ろ潮風を受けて強度と生命力が増しているようにも見える。
遥か昔から生き残った確実にこの地に根を張ったものだけが成しえた功績と呼ぶにふさわしい。
表面は鋼鉄のように固く度重なる戦闘にさらされてなお、びくともせずにそびえ立っている。
身を隠すにはうってつけとも言える強固な障壁だというのに、ここにも姿を見せるようなことはなかった。
「ディアナには獣人の拘束を頼む。ルナと二人で見張っていてくれ、すぺらと入れ違いになることもある事を考えれば入れ替わる形で合流してくれればいい。俺とユイナとバニティーは先に海に向かう」
「わかりました、何かありましたらすぐに戻ってきてください」
「そのつもりだ。どうもきな臭いんだよな。二人なら大丈夫だとは思うが、ルナは一戦交えた跡なんだから無理するな」
「心配無用って言いたいところだけど、身体が本調子じゃないのも事実だしね。その時は助けてもらう事になるかな……」
首をさすりながらルナは言う。
傷はもうほとんど消えているが、流れた血の跡が生々しく残っているのを見るとやはり人としての自覚はしているのだろう。
「思っていたよりも霧が晴れるのが早いな。俺達に矛先が向く前に水鉄砲の正体は掴んでおきたい。二人ともついて来てくれ」
「スペラが戻ってこないのも気になるし、若しかしたら一人で戦ってるかもしれないかな」
「まあ、戻ってこないってことはそうだろうけどこのまま放っておくわけにもいかない以上少しでも早く合流してやらないとな」
「おらも手を貸すだ」
現状では分断されたこの状況を誰かが望んでいるという節がある。
結界からでてしまった事で追手には正確な位置が割れていると推測できるからだ。
そもそも結界の中にいるというのは、正確な位置を捕捉されない効果はあっても絞り込まれているのはかわりはしないのだ。
ならば今が絶好の機会となりえるのは素人でもわかることだ。
忍びが存在するのだから、その手の輩が出てきたところで誰も不自然などとは思わないだろう。
誰一人として戦闘の訓練など受けていない俺達は的確な判断がてきているという、明確な根拠がないまま動いている。
結果として誰も命を落とすことになっていないが追われる立場になっている以上明らかに不利であるのも事実である。
敵はこちらに殺意があるにしろ、捉える意思があるのしろこちらとしては追手の殲滅に注視していないのだからデメリットこそあれメリットが無いのだ。
仮に相手の親玉を倒しても得られるものが無いのに、別の勢力が取って代わるとすれば何一つ変わりはしない。
まして、今海に向かうのも北へ向かう為の経路を知り願わくばその道を確保する為なのだ。
ここで敢えて第三者のいざこざへ介入したことで結果として、次につながる可能性があるからに他ならない。
海岸に出てみればそこに広がる景色は元の世界のそれと何も変わらない。
はずもなく、遠目ではあるものの明らかに俺達よりも巨大な怪物とそれと対等に渡り合う船のようなものが見える。
どちらも全くと言っていいほどの攻防を繰り広げている。
その余波が森にまで届いていた為に思わぬ被害が生じていたのだが、彼らは気付くことはないのだろう。
水しぶきとすっかり晴れたというのに水蒸気が立ち昇り続ける中で、轟音はそれ以上に存在感を引き立てる。
心臓にも震えが伝わってくる程の臨場感が現実であることを思い知らせて来る。
「行くんでしょ?」
「そのつもりなんだが……。ここに来るまでにスペラに会わなかったよな?」
「うん……」
「……」
ユイナは一言、頷いてから俺の言った意味を改めて思い返しているようだった。
無論、バニティーも理解したうえで辺りを見渡すがその瞳に猫耳少女を捉えることはない。
誰もが万が一の可能性を覚悟した。
人間というものは時間に支配された生き物であるという言葉がある。
現状では良くも悪くも確かめるすべがないという、一種のジレンマに二の足を踏んでいるのだがこのままでは好転の兆しは見えない。
時間の経過とともに結末に向かうのは確かだというのに、停滞を許さない。
そのままでは臨んだ答えに辿り着けない。
ならば急ぐことも必要なのだ
「泳ぐのは……ないな」
「そうだね」
「……」
目の前に広がる広大な海原は見渡す限り、彼方の対象を除けば遮るものなど何一つとしてないというのに近づくことすら容易ではない。
陸地続きではないならばそれは向こう岸へと渡ることができず、歯がゆい思いを抱く羽目となっている地割れとさして変わりはしない。
寧ろ呼吸が出来ない環境下で敵と対峙せねばならないとするならば、余程不利であり危険だけがただ付きまとうのだから危険だけが増す。
「ユイナ、向こうまで飛んでいくことってできるか?」
「行くだけならできるかな。帰ってこられる自信はないけど、それでも行くならアマトだけなら連れて行ってあげられるけどどうする?」
「近くまで行けたからどうするってわけでもないんだ。目的はあくまでもあそこに割って入る事であって突っ込んで終わりってわけにはいかないんだよな」
海の底へと沈んでいく少女の身体を見詰めているのは、その本人に他ならない。
何者かの画策によって今、将に命の危機に瀕しているというのにまるで他人事の様に達観している。
生への執着がないのではなく、外的要因により肉体の自由が奪われていることで一切の抵抗を許されていないのだ。
だんだんと水圧が増す中で締め付ける呪縛は全身の感覚を奪い去った。
指一本でさえ動かすことは出来ない。
光の届かないところまで落ちてしまった以上、たとえこのタイミングで自由になったとしても水面まで戻るまで息も持たない。
いったいどこまで行けば海底へと沈み切ってしまうのか、そんな事を思い始めたスペラだったが異変に気付く。
突然身体がバチバチと電気を帯び始めたのだ。
何が起こっているのか全く理解できないスペラだった。
理由は明白で再び魂が独立して生命の維持に動き出したのだが、その方法が常軌を逸していた。
本来は地上でしか息をすることができないはずが、この世界の魔法と異世界の科学力の融合により水中での生命維持を可能にしたのだ。
アマトのいた世界では、海底調査船、潜水艦、宇宙ステーションなど一定の空間において酸素をそのまま取り込むことができない場所での活動を余儀なくされる科学技術による乗り物が存在していた。
無論、数年もの間滞在するだけの空気は持ち込めないのだから何らかの方法で生産しなければならない。
海であればこの豊富にある海水を電気分解することによって酸素を分離し取り込むことにより、呼吸を可能にしたのだ。
偏に無尽蔵な資源があるからと言ってもそれを有効利用できるまでには、それ相応の時間と対価が必要になることは容易に想像ができるのだが期が熟すのを待っている間に、ことは終わっているはずだと言い聞かせるように歩きだす。
元の人格をそのまま複写したかのような性格であるというのだから、本質が表面上に浮き出ているという事なのだがそれを知る者はここにはいない。
足場がぬかるんでいるものの地盤がしっかりしている土壌なのだろう、沈み込むことはなく寧ろ砂浜よりも歩きやすいとさえ思えてしまう。
気配を探れば辺りには泳ぐ魚と、水中型モンスターが感じ取ることができた。
水中では陸上とは違い五感の中でまともに機能するのは触覚と聴覚のみであり、そのほかの器官はあてにならない。
目の前の視界すらぼやけてしまい、目を開けるのも非常に厳しく味覚に関して言えば口を開ければ海水で満たされるのだから迂闊なことは出来ない。
それでいて最大の問題は嗅覚が使えないことである。
これだけはスペラにとっては最大のマイナス要因になっている。
死活問題と言っても過言ではないのだ。
地上で深い霧の中でも周囲を的確に認識し、完全に把握した上での身軽身体を使った跳躍もここでは全く活かすことができない。
ただ、一歩ずつを踏みしめて徐々に環境に適用させていかなければならない。
本来ならばその工程を今から始める事によって辛うじて生命維持が可能となるところなのだが、この瞬間においては必ずしもセオリーに則っていなければならない必要はない。
スペラの魂は身体に残したものとは別に客観的に見ている肉体から解き放たれた魂と二分しているのだ。
そして人格こそ別の挙動をみせているものの、意識を共有することができている。
資格情報もまた例外ではない。
理屈こそスペラには理解していない。
無論別人格とてそのかぎりではない。
戻り次第アマトにでも聞いてみたいと思ったのは、不安からくるものではないだろうか。
まるで光でも照らしているかのように周囲と自分の身体を見ることができる自分と、暗闇の世界を一歩ずつ歩く別の自分の感情が入り乱れているのだ。
片や安心感、肩や不安。
そこに矛盾はない。
同じ魂なのだから。
暗闇の世界。
身体を余すことなく海水が包み込む。
水圧に悲鳴を上げることすらここでは許されない。
本来の索敵範囲を越えて海の中を泳ぐように飛び回るスペラは、かすかな魔力の流れを感じ取ることに成功した。
霊体となったことで眼には見えることのないマナの流れには敏感になっている。
故に緒を見つけることができた。
その方向にあくまでも偶然を装い身体を誘導していく。
深層心理で繋がってるからこそ悟らせることもなく自然な動きを可能としているのだ。
向かう策は南東、陸からは遠くなるが海底に洞穴があるのを確認した以上向かうのは必然。
吸い込まれるように洞穴へと向かって行く。
その先から気配が次第に色濃くなってくるのを、身体も感じ取り無意識から警戒してしまったことに気がつかなかった。
それはすなわち、偶然から必然へと事象が確定したという事を意味している。
居場所が割れて、尚且つまっすぐ自分の元へと向かってきているというのがわかっているというのに黙ってやられる者などいない。
なれば、これから起こる事もまた必然であった。
しかし、スペラは自分の犯した過ちに気づくことができなかった。
目に止まらぬ速さで猫耳少女の左肩に痛烈な空弾が直撃した事により悶絶する。
余りの苦しさに、すぐに電気分解による呼吸を試みるが電気の発生が一切できなくなってしまっていた。
焦りや集中力の影響によるものではない。
魔法の一切を封じられてしまったのだ。
反撃が来ないことを見越して、ようやくその姿を見せたのは魚のようで人間のような姿をした魚人のようなシルエットのモンスターであった。
現れた魚人はここに来るまでに出会った獣人と似た特徴を有していた。
姿形というよりも同じ系統の何らかの方法でこの姿となったと言った具合である。
人工的に作られた命であるならば摂理に反するのだろうか。
スペラが切り離された魂となって気がかりであったのは、自分自身にも当てはまるのではないかという点である。
切り離し、個別に何等かの思想の元に生きるというのならばそれは一時的であれ創造したということなのだ。
スペラの取れる手段は距離を取る事しかない。
本来であれば呼吸を封じられた時点で結末が決まってしまうところを奇跡的に知識を手に入れた事により脱したのだ。
偶然というものは何度も起こり得るものではない。
それも自分の有利に働くことなどあてにするものではない。
いつだってそれは呼び込むものであって流された末の結末であっていいはずはない。
このままバックステップで逃げ切れるなどとは微塵も思ってはいないものの、体制を立て直す瞬間にかけることはできる。
そこに運などは必用としていない。
なぜならば、次の瞬間には魚人が一瞬のうちに距離を詰めてしまうのだから。
僅かに距離を取った瞬間、僅かながら呼吸が可能となった。
刹那、息継ぎをしたに過ぎなくともそれだけで数分の猶予ができたのだ。
この切迫した状況であっても、この僅かに得た安息の時間と言うものは悠久に等しい。
思考も加速度的に増していき、時間の概念を解き放たれた鳥のようであった。
翼なんてものが無くとも今ならばどこにだって飛んでいける錯覚さえする。
ここが光の届かない海の底であるのだから、魚人にとっての空のようなものであろうがスペラは停滞する。
必ずしも自由な空間を支配するすべが、範囲によるものではない。
陣地を拡大するよりも絶対にとられない陣地が一つあれば瘴気は必ずある。
魚人はこの海の中で凄まじい速さで動きまわることが出来てはいるが、身体に負荷をかけない為にオーバーランをしている。
戻ってくるまでの速さがどれだけ早くともその距離と時間は埋まることが無い。
徐々に速さを増す魚人に対して、スペラの動きは無駄という無駄を斬り飛ばすように無くしていく。
単純な動作は次第に遅くなっていく。
敵は動きの遅いコマ送りを見ているような錯覚に陥っている。
セルの間隔が開けば開くほど捉えどころは失われていく。
しかし、そのことに気がつけるのはその真理を理解した者だけである。
意図的に作り出された物理的な隙間だとしてもそこに確かにある。
何度何度も行き来する魚人は知らず知らずのうちにスペラによって磁力を帯びる電磁石となっていることに気がつかない。
同じく磁力を帯びたスペラとはあと一歩というところで反発するのだから触れることは出来ない。
じわじわと体力を減らしていくのは、敵が離れたタイミングで息継ぎをするだけでその場から動く必要のない猫耳少女とでは天と地ほどの差がある。
如何にして追い詰められているかを演出するかで最終的なジャッジが決定する。
単純な攻防に見えたとしても互いにあと一歩で追い詰め、不毛な争いから解放されるという終着点を見出している。
無論、互いに勝って終わる事しか考えてはいないのだから手の内を全て知られるようなことがあれば勝機は完全に海の底へと追いやられてしまう。
スペラにとってはタイミングを見極めて空気を生成する必要性があるとしても、ある程度の長期戦を行う事ができる環境にある。
しかしながら魔力は無限ではないのだからいつまでも膠着するようなことになれば酸欠で命を落としかねない。
それは避けたい。
魚人は水中で無限に行動することができるものの、単純な戦闘能力ではスペラに劣る為反撃の機会を与えることがそのまま敗北を意味する。
つまり、互いに決着がつくまでは走り続けなければならないのだ。
激しい攻防は既に数百のローテーションで繰り返されていた。
お互いどちらかがミスを犯さないかぎりは決定的な一手を打つことなど出来ぬものと思われた。
だが、魚人はここにきてバランスを大きく崩しスペラの磁力のバリアの圏内にすら入ることが出来ぬまま岩石へと頭から衝突し頭蓋が砕ける。
終わってみればあっけない物であった。
そこには一撃必殺の名声轟くワンシーンなどなく、元が何者なのかすらわからなくなってしまった肉塊があるだけであった。
それも海流に流されて辺りを満たす海水に霧散して消えていく。
スペラは電気をすれ違うたびに魚人へと流し込んでいたのだ。
それも魚人には気づかれないように表面に自分を纏うバリアと同様に本体に影響を与えないよう細心の注意を払ってだ。
定められた許容を越えた瞬間大量の電気が瞬間的に魚人を襲い、感電した挙句に意識を失ったのか。
否、すでに絶命していたのかもしれないが今となってはそれを知るすべはない。
そもそも、何度も繰り返すうちに魔力妨害に耐性を獲得したスペラ。
それに気がつくこともなかった魚人とに格差が存在した。
故に生死を分けた。
ようやく一息つけるかと思いきや、身体の力を抜けば呼吸のできない事と水圧のせいで激痛で苦しい。
一刻も早く陸に上がらなければ今度こそ魚人と同じ運命を辿ることになってしまう。
そんなことをおもいつつ海上に向かって泳ぎ始めたところであった。
陸の方からスペラに強烈な衝撃波と共に海水が鉄砲水のように押し寄せ、沖の方へと弾き飛ばした。
海中であったこともあり地面が大きく揺れたことで周囲が大きくゆがんだように思えた。
いったい何が起きたのかわからなかった。
ユイナは周囲から集められるだけマナを集め、海上でぶつかり合う戦場へと向かう為最後の深呼吸をする。
自分ではできないことでも仲間がいればその代りはできる。
それでもひとりで行かせることに納得などしてはいなかった。
「危ないと思ったら途中でも引き返してきてほしい」
「大丈夫、こんなところで死ぬつもりなんてないからね」
「わかった……………。なんだ?」
今まで出会ってきた中でも数える程しかいなかった力をもった何者かが急速に近づいてくるのが分かる。
あと、3、2、1。
その瞬間は凄まじい衝撃と破壊音とともに訪れる。
松の木を数十本を巻き込み砂浜に半径100メートルを超すクレーターが出現した。
その中央には細身の男が立っていた。
アマトより一回りほど年上にも見えるのは蓄えられた髭によるものだろうか、目元は若く見えるため実際はそれほど老けているとも思えない。
ただ、圧倒的な存在感が脅威であると思うには十分であった。
あいにく空から降ってきたのは美少女などではなく、美丈夫であった。
それも敵か味方かも定かではなく、纏うオーラは一線を画す。
少なくとも今関わり合いになることはプラスになることが無いように感じた。
できれば見なかったことにしたかったところではあるのだが、警戒心と言うものは場合によっては相手に感じ取られてしまうものである。
うまく隠れているつもりでそうではないかのようなものだ。
「少年、そうにらまないではくれないか。今、用事があるのは向こうの連中なのだから」
口調もさることながら、その落ち着いた雰囲気は大人びている。
なんといっても燕尾服を着ているところが場違いと言わざる負えない。
それでいてこちらに興味が無い風を装っているが、あからさまであるからこそ底が見えない。
「怪しい人間が突然空から降ってきたら、嫌でも見ちまうっての。まあ、こっちもあんたに用はないがあっちはそうでもないんだな、これが」
「そうか……それは残念だ。邪魔をしないというならば、もう少しだけ長生きできたというのに。君はその僅かな時間すらもいらないというのだろ?」
その物言いは戦う前からすでに勝利を確信した者のそれだった。
自信などではなく、決定した事象を淡々と説いているように聞こえる。
そうさせる何かがあるのだ。
全てが計算通りになるなどありはしない。
コンピュータのような規則性のある演算処理ですら物理的に摩耗し細微に間違うのだ。
完全などありはしない。
「待って、アマト!! 今はこらえて……」
「そっちの彼女は賢明のようだが、少年。今一度、聞こう。ここで死ぬか?」
俺はユイナにチャンスをもらったんだ。
声に出して初めてできた選択しであって、ユイナの言葉無くして俺に次はないのがわかる。
恥ずかしい話だが、死にたくはないのだ。
「……」
「そう、それでいい。それと、弓使いに会わなかったかな? 彼はアーチャーの称号を持っていても、本来ならば今ここにいるのは私ではなく彼のはずだったんだが、どうも連絡が取れなくてね」
「いや、知らないな」
「それなら仕方がないな。もしも会う事が有ったらブレイバーが探していたと伝えておいてくれるとありがたい」
「ああ」
「それから、さきほどから一言もしゃべらない君もまた次に会う日を楽しみにしているよ」
「……」
バニティーとブレイバーは顔なじみのようであったがドワーフが返事をすることはなかった。
ブレイバーなどと自分で名乗っていて恥ずかしくはないのだろうかと思う一方、ブレイブと言う意味について掘り下げて考えていた。
勇敢な者とはこの世界における勇者とは違うのだろうか。
称号と言っていたが、アーチャーとはそのまま弓使いを洋風に言い換えたものだと考えてみたがここが異世界なのだからそのままの意味と安易に確定させるもの早計である。
武器や、戦闘スタイルが未知数でありブレイバーなどという称号を与えられた男に不信感しか抱くことはない。
俺も傍から見れば同じようなものであるのだがやはり、正義の味方には見えない。
それもこれも出会って間もないというのに死の宣告をしてくる危ない奴なのだ。
それでも今は引き下がるしかない。
力量があまりにも違い過ぎるのは、戦うまでもなくわかる。
本来であれば、実力の違いなどお構いなくまずは手合せをして得られるものがあるのなら攻めるべきだとするところだ。
「少し離れたところから、これから何をするか見てようよ」
「そうだな」
「私達に何もしないってことを信じてるわけじゃないから、危なくなったらすぐ逃げられるようにはしておかないといけないかな」
「そうだな……」
「大丈夫?」
「ああ……」
ユイナの言葉も届かない。
今目の前の光景が幻想的だった為である。
曇り空に後光がさしたかのように光が四方に輪を描き光輝く。
「私の元へ」
ブレイバーの一言で空高くから雲を貫き高速で何かが飛翔してくる。
地面に到達直前でそれを掴むと衝撃波が俺達を襲う。
その手に握られているのは六叉の鉾であった。
昔博物館で見た七支刀によく似ている、というよりも寧ろ桜色に光り輝く造形は前に見た物が霞んで見える程であった。
実用的な武器というより政や祭事に用いられることの方が適しているのではないかと思っていたが、次の瞬間には間違いであったと改めざる負えなくなっていた。
真上から一振りしただけで海が左右に真っ二つに割れ、そして海底がむき出しになったのだ。
幅500mを優に超え、海上で争っていた二つの巨体は否応なしで海底へと叩きつけられた。
そして、今もなお海は停滞している。
まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
「スペラだよな……あんなところで何やってるんだ?」
意表を突かれる形となったが、このままでは非常に良くない。
スペラは海底にいたはずなのだが疲れ切ってはいるものの命に別状はなさそうである。
しかし、このまま放っておけばブレイバーによって標的諸共屠られかねない。
「スペラーーーーー!! 何やってる早くこっちへ来いっ!!」
俺は数百メートルも先にいるスペラへと叫ぶ。
この声が届く先は何もスペラである必要はなく、寧ろブレイバーにだけ届いていればいいとさえ言える。
あくまでもスペラに何かあればただではすまさないぞという意思表示である。
実際は今は見逃してほしいという哀れな嘆きなのだが、それを馬鹿正直に言ったところで何も変わらない。
最終的に判断を下すのは彼なのだから。
ブレイバーは七支刀を天に翳せば、辺りは朱色に染まりまるで夕の頃と見まごうことこの上ない。
終末という言葉がこれほど適切な表現であると思ったことはなかった。
争っていた巨体も今では海底で衝撃のあまり身動きが取れなくなっていた。
船の方は最早大破し、乗組員が外へと放り出されてしまっていた。
ここからでは、正確な数も姿もはっきりとはわからなかったものの特徴が先程まで争っていた獣人によく似ていた。
恐らく奴らは同じ集団に属しているとみて間違いなさそうである。
この状況で全く関係ないというには余りに無理があるからである。
それに、スペラのそばで頭が無くなった状態で絶命している奴も同様である。
こちらはスペラが一人で倒したのだろう。
ただ、海獣に関しては不明な点が多すぎる。
ただの野生生物にブレイバーがわざわざやって来たとは考えにくい。
獣人達が目的か、謎の海獣かそれともどちらも対象なのか。
これからの動向を窺っていればその答えがわかるはずである。
しかし、その本人は刀を掲げたまま微動だにしない。
朱く染まった空から花びらのようなものが舞っているようだが、無関係でないのは想像に難くないのだが理解が追い付かない。
ゆっくりゆっくりと落ちてくる花弁は光に反射し、美しさと雅な趣が故郷の古都を思わせる。
懐かしさのようなものを自分勝手に感じていると、まったく的外れなものだったと公開後悔させられることとなった。
何故ならその花びらに触れたものは問答無用で消滅を余儀なくされたからだ。
まるでそこには何もなかったように花弁が海獣も獣人も、海底でさえも通り抜けていく。
ただし、通り抜けたところにあった物は有機物も無機物も区別することなく消し去っていく。
そこには抵抗というものが感じられない。
あたかも初めからそこには何もなかったかのように花弁は右に左に大きく揺れる。
海獣の巨体であれば何度も出たり入ったりを繰り返す。
その光景は幻想的などではなく、ただただ悍ましい光景としか言えなかった。
海獣の苦しむ声がこちらまで聞こえてきたがそれも長くは続かなかった。
発声器官を潰されたのだろう、もがき苦しむことすらしなくなったそれはピクリともしない。
獣人のような海獣に比べれば小人のようにしか見えない者達ならば、絶命するまでの時間は一瞬であった。
心配だったのはスペラの身体だ。
あの位置では攻撃は避けられない。
しかし、躱す力など残されていなかった為に舞い散る花弁が降り注ぐ。
身体中をえぐられて絶命するところなど見たくなかった俺はスペラの元へと駈けだしていた。
無情にもスペラに無数の花弁が降り注ぎその体へ入り込んでいく。
間に合わなかったと思うと急に、足の自由が利かなくなりその場へと膝をついていた。
俯き顔を上げることなんてできはしない。
間に合わなかった。
「アーニャ? 大丈夫かにゃ……」
スペラの弱弱しくも俺を気遣う声が現へと呼び戻す。
幾度となく絶望と後悔に胸を焼かれ、仲間の無事を確認し安堵と至福を味わってきたが確かめたい欲求に襲われる。
夢ではないならば確かめてみたい。
その思いだけが先行した。
気がつけば聲の主を抱きしめていた。
その小さな身体は血と肉片に塗れていたが、そんなことは気にもしなかった。
「無事で良かった……。心配させるなよ」
「ごめんにゃ」
「生きていてくれればそれでいいんだ。無茶をさせた俺に問題があったんだから、スペラが謝ることはないんだ」
「ミャーを心配してくれて、ありがとにゃ………………」
スペラは力なく言うとそのまま深い眠りに落ちた。
心拍も辛うじて確認できる程度にまで弱っている。
治療を施さなければ命の危機からは脱することはない。
まだ、安心できはしない。
どういうわけかブレイバーの七支刀から何らかの影響を受けたようには見えないのが救いではあるのだが、それは今は確かめえるすべがない。
先程までそこにいたはずの男の姿がどこにもなかったからだ。
海は未だに割れたままであり、俺とスペラに圧倒的な威圧感でそびえている。
その質量はとても支え切れるような類のものではないというのに、この世の理を無視するかのように確かに一つの現象としてそこにある。
地面が一切湿り気を含んでいないことからも水分というものが根こそぎこの空間からはじき出されたと言ってしまえば簡単なのだが、実現させるのは容易ではない。
俺達がいる空間そのものが透明な何か別のものに置き換えられたと考えたが、どうもそうではないらしい。
海水を遮る壁のようなものも確認ができず、手近な石ころを放ってみたら吸い込まれるかのように海の中へと沈んでいった。
しかし、これ以上ここにいて検証するのは得策ではない。
いつ元の様態へと戻るかわからない。
この莫大な海水がなだれ込んで来れば俺達は瞬く間に押しつぶされてしまう。
そう考えたら答えはいたってシンプルだった。
ただユイナ達がいる砂浜へと走り抜けるだけだ。
スペラを背負いいつ襲い掛かってくるかわからない海底を脱兎のごとくは走る。
者の数秒だとはいえ、気が気ではなかった。
完全に陸へと辿り着くのを確認したかのように同一のタイミングで海は元の形へと戻っていく。
本来であれば際限のない勢いによってこの辺りも大波に巻き込まれるところではあるが、大波は愚かおよそ波と言うにはほど遠い漣が修復の為に申し訳程度に流れて見せた。
そこには最早自然なことなど何もなかった。
「結局、俺達が手を出す前にきれいさっぱり海の中へ消えていっちまったな。あれが何だったのかわからずじまいで、新しい情報も得ることができなかった……。下手すれば死んでたかと思うと碌でもないなほんと」
「確かに獣人とか、スペラが戦ってたのが何かはわからなかったけどブレイバーが言っていたアーチャーが仲間なら私達と敵と考えていいかな」
「あの弓使いに最後に止めを刺したのはルナだ。ルナに詳しく聞けば何かわかるかもしれないな」
「疲れたにゃー」
「おらが知ってることなら話すが」
「まずはディアナたちと合流しよう。ここは隠れるところもないし、スペラが戦える状態じゃない」
「そうだね」
再び森にもどることにした。
獣人こそ排除したがこれで終わりなどという事はないと感じたからだ。
獣道の至る所に獣人の骸が転がっている。
戦闘の激しさが目に見えてわかるほど辺り一面になぎ倒された大木や薙ぎ払われた草木が散らばっていた。
俺達が海へと抜けてからも争いが起こっていたのだ。
合流地点には既にルナは戻っていた。
ディアナも疲れが見えるが怪我をした様子はない。
ここを中心に戦闘があったのは一目瞭然だった。
「二人とも無事でよかった。ルナ、怪我してるじゃないか!? 大丈夫なのか」
「大したことないよ。それよりもスペラの方をちゃんと手当てしてあげた方がいいんじゃない」
「ディアナ、ユイナ二人とも疲れてるところ悪いが見てやってくれ」
ここに辿り着くまでに敵の気配はないのを確認している。
落ち着けるなら、ここで治療をした方がいい。
短期間でこれほどまでのエンカウント率になるのだから偶然だとか必然だとか言っていられない。来るものは拒まないがそれなりの対処はさせてもらいたいものだ。
流石にブレイバークラスの化物が次から次にやって来たのではこちらの身がもたないが、得られるものは必ず後から活きてくる。
ここは戦歴を積んでおいても損ではない。
それでも消耗が激しいのは言うまでもない。
俺とユイナ、スペラはもはや限界に来ていた。
ルナたちは特に疲れをみせてはいない。
旅を始めた期間の違いというより生きてきた経験の違いが物を言っているようだ。
回復手段を持っているのはユイナと、ディアナの二人だけなので二人のどちらかが万全であればチームとしては機能するわけだがそれはあくまでも生命線の確保に他ならない。
効率的に事を進めるにあたって常に二人が共に最善を尽くせる状態に保ちたい。
俺一人であれば致命傷を除けば倒れることはないが、精神的な疲れというものは身体に何等かの影響を与えているようで目に見えない形で行動に制限が掛っている。
「この辺りもそうとう荒れたみたいだけど、大丈夫だったか?」
「見た目ほどではなかったわ。追い払う程度の事しかしていなかったのだけれど、ルナが戻ってきてからは容赦なくなぎ倒していくんですもの。音を聞きつけて次から次に集まってくるモンスターも入り乱れて、私も追い払うだけで済まなくなってしまったわけです」
「道理でモンスターが全くいないわけだ」
「モンスターがいないからってここにいるのもなんだか気持ち悪いかな。まだ日が沈むにも早いし、それに……」
「まあ、それが問題だってことはわかってるさ。まさか地割れが海まで続いてたってんだから笑えないよな」
「泳いで渡ればいいんじゃないのかにゃ?」
二人の回復魔法で外傷は綺麗に無くなったスペラがすっとんきょんな顔で言ってくれる。
それができれば何も頭を悩ます必要なんてないのだが、それが容易ではないのは近くまで行って確認するまでもないのは明らかである。
無論状況というものは刻々と変わりゆくものではあるのだが、まだその時ではないことはわかっている。
亀裂は海に近づくにつれて狭くなっている以上海水が地割れを満たすには時間がかかりすぎるのだ。
また、流れ込む水流によってとてもではないが生身の人間が力ずくで渡るなぞ不可能である。
海水が満ちるのを待つという選択肢もあるにはあるがいつになるか予想も出来ない。
その間、ここに居座るなんてことを許してくれる世界ではない。
ルナの話では20メートル程だというのだから、水流で岸が削られて幅が広がるよりも先にわたる手段を考えて強行した方が得策であろう。
「泳いで渡れるわけないだろ。流れに呑まれれば下手すりゃそこで終わりだって」
「だったら、飛び越えたらいいにゃ」
スペラの次に発した一言に度肝を抜かれた。
単純でいて実は、最も現実的だったのだ。
人間であればせいぜい7から10メートル程度しか跳べないと、過去の数字でしか考えていなかった為に不可能だと決めつけていた。
だが、身体能力は過去の比ではない。
俺達ならばやってやれないことがなどあるはずがない。
たとえ駄目だったとしても、後悔なんてしている場合ではないんだ。
決断したら早い。
「これ以上時間は無駄にしていられない。跳び越えるぞ」
「ユーニャ、ルニャは飛べるからいいにゃ」
それは今回なしな。
「大丈夫だよ。心配しなくても、わかってるつもりだから」
「信じてないわけじゃないんだ。最悪、ユイナとルナだけなら向こう側に行けると思ってる」
休憩もほどほどにルナからスペラ、ディアナ、ユイナ、バニティー、そして最後に俺が跳ぶことにした。
脚力においてはスペラが一番安心感があったが、失敗することは許されない以上唯一リスクが無く飛行が可能なルナに向こう岸へと渡ってもらう。
ルナにだけは飛距離が足りなかった時には飛行することを許した。
そもそも、なぜ最初から飛んでわたることをしてもらわないかと言えば、見本になってもらう為である。
一度のみの挑戦であれば視覚的にでも予行練習になってもらえば安心感が違ってくる。
万が一があってはならないのが実戦なのだから。
崖の幅は激しい海水の流入で大きく削られていく。
森から岸へ到着した頃にはさらに幅が広がってしまっていた。
そもそも、予想していたよりも遥かに狭い事に疑問を持つべきであった。
膨大な海水の質量に耐えていたことの方が奇跡的なことであったのだ。
俺達の到着が早かったとすれば崖の落下に巻き込まれていたかもしれないと思えば、タイミングというものの大事さがわかる。
これ以上留まるわけにもいかない。
「ルナ、いけるな」
「ボクなら……油断はしないよ。じゃあ、行ってくるね」
ルナが弾丸のように跳んでいく。
放物線を描くように跳ぶようなイメージだった為にあまりに美しい軌跡に、目を奪われる。
生死が掛った大事な局面だからこそすべてが芸術的だった。
ルナの着地がこちらからでも良く見える。
無事に向こう岸にわたることができたのを確認すると次にスペラが軽やかに後に続く。
ディアナ、ユイナ、それにバニティーも危なげなくやり遂げた。
残るは俺だけだ。
距離も思っていたほどでもないのだから、失敗することなどありはしないい。
ただ地面を蹴りだせばいいのだから不安なんてものはあるはずがない。
《《その場》》で地面を強く蹴った。
その瞬間だった。
足元は崩れ、俺の身体は失速してあとわずかというところで向こう岸に届かなかった。
(南無三!!)
割れた大地から空を仰ぎ見るように奈落へと落ちていく。
底がどれほど深いかはわからないが、このままでは間違いなく水面に打ち付けられてしまう。
死ぬことはないなどと楽観的に考えていられるのは、身体が耐えられると理解しているからである。
意外と時間が長く感じるからと言ってふわふわと落ちているわけではない。
周囲が何の変哲もない岸壁であるからこそ、代わり映えがしないのであってスピードは途轍もなく速い。
後どれくらいで着水するかわからない。
想いはいろいろとめぐっていくがそれも刹那の出来事でしかなかった。
解決策など講じる必要などまるでない。
最終的に自分の選択は間違っていなったと思えればそれでいいのだ。
「アマト」「ダーリン」
二人の少女が急降下し、俺の両脇までたどり着くとスピードを合わせてともに落下していく。
ここで俺と彼女達の間には慣性が働く。
三人で一人になったようなものである。
エレベーターの中では飛び跳ねても天井にぶつかることもないのは、エレベーターと一体化してる様なものであるのと一緒である。
即ち飛行能力を備える二人が俺を中心に飛行すれば俺も空に飛べるという事である。
二人はタイミングを取りながら減速し、一度落下速度をゼロにし再び空へ向かって飛翔した。
「二人とも助かった。ありがとう」
俺は二人に礼を言ったが、内心では諦めが強かった。
それに、二人が助けに来ることも可能性としては考慮していたが確信は持てなかった。
それを見透かされたようにユイナは俺の腕を強くつかむ。
「助けに来なくてもよかったかな」
「本当に助かったって。この崖をよじ登ることも、全身ぼろぼろになることもなかったわけだし」
「脆くなっていた足場を崩すとは思わなかったなぁ」
「それはまあ、あれだ。力加減がどうもうまくいかなくて……」
自分の力を制御できていないがために起こったことだが、問題はそこではない。
仲間が全員ほぼ同じ位置から向こう岸へと跳んだとはいえ、僅かに力を込めたくらいで地面をえぐるようなことにはならなかっただろう。
俺の力はどういうわけか格段に増して、付け加えて言えば潜在能力ともいうべき能力も制御を越えて露わになってきていた。
普段の生活に支障をきたすことが無いのは元の世界の能力が基本であるからである。
そうでなければ、歩くたびに地面が割れ、息をすれば大気が震え、腕を振れば山が吹き飛びかねない。
無論、力を制御できずに身体が耐えられるわけはない。
力を振るうたびに何等かの代償を払っているのだ。
多かれ少なかれと言えば聞こえは良いが、大きすぎれば反動もまた大きいのだから振れ幅が増せば取り返しのつかないことになる。
二人の胸が当たって何とも言えない気持ちなってしまう。
いままでは戦闘中であったがために、気にしている余裕は微塵もなかったが今は危険から解放された状態であった。
この場面では寧ろ身体で感じないわけがない。
「アマト、ここから落ちたいのかな?」
「ボクは絶対離さないからね」
「いったたたっ!!」
ルナは容赦なくからめた腕に力を籠める。
そして、その腕の感触が生身の身体であることによって心臓が痛くなる。
視線を落とせば俺のコートの隙間から垣間見れる裸体が不覚にも、動悸を激しくする。
ルナは単体では自由自在に飛び回れるのだが、ユイナはそこまでではない。
まして、俺を抱えてではなおさらうまくは飛べない。
今回はルナがユイナに合わせる形で上手く飛ぶことができているのだ。
これは結果としてユイナの飛行訓練になっている。
そもそも、ユイナの能力値ならば自由自在に天空を翔ることが可能なはずなのだがうまくいっていない。
いろいろ考えだせばきりがないのだが、ステータスを確認した時にヒットポイントに該当するものはなかったように全てが曖昧で不十分なのだ。
トラウマのようなものがあればステータスに反映されずに、実証されてはじめて具現化する。
それは身をもって経験してきた。
隠れステータスなんて生易しいものでないのは確実だろう。
確認するすべがないのだから。
ようやく全員で地割れの向こう側の土を踏むことができた。
ここまでくるのにかかるのに数日を費やしたかと思えば、時間を無駄にしたような気もするが得られたものもある。
迂回しなければ出会わなかった仲間もその一つだ。
こうして、喜びを分かち合える仲間とも僅かな行動の変化や選択で出会う事はなかったのだ。
達成感と優越感に浸っていられるのも、安全だと認識できるからに他ならない。
周囲の景色は大地の裂け目の北と南でほぼ変わらないというのだから、渡った瞬間修羅の国という事もないのは言うまでもない。
「これで首都まで真っ直ぐ進むだけだね」
「地図を見た限りだと、迂回した分の距離を足しても今まで辿った道よりは早く着くはずだ」
「ミャーも早く行きたいにゃ」
「ボクも数千年でどう変わってるかは気になるよ」
「私も同じです」
「……」
皆、思うところは様々ではあるものの早く首都を見てみたい気持ちは同じようだ。
俺もこの世界の主要都市というものがどの程度のものなのか気になっていた。
「真っ直ぐ首都を目指しても恐らく数百キロはある。今日もあと数時間で日が沈む以上どこか泊まれるところを探さないとな」
「まずどっちに進むか決めないといけないよね」
「崖沿いに進むと道にこそ、迷いませんが歩く距離は遠くなります。最短距離を進むなら北西に向かうべきですがどうでしょうか」
「ボクもそれでいいと思うよ」
「地図では北には山脈があったはずだ。北に真っ直ぐ行けば最悪山越えする羽目になるからな。だからと言って北西に進むルートでだから安全とも限らないときた……。迷っていてもしょうがない。最短距離で行く」
見渡すかぎりの草原地帯なのはこれまでと変わらない。
遠目に山脈が見えるがその先にもまだ見ぬ地が広がっていると思えば、この大陸は広大だと言える。
ゲームの世界ではその性質上、フィールドも適度に回れる程度に設定されていた。
そうでなければゲーム性が失われるから。
しかし、ながらここは俺にとっての現実であって遊びではない。
足元の地面の下にだってまだ見ぬ世界が広がっていると思えば、夢があるとは思わないか。
いずれそれを知ることになるのだが、今はただ自分の勘を頼りに首都を目指す。
首都を目指して一時間程歩けば、もう大地を盛大に別つ境界線は目視できなくなっていた。
単純にひたすら距離を稼いだからというわけもなく、標高が海面に対して低い位置にいるからでもあった。
ここが海面に対して高いのか低いのかを知るすべはそう多くはない。
津波に大雨による河川の増水と自然災害に対して対処が難しい位置にいる。
即ち拠点を設置するには些か危険を伴うわけである。
日が沈む前には標高の高いところに陣を敷くことが好ましい。
敵から見つかるリスクと危険を回避するメリットであれば、後者の方が準備ができる分メリットが若干勝る。
方向を知るすべがなければ、どこを歩いているのかわからなくなっていただろう。
何分この辺り一帯には目印にできるものが無い。
背の高い木を見つけても、それが複数で尚且つ不規則に生えていれば最早目印になりはしない。
正確に北西に歩いているからこそ確実に首都に近づいている確信があるからこそなんとか、前に歩み続けることができている。
スキルも、アビリティもなければさまよい続けていただろう。
この辺りは凹凸がが激しく、峠を越えているのか下っているのかわからなくなるほどである。
少し歩けば足場も平らな草原地帯であり、見通しの良い地形だというのに一定間隔で方向感覚を失うほどの迷路のような不思議な土地である。
油断していると、陰からモンスターが襲い掛かってくるというのだからゆっくり休んでもいられない。
流石に毎日が生死をかけた戦いという俺達の環境であれば、雑魚が少々しゃしゃり出てきたところで敵ではないのだが如何せん数が多い。
最早嫌がらせなのではないかと思うほどである。
それもこの複雑な地形が動植物問わず平等に営みを行うことができるのだ。
強者も油断すれば弱者に寝首を刈り取られるのだから、弱者は進化し強者に取って代わる余地がある。
しかし、三日天下となるほど生存競争が激しい。
それは俺達が直接介入せずともあちらこちらで起こる争いから容易に推測できる。
俺達は囲まれていることにすぐに気が付いたというのにも関わらず。誰一人慌ててはいなかった。
単純な力量では負けることなど無いとわかっていることはもちろんのこと、ここで焦っても得なことなど無いのを理解しているからだ。
それに囲まれてこそいるが、わんさか湧いてくる様子もない。
最も怖いのが終わりのない戦いに発展する事である。
どれだけ優れた力を有していたとしても数の暴力の前には無力なのだ。
しかしながら、ここで待ってくれないのは良く分かっている。
即ち、漁夫の利を狙うものがいるのだ。
近寄ってくる雑魚モンスターを容赦なく討伐していく。
互いに命を懸けている以上情けをかけてはいられない。
生きるために殺生をすると言っても、生き残る為であり何も取って食おうという話ではない。
できることなら俺達に構わず放っておいてほしい。
経験を積むことで確実に能力値が上がっているのだが、疲労とすり減らされた神経はとてもではないが等価だとは思えない。
心休まる生活がいかに幸せなものなのかよくわかる。
丘の上に辿り着いたというのに、僅かに離れた場所すら物陰になっていれば油断はできない。
隠れる場所がある以上は警戒を怠れない。
まだ敵の反応が周囲にあるが、何か嫌な予感がする。
その時空が赤く光るのが見えた。
空中から火球が流星群のように次々に降り注ぐ。
高温による熱風と、火球特有の衣の擦れる様な音が俺達のすぐ近くで聞こえてくる。
直撃こそしなかったもののその衝撃から衝撃と、瓦礫が俺達を襲う。
空高くには旋廻する翼のシルエットが沈みゆく夕日に照らされていた。
地形が変わるほどの火球の雨が勢いを増していく。
視認できるぎりぎりからの位置から反撃不可能な波状攻撃を仕掛けてくる何者か。
目を凝らすことでそれがドラゴンだと辛うじてわかる。
地上戦でさえ死に物狂いでようやく撃破したというのに、手の届かないはるか上空からとは何の嫌がらせなのか。
目的も全く分からないまま一方的に火の雨にさらされている。
ディアナとユイナが結界を張ることで痛手はないもののこのままでは埒が明かない。
(うっ、意識が…………違う……。これは一酸化炭素中毒だ)
本来であれば気が付く間もなく倒れるところなのだが、アビリティにより酸素不足でも辛うじて持ちこたえることができた。
辺り一帯が完全に無酸素状態となる前に打開策を見いだせなければ、文字通り手も足も出せないまま終わってしまう。
ドラゴンの智能がどれほどのものかなんてわかるはずもないが、意図してこの状況を作り出しているのは明白だ。
何せ、火球の落下地点を意図的に俺達から等間隔になる様に狙いすましたかのように外へ外へと軌道を調節しているのだから。
ものの数秒で呼吸する為に必要な酸素は全て燃え尽き、俺たちの周辺では既に炎の勢いは消え失せ外界から供給される空気を吸って辛うじて現状を保っている。
天高く旋廻する奴の火球のスコールは外へ外へと広範囲をカバーし逃げ場を完全に塞いでいく。
高熱に大地は燃え、溶解した岩が流れて地形を舐めるように変えてしまった。
「……声が」
「暑いにゃ……」
「マナが集まらない!? 水だけでも……」
「結界が持ちません、アマトさん……」
ユイナが魔力を使って僅かに水を発生させるも一瞬にして蒸発してしまう。
しかし、それが打開策を生み出す緒となった。
何せただ、蒸発しただけなのだから。
ディアナが張った結界内の温度と外界との気温の差がかけ離れている為に、周囲がゆがんで見える。
まるで火山地帯にいる様なもので、息を吸うのもたばかれる。
全員が疲弊しきった今だからこそ思い切ったことをしていかなければ後はない。
「ディアナはタイミングを合わせてくれ。結界を最大強度で一瞬だけでもいいから完全に防いでほしい。俺とユイナでありったけの魔力を頭上に注ぎ込んで水蒸気爆発を起こす。うまくいけば叩き落とせるはずだ」
「やれるかな」
「まあ、攪乱できればいい程度に思っていればいいさ」