第37話「パーティのエンブレム」
不意に突拍子もない行動に出るところがやはりポイントだ。
普段は毅然としていてもここぞという時に見える弱さが胸に突き刺さる。
装備も十分ではないというのにその場で固まって動かない。
まるで時が止まったかようだ。
二人も目を覚まさない。
そんな普段とのギャップも相まって僅かでもよからぬことを考えてしまった自分に嫌気がさす。
冷静であれと常に自分に言い聞かせてきたというのに、免疫がないと土壇場でハニートラップに引っかかりかねない。
そうでなくてもここは戦乱の真っ只中なのだから気は引き締めていかねばならないという。
美少女を手中にうんざりしているという奇妙な構図は何とも不自然極まりない。
このまま時が止まってしまえば幸せなまま天にも召される想いをを抱きつつ逝けるのだろうか。
死を思えとは先人はよく言ったものだ。
「みゃーー!! ユーニャだけずるいにゃ!!」
目覚めたばかりのスペラが叫び、俺の横っ腹にタックルをかましがっちりとしがみついて来た。
「うぐっ……。さっきまでしがみついてただろ」
「一人で寝てたにゃ」
「嘘つけ、じゃあどのベッドから起きてきたのか言ってみろよ」
「にゃっ!!」
振り返って気づいたのだろう。時分が眠るときに使ったベッドと、今しがた這い出たベッドが違うという相似に……。
騒がしさにディアナは目を覚まし、全員が目を覚ましたことを確認してルナも見張りを取りやめ戻って来る。
ようやく万全な状態で全員が集まることができた。
人数が増えれば戦力の増強と言えば聞こえはいい。
しかし、兵糧は多く必要になり隠密性も失い、パーティーを個として考えたときの損害はそのまま仲間の死へと直結することとなる。
独りならば気にしなくていいことも集団ならばそうはいかない。
現実に昨日は分散された仲間との合流に時間を要し、こうしてこの場に足止めされる形となってしまった。
だが自分一人では生き残れたかどうかわからない。
分散されたことで各個撃破と仲間の看病を同時にこなすことができたのだから、これから先同時多発的に何か起きたとしても対処していくことがかぬだろう。
良い方に考えるのならば素直に信頼できる仲間が多いことは喜ばしい。
それに、今俺達の置かれている立場はまさに崖っぷち。
良くも悪くも渦中の中心へと踏み込んで戻れないところにいる。
どれほど進んだところで特異点となっている俺達はこの運命から逃れることなど出来はしない。
なればこのまま早急に首都へと辿り着き安全を確保したい。
今いるこの仮設の拠点は今後何かの役に立つかもしれないので、このままモンスターが入り込まないようにしてこのままにしておきたい。
「ディアナ、ルナ。ここに俺たち以外が入れないようにしておきたい。できれば拠点ごとに連絡が取れたり移動できるようにするなんてことも出来ればと思うが可能か?」
「結論を言えば前者は今すぐにでも可能ですが、後者は今の手持ちでは不可能です。でもアマトさんならどちらもできるんじゃないですか?」
「俺が……」
「今はその時じゃないよ。ボクがそれを止めてあげる」
ルナは俺の心の内を見通すような目をして俺の瞳に映り込む。その瞳の中に映り込む俺はどんな目をしてるのだろうか。
「結界に関してはディアナ、頼む。準備の時間とどれくらい結界が持続するかを教ええくれ。移動に関しては急を要する理由もない。とりあえずはマッピングしておけばいいだろう」
「媒介が有ればすぐできます。効力は込める魔力に比例しますが数百年は持続させておくことが可能です。壊されなければって条件がつきですが」
「それで構わないさ」
「ところで、マッピングって何なのにゃ? マーキングかにゃ」
どちらも意味は偏に同じなのだが、スペラの言うマーキングが犬や猫の行う縄張りの証明という意味合いの強い物だという事がわかる。
その通りだと言って、何かしでかされても面倒なので先に説明する機会ができたのは都合がいい。
「誰が見ても俺達の所有物であるとわかるように印を刻む。実際は結界によって外界からは隔絶されているのだから見えるわけはないんだが、それでいい……必ず役に立つ時が来るんだからな」
「印って何の?」
「有名ブランドのロゴのような誰が見ても印象に残るようなパーティーのエンブレム」
「アマトってブランド物に詳しかったりするの?ごめん、その辺は気にしないって思ってた」
「んっ? いや、詳しくはないし特にこれと言って贔屓にしていたメーカーもなかったな。まあ、そこがポイントなんだけど」
「それじゃあ……。なるほど、そういうことね。もうエンブレムは考えているの?」
ユイナは俺が引き合いに出したものを追求することはなかった。ただ……いつものように促すのみ。
「これしかないって思ったんだ」
俺は床を人差し指でなぞっていく。
なぞった部分は真っ赤になって煙が上がる。
一筆書きでメビウスの帯を交差させ上下左右になるように描き、床から指を高く掲げ……袈裟斬りにした。
「聞いてもいい?」
「本来、交わることのない世界。だが、今こうして俺達はここにいる。それを二つの終わりのないことを意味する無限記号を組み合わせることで表した。そして……」
「それ以上は……」
ユイナが俺を止める。
わかっている。俺たちが元の世界い戻るという事はそれは別れを意味するのだから。
俺だって、短い間とはいえ死地を共に過ごしているのだから何も思わないこともない。
それでも、やはり元いた世界に少なからず未練がある。
口に出せば決意はより固くなると安易に思っていたが、この胸のざわつきは何なのだ。
俺はこの世界にも愛着のようなものを感じつつあるって事なのだるか。
「これが私たちの旗印になるのですね」
「なんだかよくわからないけど、覚えやすくていいにゃ」
「理に干渉するっていうならこれ以上ない印じゃないかな。やっぱりおもしろいね、飽きないなぁ」
誰一人として異を唱える者はいなかった。
わかってはいたが、すんなり決まって良かった。
そして、これがパーティーとしての新たな一歩になる。
地面に刻まれた印にディアナが手を添えると、薄翠色に輝きだしたかと思えば徐々に光は消えてしまった。
改めて印に触れてみると、指先に違和感を感じた。
ついさっき印を描いたばかりだというのにまるで、悠久の時をここで過ごしたかのような古びたものに触れたような手触りだったのと削り取ったばかりだというのに、指に砂が一切つかなかったのだ。
「結界の媒介を用意する必要が無くなりました。今更にはなりますがこれ以上ない媒介はありません。描いたのがアマトさんだという事も条件としてはこの上ないです」
「これで二つとも済んだところで、そろそろ行くか」
「そうだね」
「いきましょう」
「行くにゃりおー」
「どこまでも」
日が昇り切って間もない。
(さて、何とかまた新しい日を迎えることができたわけだが。どうしたものか)
俺は思考するのだった。
この辺りも昨日の大雨による影響を少なからず受けている為、流木、瓦礫が草原地帯を荒らし嵐の過ぎ去ったあとのように荒んでいる。
幸いにもブーツは底が厚いわけでもないのに鋭利な瓦礫を通すようなこともなく、徒歩での移動の妨げになるようなこともない。
しかし、それは俺とユイナ、スペラだけでディアナはアウトドアには不向きな革の靴。ルナは相変わらず俺のコートを羽織っているだけの裸なので、勿論素足のままだ。
流石にこのままにしておくわけにもいかないのだが生憎、買う事もモンスターがドロップすることもない。
「にゃーー!! アマトのコートいつまで来てるんだにゃ!!」
なぜ、このタイミングで狙いすましたかのように一張羅をはぎ取るんだろうかこの猫娘。
そこには一糸まとわぬ美少女が特に気にする様子もなく、否僅かに頬を桃色に染めた小悪魔少女がそこに立ち竦んでいた。
俺はスペラがはぎ取ったコートを再び奪い取ると慌ててルナへと羽織ると、ルナは座り込んでしまった。
俯く少女の顔は覗き込まなくても恥ずかしさに顔をさらに赤くしているのだと、真っ赤な耳を見ればわかる。
出会って間もないというのに変化は著しかった。
最初は周囲の事は愚か自分自身の事さえ無頓着で興味のあることに真っ直ぐだった。
その本質が変わったというより、個としての自我をより意識するようになったのだろう。
それは人間としては当たり前のことなのだが、精神体に近い存在だった悪魔だったルナには稀有なのだろう。
幾度となくこの世界に顕現しているという話なのだからこれまでにも似た経験があってもよさそうなのだが、共有した情報ではそこまではわからなかった。
お互いわからないことがまだまだあるという事だ。
人としての感情というものは動物にはない固有の者である。
今いる世界には知的生命体が人間だけではないのだから、この表現自体は正しいかはわからない。
「スペラ、これは俺が貸したんだ。まともに着れる物が見つかるまでの辛抱だ」
「でもにゃー」
スペラはなかなか納得しない。それを見かねて声をかけたのはディアナだ。
「あんまり無理をいうと嫌われちゃうわよ」
「わかったにゃ」
「早くいくぞ。こんなところで時間を無駄にしている暇なんてないんだ」
「ア、アマト君。ごめん……こんな感情初めてで、なんて表現していいのかわからないけど身体が熱を帯びる感じかな? こみ上げてきたんだ」
「その感情……。忘れるなよ。でないとスペラみたいになるからな」
「ひどいにゃ~」
「自業自得でしょ」
座り込んだルナをゆっくりと立ち上げらせ、手を引き歩き出す。
自分を見つめなおす機会もないまま常にあたらしいことが起きる。
その予兆は誰もが気づくとは限らない。
人知れず時は流れている。
物語は始まってさえいない。
故に表が有れば裏がある。
ここで気づき行動すれば止められたかもしれない。
気づいてさえいれば。
俺はここで何かを忘れているのか、喉の奥に小骨が刺さったかのような違和感を感じたがその正体を見極める事ができない。
家の鍵をかけたかどうかがはっきりしないような不安を感じたまま、歩みを止めることができなかった。
ここで再び歩みを止めることで嵩ずるであろう損失の事を鑑みれば留まることなどできようはずもない。
この時はそう割り切ったのだ。
進むも留まるも引き返すも、同じなら進むしかないのだと思いたかった。
「そんなに急がなくてもいいんじゃないの? この辺りはモンスターもいないし」
「確かに危険な反応はないが、それもいつまで安全なのかわかったものじゃない。どう考えてもこの世界は元の世界よりも危険なんだ。せめて人里にたどり着くまでは急いだほうがいい」
「アマト君がいう事はわからなくもないけど、そんなに張り詰めてると近いうちに緊張の糸が切れるよ」
「どうして、みんな冷静でいられるんだ。ちょっとしたことでも見落とせば死ぬかもしれないんだぞ!」
「アーニャ……怖いにゃ」
スペラは俺の怒鳴り声に尻尾をぴんと伸ばし怯えて縮こまってしまった。
何度も命の危機に直面してなお、緊張感がまるでないスペラへの苛立ち。
そうではない。
未だに順応できない自分への怒りだ。
八つ当たりだってことも十分わかっていた。
それでも情けないことに受け入れることができないのである。
それは疎外感となって独り孤独を味わうことになる。
仲間との壁。
満たせぬ想い。
伝えることができないもどかしさ。
気にしなければいいことばかり気になって仕方がない。
不安が拭いきれないのだからと割り切ることもできない。
「すまない……」
俺は他に言わなければいけないことは多々あったはずなのだが、出てきた言葉はそれだけだった。
それにしても静かなものだ。
昨日までは辺りにちらほらとモンスターや動物を見かけたのだが、この辺りは生き物がまるでいない。
草木が青々と生い茂っていることで生命に影響のあるような危険はないと思うのだが、異様だと感じるという事はやはり何かあるのだろう。
それを確定させるものはないのだが、まだ追跡者を振り切っていないからこその不安なのだろう。
元を絶たなければ襲撃の脅威に常にさらされている現状は変わらない。
俺は一人先頭を行く。
そして、気付く。
他のみんながついて来てはいるものの会話もなければ、距離感があり俺を介してのつながりだったのだと理解させられる。
コミュニティというものはどこの世界でも等しく生物がそこにいれば築かれていく。
規模が大きくなればなるほど形成される小規模な集団ごとの派閥ができる。
しかし、今はどうだろうか。
スペラとディアナが唯一の関係性を築いてはいるが、出会って間もないことと俺への関係性を鑑みても
この状況は悪い。
原因はほかでもない俺自身であり、ただ流れに沿って進むだけの物語に身を任せることなど出来ないひねくれた性格がより悪化に拍車をかける。
あまり良い空気とは言えないまま、別たれた大地を迂回する為東に向かって真っすぐ進む。
このままいつになったら、果てにたどり着くのかも分からないまま歩き続ける。
どうにも終わりの見えないことに不安を覚えるがここは仕方がないと割り切った。
誰も不満を言わないのだから俺が取り立てて騒ぐのも違う気がしたからだ。
遠くに樹木が生い茂っているのが見えてくるとやっとターニングポイントに差し掛った気がした。
もうどれくらい歩いたのだろうかと、何気なく時計を読む。
すでに昼の12時をを廻っている。
道理で空腹を感じているわけだ。
イライラしていたのも朝食もろくに食べることなくすぐに、目的地を目指すことを優先した結果だ。
宿での食事を除けば携帯食料で済ませてはいたものの万が一の時に備えて温存していたのが、こんな形であだとなるなどとは思いもしなかった。
もともと人間は一日一食の食事を必須とし理想は二食と言われている。
昨今では三食食べる習慣が出来上がったが、それは人工的に明かりを作り出すことで活動時間が長くなったためだという。
つまり、動き続ける為にはエネルギーが必要であることを空腹というシグナルで表現しているのだ。
俺の場合もモンスターを吸収したにも関わらず空腹感は無くならなかった。
生命の維持と身体の維持とはくくりが違うのだろうか。
自分自身の事なのに何一つとして、明確な答えは出すことができずあくまでも仮説の域を出ない。
このピリピリとした緊張感を打開したのはすぺらだった。
「おなかすいたにゃー」
「ちょっと、空気を……」
ユイナは言いかけておなかが音を奏でた事で一気に場の空気が変わった。
在り来たりだがよくあることというのは、どんな時だって同じ。
よくあるのだからこのタイミングだったしても何もおかしなことなど無い。
「もう少し行けば森があるだろ。あそこで何か食料になりそうなものでも、探そう……」
俺はうしろめたさもあったが切り出した。
誰も気にしていた様子などみせず笑顔で応えてくれた。
それが、ただうれしかった。
そんなにあまくはなかった。
目に見えている以上に森にたどり着くまでの道のりは長かった。
世界地図を頼りに国内旅行をしているような感覚といえば言えばいいだろうか。
それでも、3時間程度で辿り着くことができ尚且つ体力的にも余裕があるのだから身体能力の向上恩恵としては非常にありがたかった。
あまつさえパーティーの全員が余力を残しつつ、脱落するようなことがないのはまさに最良だろう。
「このあたりもモンスターはいないようだな。何かいるってのは分かるんだが、探してみないとわからないな」
「さっそく獲物を捕まえてくるにゃ!!」
俺は慌てて飛び上がりかけたスペラを羽交い絞めにした。
「ちょっ!!」
このままいかせたら俺たちがここで待機するしかなくなるところだった。
超人のような能力があろうが現代社会を生きてきたものならばわかるだろう。
携帯電話のような連絡手段が何のにもかかわらず単独で行動する意味を。
「どうしたのにゃ!? そんなに慌てて、びっくりしたにゃ」
「驚いてるのは周りだ。よく見てみろ」
「にゃははは」
猫の手を作って頭をコツンとして笑うスペラに本気で怒る気もなく失せ、俺はただ頭を抱える。
そんな俺にルナが助け舟を出してくれた。
「ボクとスペラちゃんとユイナちゃんで北の方を中心に回って、アマト君とディアナは南の方を廻るってことでいいんじゃないかな? 時間の感覚が正確なのはボクとアマト君だけだし、本当はダーリンと離れるのは辛いけど今回は涙を拭っておくとするよ。とりあえず二時間後にあそこの倒れた大木に集まればいいよね?」
「俺は賛成だ。みんなは……」
「私も賛成。できればあんまりばらばらにならない方がいいと思うから」
「そうですね。単独で行動して何かあった時のことを考えれば最善だと思います」
「時間も惜しい。くれぐれもスペラが無茶しないように見ていてくれ」
「子供じゃないのにゃ!! 心配は無用にゃ」
俺は二人に念を押すように目配せをした。
ユイナもスペラのストッパーになってくれるという事をウィンクで返してくれた。
相も変わらず静かな森に恐怖すら感じていた。
それでも、さっきまでとは違い隠れているのだろう。
生物の気配が所々で感じられる。
恐らく俺の感じている違和感以上の事を本能で感じ取り身を潜めているのだろう。
結論を出すには早いがそう思えば全てが合致する。
今、ここにいるのは俺とディアナだけだがはたして対処することができるのか。
「アマトさんはゆっくり話して見たかったのですけど、どうもそんな余裕もないみたいです」
ディアナの言う意味が理解できなかった。
あれを見るまでは。
俺達の視界に映ったのはかつて人や動物であったものたちだ。
どれだけの月日が経ったのかを明確にするも物など何も残されてはいないというのに、風化してしている装いとは違い真新しさを感じる。
「これは……。な、何なんだよ」
辺りに転がる骸の一体に近づくと吹き抜けた風に煽られただけでそれを、灰のように吹きとばされていった。
人の形を保つことも出来なくなっていたものが、消えてなくなった。
それもこれほど脆いものが今、このタイミングでだ。
「気を付けてくださいアマトさん。恐らくまだ遠くには行っていないはずです」
「わかった。だが、気配が感じられないんだ」
正体が未だわからないまま時は過ぎていく。
辺りに漂うのは恐怖に淀んだ空気だけ。
澄み渡った空気は自然そのもので都会では味わう事の出来ないほど清く、青々とした芳しい香りは焦りや不安を消し去っていく。
そこには何かに駆り立てられる衝動と宥められるように落ち着いた気持になるという、感情が不安定になり精神が麻痺する。
「戻って皆さんと合流したほうが良いかと思います」
「迷ってる暇なんてないな……。よし、戻ろう」
スペラが木の窪みに隠れている兎を引っ張り出して、ためらう事もなく息の根を止める。
その手際の良さはみていて感心する他ないのだが、その光景はスーパーマーケットで加工された後の状態でしか見た事のないユイナには少々刺激が強かった。
「どうしたのにゃ? ユーニャ」
「仕方がないことだってわかってるつもりだけど、見てられなくて」
「ボクもちょっと苦手かな。特に最近は死を身近に感じるようになったからかな」
「にゃ? よくわからないにゃ。殺さないとミャー達が死んじゃうにゃ」
「そ……そうね。私もしっかりしないと」
この世界の人間全てが殺生に抵抗がないかと言われれば、そのようなことはない。
スペラが特別淡泊だという事だ。
それでもこの数日で大きく変化があったというのだから驚きである。
この時まだ自分が一つの人生の延長線上にいるのだと改めて実感した。
一度は死というものを経験したことで、身体こそ全く別の姿になったというのに根本的な芯は何一つとして代わってなどいなかった。
「きゃっ!?」
スペラを真似て気の窪みに腕をそっと伸ばすと兎に噛みつかれ必死に抵抗されたのだ。
小動物のそれはまさに命がけの行動そのもので、自分がモンスター相手にしてきたことと何が違うのだろうかと考えると胸が痛くなる。
そもそも、モンスターがいると知っていながらろくに実戦経験を積んでこなかったのは命を奪う事に抵抗があったからだ。
今までは常に追い詰められる側であった故に気に留めず戦ってこれた。
しかし、今は鬼気迫る状態でもなければ追われる側ではなく追う側へと立場が逆転している。
状況が違えば心情も変わる。
その弱さが命取りになるのだと認識するにはまだ幼すぎた。
ユイナもルナも特に狩りに参加することもなくスペラが一人でせっせと得物を獲得していく。その手際の良さと言ったらない。
僅かな気配から連鎖的に動物を狩っていくスペラ。
「力になれなくてごめんね。やっぱりすぐに慣れそうにないかな」
「ミャーに任せておけばいいのにゃ。敵無い適所にゃ」
「それを言うなら適材適所だね。これもアマト君の知識によるものみたいだね」
パーティの恩恵は各自に等しく共有される。
それが知識の一部というならばアマトの知識、能力が高ければ高い程パーティのステータスそのものが数字以上に跳ね上がることになる。
数値化していない能力がどれほど影響があるのかなど誰もわかりはしないが、目に見えないものにすがるなどオカルト以外の何物でもない。
まさにゴーストという目に見えないもの。それは神か仏か、すがりたくなるというもの。
信じられるのは己だけ。
堆く積み上げられていく野兎に最早嫌悪感も気にならなくなりかけてきたその時。
空気が変わったような気がした。
何か目に見えない、肌で感じることのできない類の気配を感じた。
「ユイナちゃんも気づいたみたいだね。確かに強力だけど、脅威にはならないかな」
「なんかピリピリするにゃ」
「モンスターなのかな……。でも、今まで感じたことがないから全く別の何か得体のしれないものってきもするんだけど」
「モンスターじゃないね。これは怨恨という奴だね。本体はもうここにはいないみたいだけど、元が物凄く強力な瘴気を纏っていたんだ。そのかけらが徘徊してるみたいだけど、祓わないと年単位で居座るだろうね」
ユイナはスペラを背に、ルナの横に並び立ち怨魂を討つべく並び立つ。
彼女たちの目の前に現れたのは霧そのもの。
そこには生き物の気配とも、魂とも呼ぶこともできない不確かな気体のようなもの。
しかし、殺気というものは感じないのだがその気体の通った場所には死が残されていた。
草木は枯果て、生物は息絶え無残に腐敗し急激に風雨化し塵となっていく。
うかつに近寄れば瘴気にあてられ意識を奪われるような感覚に襲われる。
「犬のようにも見えるけど、モンスターじゃないんだよね?」
「念を押すけど、あれはモンスターでも精霊でもないよ。零れ落ちた残り香が漂ってるだけで近づいたところでボク達には反応すらしないよ。でも、このまま放っておかないんでしょ」
「そのつもりだったけど、祓ったりなんてできないよ。アマトならなんとかできると思うけど……」
「ここにはアマト君はいないよね。やるならユイナちゃんしかいないし、どうする?」
その答えは聞くまでもない。
無論、言うまでもないことなのだが口に出さなければいけない時もある。
「力を借してもらうよ!!」
「ミャーも手伝うにゃ」
「今回、スペラちゃんは後ろで待っていてね。近づいたら死んじゃうから」
「はにゃにゃ!!」
霧に飛びつこうとしていたスペラは屈伸の姿勢でぎりぎりのところで踏みとどまった。
そのまま飛びついていたら、そのまま霧散しただろう……双方共に。
スペラの行動は常に危険と隣り合わせ。
いみじくもアンバランスな崖っぷちを歩み続けてきた。
今しがた、ルナの一言で一命を取り留めた事さえ全てが手繰り寄せた一本の紐と言って等しい。
人は誰しも何らかの要因により今を生きている。
即ちスペラがここで命を落とすことがなかったのも必然。
そして、目の前のこれが今ここで三人の目に触れることになったのもまた必然。
「祓う方法を教えてルナ」
「魂その物ではなくても、独り歩きしているなら同じものと考えてもいいんだよ。アマト君の言葉を借りれば《《お祓い》》ってとこかな。ただの毒霧なら祓うじゃなくて、払いのければいいけどそれだとまた自然に元の姿に戻ろうとするから意識してね。そこには意志なんてものはないから面倒だけど」
「お祓いかぁ。巫女さんにちょっと憧れたことあるけど、お祓いは神主さんがしてたような……。うまくできる気がまるでしない」
ユイナは思考を巡らせて、過去を振り返るがやはり祓うイメージはわかなかった。
スペラに至っては聞きなれないフレーズに困惑して不思議そうな表情をうかべるだけだった。
怨魂は動作こそ生き物のようにも見える動きはするものの、そこには意志など見受けられない。
本能で動いているわけでもなく、機械的な動きでもない。
それは自然現象そのもの。
風が吹けば風に流され、流されるままかと思えば突然動きを変えてくる。
不意を突かれればただでは済まない以上迂闊に近寄ることもままならない。
それにも関わらず、ルナはユイナを促す。
「ぎりぎりまで近づいて、一度に魔力と大気中のマナを同時に注ぎ込んで打ち出すことが最低条件だけどできる?」
「それなら、問題ないわ」
「どちらも均等に成る様にしないと、余波を受けるけど大丈夫?」
「……」
余波とはつまり、死の霧を受けることを意味している。
失敗は即ち自らの死を意味しているのだ。
(誰か代わってよ)
ユイナは覚悟を決めた。
実際に命を懸けるに値するようなことなのかを考えると、決してそうではないと言えるだろう。
放っておいても直接被害にあうのは自分ではないと割り切ってしまえばそれまでだ。
それでも、ここで腹をくくったのは正義感などではない。
自分自身の為だった。
常に足手まといになっているのではないかという、不安と焦りから功を焦っての判断である。
焦りと称賛を求めることは悪いことばかりではない。
極度の緊張状態を緩和し、打破するのはいつだって背中を押す何らかの内的要因である。
誰も力添えをしなくとも己の中の何者かが突き動かすのだ。
「意識を目の前の怨魂に集中して、機会は一度きりだからね」
「わかったわ……。それは大丈夫。不思議と怖くも何も感じないの。今なら失敗なんてしないよ」
「ユーニャならあんなのいちころにゃ」
スペラも先程とは打って変わって、今では平然としている。
もう目の前の霧に死など微塵もかんじていないのだろう。
それはユイナから伝播したものなのか、はたまたその逆なのか周囲は凪いでいる。
「今よ!! 『疾風怒涛拳《シュトゥルム・ウント・ドラング・ファウスト》』
マナと魔力を纏った右ストレートが砲弾のように怨魂の霧を撃ち抜く。
音速を超える凄まじい速さと衝撃で一瞬にして爆散し、元の姿に戻ることもなくこの世界から消えてなくなった。
痕跡と呼べるものは目端に見える腐敗した樹木だけとなった。
終わってみればあっけないものだった。
危険分子も原子レベルで分解されてしまえば害はないという事なのだろうか。
空気中の炭素でさえ場合によっては毒となりえるのだから、浄化されたものだと思いたい。
しかし、あれは何だったのだろうかという一つの疑問が残る。
ルナの口ぶりから、何らかの生物が置き土産宜しく残していったものと推測できるものの物言わぬ抜け殻からそれ以上のことはわからなかった。
ユイナはそっと手近なところにあったまるみのかかった漬物石のようなものに腰を下ろすと、息を吐いて深呼吸をし俯いて物思いにふけるのだった。
何をやっているのだろう……と。